folks‐lore 05/24



591


今日は、旅行だ。


朝から、慌ただしく家の中を駆け回った。


切符や着替えや洗面用具を用意する。遠出するなどほとんどなかったから、親父などは何を用意すればいいかよくわからないというような様子だ。俺も汐との旅 行を除けばほとんどそんな機会はなかったから、戸惑いは同じようなものだ。


何が必要かを話し合いながら荷物を鞄に詰めて、旅行の準備をすませる。起きた時にはまだ少し薄暗かったが、もう外は明るくなっていた。


急いで朝食をすませて、家を出る。指定券を買っているのだから、乗り遅れたらたまらない。


せわしない出発だ。


「戸締りは、できているかい?」


「ああ」


「ガスは閉めたし…忘れ物はないか?」


「といっても、大したものを持ってくわけじゃないし、いざとなったら途中で買えるだろ」


「まあ、そうだね」


俺の言葉に、少し安心した様子を見せる。


「でも、多分必要なものは全部あるだろ」


「そうかい…。あとは、途中でおふくろにお土産でも買っていかないとね」


「そういや、そうか。覚えておかないといけないのは、それくらいか」


「多分ね」


旅行の準備は、整っていた。


「…ところで親父。この町に土産にするようなものってあるのか?」


「さあ…」


…長いこと暮らしていたのに、薄情な家族だった。



…。



昨日まででテストが終わり、今日は学校が休み。


本来ならば、今日の昼からの創立者祭と中間テストの打ち上げに参加する予定だったが…。


だが、先日親父が俺に言ったのだ。


テストが終わったら、旅行に行こうと。


行き先は、俺の両親のふるさと。


電車をいくつも乗り継いで行かなければいけない、その場所。


そこで、俺に、見せたいものがあると言っていた。


旅行の日が打ち上げとぶつかることはわかっていたが、それでも、俺にとっては親父との約束が大切だった。


…俺たちふたりの、家族旅行。


それは、ほとんど初めてのことだった。以前、母親が死んだ時に田舎に帰ったこともあったが、あれを旅行とは言わないだろう。必要に駆られた里帰りに過ぎな い。


だから俺は、この機会に一度、家族旅行というものをしてみたいと思った。


打ち上げについては俺が欠席ということでみんなは残念がってくれたが、それでも事情を話すと理解してくれた。


「いってらっしゃい」「楽しんできてください」、そんな言葉がありがたかった。


まあ、春原なんかお土産を買ってきてくれとか言っていたが…。あいつには、帰りに土偶でも買っていってやろう。


さて、今日は早い時間から出発して、夕方くらいに目的地に着く予定だ。


かつて、俺は汐とそこに行ったことがあった。


俺がまだ、汐のことを受け入れられなかった頃だ。


オッサンと早苗さんが一計を案じて、俺を連れ出したその場所。


あの時は、特急に乗って二日かけて目的地にたどり着いた。


東北の、有名でもないその場所。ひなびた鉄道の終着点。


そこが、親父と母親の故郷だった。あの時は、俺は、そんなことも知らないで汐とふたりで北を目指した。


今日はその場所に、新幹線を使って行くことになる。


今はまだ、ちょっと帰る程度のことしかできない。ひと晩泊まって、すぐにまたこの町に舞い戻ってこなければならない。


だが、夏休みとか、休みの時期になったら時間を使ってあの町を散策してみたい。あの場所は、俺にとっても大切なところなのだ。


「それじゃあ、朋也。行こうか」


「ああ」


俺たちは家を出て、駅に向かって歩き出す。その手に、旅行鞄をさげて。


朝の清浄な空気。まだ結構早い時間だから、道行く人の姿はあまりない。


ふたり、並んで歩いていく。時々ぽつぽつと言葉を交わしながら。


旅行に行く直前、どんな会話をすればいいのかよくわからないな。楽しみではあるが、子供のようにはしゃぐということはないし、かといってクールに日常会話 をするというのもなんだか変な感じだ。


俺は時折、親父の横顔を見た。


見慣れたその顔。


かつてはずいぶんやつれて見えたが、今日は朝日を受けて生気がある表情だ。


伸ばしっぱなしだった無精ひげも、きちんと剃られている。仕事も、旧友を訪ねてだんだんと増やしているようだった。


生活が一新した。


かつては、俺は、親父がこうやって精力的に生活している姿など、見たことはなかった。


いつも、暇を持て余して浮浪者のようにぶらぶらして…


物事を深く見なかった。考えなかった。この世界の出来事に、興味が持てなかった。


実の息子に拒絶されようが、犯罪に手を染めようが、それは遠い世界の出来事に過ぎなかったのだ。


間違いなく自分のことなのに、そう思うことはなかった。自分の人生はもう終わったと考え、惰性のように生きていた。


誰にでも等しく未来はあるというのに、それを信じる力がなかった。


その姿。それはかつての俺とも重なる。


だが、それは間違いだろう。


受け入れる勇気を持つこと。それが大変なことだとわかってもなお、それは大切なことだ。


…俺も親父も間違えただろうが、それでもやっと、未来を見ることができるようになった。


そうやって、今日という日に繋がっていたのだ。


父と子で、ふたりで連れ添い、旅に出た。


それは二度目のことだ。


一度目は、まだまだ俺が物心もついていないような時のことだ。今から数えれば、十数年も昔のことだ。


それから、ずっと、親父は旅行にもいかず、贅沢もせず、黙々と生活を続けた。


生活は楽ではなかった。辛いことはたくさんあった。


それでも、親父は俺を育てるために、その人生を費やしたのだ。


俺は、それに、報いることができるのだろうか。


「…なあ、親父」


「ん? なんだい?」


「旅行…楽しみだな」


俺は、なんとかそう言ってみる。


間が抜けたセリフだ、と思って苦笑したくなった。


「ああ…」


こちらを向いた親父の顔が、ほころぶ。それを見て少し安心する。


春の風が、俺たちの旅行をそっと後押しをしてくれているような気がしていた。






592


住み慣れた町を離れる。


在来線にしばらく乗って、大きな駅で新幹線に乗り換える。


俺も親父も普段遠くに足を伸ばすことがないから、新幹線に乗るなど珍しい。


チケット片手にうろうろ歩き、なんとか座席にたどり着く。やっと座ることもできて、ほっと息をついた。


新幹線の中は、静かだった。土曜だからそれなりに混んではいるが、満席というわけでもない。土曜とはいえ、今は大きな行楽シーズンではないから、こんなも のなのだろうか。


家族連れも多いし、夫婦でも旅行姿もある。スーツ姿の男性も結構いた。全体的に、特急電車よりは落ち着いた雰囲気だ。


そんな様子を眺めているうちに、アナウンスがあり、発車する。


静かだし、揺れない。なんだか不思議な感じだったが、乗っているうちにやがて慣れる。


窓の向こうでは、景色が早送りしているみたいに通り過ぎていった。


町が見えて、次の町に。


目まぐるしく移り変わる風景を、窓側の席に座った親父はぼうっと眺めていた。


「なあ、親父の故郷って、どんなところなんだ?」


その横顔に話し掛ける。


「あそこは…辺鄙な町だよ」


こちらをちょっと振り返ると、苦笑した。


「おれたちが住んでいる町よりも、ずっと田舎だ。人の数は少ないが、その分自然は豊かかもしれない」


「ふぅん…」


俺が知っているのは、花畑を抜けて岬へと続く道だけだ。


住宅地の方がどうなっているかは知らないが、予想通り、そこまで開発されているというわけでもないようだ。


「大きな、花畑があるんだ。満開になるのは夏だけど、今の時期でも、きっと景色がいいだろうね」


目を細めて、懐かしむような表情だった。


「もうずいぶん、帰ってないのか?」


「ああ、そうだね」


「どうして、帰らなかったんだ?」


その問いに、親父は考え込むような様子で視線を外に向けた。


「それは、どうしてだろう…」


自問自答するような、調子の声だった。


「たしかに、そうだね。あの時、田舎に帰るという選択肢もあったかもしれない。でも、そうしなかったのは…新しい場所での生活が、軌道に乗っていたからか もしれないね。…いや」


小さく、首を振る。


「おれは、もしかしたら、もうあの町に帰る場所がないと思っていたのかもしれない」


…親父。


外を見ていて、表情はわからない。


「そんなことは、ないだろ」


「ああ、そんなことはないだろうね」


俺の言葉に振り返った時、親父は笑っていた。


「だけど、その時おれは、そう思っていたんだろう」


「…」


痛いくらいにその気持ちがわかるから、俺はそれ以上何も言えない。


…前回の旅行の時は、親父が母親を失った直後だった。


そんな状況で、自暴自棄になってしまうのは当然のことかもしれない。


「それからも、ずっと足が向かなかったよ。帰って来いと、何度か言われたこともあったんだけど、どうしてもね…」


「それって、俺がいたからか?」


その問いに、親父は曖昧に頷く。


「そうかもしれないが…よくわからないね」


色々な理由が、ないまぜになっているのだろう。


もちろん、俺の存在もあるだろう。だが、きっと故郷にも母親との思い出がたくさんあるだろうし、それを目にするのが辛かったのかもしれない。一度は捨てた 故郷に帰るのにうしろめたさを感じていたのかもしれない。


いくらでも理由付けはできるだろう。だが、それを一つに絞ることはできないのだろう。


「でも、離れていても、懐かしく思うことは多かったよ。今日やっとあそこに帰れて、おれも楽しみだよ」


「そうか…」


そう思えるならば、それはきっと、とてもいいことだろう。


俺はシートに深く身を委ねる。


「ふわ…」


欠伸をする。早起きしたから、こうして落ち着くと眠気が出てくる。テスト期間は珍しく結構しっかり勉強もしたし、疲れもあるかもしれない。


「朋也、眠ければ眠りなさい。着いたら、起こすから」


親父が少し笑って、声をかけてくる。


お言葉に甘えることにする。


「ああ…それじゃ、おやすみ」


「ああ…」


目を閉じると、安らいだ気持ちがした。


車内の規則的な音。周囲の人の話し声。


折り畳まれるように意識は縮み、俺は眠りに落ちた。






593


夢。


夢を見ている。


その夢の中で、俺は透明人間のようになって目の前の光景を眺めていた。固定されたカメラにでもなったように、視点が動かない。


それは、懐かしい情景だ。


揺れる車内のボックス席。


俺と汐が、特急列車に乗って北を目指している情景だった。


俺たちふたりは向かいあって座っていて、互いにてんでばらばらの方を向いて各々過ごしていた。


…これは、前の世界の出来事だ。


渚を失い、汐を拒絶し、自分の殻に閉じこもり、そしてずるずると堕落していた、あの頃。


俺を救い上げることになった、夏の旅行。


早苗さんに促され、旅行に発った。


本当なら四人で行く旅行だったはずだけど、俺と汐だけで行くことになった。


面倒だが、旅行に行く話だったのだから仕方がない。そんな小粒ほどの義務感に駆られて汐と旅行に出立した。


この旅が俺たちの関係を大きく変えることになることも、この時にはまだ知らなかった。


俺は退屈そうにぼんやりと外の景色を眺めている。汐は無心になって、手に持つロボットで遊んでいた。


…ロボット?


そう、ロボットだ。時間を潰せるようにと、適当に選んで買い与えたものだ。とても、女の子にあげるような代物でもないのに、汐は夢中になってロボットで遊 んでいる。ひとりで。


こんな旅行で、汐は楽しかったのだろうか。あいつを楽しませるような努力を、俺は何もしなかった。


窓の外を、風景が流れる。


完結したような情景。


凍てついた、世界のような…。


…その時、一瞬、光が揺らいだ。


眩しさを感じて、次に気付いた時には、汐がこちらをじっと見つめていた。


…俺が見えているのだろうか?


いや、ただ、目をこちらに向けただけなのかもしれない。


目の前に見えている俺の方は、相も変わらず退屈そうな目を外に向けているばかりだった。


目を開いて、伺うようにこちらを見ていた汐が、不意に、手に持ったロボットをこちらに掲げた。


なんだ、と思った。


だが次の瞬間に、場面はぐるりと切り替わる。


上下をくるりと回転させるように、唐突に。


一瞬、酩酊感に似た感覚で視界がゆがんだ。


すぐに視界が回復するが、その時、既に、目の前の光景は変わっていた。


その光景の、場所は同じだった。特急電車のボックス席だ。


だがひとつ違うのは、ひとり、新しい人物がそこにいたということ。


俺の向かいに、ひとりの女性が掛けていた。


ゆったりとした白いサマードレスを着た、渚だった。少し、大人びて感じるその表情。


渚の隣の窓側には、汐。見慣れた幼稚園の制服。渚の膝の上に置いてあるサンドイッチを手に取って、一心にかじっている。


そんな姿を見て俺が冗談を言って、渚もくすくすと笑った。


汐が不思議そうに、俺たちの顔を見比べた。


それは、俺の知らない家族旅行の情景だった。…幸せな家族の姿だった。


求めてやまない、その未来。


俺はそんな光景を知らない。


今、ただ視点だけの存在になってしまっている俺自身。


だが、それでも、手を伸ばそうとする。心で求めようとする。


俺がその未来を望もうとした瞬間、その像は一瞬にして遠ざかっていった。


儚く小さく消え失せて、最後に残ったのは、俺を呼ぶ声だった。






594


「朋也」


親父に呼ばれて、目を覚ます。


「ずいぶんよく眠っていたね。もう東京だよ」


「あ、ああ…」


周囲を見回す。乗客たちが荷物を整えて外へと出ていくところだった。


窓の外の景色は、駅のホーム。


急に目の前の場面が変わって、一瞬混乱する。どうしてここにいるか、よくわからなくなる。


だが、ホームに鳴るベルの音で、やっと意識が定まる。


どうやら、少し寝ぼけていたようだ。


「ここから、乗り換えだっけ?」


「ああ。行こうか」


「…」


頷いて、立ち上がる。


夢の影響がまだ体に残っている。少しふわふわしたような、違和感。


まだ少しぼんやりしたまま新幹線を出て、弁当を買って乗り換える。


そうしていいるうちに、違和感は消えてなくなった。


不思議な夢を見ていたような気がするが、それがどんなものだったのかもよくわからなくなる。


夢なんて、そんなものだろう。


そう思って、それ以上は気にしなかった。


これまでは一路東に進路を伸ばしてきたが、ここから一気に北へとのぼる。


途中、いくつもの駅を通り過ぎる。何度も何度も、まどろむ。だが、もう、夢さえも見なかった。


しばらく新幹線で北へ進み、在来線の急行に乗り換える。


更にひなびた私鉄に移り、ふるさとを目指した。


周囲の景色は、ほとんど山や畑ばかりになっていく。休日だというのに、乗客の姿は少ない。


春の日差しにうつらうつらとしながら、俺と親父は故郷に向かう。


その旅路。


なんとなく、こんな道中がずっと続いてくれれば、という気分になる。


別に、会話が弾んでいるわけでもない。俺も親父もぼんやりと、それぞれ勝手に移る景色を見ているだけだ。


だが、同じ場所で同じ空気を吸いながら、こうして一緒にいるということがたしかに価値があるものなのだと思えた。


…そうして、やがて。


日もずいぶん低くなって、そろそろ空も赤らむかというような時刻。


車掌のアナウンスが、終点を告げた。






595


終着駅。


それは、小さな駅だ。


俺たちは旅行鞄を手に、その駅に下りる。


数えるほどの客しか降りない、ひなびた駅だ。


そして、親父の、ふるさとだ。


舗装されてもいない駅前の道に、並んで立つ。


これからどこへと向かうか問えば、親父は一言、簡潔に答えた。


「この先の、岬に行こう」



…。



不揃いなふたつの足音。


細い農道を歩く。


遠目からでも彩り鮮やかに咲き誇る花畑を、そしてその先を目指して。


かつては、幼い俺が親父とここを歩いた。


いつしか、幼い汐と俺が、ここを歩いた。


そんな道を、今俺たちは並んで歩いていた。


人にとってはこの道は、なんてことない単なる道だろう。


だが、俺たちのとっては、ここは、始まりと終わりの道だった。


「おまえがここを歩くのは、二度目なんだ。覚えているかい?」


親父の言葉に、俺はこくりと頷く。


「うっすらと」


俺が幼い頃、親父とふたりでここに来た。


それはおぼろげな記憶だ。いや、記憶という以上淡い、かすかな印象のようなものだ。


今となっては、汐と一緒に来た記憶が鮮烈すぎて、それが本当に幼い時の自分の記憶なのかも定かではない。親父とふたりでここに来たという話を聞いて、勝手 に心の中で作り上げた幻のような記憶かもしれない。


だが、それでも、それはたしかにここにある。


きちんと覚えていなくとも、今の俺はその記憶や出来事を込みでここにいるのだ。


「そうか…」


俺の返事に、親父は目を細めて遠くを見やる。少しだけ、嬉しそうな様子だった。


陸風が吹いて、今は潮風を感じない。


だが、花畑の向こうの丘に、海が広がっていることを俺は知っている。


あまり言葉も交わさずに、寡黙に歩みを進めていく。


途中、何組かの家族連れとすれ違う。


花畑を訪れていた、帰りだろう。そろそろ暗くなり始めるから、彼らは家路につくところだ。


伸びる、長い影。


今、この先を目指しているのは俺と親父のふたりだけだった。


農道を行き過ぎて、花畑に辿り着く。


花の道をゆっくりと並んで歩いていく。


遠くで遊ぶ家族連れの笑い声が、かすかに届いてくる。


親父はまぶしそうな様子で、そんな光景を眺めた。


俺も周囲を見回した。


汐が駆けた花畑は、まだまだ緑が多かった。あの旅行は、夏のことだった。逆の側には春の花を集めているようで、そちらは今は、満開だ。


夕暮れの中に遊ぶ家族連れの姿が、花の中に見える。そろそろ夕方だ。その姿は夕陽にシルエットになって見える。


はっとするような光景だった。


今のこの一瞬を、永遠として切り取ったような光景だった。


親父が不意に、口を開く。


「朋也。これまではずっと、おまえの母さんのことを話していなかったね」


「ああ」


その言葉に、俺は頷く。


岡崎敦子。俺の母。


どん人だったのかも、よくは知らない。


俺にとって、母親とはそんな遠い存在だったのだろう。


今にして思えば、汐にとっての渚のことも、最初はそんな存在に思えたのかもしれない。


「それを、今では、すまないことだと思っている」


「いや…」


「だから、これから…少しずつ、敦子のことをおまえに話していけたらと、思っている」


「…」


親父は視線をめぐらせた。


春の夕暮れ。花畑。穏やかな風。伸びる影。


「おれがあいつに出会ったのは、高校生の頃だった…」


ぽつぽつとつぶやく、親父の語り。


馴れ初めとそして、思い出話だった。


そのどれもが、俺には初めて聞くものだった。


親父は静かに語り続ける。俺は黙って聞き続ける。


思い出話。


俺の両親が、歩んできた道筋。


若い結婚、そして苦労。


喜びと、そして悲しみ。


…そんな、昔語りだった。


まるで御伽話でも聞くような気分だったが、すぐに思い直す。


…いや。


これは、父と母の話だ。


現在の俺に繋がっている話なのだ。


言葉、足音、風の音。


ただそれだけだった。


花畑を通り過ぎる。


大地の果てを目指す。


周囲は木々に覆われはじめ、道はだんだんと上りになる。


簡素ながらも階段と手すりがつけられて、道は岬へと続いていく。


風に、少し、潮のにおいが混じる。


俺たちは足を踏みしめて、歩いていく。


親父は通り過ぎる周囲の状況に気も付かないような様子で、話を続ける。


そして…。


親父の話が、不意に途切れる。


「…」


「…」


目の前に、視界が開けた。


階段まじりの坂道を上っていった先。目的地の岬。


俺たちは、再びこの場所に辿り着いた。


遥かな年月を飛び越えて、ふたり。


空は、夕暮れ。


名もない鳥が鳴いていた。


水際に打ち寄せる波の音がする。


風のにおいが懐かしい。


世界の始まり。そして終わり。


息をするのもすっかり忘れ、俺たちふたりはこの景色を眺めた。


「朋也。おまえにこの景色を見せたかった」


開けた視界に視線をめぐらし、親父は笑顔でそう言った。


「…」


俺たちは岬の縁まで歩いていく。


周囲には誰もいない。


世界に俺たちだけが存在しているような気分にさえなる。


「どうして…?」


その問いは、疑問から発せられた言葉ではない。


先を促す俺の言葉。


親父は柔和に微笑んだ。


「ここは、大事な場所だ。昔、おまえとここに来た時があった。その時に、おれは、生活をやり直そうと決意したんだ」


「…」


親父、と俺は思う。


俺もあんたと同じように、ここで決意したことがあったんだ、と。


「だから、今、また…ふたりでここに来たいと思っていたんだ」


微笑む親父は、遠くを見つめる。


潮風が吹き、髪が風にそよいだ。


俺もその視線を追うように、海を見た。


大海原が、夕日を弾いて輝いていた。


揺れる波間のひとつひとつが光を弾いて、祝福するように揺れていた。


「それに…」


親父が、小さくつぶやいた。


「おれは、昔、母さんと一緒にここに来たことがある」


「母さんと?」


「ああ。朋也が母さんのお腹にいることが、わかったすぐ後くらいかな…。おれたちの結婚は周りの人に反対もされていたし、この辺りではあまり仕事口がな かった。おれたちは幸せだった。だけど、それでも、これからどうしようかと悩んでいた」


「…」


その気持ちは、わかる。


俺が渚と結婚したばかりの頃は、同じようなことを思った。


俺の場合は職にも就いていたから、将来への不安は大きくはなかったが、それでも少しくらいは想像がつく。


「ふたりで並んで景色を眺めていて、話をしていて…新しい生活を始めようと決めたんだ」


「…」


俺は静かに、その景色に見入る。


俺たちが今のぼってきた坂道。この展望台。更に先には下り坂があって、向こうに小さな砂浜が見える。後方に、小さな灯台。打ち寄せる波は荒々しい。遠くに 見える海面は、穏やかで、豊穣だった。夕日がきらきらと輝いていた。


…ここから、始まったのだ。


なぜだかふと、そう思う。


全ては、ここから始まったのだ、と。


そして、ここからまた、始めていこう。


「おれは…」


砕ける波の音に混じって、その声は、かすかに俺の耳に届いた。


「ここで初めて、おまえの声を聞いたような気がするんだ」


親父の横顔を見ると、瞳は少し潤んでいた。


その横顔を、俺は見詰める。


親父は、遥かな年月を回想するように、静かに海を眺めていた。






596


しばらく岬で佇んで、くらやみが混じる頃にそこを後にした。


この辺りは街灯もほとんどないから、闇が色濃い。


祖母の家に着くころには、もうすっかり暗くなっていた。


ふるさとの家。結構立派な門構えだったので、実はうちは金持ちなのかと聞いてみると親父は苦笑していた。どうやら、そんなこともないらしい。


訪ねてきた俺と親父を祖母…岡崎史乃さんは歓迎してくれた。


この世界では、会うのは初めてだ。今日ここに来るという連絡も全部親父がしていたから、自分は電話口で話したということもない。


彼女は俺の姿を見ると、一言、「大きくなりましたね」と言って笑うのみだった。なんだか、気恥ずかしい。


…親子三代、こうして揃うというのも不思議な感じだった。


親父と史乃さんが並んでいるというのを見るのが初めてなので、ヘンな気がする。きっと、同様の気持ちをふたりも感じているのだろうが。


家に上がらせてもらうと、既に、夕飯もたっぷりと用意されていた。


外食では出てこないような、素朴な料理だった。ふるさとの味だ、と思いながら料理をかみしめる。


「朋也さんも、遠慮しないでたんと食べてください」


食事中、親父の世話を焼いていた史乃さんが、俺を見てそう声をかける。


「ええ、どうも」


返事をすると、微笑んだ。


自分の記憶の彼女の姿よりも、若く感じる。


もちろん、実際にかつて未来で出会った時よりは若い。だが…親父の逮捕など、心労を重ねるようなことがなかったから、余計そう感じるのだろう。


そう考えてみると、こうして事もなく一緒にいられるというのも、かけがえのないものだろう。


親父が気恥ずかしそうに史乃さんに世話を焼かれているのを見ていると、俺はなんだか心が和んだ。



…。



食事を終えて、ぼんやりとテレビを見て、やがて寝る時間になる。


観光に来たというわけでもないから、のんびりしたものだ。


この旅の目的は、親父とふたりで岬に行くこと。そしてふるさとの家族と卓を囲むこと。それくらいのものだ。だがそれでも、一生忘れない思い出になるのだろ うな、というような確信があった。


和室にふたつ布団を敷いて、親父と並んで床に就く。


静かなものだった。


月光が縁側から障子を越して部屋に差し込む。暗闇に目が慣れてくると、天井の木目がゆらりと闇に浮き上がった。


親父が寝息を立て始めてからも、俺はぼうっと眠れずにいた。


小さな子供がするように、無心で木目を眺めていた。


不思議と、目が冴えていた。慣れない場所にいるからかもしれない。


すぐには、眠れそうもない。


…少し、気分転換でもしよう。


そう思い、そっと寝床を抜け出す。


縁側に出ると、春の夜風が頬を撫でた。


そろそろ、夏の気配も感じる時期だ。暗くなってもあまり肌寒さはない。


空はよく晴れていて、星の光が瞬いていた。雲もなく、手を伸ばせば星を掴めそうだった。


しばらくぼうっと夜空を見上げていると、ふと、別の部屋にはまだ明かりが灯っていることに気付く。


近付いてそっと覗くと、史乃さんが机に向かって書き物をしているところだった。


「眠らなくて、いいんですか?」


声をかけると、こちらを向いた史乃さんが優しく微笑んだ。


「ああ、朋也さん。あなたこそ、眠れないのですか?」


「電車の中で、ずいぶん寝たので」


「ええ、ここまではずいぶん遠かったでしょうからね」


言いながら、部屋の中に招き入れる仕草をする。


中に入って、彼女のかける卓の正面に座る。


史乃さんはノートを閉じて机の脇に寄せると、正面からじっと俺を見た。


温かいまなざしだった。


「朋也さん、今日は来てくださいまして本当にありがとうございます」


「いや…俺も、ここに来てみたいって思ってましたから。こっちこそ、色々してもらって、ありがとうございます」


「それは、なんでもないですよ。家族なんですから、これくらいは当然のことです。あなたからすれば…まだまだ、そう感じるのは難しいかもしれなませんけれ ど」


ほとんど会ったこともない人であることは間違いない。すぐさま、家族だと馴染むのは無理があるだろう。


それでも、歩み寄ることはできる。そうやって、家族になることはできる。


そう話すと、相手は嬉しそうに笑った。


「直幸から話は聞きました。一度はあなたと他人のような関係になっていたけれど、もう一度やり直すことができたと」


「いや、俺は、別に…」


「あなたに救われたと、あの子は言っていましたよ」


「…」


そんないいものではないのだ、と俺は言いたくなる。


まず先に、助けられたのは俺だ。救われたのは俺だ。育ててもらったのは俺なのだ。


そんな前提をなしにして、ただただ感謝されるなどは耐えられない。


何とか説明しようとするが、何て言えばいいのかわからない。


だが、そんな様子を史乃さんは穏やかな表情で眺めていた。


きっと、俺の心中はわかってくれているのだろう。なんとなくそんな気になって、説明するのはやめにする。


それから、ぽつぽつ、会話をする。


内容は他愛のないものだ。夕食の席で交わされた会話の続きだ。


この町について、俺の町について、学校生活のことなど。


大したことを話したわけではない。


ほとんど初めて会うような家族なのだ、もっと話すべきことがあるような気がするが、交わされるのは雑談めいたこと。


だが、それでもいいのではないかという気がしてくる。


時として、大切なことは言葉にはできない。


通り一遍、互いの近況を話していると、随分自分の気持ちが穏やかになっていることに気付く。


「…ふわ」


俺は小さく、欠伸をした。


「もう、そろそろ遅い時間ですね。引き留めてしまって、ごめんなさいね」


「いや、俺の方こそ、邪魔をしました」


立ち上がる。


「朋也さん、おやすみなさい」


障子戸をあけた俺の背中に、声をかけられる。


振り返る。


優しい微笑み。小柄な姿。


「ああ…。おやすみなさい。お祖母さん」


ふと、そう呼んでみる。


…そうだ。


この人は、俺の祖母なのだ。


もちろん、そんなことは会う前から知っていた。


だが、やっと、それを実感として感じることができたような気がした。


家族。


父がいて、母がいる。両親にもまた、両親がいる。


そうやって繋がっていること、どこかで完結などしていないことを、やっとわかった気がする。


そう思い至って、つい俺は、そう言わずにはいられなかった。


相手はきょとんと俺を見て、くすくすと笑った。


「嬉しいけれど、複雑な気持ちね」


彼女の孫は俺だけだ。そう呼ばれることに、慣れてはいないのだろう。


「でも、ありがとう。朋也さん」


「…」


笑う彼女に頭を下げて、俺はその部屋を出る。


胸の中に、温かいものを感じた。


親父の横の寝床に戻り、俺は静かに目を閉じた。


今ならば、心穏やかに眠れるような気がした。


祖母と話す前までは冴えていた意識が、温かい膜で覆われたようにおぼろげになる。


そうして、俺は眠りに落ちた。


ふるさとで。


親父の実家で。


これまで会ったこともなかった、家族の家で。


…そうして。


俺は夢を見た。


透き通る夢を。




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