folks‐lore 05/18



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上履きから履き替えて外に出る。傍から見ていても随分な人出だったが、その中に入ると人いきれに驚くほどだった。


春の日差しのその下に、たくさんの生徒たちが集まっていた。


「…よっ、岡崎」


「春原?」


目立つ金髪が見えた。


ヒトデを持つ手で手を振って、人込みをかき分けてこっちにやってくる。


…なぜか白スーツ姿だった。


「おまえなに、そのカッコ?」


「だって、今日は結婚式でしょ? 普通のカッコじゃ決まらないし」


「…」


浮きまくっていた。


どうして客が新郎みたいな格好してるんだよ。


「おまえも…結婚式のこと、思い出したんだな」


「朝起きたら、思い出したんだよね。今日、結婚式だったって。そういえば、芽衣の奴からも電話があったよ。結婚式のこと思い出したけど行けないから、その 分もお祝いを言ってくれってさ」


「そうか、芽衣ちゃんも…」


わざわざ電話もくれるとは、律儀な子だ。


「それでさ、岡崎。その子誰?」


春原の視線が、隣の車椅子姿の風子の方を向く。


その姿を見れば風子のことを思い出す、という可能性も万に一つはありえるかとも考えていたが、そんなことはないようだ。


残念ではあるが、それにこだわっていてもしょうがない。


ともかく、初対面ということで紹介をする。


「伊吹風子」


ぽん、と頭に手を置く。


車椅子に座っているおかげで、ちょうどいい高さに頭がある。なんとなく、手を置きやすい。風子も別に、嫌がる素振りはなかった。


「花嫁の妹さんだ」


「…なんでそんな子がおまえと一緒にいるんだよ? うちの学校の生徒みたいだけど、見たことないな」


「ま、色々あってな」


「ふぅん」


疑わしげに俺を見やるが、それ以上余計な追求はしなかった。


春原はニッと笑うと風子に視線を移す。


「僕、春原陽平」


「おならで空中を飛び回ると有名だ」


「したことないですから」


「でも、おまえならできそうな感じもするけどな」


「そんな褒めてるみたいな言い方で言われても、嬉しくないから」


そんな人外の所業ができそうなのが、こいつの末恐ろしいところだ。


「むしろ、この学校の狂犬と恐れられている存在だね」


ニヤリと口の端を歪める。


本人はニヒルな笑いのつもりかもしれないが、小悪党っぽい笑みだった。


「狂犬と言っても、チワワくらいのものだけどな」


「なんだか、生暖かく見守られてそうな感じです」


実際、その通りかもしれないが。


「もっと、野獣みたいな感じでお願いします」


「ま、目に知性が感じられないという意味では野獣かもしれないけど」


「髪の色もおかしいですから、そういう意味では野獣かもしれません」


「全然フォローになってないだろっ」


そうツッコミを入れてから、春原は不思議そうに俺たちを見比べる。


「なんだよ」


「いや…。なんか、会ったばっかだけど、息が合うなって思ってさ。ねぇ風子ちゃん、僕たち実は相性いいんじゃない?」


「最悪ですっ」


「酷すぎませんかっ!?」


…会って一分でいつもの空気。


傍で見ていて、笑ってしまいそうになる。


風子の記憶がなくなって、全ては一からやり直し…などということもないような気がした。


そうしていると、ざわりと周囲の空気が変わる。


「ん…? おい岡崎、見ろよ。主役のお出ましだよ」


春原がそう言うと同時に、わっと周囲の生徒が湧いた。


見てみると、ちょうど腕を組んだ公子さんと芳野さんが現れたところだった。


ふたりとも、この前庭の大賑わいに目を丸くして驚いているのが遠目にもわかる。なにせ、これだけの在校生がお祝いをしてくれているのだ、びっくりもするだ ろう。


集まっていた人々が、わっと新郎新婦の元へと集う。


それからは、大混乱。


「結婚おめでとう!」


「お幸せに!」


怒号ともつかぬ叫び声。祝福の言葉。わあわあと振り回す手に握られる木彫りのヒトデ。


飛び跳ねてよく見ようとする奴もいるし、押しのけて前に行こうとする奴もいる。


「わ、わっ…」


「おいおい…」


お祝いを言いに行こうとしたが、俺と風子はその人出に驚いて足を止めた。


風子は鞄から夫婦へのプレゼントである連なったヒトデを取り出したが、それを胸に抱いて、この騒ぎにぽかんとしていた。


せっかく渡そうと用意したのに、近付けもしない雰囲気だ。あっという間に、視界はたくさんの生徒の背中で埋められて、新郎新婦は見えなくなった。


まいったな。人が集まったのはありがたいんだが、集まりすぎて会えないぞ。


嬉しい悲鳴というかなんというか、予想外だ。


どうするか? という感じで風子と目を合わせてしまう。


「行ってきなよ」


だが、春原が気安い口調で言う。


「無茶言うなよ。すげぇ人手だぞ」


「はい、ヒトデはすげぇです」


そのヒトデじゃない。


「大丈夫でしょ」


その根拠はどこから出てくるのか。


「どうしろってんだよ。車椅子を押して突っ込ませるつもりか?」


阿鼻叫喚になりそうだった。


「無茶苦茶すぎるでしょ、それ。そうじゃなくてさ、頼めばいいじゃん。だって、花嫁の妹さんなんだろ?」


春原はそう言うがはやいが、手前の生徒の背中にどいてくれと声をかける。


それで、簡単に通してくれれば世話がないと思ったが…。


だが…。


「ん? ああ、どうぞ」


「結婚、おめでとう」


「今日は、よかったね」


前を向く俺と風子を見て、こちらを振り返った生徒たちは自然に道をあけた。あまりにも素直な対応に、呆然と驚く。


みんな、風子のことを覚えているわけじゃない。彼女が花嫁の妹だと、自分たちをこの場所に読んだ張本人だと、知っているわけではない。


それでも、ただ、わかるのだろうか。


そうやって目の前が割れ開いていくのを見て、風子は胸に抱いたヒトデをぎゅっとにぎった。


「みなさん、ありがとうございます」


ぺこりと、周囲の生徒に頭を下げた。


車椅子が通れる程度のスペースが、目の前にひらけた。


まるで夢でも見ているように、自然に。


俺は笑って、息をつく。


かつては斜に構えてせせら笑っていたこの学校の生徒たちが、そっと道を示してくれている。


「春原。それじゃ、ちょっと行ってくる」


「ああ…。がんばってね」


その言葉を背中に受けて、俺は歩き出した。そっと、風子の腰掛ける車椅子を押した。


道が開けられているとはいっても、ゆっくりとした歩みじゃないと人にぶつかってしまう程度の道だ。


こちらを振り返ると、彼らは優しく笑ってそっと体を少しずらした。


俺と風子が通り過ぎると、後姿に声援を送った。


まるで、ゆっくりと押し上げられているようだ。そんな気分になる。


俺は車椅子を押して、ふたりそこを通り抜ける。


その先で、公子さんと芳野さんが俺たちを待っていた。


「ふぅちゃん…」


ウェディングドレス姿の公子さんの前へ。


「おねぇちゃん」


ふたりの視線が、重なり合った。


俺は、創立者祭の日のことを思い出していた。ふたりの視線はかみ合わず、思いも言葉も伝わらなかった。


だが、今は違う。


姉妹は目と目を合わせ、春の日差しの下で微笑みを交わしていた。


車椅子にかけた風子は、意を決したように、立ち上がろうとした。フットレストを外して、地面に足をつける。ぐっとアームレストに手をついて、体を起こす。


まだ、筋力が戻っていないのだろう。なんとか腰は浮かせたものの、脚から腿にかけて、ぐらぐらと不安定に体が揺れた。


俺は風子の横に寄り、彼女の体を支えた。


風子がにこっと笑って俺を見る。俺たちは寄り添い合って、そこに立った。


手に持ったヒトデを、花嫁に差し出す。


それは、風子がこのために作った特別製。寄り添うふたつのヒトデの彫刻。


「おねぇちゃん…」


ぐっ、と差し出されるプレゼント。


「結婚おめでとう」


祝福の言葉を口にした。たくさんの人に囲まれて、笑顔に見守られて、一番幸せに近い場所で。


公子さんはそのヒトデと風子を交互に見やる。じわっと目じりに涙が浮かんだ。


「公子」


花婿姿の芳野さんが、穏やかな笑顔で声をかける。


「…ええ」


公子さんが芳野さんの方を向いてそう答え、こちらに向き直った時は、笑顔だった。


彼女はそっと手を差し出す。


風子のプレゼントを受け取る。


…ふたりの心が重なった。


その瞬間、周囲で息をのんで様子を見守っていた参列者の生徒たちが、感極まったように再び祝いの言葉を叫んだ。


「おめでとう!」


「イヤッホォォーーーー!」


「ヒトデ最高!!」


「お幸せにーーっ!」


そんな祝福を受けて、公子さんと芳野さんは肩をくっつけて笑い合った。


俺は風子の腰を抱いて、そっと体を車椅子に戻した。


「風子、頑張ったな」


「岡崎さんのおかげです。ありがとうございます」


俺を見上げる風子の瞳。じわりと涙に濡れていた。


だがそれは悲しみではない。


やっと夢を叶えた、喜びの涙だった。


ずっと願っていたこと。姉の結婚式をお祝いしたいと思っていたこと。


それを成し遂げて、俺たちは、天に届くほどに笑い声をあげた。







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未だ喧騒はやまず、公子さんと芳野さんは色々な人たちと写真を撮って回っている。


俺と風子は少し離れたところに避難して、ぼんやりとその様子を見守っていた。


「大人気だな」


「今日の、主役ですから」


「ああ…」


のんびりと言葉を交わしていると、ひとりの少女が俺たちの前に立った。


有紀寧だった。彼女も、この結婚式のことを思い出してくれたらしい。きっと来てくれると思っていたが、やはり顔を見ると安心した。


有紀寧は俺と風子を見比べて、にこりと微笑んだ。


「朋也さん、こんにちは」


「よう」


「…こんにちは」


風子は、緊張した様子だった。


ふたりは仲が良かったから、忘れられているとなるとショックも大きいだろう。たとえ、そうわかっていたとしても。


「さっきのこと、見てましたよ」


「そうか」


「…」


「とても素敵なプレゼントでした」


有紀寧は膝を折って、風子と目線を合わせた。


「お姉さんのご結婚、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


当然ながら、有紀寧の喋り方は親しい友人に語り掛ける調子とは、少し違う。手探りの緊張感が、少しだけ垣間見えた。


「…あの」


風子は戸惑うように視線をさまよわせていたが、やがてしっかりと有紀寧を見た。


「もしよろしければ…」


頬を染めて、ぐっと子供っぽくスカートの裾を握りしめる。


「風子のお友達になってくださいっ」


一生懸命な様子で、そう言った。


それを見て、俺は低く笑う。


その姿は、愛おしいものに思えた。


一度失った関係だが、全てが消えたわけではない。新しい場所から、また、始めようとしているのだ。


全ては、移ろっていく。そうして手から零れ落ちていくものだってある。


だが、大事なものも、楽しいことも、ひとつではない。やり直すことができる。新しく、探し求めることもできる。


ただ、やろうとする心があれば。


「…とっても、不思議です」


風子のいきなりのお願いを聞いた有紀寧は、目を丸くしてそうつぶやく。


「実は、わたしもそう言いたいなって、思っていたんですよ」


胸の前で手を組んで、にこりと微笑む。さっきよりも、少しだけ親しげな様子で。


「わたしでよければ、喜んで」


「ありがとうございますっ」


「わたしは、宮沢有紀寧といいます。風子さんですよね」


「はい…っ、伊吹風子ですっ。あの…ゆきちゃんのこと、これから、ゆきちゃんって呼んでもいいですか?」


…もう呼んでいた。


有紀寧はくすくすと笑う。


「はい、もちろんですよ。それじゃ、わたしは…ふぅちゃんって呼びますね」


「はいっ!」


ふたりは、また、ここからやり直していくのだろう。


友達として、親友として。


笑い合うその姿に、これから先の楽しい日々を思った。







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風子と有紀寧と三人で、植込みの脇に腰掛けて話をしていると、心が和んだ。


ふたりは今さっき友達になったばかりとは思えない様子で、親しげに話をしていた。


風子の方ははじめから有紀寧に対するガードはないし、有紀寧も人当たりはいい方だ。


それに、風子のことを忘れたとはいっても、会話のテンポを少しは体が覚えているのだろうか。言葉が途切れることもなく続いていくのよ聞いていると、なんと なくそんなことを思う。


「…おう、ゆきねぇ、ここにいたかっ」


「もう、どこ行っちゃったかと思ったわよ」


そうして話をしていると、どやどやと有紀寧の友達の不良共がやってくる。


この人ごみで、別れてしまったのだろう。


「おまえら、なんで来てんの?」


正直、こいつらがいるとは思わなかった。


ヒトデは受け取っていないはずなんだが…。


「いちゃ悪いってか?」


「岡崎、てめぇ、ケンカ売ってんのか?」


「買うぜ? 超買うぜぇ?」


男共は血気盛んになった。まずい、失言だったな。


「あんたたち、おめでたい日に騒ぎを起こさないの」


それを叱りつけるのは、喫茶店で働いている女性だった。


「ま、それもそうだがよ…」


さすがに場をわきまえているようで、すぐに鎮まった。まあ、こいつらが殺気立つのは半ば挨拶みたいなものだ(迷惑な挨拶だが)。


「わたしがお誘いしたんですよ。せっかくの結婚式ですから、みんなでお祝いしたいと思いまして」


有紀寧がそう言って笑う。


「そうでしたか…。みなさん、ありがとうございます」


風子が丁寧に不良たちに頭を下げる。


「おう、いいってことよ」


「こっちこそ、楽しませてもらってるぜ」


鷹揚に笑ってみせる。


ま、悪い奴らじゃないよな、たしかに…。


そんな姿を見ていると、しみじみとそう思う。


「ゆきねぇもいい子だけど、この子もいい子ねぇ…」


「…」


横で、喫茶店の女性はしみじみとした目で女子ふたりを見ていた。


「ぺろぺろしたくなるわね」


「ぺろるな」


やはり、変態だった。


「なによその目は」


「いや、狂ってるなあって思って」


「冗談きついわね…」


さすがに苦笑された。


「…」


そんな様子を、風子はじっと見つめていた。


「岡崎さん、岡崎さん」


手招きされる。


「なんだよ、おい」


「…」


傍に寄ると、ぐっと手を掴まれた。


ふんす、と息を荒くして風子は女性の方を睨んだ。


…どうやら嫉妬しているようだった。


あの人と俺の間に桃色な空気などあろうはずもないが、どういうつもりだ。


「あー、ごめんね、そんなんじゃないから」


対する女性の方は、あっけらかんと笑うだけだった。ま、互いにそんな気持ちはないのだから当然だ。


「岡崎くんとは、ちょっと嗜好が似てるから、それでただの友達」


「あんたの変態に俺を巻き込むなよ」


というか、いつの間にか友達だと認識されていたのか。別に嫌とも言わないが。


「…」


風子は相も変わらず、牽制するような態度だった。


「…おふたりは、恋人同士なんですか?」


そんな様子に、有紀寧は首をかしげて尋ねた。


…そう見えているのだろうか。


「いや、そういうわけじゃないけど」


そう答えると、有紀寧は安心したように笑った。


「そうですか。なら、よかったです」


胸の前で手を組んで、そう言う。


…よかった?


俺は目を向いて有紀寧の方を見る。にこにことした素直な微笑みを返されて、つい顔を背けてしまう。


…背けた視線のその先で、血の気のたぎった不良共がいた。


「岡崎、てめぇ…」


「なにゆきねぇといい感じになってやがる…ッ」


「ぶち殺しますよ…!」


怒りのあまり、敬語になっていた。


マジ怖いので、やめてほしい。


「ちょっと、俺、他の連中来てるか探してくる」


血祭りにあげられそうだったので、俺はそう言うと足早にその場を離れた。


風子はちょっと寂しげに、有紀寧はにこりと手を振って、俺を見送ってくれた。







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大勢の生徒たち。


見知った顔もあれば、知らない奴だって多い。


何度も同級生に声をかけられる。みんな、一様にいつもより興奮した様子だった。


昇降口の近くの方では、芳野さんと公子さんを囲んで今も延々と写真を撮ったり大騒ぎが続いているようだった。


進学校のテスト前などという時期なので、生徒たちの間にはピリピリした空気が漂うのが常なのに、この熱狂にそれも吹き飛んでしまっているようだった。


それは、悪い感じではない。


「あ…」


「む…」


辺りを見回しながら歩いていると、ばったりと一人の男と顔を合わせる。互いの顔を確認すると、俺たちは揃って顔をしかめた。


そいつは、何度も俺と対立したことになった元生徒会長の男だった。


「おまえも、来てたのか」


正直、意外だった。


相手は俺の言葉に不服そうに鼻を鳴らした。


「この学校で結婚式があると聞いて、様子を見に来ただけだ。まったく、テスト前だというのに、こんな馬鹿騒ぎをする意味が分からないな」


神経質そうにそう言って、手に持ったヒトデでトントンと苛立たしげに肩を叩く。


俺はぽかんとそれを見た。


「おまえも、それ、持ってんの?」


「それ? …ああ、これか」


今気付いた、とでもいうようにヒトデを一瞥する。


「別に、捨てる理由がなかったから、持っているだけだ。それにしても、先生方も、積極的に参加しているのが納得いかないな」


「おまえも、参加してんじゃん」


そう言ってみると、相手は吐きそうな顔をしてみせた。


「生徒会長としての職務の延長だ。こんなイベントがあるなら一応、気に留めておくべきことだろう。僕も暇じゃないんだが。だが、まあ、この学校に縁のある 人たちだとも聞いているし、何も拒絶しているわけでもない」


「もう会長じゃないだろ、おまえ」


「一線を退けばすべての責任がなくなるというわけでもないだろう」


まるで、言い訳でもするかのような話し振りだった。俺が低く笑うと、相手は不快そうに顔をしかめた。


「何か文句があるか」


「お祝いの言葉、もう言ったか?」


「…ああ。他にも人が多いから、簡単にだが」


「そうか」


俺は、ニヤッと笑う。


そういえば、こいつに笑顔を向けるのは、初めてかもしれないと思った。


そんな顔を向けられて、元会長はぎょっとしたような様子だった。笑顔を向けられてそんな反応なんて、失礼な奴だ。


「おまえも、楽しんで行けよ」


「…ふん」


機嫌悪そうな素振りで鼻を鳴らすと、俺の脇をすり抜けていく。


「岡崎」


名前を呼ばれて、振り返る。


相手は顔をしかめて半身、俺を振り返っていた。


「以前」


吐血でもしそうな顔で言う。


「おまえは人を不幸にすると言ったことがあったな。それについては、取り消させてもらおう」


「そりゃ…どんな心境の変化だよ」


「別に、いい日に下らない言い争うなどしたくないと思っただけだ」


どすどすと、こいつにしては珍しい荒れた様子で歩き去って行ってしまった。


俺はぼんやりとそれを見送った。


…もしかして。


あいつは少しは、俺のことを認めてくれているのかもしれない。


そんなことを思いついたのは、その背中が見えなくなってからだった。






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「やあ、岡崎」


「…来てくれたんだな、あんたも」


「せっかく、誘われたからね」


横手から声をかけられて振り向くと、美術教師の青年が立っていた。その横には、同じく美術教師の大柄の男性。たしか、渚のクラスの担任だ。


「岡崎、教師に向かってその話し方はなんだ」


「まあまあ、篠原先生。お祝いの日なんですから、固いことはなしにしましょうよ」


「君はもう少し、教師としての立場を考えなさい」


「はは…」


ふたりの手にはヒトデの彫刻が握られていた。それは、風子が配ったものではない。


俺が自分で作り、教師に配って回ったものだった。


「岡崎。おまえに初めこれをもらった時は驚いたが、今日ここに来た時はもっと驚いたぞ。こんなに人を集める力がおまえにあったとはな」


渚の担任…篠原が言う。大柄で鋼鉄のような雰囲気の無表情だから、褒められているという感じがしない。


だが、よくよくその顔を見てみると、眼差しは優しかった。


「ほとんど、俺の力じゃないから。俺は生徒には配ってないし」


「それでも、全く関わっていないというわけではないだろう。さっきから見ていたが、他の生徒によく話しかけられているようだし、おまえも変わったものだ な」


「さっき会ったんだけど、伊吹先生もその旦那さんもすごく嬉しそうだったよ。岡崎、よく頑張ったね」


「そりゃ…どうも」


教師に褒められる日が来るなどとは思ってもみなかった。正直、どう返事をすればいいかわからない。


だが、そう悪い気分ではなかった。


「じゃ、俺、部活の連中を探してるんで」


「ああ。そういえば、古河も最近はずいぶんクラスメートと打ち解けてきた様子だな。それも、おまえのおかげかもしれないな」


「そりゃ、あいつの力だろ」


俺の返事に、篠原教師はわずかに口の端を緩めた。


「ああ、そうかもしれない。だが、古河ひとりの努力ではないと思っている」


「…」


俺は一礼すると、背を向けた。なんだか、むず痒いな。


「ところで、君は結婚はまだなのかね?」


「えぇ、ちょっと、やめてくださいよ。まだですよ…」


後ろで話すふたりの教師の会話に、少し、口の端を緩めた。







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次に見つかった部員は、原田だった。


「あ、先輩」


俺を見るとほっとした顔になる。


「おまえひとり?」


「はい、りえちゃんとか杉坂さんとははぐれちゃって」


この人ごみだ。気を付けていなければ離れ離れになってしまうのは致し方ないかもしれない。


「そうか、あいつらもきてるか」


「ええ。せっかくの結婚式ですから、お祝いしなきゃって思いまして」


当たり前のように言う原田。こいつも随分ひねくれた奴だが、根はなかなかいい奴だ。


「ありがとな」


「なんで先輩がお礼を言うんですか?」


「ま、今日の主役とはちょっとした知り合いだからな」


「あ、そうなんですね」


人も多いから、さっき俺が公子さんと話していたのは見ていないようだ。


「他の部員には会った?」


「いえ、先輩方にはまだ会ってないですね。岡崎先輩は会いましたか?」


「有紀寧に会った」


「有紀寧ちゃんは一緒じゃないんですか?」


「向こうの植え込みの方にいると思うぞ。色々あって、あいつは他の友達と一緒」


「お友達って、他の学校の不良っぽい人たちですよね。また、何かしたんですか?」


「人をトラブルメーカーみたいに言うな」


むしろ、原田の方がトラブル体質という気がする。


「…ま、一緒に他の連中も探すか」


ともかく、部員を探していたのだ。すぐさま原田が見つかったというのは幸先がいい。


「ええ、私が先輩とふたりで歩くなんて、恐縮ですけど」


「おまえそんなキャラじゃないだろ」


「でも、ふたりでいるところとかりえちゃんに見られたら、八つ裂きにされちゃいます」


「いや、あいつもそんなキャラじゃないと思うが…」


「ですね」


原田はくすくすと笑う。


「行きましょうか」


「ああ」


やっとこうして、お仲間が増えた。


俺たちは連れ立って歩き始めた。






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「あら、岡崎じゃない。あんたも来てたのね」


「美佐枝さん」


この人と風子の間に繋がり合ったっけ? などと思うが、考えてみれば創立者祭やことみの演奏会とかで会ってはいるか。


今日はいつものようにエプロンにつっかけというラフな格好ではない。きちんとしたドレス姿だった。


その周りには、ラグビー部の連中が控えていた。傍目にも情けないくらいにデレデレした視線を美佐枝さんに向けていた。それを気にもしていない美佐枝さんも すごい。


「なんか、そういう格好をしてると不思議な感じだ」


「なによ、似合わない?」


「逆。よく似合ってるよ」


「ありがと」


褒めても、けろりとした様子で笑ってみせる。こんな言葉など、言われ慣れているのだろう。


「ああん…?」


「美佐枝さんに色目使いやがって…」


だが周りのラグビー部の連中はいきなり殺気立った。どうやら、こいつらは排他的な集団のようだった。


…というか、さっきも同じような目に遭ったような気がする。


「…あんたら、うるさいっ」


「はいっ!」


「黙りますっ!」


「ありがとうございます!」


一喝されて、すぐにおとなしくなったが。


横で原田も苦笑している。


「まったく、この年になると結婚式に参加するのもちょっと憂鬱だわ」


「そんなことないって。美佐枝さん、若いよ」


「そりゃ、どうも」


話をしていると、足にすり寄ってくる…


「…ああ、こいつもいるんだ」


いつも美佐枝さんの傍にいる虎猫だった。


「うん。付いてきちゃったのよ。この人ごみでしょ、踏みつぶされたりしなきゃいいんだけどねぇ…」


「いつもみたいに抱いてやれば?」


「この服、高いから」


「超現実的っすね」


「そりゃね」


ひとしきり笑い合う。


「ところで、今日は部活の子たちと一緒じゃないのね? 彼女?」


原田の方を見て、言う。


「こいつが? はは、違うよ」


「うわ、そんなすげなく否定されると傷つくんですけど…。でも、あの、私も部員です。今、他のみんなを探してるんです」


水を向けられて、原田は笑いながら言う。


「他の部員の子ねぇ。見たかしら…」


「ま、こんだけ人がいるからな。もうちょっと、探してみるよ」


「ええ、行ってきなさい」


美佐枝さんに見送られて、また歩き出す。


振り返ってみると、美佐枝さんは虎猫を抱きかかえているところだった。


口ではあんなことを言っていても、心配しているのだろう。


その姿は美しく、そして、幸せそうだった。






572


「あ」


一緒に部員探しをしていた原田が声を上げる。


「なんだ、誰かいたか?」


「ああ、いえ、部員じゃないんですけど」


原田の視線を追ってみると、その先には年配の教師。一度話したこともある、合唱部三人の担任の教師だった。


相手も俺たちの視線に気付いたようで、ゆっくりした足取りでこちらにやってくる。


「あら、あら。こんにちは」


「先生、こんにちは」


「ども」


挨拶を交わす。


原田は教師の前では優等生面するタイプのようだった。


「わざわざ来てもらって、ありがとうございます」


教師に俺が作ったヒトデを配って回った時、この人にもそれを渡していた。


急な話だし強制じゃないからと言っておいたが、来てくれたようだった。自分の努力が報われたということで、嬉しい。きっと今、風子は俺の何倍もこんな風な 充足感を感じているのだろう。


「いいのよ、全然。久しぶりに伊吹先生に会えて、なんだか懐かしくなっちゃったわ」


教師陣にとっては、公子さんはかつての同僚として肩を並べていた人も多い。多くの生徒が祝福してくれるのもいいが、知っている人が駆けつけてくれるのも嬉 しいだろう。


「先生も、そのプレゼント貰ってたんですね」


その手にあるヒトデを見て、原田がつぶやく。


「ええ、こういう手作りのものをもらうなんて、久しぶり」


ころころと笑いながら、ヒトデを胸の前で抱いた。


「さすが敏腕ヒトデ営業マンですね」


原田はにっこりと輝くエフェクトでもかかりそうな笑顔を向けた。


「そのあだ名はやめろ…」


俺は肩を落としてツッコミを入れておく。


そんな様子を見て、教師の方はくすくすと笑う。


「仲がいいみたいで、いいわね」


「はい。岡崎先輩、愉快ですから」


「愉快なのはお前の頭の中だ」


「…そんなこと言ったら、岡崎先輩にセクハラされたって杉坂さんに言いますよ」


「あいつが怒っても、怖くねぇよ」


「む…」


「今日はおめでたい日なんだから、喧嘩しちゃダメよ」


やんわりと注意される。なんだか、教師に怒られるというよりは近所のばあちゃんとかに怒られているような気がする。


「はは、大丈夫です。こういうコミュニケーションです」


原田は笑ってそう言う。わざわざ否定する気も起きない。


「そう。ならいいけれど。一緒の部活をやっているんだから、仲よくね」


教師の顔を見ていると、まあ何でもいいか、というような気分になった。







573


「よお、岡崎」


「ああ」


歩いていると、バスケ部の部長の男と出くわす。


俺と原田が連れ立っているのを見ると、目を丸くした。


「…ええと、たしか部活の下級生だよな」


「はい」


ぺこりと部長に礼をする原田。ロクに会ったこともないはずだが、きちんと覚えているらしい。


「岡崎の部活は女子が多いと思っていたけど、その子とくっついたのか?」


「は?」


その言葉に、俺はバスケ部の部長を見て、原田に視線を移して、失笑した。


「まさか」


「うわ、失礼すぎますね!」


「そういう感じじゃないだろ、実際」


横で、まあそうですけど、などとぶつぶつ言う原田だった。


「他の部員の連中探してるんだけど、人が多すぎて見つからないんだ」


「まあ、たしかにな。俺も軽い気持ちで来たから、まさかこんなことになってるとは思わなかった」


バスケ部部長は苦笑する。


呆れたように周囲を見渡す視線を追う。わいわいとした騒ぎに陰りなどはなかった。


「この学校の生徒が、結婚式のお祝いとかでこんな集まるとはなあ」


しみじみとした様子で、言う。


「おまえもここの生徒だろ。おまえは、なんでわざわざ来ようと思ったんだよ?」


「俺か? 俺は、朝起きたら結婚式のことを思い出して…ま、なんとなくだよ。来た方が、楽しそうだったから」


「そうか…」


「他の奴らだって、同じじゃないのか」


楽しそうだから、ここに来た。お祝いを言いたいから、集まった。


それは単純な理由だ。


だが、進学校の生徒がそんな単純な理由で集まったというのが、嘘みたいだった。


「岡崎だって、そうだろ。おまえ、面倒だから家で寝てるってタイプだけど、ちゃんと来たじゃん」


「そりゃ…」


俺は風子と一緒にプレゼントを配って回っていた。実現できないかもしれない公子さんの結婚式を祝いたいと思っていた。これは風子との再会の場所だった。


俺がこの場所に来た理由ならば、いくらでもある。


だが。


楽しそうだから。お祝いを言いたかったから。


俺の理由だって、他の生徒と変わらない。つきつめてしまえば、単純な理由。


「そりゃ…そうだな」


だから、俺はそう言うしかなかった。


そう認めてしまうと、随分とすっきりした。


そうだ、あとはきちんと楽しめればそれでいい。そんな気分になっていた。







574


スーツ姿の親父と出会う。


こんな恰好をしているのを見るなんて初めてだった。新鮮だ。


「親父」


「ああ、朋也」


親父が俺の姿をみとめて少し笑う。


そして、その隣…。


「よお、久しぶりだな」


そこには、親父の友人の男、木下がいた。


先日、親父との関係を修復するよすがはないかと彼に相談したことがあった。


俺の話を聞いてくれて、何の得にもならないのにわざわざ力を貸してくれた。俺はこの人から聞いて、それでやっと、母親の墓がこの町にあることを知ったの だ。


そういえば、あの時会ってから礼すら言っていない。


「あの、私、あっちの方を探してきますね」


俺たちの間にある緊張感を読んだらしい。原田はそう言うと席を外した。


「悪いな」


「いえ、いいですよ」


ひとり、人込みの中に行ってしまった。意外に気が利く奴だった。


「すまないね、お邪魔だったかい」


親父が言う。


「同じ部活の奴。ま、大丈夫だろ」


さすがに、今日ここに来ているならばいずれ会えるだろう。


親父は木下の方を目くばせする。


「起きたら、結婚式のことを思い出してね…。せっかくだから、誘ってみたんだ」


「ま、俺も暇だったからな。スーツなんて、久しぶりに出した」


「それは、おれもだよ」


男二人が笑い合う。


「直幸の息子も来てるはずだって言ったから、ちょっと顔を見たくなってな」


「お世話になりました。どうもありがとうございます」


頭を下げる。


「直幸、おまえの息子にしてはよくできてるな」


「おれがいなくても、勝手に育ったんだ」


「んなことねぇだろ。うちの息子、家から出てって帰ってこねぇぞ」


「それは、自立してるんだろう」


「連絡もねぇけどな。…おっと、悪いな」


ふたりでわいわいやっていたが、俺の方を見て気を取り直したようだった。


気安い口調で話をする親父が、なんだか新鮮だ。


「あれから、ふたりで墓参りに行ったってさっき直幸から聞いたぞ。よかったな」


「どうも」


「ま…俺に何が言えるわけでもないが…家族仲よくな」


木下はそう言うと顔を背けた。


そこまで口が回る人という感じもしないし、この人なりの応援なのだろう。


横で、親父もにこりと笑っている。


「おれからも言わせてもらうよ。ありがとう」


「あんまり、そんなこと言わないでくれ。別に俺は何もしてねえよ。一回だけ、墓参り行っただけだ」


そんな、困ったような様子が、なんだかおかしかった。






575


親父と木下と少し雑談をした後、別れる。


さっき、原田がこっちの方に行ったんだが…などと思いつつ周囲を見渡していると、見知った顔と目が合った。


「あ…」


丁寧にお辞儀をする。


俺は、つい、そいつの方へと近づいた。


「結婚式…来てくれたんだな…三井」


「岡崎さん。…こんにちは」


眼鏡をかけた、真面目な風貌。風子のかつてのクラスメート。


勉強の方が大事だからと一度は結婚式への誘いを断ったが、努力を続けているうちに俺と風子のことを認めてくれて、ヒトデのプレゼントを受け取ってくれた奴 だ。


その手には、木彫りのヒトデがきちんとあった。俺はその姿を見て、口の端がほころぶ。


「ありがとな」


三井は少し慌てた様子で顔を背けた。


「て、テスト前とか、忙しい時期じゃなければこういうのも参加していいかなって思っていたんですが…もう、こんなの、よりにもよって直前じゃないですか。 よっぽど、来るのやめようかと思いました」


非難がましく言う。


「でも、来てくれたんだな」


「それは…勉強の息抜きくらいなら、いいかなって思いまして。それに…」


ぎゅ、と、ヒトデを握る。


「ここに、ちゃんと、来なきゃいけないって思いましたから。勉強ももちろん大事ですけど、一番大事ですけど、でも、この結婚式も大事なことであるのには、 変わりないですから」


この学校の生徒だ、将来のために勉強をしようと思うのは当然のことだ。


だが、大切なものはひとつだけではない。


もちろん、勉強もしなくてはいけないだろう。だが、求めるものはそれひとつではない。誰だってそうなのだ。


当たり前のことなのだ。だが、きちんと考えてみなければ、それは見えてこない。


「来てみて、よかったか?」


「…はい」


俺の問いに、こくりと頷く。


「新婦の方はこの学校の先生だったって聞きました。私にとって、直接関係ある人の結婚式というわけじゃないですけど、でも、近くで見ているとこっちもなん だか、幸せな気持ちになります。結婚するって、いいなあって」


「おまえ高校生なのにもう結婚願望あるのか」


「そ、そういうわけじゃないです。こういう空気がいいなっていうだけですっ」


茶化すと、本気と受け取ったようだった。慌てたように否定する様子が少し面白い。


それを見て小さく笑っていると、冗談と気付いたのか不服そうな顔になった。


「…ひどいです」


「悪い」


「…いいですけど」


どっちだよ。


「じゃ、知り合い探してるから」


「あ、はい。…あの、岡崎さん」


踵を返したが、後ろから声をかけられる。


「なに?」


「ええと…」


三井は少し戸惑ったような様子だった。


しばらく逡巡したが、また口を開く。


「今日は、おめでとうございます」


「…別に俺が結婚したわけじゃないけどな」


「そ、そうですね。何でもないです、すみません」


恥ずかしそうに、顔を背けた。


どうしてこいつは、俺にわざわざそんなことを言ったんだろうか。三井の横顔を見ながら、そう思う。


もしかしたら、こいつの心には、不定形ながら俺や風子が駆け回っていた思い出が残っているのかもしれない。だから、そう言ってくれたのかもしれない。


そう思うと、笑顔が漏れた。


「でも、ありがとな」


「…いえ」


ふるふると、頭を振る。


「それじゃあな」


「はい」


最後に言葉を交わした時、三井は自然に笑っていた。






576


「よう、じいさん」


「む…岡崎か」


歩き出してすぐ、幸村と行き合う。ちょうどこちらに歩いて来るところだった。新郎新婦の写真撮影の様子でも見てきたのだろうか。


「よい式だったの」


先ほどの結婚式を思い返すようにうんうんと頷く。幸村も結婚式に出席していたが、あの時は言葉を交わす余裕もなかったからな。


「ああ、そうだな」


言いながら、結婚式を思い返す。


俺は結婚式出るのは初めてだ。他と比べることはできないが、それでも優しく、温かな空気を感じた。


人柄を感じさせるなどと言ってしまえば陳腐だが、そんなほっとするような親密な空気があった。


俺の返事に、幸村は微笑んだ。


「そろそろ、食堂で宴会を始めるようだの」


集まった生徒たちを見渡して、言う。


「そうなのか…」


風子からここで写真撮影をした後にパーティに移る、という話は聞いていた。


が。


俺は周囲の様子を再確認。


実際に全校生徒全員が来ているかはわからないが、それに近いくらいの数はいると思う。


「…ここにいる奴ら、全員だよな?」


「そうなるかの…」


さすがにこうやってたくさんの人が集まることまでは、予想外だっただろう。


この人数が宴会に流れ込むとなると、食堂だからスペースはなんとか間に合うとしても(立食になりそうではあるが)、料理とかはどうなるのだろうか?


「どうすんの?」


「さっきそれを話していての…」


どうやら、その辺の対応の緊急首脳会談が行われていたようだった。


「食堂に残ってる食べ物を全部奪えばいいんじゃない?」


「そんなことしたら、明日食堂が閉まるわい」


略奪者のようなことを言うと、呆れた目で見られた。


「仕方がないから外に買いに走らせていての。それで、記念撮影を延ばしておる」


「ああ、なるほど」


たしかに、もう結構長いこと前庭で騒いでいる。


せっかくだから新郎新婦と写真でも撮ろう、という奴が結構いたりして幸い(?)間は持っているようだが。


その間に、有志が商店街にでも走っているのだろう。そろそろパーティが始まるというならば、買い出しも完了しつつあるのかもしれない。


「まあ、また買いに行かねばなりそうじゃが」


「まあな」


一度の買い出しですべて賄えるということはないだろう。


高校生がこれだけ集まっているのだ。タダ飯となれば容赦などはないだろう。


俺も風子も、お祝いのために来てほしいと願ってそのための努力はして来ていたが、実際に集めてからの運営までは考えていなかったな、正直。迷惑ばかりかけ ているような気がして、さすがに申し訳ない気持ちになる。


幸村は俺たちが生徒たちを呼んだことなどは知らないが、それでも気が引けることに違いはない。


「なんか、大変だな」


「なに」


だが、幸村は哄々と笑ってみせた。


「これだけ人が集まってくれるとは、幸せ者じゃわい」


苦労を掛けているが、それを苦労とは思っていないようだった。


それを見て、俺は少し笑う。


「俺も、買い出し手伝うよ。ほら、教師を呼んだのは俺だから」


「いや、いや」


幸村は頭を振る。


「おぬしは、妹さんと一緒にいてやればよい。ずっと眠っていてあまり知り合いもおらんだろうからな。…ところで、その妹さんはどうした?」


さっそく託された妹をほっぽりだしていると思われたのか、幸村は怪訝な顔になった。


「部員に会わせたら、意気投合したんだよ。俺は他の部員を探してるんだけど、見つからなくて」


「なるほどの…」


「だから、買い出しくらいいいぜ」


「しかしの…」


「話は聞かせてもらったぜ」


問答していると、横やりが入る。


顔を向けると、そこには正装したオッサンと早苗さんがいた。早苗さんがにこっと笑って小さく頭を下げる。


「あ、ども」


「あんたたちは…」


幸村は顎に手をやって、その姿をしげしげと眺めた。


「うむ…」


「…」


考えているようだ。


一応、創立者祭の劇が終わった時に顔は合わせているはずなのだが。


「はて…」


「…」


雲行きが怪しくなってきた。


「…どちら様だったかな?」


案の定だった!


「渚の親」


ともかく、簡単に紹介しておく。


「おう。古河秋生だ」


「早苗です。幸村先生、渚の部活動ではお世話になりました」


「ああ、そうじゃったの」


頷く幸村。


…本当に思い出したのだろうか。


「ていうか、ふたりとも、来てくれたんですね」


「もちろんだ」


「当日になるまで結婚式のことを忘れていたなんて、どうかしていますね」


ふたりとも、プレゼントのヒトデを持っていた。


この世界では、ふたりともあまり風子とは接していないだろうが…優しい人たちだ。


「ていうか、店はどうしたんですか?」


「おう、そこでさっきの買い出しの話だ」


どうやら、横で聞いていたようだ。


「早苗も言ったが、今日が結婚式ってことをすっかり忘れていてな、もうパンを焼いちまったんだよ。食いもんが足りねぇなら、うちのパンを出せばいい。ま、 全員分とはいかねぇだろうが、ちょっとは足しになるだろ」


「そりゃ…ありがたいけど、店の営業はいいんすか?」


「大丈夫ですよっ」


早苗さんはぽん、と手を合わせて自信満々に言う。


「…」


古河パンの経営が心配になった。


「それに、わたしのパンもありますから、渚の同級生にぜひ食べていただきたいですっ。新作もあるんですよっ」


「…」


客たちの体調が心配になった。


「それはありがたいが…いいのかの?」


「もちろんだ。渚が世話になった先生の結婚式だからな、パーッと派手にいくぜっ」


「ふむ…」


幸村は少し考え込む。


「ならば、すまないが、お願いできるかの?」


だが、困っていたのは事実だろう。オッサンの提案を受け入れる。


よしきたと、オッサンと早苗さんは早足に去っていった。大急ぎで、パンを持ってきてくれるらしい。


俺も手伝うとは言ったものの、車を近所で借りるからいい、と断られてしまう。


「おぬしは妹さんの様子を、見てやるとよい」


「それじゃ、そうする」


周囲を見回すと、だんだんと生徒たちが校内に流れている。学食でパーティがある話はもう広まっているようだった。


それを見て、幸村は急ぎ足に去っていった。忙しそうな背中だったが、充実しているようにも見えた。


さて、と俺は息をつく。さて。


一度、風子の所に戻るとしよう。






577


「あ、岡崎さん」


「朋也さん、他のみなさんには会えましたか?」


さっきの場所に戻ると、不良たちはいなくなっていた。風子と有紀寧がいるだけだ。


「いや、人が多くて会えなかった。あ、でも、原田に会ったな」


「…原田さんはどうしたんですか?」


有紀寧がきょろきょろとあたりを見回す。


「色々あって、忘れてきた」


「忘れてきちゃ、ダメです」


有紀寧が苦笑した。


そういや、親父と木下に会って話をしている時に気を利かせて席を外してくれた。


その後探そうとしているうちに生徒が移動を始めてしまったのだ。


…ま、あいつはあいつで勝手にやっているだろう。あまり気にしないことにする。


「ここにいた、他の連中は?」


「はい。さっき、先生方が知らせて回っていたんですけれど、この後食堂でパーティがあるそうです。でも、集まった人が多すぎて料理が全然足りないと話して いるのを耳に挟みまして、せっかくだからとみなさんがお店から料理を持ってくるって提案したんです」


「ああ…なるほど」


オッサンや早苗さんがしてくれたのと、同じか。そういや有紀寧のお友達連中は、飲食店で働いている奴が多い。


「みなさん、すごくいい人です」


「はい。自慢のお友達ですから」


風子の言葉に対して、有紀寧は迷いなくそう言う。


友人を褒められて、嬉しそうだった。


「俺たちも、行くか」


風子の後ろ手に回って、車椅子を押す。


生徒たちは大体移動をしてしまい、昇降口が混雑しているようだった。


車椅子で校内に乗り入れるならば車輪も拭かなければならないし、のんびりしてもいられないだろう。


「そうですね。早くしないと、パーティが始まってしまいますから」


有紀寧が隣に並んで、歩き出す。車椅子の速さに合わせて、ゆっくりと。


「…?」


歩きながら、有紀寧は俺と風子をちらっと眺めて、首をかしげた。


「ゆきちゃん、どうかしたんですか?」


「ああ、なんでもないです。こうして三人で歩いているのが、なんだか不思議な感じがしまして」


「不思議な感じって、なんだ?」


「ええと、すみません、忘れてください」


恥ずかしそうに顔を伏せる。


有紀寧自身、ちょっと違和感を覚えたというところなのだろう。


だが…。


もしかしたら、以前にも俺たち三人で並んで歩いたことがあるのを、わずかにでも覚えているのかもしれないと思った。


それはただの違和感としてしか認識できないのかもしれないけれど、それでもきちんとそこにある。


車椅子にかけながら有紀寧を見上げていた風子は、ぎゅ、と彼女の手を握った。


「ふぅちゃん? どうしましたか?」


「いえ…」


風子も俺と同じことに思い当たって、つい手を出してしまったのだろう。有紀寧に不思議そうに首を傾げられて、慌てて手を離した。


でも、引っ込められた手を、今度は有紀寧の方からぎゅっと握る。


「ゆきちゃん…」


「行きましょうか」


「…はいっ」


手を取り合うふたりの姿を、俺は笑って見守っていた。






578


食堂は、ぎっしりと人で埋まっていた。


普段の昼休みでさえ混雑している場所だ。さすがにこの人数が集まると座ることもままならないようだった。


全員立っているので、後から来た俺たちは前の方が見えない。


だが、マイクの声が聞こえてくる。


どうやら、親方が祝いの言葉を話しているようだった。顔は見えないが、少し上がった感じでたどたどしく芳野さんの普段の職務態度を褒めている。今まで知ら なかったけれど、あがり症なのだろうか。そうでなくともこれだけの大人数をいきなり眼前にすれば、誰だって緊張するだろうが。


俺たちは後ろの空いているあたりに並んで立って、そんな挨拶を聞いた。


セリフがつまったところで、調子の乗った奴が「がんばれー!」などと声援を送っている。なんだか、その声に聞き覚えがあるような気がした。


「…今の声、春原さんじゃないですか?」


有紀寧が苦笑した。


「あのバカ…」


黙っていられないのだろうか。


まあ、割とウケていたが。


ともかく親方の挨拶も終わり、万雷の拍手。


さすがにめでたい結婚式のスピーチだ、どの生徒も心を込めて手のひらを打った。


『続きまして、新婦、公子さんの本校在職中の同僚であられます、幸村俊夫先生よりご祝辞を頂戴いたします』


その放送を聞いて、拍手。


幸村のことは今の在校生も知っている。「あの幸村?」などと周囲の生徒が噂しあっていた。


俺も、幸村が挨拶するなどとは知らなかったな。考えてみれば、幸村は学校で結婚式を挙げるにあたっていろいろ交渉してくれたりして、夫妻からすればぜひと も祝辞を頼みたい人間ではあるか。


『えー…』


幸村の声が聞こえてくる。相変わらず、ゆっくりとした調子の話し方。


『うむ…』


無言になった。


そして、無言が続いた。


周囲がざわついた。


やばいな。じいさん、ボケたのか。


「じじい、がんばれーっ!」


また春原が叫んで、周囲の生徒は笑った。


あいつどれだけ失礼なのだろうか。


だが、宮沢も風子もくすくすと笑っていた。


「幸村先生、ファイトーー!」


「じいさん、まだ死ぬなーーーっ!」


「がんばれーーー!!」


「耄碌してる場合じゃねえぞーーーーっ!」


春原のセリフを皮切りに、他の生徒も面白がって声援をあげた。


なんとなく渚の創立者祭の劇での声援を思い出してしまい、俺は苦笑する。あの時も、こんな声援が飛んでいた。


よっぽど「夢を叶えろ、じいいぃぃーーーーーーーーーっ!!」などと言いたかったが、多分声でバレるのでやめておく。


まったく、進学校とも思えない声援だ。


そんな声援もしばらく続き、やがてやむ。


そして…。


じいさんは語り始める…。


新郎新婦の門出を祝う、その言葉を…。


『…おぬしら、うるさいわいっ!』


説教から始まった。


そりゃ、そうだった。






579


挨拶も終わって、乾杯。


とはいえ、さすがにこの人数で同時に乾杯などと言うのは無理なので、前方に集まっているらしい関係者で乾杯をしたようだった。


ここからでは見えないが前のテーブルが並んでいる方では飲み物が配られているらしく、それを受け取った生徒からだんだんとばらけていく。どうやら、買い出 しはまず飲み物から揃えはじめたようだった。食べ物は見当たらないし、これから順次届くのだろう。


食堂のコップに飲み物をついだ奴らが外へと流出して行き、やっと俺たちも飲み物を手に入れられそうだ。


見た感じだと、さすがにアルコールは持ち込まれていないらしい。ま、いくら結婚式といっても学校だから、それはダメなのだろう。


「飲み物とってくるよ」


「朋也さん、わたしも一緒に行きましょうか?」


そう言って人込みの中に入ろうとするが、有紀寧に声をかけられる。


ひとりで三人分のコップを持つのは難しい。だが、食堂の盆も借りられるだろうし、大丈夫だろう。


「平気だ。おまえは、こいつが変な奴に付いていかないか見守っていてくれ」


「岡崎さん、とても失礼ですっ」


「はは、わかりました」


怒る風子と、笑う有紀寧。


俺が最後に手を振ると、揃ってふたりも手を振り返した。



…。



適当なジュースを三杯用意して、戻る。


すると、そこに彼女らの姿はなかった…などということはなく、そのままの場所で待っていた。


「待たせたな」


「いえいえ、ぜんぜん、待ってませんよ」


「岡崎さん、ありがとうございます」


素直に労われるとこそばゆいな。


三人、ちびちびとジュースを飲みながら話をしていると…視界の端に、見知った姿があった。


クラスメート。俺の前の席の男だ。


「…ん?」


声をかけてくるでもなく、なぜか、俺に手招きをしていた。


しばらくシカトしていたが、だんだんその表情が鬼気迫るものになってきた。最初は軽くちょいちょいと手を動かしているのみだったのだが、今や体全体を使っ てダイナミックに俺を呼んでいた。むしろ近付きたくない。


「あの、朋也さん。お友達が呼んでいますよ」


「友達ってわけでもないんだがな…」


さすがに、有紀寧も気付いたようだった。


放置しておくのも恐ろしいし、しょうがない。面倒だが、相手をすることにする。


コップを風子に預けて、クラスメートの男の元へ行く。


「岡崎っ!」


いきなり元気だった。暑苦しい。


「なんだよ、一体」


「なんだよ一体は、こっちのセリフだっ!」


ぐいっ! と顔を近付けられる。俺は思わず背を反らす。顔が近い顔が。


「おまえと一緒にいる、あの車椅子の子…!」


「ああ、風子?」


「可憐すぎる…!」


「…」


俺は思わず、一歩下がった。


男はすかさず、一歩つめた。


どうやら、逃げられないようだった。最悪だ。


そういえば、こいつは風子のファンクラブを自称していたな…。


「あの子、風子ちゃんっていうのか?」


「そうだけど…」


俺は男の目を見てみる。


ドン引きするくらい、輝いていた。


「なあ、岡崎、俺さ…」


「ああ…」


「ここ最近、何か物足りない気分だったんだよ。何かを忘れてしまったような。ずっと、それは、創立者祭が終わってしまったからだと思っていたんだ。祭りの 後の寂しさってやつだな。でもさ、それは違うって気付いた。あの子を見て気付いたんだ。…ホントの俺デビューっ!」


腕を振り上げた。


「…」


引退してほしかった。


どうやら、風子の姿を今一度目にして、病気が再発したらしい。困ったものだ。


「俺は運命の人に出会った」


「死ね」


「風子ちゃん…ぷりちー!」


参ったな。狂ってる。


この男…もうダメかもわからないな。


「車椅子に乗ってるから見ての通りだけど、あいつ、今病後だから迷惑かけるなよ」


釘を刺しておく。


「岡崎、俺がマイエンジェルに迷惑かけるような男だと思うか?」


「とりあえず頭おかしいとは思うけど」


「ははっ、冗談きついぜっ」


そんないい笑顔を向けられても困る。


「ま…復学したら、色々助けてやってくれ」


「ああ、もちろんだ。なんだか、人生にハリが出てきた」


嫌なハリだな…。


男は陽気な様子で(頭は病気)去っていく。その後姿を見て、俺は一つ息をついた。


風子と有紀寧の所へ戻る。


「岡崎さん、今の人…」


風子も、あいつには見覚えがあるようだ。ま、ファンクラブだなんだと色々と絡みがあったから当然だろう。


「ああ。おまえのこと、心配してた」


本当を言うともっとおぞましい感じだったが、全部伝えてもしょうがない。


「…そうですか」


風子は小さく笑った。自分の記憶がなくなっても、全て跡形もなく消えたわけでもないと思うとやはり嬉しいのだろう。


ぽん、と彼女の頭に手を置くと、くすぐったそうに俺を見上げた。






580


「おうっ! 料理だぞーーっ」


「ちょいと、通しれくれっ!」


しばらく話していると、威勢のいい声と共に有紀寧のお友達連中が戻ってきた。その手には湯気の出る熱々の料理。主にピザみたいだ。結構速いな。多分、事前 に店とかに電話して話でもつけておいて、車でデリバリーしてきたのだろう。用意がいい。


飲み物ばかり補給されていた生徒たちが、わっと湧いた。


見てくれは不良だが、今はそんなことも気にならないようで、わいわいと不良たちの傍に生徒が集まる。


不良共はテーブルに料理を置くと、すぐにまた踵を返す。料理はまだ他にも用意してきているのだろう。


「わたし、お手伝いをしてきますね」


有紀寧はそう言うと、友人の手伝いに行ってしまう。


俺と風子はそれを見送った。


目の前は、やっと満足な量の食べ物が出てきて群がる制服姿。


話を聞きつけたのか匂いをかぎ取ったのか、ジュースだけ持って外に出ていた生徒たちもわらわらと集まってきた。


食堂が一気に騒がしくなる。


俺たちはそんな様子をぼおっと眺めていた。


そこに…。


「あ」


「こんにちは、先輩」


「よう」


現れたのは、仁科と杉坂だった。ちょうど人の流れに乗って、こちらにやってきたところだ。風子の車椅子は目を引くから、つられて俺も見つけたという感じだ ろう。


原田はいない。結局、合流はできていないようだった。あいつは今どこにいるのだろうか。


近付いてきたふたりは俺に挨拶をしてから風子に視線を移し、説明を求めるような視線を送ってくる。


「こいつは、伊吹風子」


風子の頭に、ぽんと手を置く。


「今日の新婦の妹」


「はい。こんにちは」


風子は言いながら、頭に添えた俺の手を両手でぎゅっと抑えた。どかすわけでもなく、甘えるようににぎりしめる感じ。


仁科と杉坂の表情がこわばった。


「りえちゃん、新しい女が出てきたよっ」


「杉坂さんっ? な、なに言ってるのっ」


後ろを向いて、何やら小声でごちゃごちゃ言っている。


だがやがて話し終えて、ふたりは揃ってにこやかに風子にぺこりと頭を下げた。


「はじめまして。岡崎先輩と一緒に部活をしています、仁科りえといいます。本日はおめでとうございます」


「おめでとうございます。…先輩、新婦の親族を連れまわしてていいんですか? というかどういうご関係で?」


「ええとだな…」


突っ込んで聞かれると、困るな。


「ちょっと人には言えない関係です」


「…」


「…」


「…」


風子がすごいことを言う。


つい、全員黙ってしまった。


「ね?」


いや、ね、などと言われてもな…。


「ちょっとした知り合い。しばらく、病院に入院してたんだ」


「あ、そうなんですね」


仁科はこわばった微笑みを浮かべた。


「ふぅん…」


杉坂は何か言いたげな感じだった。


ロクなことを言いそうにない奴だから、話を逸らすことにする。


「さっき原田と一緒だったんだけど、あいつ見なかった?」


「原田さんですか? いえ、私は見てないですけど…」


「一緒だったんですけどはぐれちゃって、まだ会えていないんですよ。というか先輩、どうして今は一緒じゃないんですか?」


「忘れてきた」


「…」


「…」


あんまりな返事に、ふたりは揃って苦笑した。


「まあ、私たちもはぐれちゃったのは同じですよ」


「ちょっと目を離したら、いなくなっちゃってたんです」


杉坂に子供扱いされていた。


「おまえら、他の部員は見た?」


「さっき、宮沢さんを見ましたよ」


ほぼ入れ違いだったから、姿は目にしていたようだ。


「ああ、あいつはさっきまで一緒だったんだ。あの料理の仕出しの手伝いに行ったところ」


「ああ、そうなんですか」


「なら、わたしたちはまだ他のみなさんは見てないですね。春原先輩は声だけ聞こえてきましたけれど」


さっきの幸村の挨拶だろう。杉坂の横で、仁科も苦笑していた。


「きっと、しばらくすれば他のみなさんにも会えますよ」


「だな…」


こうして俺たちの思いは届いたのだ。一緒に活動していたあいつらが来ていないということはないだろう。


仁科と杉坂も俺の横に立って、のんびりとジュースを飲む。


「伊吹さん、結婚式はどうでしたか?」


仁科がにこりと笑って、風子に水を向けた。


「私、結婚式は出たことないですから、どんな風にやっているのか、気になります」


「私もちっちゃい頃に出たことあるけど、もう全然覚えてないなあ…」


「はい、もう、すごかったです。おねぇちゃんはすごく綺麗で、祐介さんはすごくカッコよかったです。もう…すごいです」


「…」


「…」


すごいことしか伝わらない説明だった。


「すごいのかあ…」


仁科が嘆息する。杉坂は苦笑していた。


「この学校の先生だったって聞いたけど、何の先生だったんですか?」


「はい、それはですね…」


…このふたりと風子が話している場面というのはあまり目にした記憶はないが、別に仲が悪いというわけでもない。


今日のことを話しているうちに、少しずつ打ち解けていっているようだった。そんな様子を横で見ていて、なんだか安心する。


一度はこの世界から弾き出された風子が、やっとまた輪に入ることができたとでもいうような感じ。


話し込む彼女らに飲み物を取りに行ってくると声をかけ、その場を離れる。


が、ぱたぱたと仁科が付いていた。


「あの、コップ持つの、手伝いますよ」


「そりゃ、ありがと」


別にお盆を使えばいいのだが、つい頷いてしまう。


「…あいつらはいいのか?」


「あの、杉坂さんが、用意するのひとりじゃ大変だろうからって…」


ごにょごにょと言う。


杉坂が余計な気をまわしたようだ。


「そ、それに、料理も持ってきたいですし」


たしかに、盆があるとはいってもひとりでは料理までは手を出しづらい。そういう意味ではありがたい。


テーブルの方はまだまだ人が群がっているし、激戦地だ。


ともかく、肩を並べて人ごみに分け入った。


俺と仁科はひしめく生徒の間隙を縫って、ジュースを手に入れる。料理は、苦労してほぼ狩られつくしたサラダの残骸を取れたのみ。どうやら、食べ物を求める 競争は過酷なようだ。少なくとも女連れでは勝てそうにない。


だが、レタスの切れ端を乗せた盆を持って、仁科は楽しそうだった。


俺にはその気持ちが、なんとなくわかる。


…お祭り騒ぎだ。


創立者祭の日のような熱狂が、今は懐かしい。


「あの、岡崎先輩」


ふたり並んで、人に押されて戦利品をこぼさないようにそっと歩きながらの帰り道。


「何?」


「今から一ヶ月前の今日、どんな日だったか覚えてますか?」


「は?」


唐突なセリフだった。


仁科を振り返ると、彼女は穏やかに笑って俺を見ていた。


ひと月前。


四月十八日。


…などといっても、全然わからない。


「さすがに覚えてないな」


「そうですよね。私たちが会ったのが、ちょうど一ヶ月前なんですよ」


「へぇ…そうか」


一ヶ月。それはそう長い時間ではない。だが、たったそれだけの時間で多くのことが変わることもありうる。


…それにしても、仁科はよくそんなのを覚えているな。記念日とかを大事にするタイプなのだろうか。


「まだ会って一ヶ月か。もっと経ってるような気がする」


「実は、私もです」


仁科はくすくすと笑った。


「もう、ずいぶん歌劇部で部活をしていたような気がしますけど、まだあまり時間は経っていないんですね」


「ま、忙しかったからな…」


「でも、楽しかったです」


「ああ」


俺は頷く。


目は回るほど忙しかった。だが、楽しかった。


「これから、きっと、もっと楽しくなる」


「はい、そうですね」


俺の言葉に、仁科はにこりと微笑んだ。



…。



持ち帰った料理に風子と杉坂はかなり微妙な顔をしたが(たしかにとても結婚式の披露宴で食べるものとも思えないが、これでも努力してかき集めたのだ)、と もかくまた飲み物を手に入れて壁にもたれて話をする。


と、見知らぬ二年の女子生徒が手を振ってこっちにやってきた。


「ニッシー! すーちゃんっ!」


「あ、こんにちは」


「どうしたの?」


「今クラスのみんな中庭の方にいるんだけど、こない?」


親しげな様子だった。どうやら、ふたりのクラスメートのようだった。


「さっきハラデちゃんにも会って、呼んだんだけど」


「そうなんだ」


「りえちゃん、どうする?」


仁科と杉坂は顔を見合わせる。


「行ってこいよ。せっかくなんだし。俺たちは、どうせしばらくここにいるぞ」


「先輩…」


「じゃあ、りえちゃん、クラスの方行く?」


「うん…。それじゃ、すみません、失礼しますね」


「はい。ありがとうございました」


風子がぺこりと頭を下げる。


「じゃあな。杉坂、ニッシー」


「あの、先輩…そのあだ名はですね…」


仁科は顔を赤らめて困った顔をした。


…仁科の性格にしては随分ファンキーなあだ名だが、あいつのクラスでの立ち位置はいったいどういう感じなんだろうか。


首をかしげる俺を余所に、ふたりはクラスメートに連れられて去っていく。


「ふたりとも、いい人です」


その姿を見送りながら、ぽつりと風子がつぶやく。


「ああ…」


すっと自然に風子を受け入れてくれた。


車椅子をこの校内に乗り入れている姿など見ることはこれまでなかった。それでも、特に意に介した風でもない。


俺の知り合いならば悪い奴ではないのだろう、というくらいの自然な態度だった。


「でも、そういえば、風子に話し掛けるときは敬語になってました」


「そりゃ、一応初対面みたいなもんだろ」


「あの、そうじゃなくて…多分、風子のワッペンのせいです」


「ワッペン?」


「これです」


風子が自分の薄い胸を指さす。


「ああ、校章ね…」


「…って、岡崎さん、どこ見ているんですかっ。エッチですっ!」


「おまえが指差したんだろうがっ」


大騒ぎになった。


ともかく。


「…で、校章が何?」


「この制服、風子が休学する前のを着てきたんです」


「ふぅん。病院で寝てる間に体格変わったりしなかったのか?」


「もちろん成長して、胸とか、もう、ぱつんぱつんです」


「…」


息するように嘘をつく奴だ。もっとも、バレバレだが。


…ま、最低限の栄養補給しかしていないだろうから、体が縮むことはあっても伸びることはないだろう。もともと小柄だったのだろうから、そのまま制服が流用 できたらしい。


「だから、ワッペンが青色なんです」


「ああ…」


やっと、合点がいく。


校章の色は持ち上がりだ。うちの学年は青色。


ちなみに二年が赤で、一年が緑だ。


そういえば、一週間前まで風子の校章は緑色だった。だから、全員が彼女を一年生として取り扱っていたのだ。だが今は、校章だけ見れば三年生。仁科や杉坂か らすれば、先輩として映ったのだろう。


…有紀寧は学年関わらずいつも通りの対応だったが。ま、あいつはそういうのにこだわらない奴だし…それにもともと風子との距離も近しかったから、それも影 響しているのかもしれない。


「たしかに、戸惑うかもな…」


「いえ、先輩風を吹かせられて最高です」


大歓迎だった!


「ま、なんでもいいけど…」


俺は肩をすくめて、それだけ言っておいた。






581


俺と風子の足元を、小さな影が通り過ぎていった。


「ぷひ〜〜〜っ」


「…」


というか、ボタンだった。


何かから逃げるような感じで、猛ダッシュ。俺や風子や、周囲の生徒も「何事?」という感じで呆然と見送ってしまう。


「どうかしたんでしょうか?」


「さあな…」


だが、ボタンがいるということは、杏もどこかにいそうな感じだ。


風子もそう思ったのだろう。促すように俺を見上げる。


「風子、ここにいますから。あの子の後を追ってあげてください」


「おまえひとりで、平気か?」


「はい」


風子としても、放っておくのは気が引けるらしい。


「じゃ、すぐに戻るよ」


そう言って、俺はボタンの後を追った。



…。



先々で、生徒たちにボタンの行き先を聞いて進んでいく。


「なあ、ウリボウが走っていくの見なかったか?」


「え?」


そう尋ねて、よくよく顔を見てみると相手はサッカー部の部長の男だった。


そいつも俺の顔を見て、わずかに顔をしかめる。


無視でもされるかな、などと思ったが…意に反して、中庭の方を指さす。


「藤林姉のペットだろ? さっき、あっちに行った」


「そうか。悪いな」


礼を言うと、相手は正露丸でも噛みしめたような顔になった。


俺に素直に礼を言われるのは苦痛らしい。


なんだか、そんな顔されるとからかいたくなってきた。


「ありがとぅっ!」


谷村新司ばりの男気溢れる礼をする。


サッカー部部長は胸を抑えて苦しそうな顔になった。


面白い。


「助かったぜっ」


「…いいからさっさと行けよっ!」


ツッコミを入れられた。


まあそうだな。


「じゃあな」


「ふん」


顔を背ける相手に苦笑して、中庭に入った。



…。



中庭にも、結構な数の生徒がいた。手に手に食べ物や飲み物を持って、ベンチや植込みの縁に腰掛けている。


ボタンは…いた。


人のいないあたり、灌木の陰のあたりに身を潜めていた。


「ボタン」


「…ぷひ?」


呼びかけると、ぷるぷる震わせていた体をこちらに向ける。俺の姿を見て、うかがうような様子だった。


ぱんぱん、と手を叩くとボタンがそっとこちらにやって来て、俺の足にすりすりと身を寄せた。


「ぷひー…」


今日の風子も頭を体に寄せてくるし、両者は本能レベルで似ているのだろうか?


そんな様子を、周囲の生徒たちは見ていたらしい。


「おおーっ」


「手を叩くだけで、イノシシを呼び寄せた…だと…」


「さすがアニマルマスターっす」


別に見世物ではないのだが、俺がボタンを使役しているようにでも見えているのだろうか。


わらわらと生徒たちが集まる。


「先輩は見事にそのイノシシを操るという噂を聞きましたが、本当だったんですね」


下級生の男子生徒に熱のこもった目で見られる。全然嬉しくなかった。


「わたしも聞いたことがあります」


「あの、なにか技とかないんですか?」


「いや、あのな…」


なぜか、大道芸人だと思われているらしい。


期待のこめられた視線にたじろぐ。


だが…。


「ぷひっ」


「ボタン…?」


ボタンが、足元から俺を見上げていた。


その眼差しは、俺を鼓舞しているようだった。


そう。


自分たちなら、できると。そう言っているかのような眼差しだった。


「…ああ、わかった」


俺はそっと、ボタンを持ち上げる。


「ボタン、『マッサージ』だ」


「ぷひっ」


ボタンの体がプルプルと震える。


「おおっ」


周囲の生徒が湧いた。


素直に賞賛されて、気分がいい。


俺はそっと、その体を肩に乗せた。振動が、とても心地いい。


「ボタン…まだいけるな?」


「ぷひっ」


俺とボタンは視線を合わせる。こんな技では、まだまだ足りない。ボタンのその目はそう語っていた。


今ならば。


今ならば、新しい技でも繰り出すことができそうな気がしていた。


「よし」


「ぷひっ」


俺たちは呼吸を合わせる。


そして、心も重ねる。


今こそできる、新技を…!


「ボタン…『サマーソルト』だ!」


「ぷひっ!」


俺の肩から飛び降りたボタンが、地面を強く蹴って空に飛び上がる。


身をひねり、ぐん、と縦に一回転。


それはまるで、もはやひとつの舞のようだった。


小さな体が地面に落ちる前に、俺はその体を抱き留めた。


その瞬間、湧き上がる大歓声。


「おおーーーーっ!」


「すげーーー!」


「まわったーーー!?」


「さすがアニマルマスター!」


やんやの大喝采。


だが、ひとつひとつそれに応えるのはスマートではない。


俺とボタンは舞台を終えた役者のように、声援を背中に聞きながら颯爽とその場を後にした。


つい乗せられて、技を見せてしまったな。


「…」


「…」


「岡崎くん…」


中庭の隅からそんな姿を呆然と眺めていた椋に出くわした。


俺は思わず赤面する。


「もしかして…見てたのか…?」


「はい…。すみません」


なぜか、椋まで赤くなった。


どうしよう。恥ずかしい。


「あ、あのっ、でも、すごかったですっ」


恥じ入る俺を見て、慌ててフォローしてくれた。


…とりあえず、もうこの話は続けないことにする。


「ええと、おまえも、来てたんだな」


「はい、お姉ちゃんと一緒に」


「そうか」


「ですけど、ボタンを追っていたらはぐれてしまって…」


椋も、ボタンの行方を追ってここまで辿り着いたのだろう。


というか、どうしてボタンが逃げ出したのだろうか?


なんとなく、椋が不用意に近付いたのが原因という気がするが…。


「?」


当の本人は、こっちを見て不思議そうに首をかしげて見せた。


深追いはしないでおこう。


「ま、杏もおまえのこと探してるだろうから、会えるだろ」


「はい…」


ボタンは目の前に椋がいるが、俺の胸に抱かれているからか、震えたりということはなかった。安心しているようだ。


「行くぞ」


「…はいっ」


俺が歩き出すと、椋はとてとてとその横に並んだ。






582


「ん? 藤林に、岡崎か」


「げっ」


「あ…乾先生。こんにちは」


担任に出くわした。


「岡崎、今、げって言わなかったか?」


「聞き間違いっす」


「どうだかな…。ん? なんだ、それは」


早速、俺が胸に抱くボタンを見咎める。さすがに動物を連れ込んでいると知れれば、面倒なことになるかもしれない。


俺は担任に背を向けて、そっとつぶやく。


「ボタン…『ぬいぐるみ』だ」


ボタンは空気が読めている。鳴き声で返事もせず、さっと体を硬直させた。


再び、担任に向き直る。


「ぬいぐるみっす」


「ほぉ…?」


担任は、疑わしそうにボタンに顔を近付ける。


ボタンはその身をじっと止めて、まばたきすらしていない。


緊張の一瞬。


「あわわ…」


椋は、はらはらしてその様子を眺めていた。


担任がボタンに手を伸ばす。


俺はさっと身を翻して、距離を取った。さすがに触られてしまうとバレるからな。


「どうした岡崎。なぜ逃げる」


「俺の大事なぬいぐるみなんで、すんません」


「おまえにそんな趣味があったなんて、初耳だな」


「そうっすか」


「あぁぁ…」


椋は心配そうに胸に手を当て、そわそわしていた。


こういう状況は苦手らしい。


というか、むしろ椋のその態度でバレそうだった。


いや、多分バレてはいるだろうが、状況証拠が揃わないならば逃げ切れるはずだ。


担任は俺とボタンと椋に視線をめぐらせて、やがて、呆れたように息をつく。


「まあ、せっかくのめでたい日だ。こんなことで小言は言わん」


「マジ?」


どうやら、見逃してくれるようだった。


ま、こっちとしてはバレたらバレたで、校内に入ってきたから外に出そうとしただけ、とでも言い訳すればなんとかなるだろうが。


「岡崎、おまえは伊吹先生の妹さんと知り合いなんだろう?」


「風子? そうだけど」


「さっきひとりでいるのを見たから、様子を見てあげなさい」


「ああ…わかったよ」


「あと、おかしな騒ぎを起こすなよ」


「はいはい…」


どうやら、全然信頼されていないようだった。


「あの、先生。わ、私が見張っていますから…」


おずおずとそう言う椋。


「藤林が? まあ、期待はしているが…」


「は、はい。あの、ヘンなことしたら、こら…って」


頑張って言う椋だったが、全然迫力がなかった。


それを見て、担任は低く笑う。


「岡崎。あまり藤林に迷惑はかけるなよ」


「だから、騒がないって」


「なら、いい」


それだけ言うと、また歩いて行ってしまう。


「…ふう」


「ぷひ…」


椋とボタンが、そろって息をついた。


「…やれやれ」


ともかく、後に残した風子のことが気がかりだ。


椋を促して、再び生徒たちが行き交う廊下を歩きだした。






583


元の場所に戻ると、風子はいた。


だが、さっき担任に言われたように、ひとりというわけではない。


彼女の傍らには三井がいた。


俺と椋を見つけると、三井はぺこりと一礼して去っていってしまう。


「待たせたな」


「いえ。…三井さんがお話をしてくれていましたから。二年振りでしたけど、三井さんの方から話し掛けてくれました」


「そうか。よかったな」


「…はいっ」


三井の性格からして、自分から話しかけるというのは勇気のいることだっただろう。だがそれでも、話し掛けてきてくれた。


風子は嬉しそうな様子だった。


「あの、岡崎くん。この子がさっき言っていた…」


「ああ」


来るまでの道中、椋に風子のことは話していた。


椋は俺と風子を見比べて、少し逡巡したが…意を決したように、風子を正面から見る。


「こんにちは、はじめまして。藤林椋です。趣味は占いです」


「こんにちは、はじめまして。伊吹風子です。趣味は彫刻です」


「こんにちは、はじめまして。一ノ瀬ことみです。趣味は読書です」


「…」


「…」


「…?」


ひとり増えていた!


一同の視線が、ことみに集まる。当の本人は、不思議そうに首をかしげた。


「みんな、どうしたの?」


「もっと自然に輪に入れよ、おまえは…」


息をつく。


ま、流れに乗ったという意味では自然だったかもしれないが。


「自然って、どういう風に?」


「一声かけるとか。よう、あんたも、きてたのかい? とかさ」


「…うん。わかったの。これから、そうしてみるの」


「ことみちゃんも、来ていたんですね」


「うん。結婚式のことを思い出して、お祝いしたいって思って」


「ありがとうございます」


風子がぺこりと頭を下げる。


「?」


「…今日の結婚式は、こいつのお姉さんの結婚式だったんだ」


ことみが風子を見て不思議そうな顔をしていたので、耳打ちする。


「あ、そうなんだ。ご結婚、おめでとうございます」


「はい、ありがとうございます」


…結婚したのはこいつの姉だが、まあとにかく。


ことみにも簡単に風子が俺の知り合いだと紹介しておく。


で。


「風子ちゃん」


「ことみさん」


ふたり、名前を呼びあった。互いに少し、頬を緩める。どうやら、わかり合えたようだった。


そこまで、ぎくしゃくしている感じはないな。椋もことみもどちらかというと人見知りするタイプだろうが、あまりそんな感じがないのは、わずかながらでも風 子と過ごした日々が残っているのかもしれない。


それから部活の話などを始めて、結構楽しそうな雰囲気になる。そんな姿に、やはり安心する。


「俺、ちょっと食べ物取ってくるよ」


食堂の方を見てみると、続々と料理が到着しているようだった。幸村など教師陣が手配した料理もあれば、不良共やオッサンなどの外部の人間が持ち込んだもの もあるし、もっと簡単に、袋菓子なども供給されているようだった。


もはや、とても披露宴という雰囲気ではないが、活気だけはすさまじい。


とはいえ、さっきよりは争奪戦はマシになっている様子だった。


「風子、こいつを頼む」


抱きかかえていたボタンを風子の膝の上に乗せる。


ボタンは抵抗もせず、静かにしていた。というか、眠そうだ。さっき大技をしてみせたからな、疲れたのだろう。


「はい、任されました」


「行ってくる」


女子たちに一声かけると、俺は食堂の奥の方に入っていく。



…。



「ちっ」


ぐっと横からの衝撃に、耐える。


タダ飯を前にした生徒たちの熱気はすさまじかった。


どうやら、みんな我先に食べ物に群がったのを見かねて、仕出しをしていた不良たちを中心にして配膳係みたいな連合ができているようだった。


というより、せっかく自分たちが持ってきた料理が、無慈悲に略奪されるのを防いでいるという感じか。


「おう、人が多いんだから、食える量を考えろよっ」


「あんまり選んでるなよっ。後ろがつかえているのも考えなっ」


「おいコラ、横入りするなよおまえ!」


「押さないでくださいねー。まだまだ、食べ物はありますよー」


…よく見たら有紀寧もいた。帰りが遅いと思っていたが、どうやらこんなことに巻き込まれているようだった。苦笑する。


普段の昼食時のように仕切りがあるわけでもないので、きちんと不良共に応対してもらう奴もいれば、横からかすめ取っていく奴もいて、阿鼻叫喚の地獄だっ た。秩序というものがない。ここは本当に進学校なのだろうか。


「おっ、なにあれ? また料理きたの?」


「おい、ピザがあるぜっ。ひゃっほぅ!」


「ポテチがさっきあったんだけどなぁ」


周囲の奴らは、呑気な強盗いうという風情で笑える。


「ちょっと、押さないでよ!」


「危ねぇな、ジュースがこぼれちまうだろっ」


「前に通してくださいっ。ごめんなさいっ! 家にはお腹を空かせた二匹の犬がっ!」


横から後ろから圧力がかかり、たまったものではない。


どうやら激戦区に迷い込んでしまったようだ。


俺は遮二無二生徒たちの隙間に手を突っ込む。


「何でもいいから、食い物をくれっ!」


叫ぶと、それに応えるようにその手に何かが触れる。俺はそれを掴むと、手を引っこ抜いた。


「…」


食パン一斤だった。


何でもいいとは言ったが…。


「もうちょっとマシなものをくれ!」


もう一度、生徒たちの間に手を突っ込む。


次に手に触れたのは…トレー!?


手を引っこ抜く。


結構な重量感がある。


俺は満足に掴んだものも見ずに人ごみから抜け出した。


「やれやれ…」


一息ついて、戦利品を眺める。


トレーには、パンの盛り合わせとなぜか大量のゼリーが乗せられていた。重さの原因はゼリーか。


パンは、古河パンからの持ち出しだろう。見てみた感じ、早苗さんのパンはなさそうなので安心だ。


「…」


いや待て!


俺は目を凝らす。


そして、目を疑った。


そこには、あるはずのないものがあった。


古河パンでは一度も見たことがないもの。この学食で何度か見たことがあるもの。


「…ッ!」


…竜太サンド…!


トレーの上には、古河パンの商品に交じって、しれっと竜太サンドの姿があった。


もしかして…。


俺は周囲を見渡す。


このパーティの混乱に乗じて、誰かが竜太サンドを混入させたのだろうか。


何のためなのかわからないところが恐ろしい。


あるいは、実はこれは古河パンからの横流し品なのかもしれない。


だが、俺は古河パンで竜太サンドを見たことなど、ない。


だが、だが。


…謎の食感。謎の味。


…竜太って、一体。


俺は食堂の中心で途方に暮れた。






584


さっきの場所に戻る。


風子、椋、ことみ。人数は変わらず。


結構人の流れは流動的だが、渚とかは別の場所に留まっているのかもしれない。


「待たせたな」


「岡崎さん、おかえりなさい」


俺の姿を見て、風子はほっとしたような表情になった。三人は和やかに話をしていたようだったが、俺が傍にいると安心感でも感じるのかもしれない。


「岡崎くん、ありがとうございます」


「パンとゼリーがいっぱいなの」


「ああ。混んでて、これだけしか手に入らなかったな」


「いえ、ありがとうございます」


言いながら、彼女らは俺が持ってきたトレーを覗き込む。


「…」


「…」


「…」


そして、竜太サンドを眺めて無言になった。


「ぷひ…!」


ボタンまでおぞましい気配に目を覚まし、震えあがっていた。


とはいえ、まずいわけではないのだが…。


「ぜ、ゼリーをいただきますね」


「とってもおいしそうなゼリーなの」


「風子、ちょうどゼリーが食べたいと思っていたところです」


ずるい女たちだった。


「ま、いいけど…」


俺もとりあえず、ゼリーを手に取った。







585


「岡崎っ」


不意に、名前を呼ばれた。


見てみると、智代が手を振ってこちらに近付いてくるところだった。


「よう」


軽く手を上げて応える。


「来ていたんだな」


「うん」


「よう、あんたも、きてたのかい?」


横から小粋な言葉をかける奴がいた。


「…」


「…」


というか、ことみだった。


「…あれ?」


黙ってしまった俺たちを見て、不思議そうに首をかしげる。


「なんだよ、その挨拶」


ツッコミを入れると、不満そうに頬を膨らませた。


「さっき、朋也くんがそうしろって言ったもん」


…そういえば、そうだった。


「岡崎、おまえはろくなことをしないな」


智代に呆れたように言われてしまった。


その後で、俺たちの顔をぐるっと見回して、笑う。その表情が、風子に留まって不思議そうなものに変わった。


智代からすれば、車椅子の見慣れない少女。


ひとまず、間に入って自己紹介。


…いいかげんこういうのも面倒になってきたが、仕方がない。風子の心情を慮れば、適当に流すというわけにもいかない。


「…そうか。今日の新婦の妹さんなのか。おめでとう」


「はい、ありがとうございます」


智代も、その手にはヒトデがあった。


プレゼントをもらうのは珍しくないだろうが、蔑ろにしたりせず、きちんと持っていてくれていたようだ。


「…あの、坂上さん。ひとつ、お願いがあるんですが」


「うん、どんなお願いだ」


「ヒトデを、胸に抱いてください。ぎゅって」


…なんでいきなりそんなお願いなのだろうか。


「それくらいなら、構わないが」


戸惑った風だったが、智代はヒトデを胸に抱く。いい奴だ。


…普段凛とした奴なだけに、乙女チックな仕草をしているとなんだか微笑ましくなった。


「この取り合わせ、最高ですっ!」


横で風子は喜んでいた。


こいつはなにをやっているんだか、と苦笑する。


「智代。おまえ、ひとりなのか?」


この学校に転校してきてふた月程度とはいえ、既に会長になっている通り顔も広いし人気もある。こんな混雑している中でひとりでぶらぶらしているというのが 意外だった。


「うん。さっきまで他の生徒会役員と一緒だったけれど、はぐれてしまった」


「うん。いっぱい人がいるから、たいへんなの」


ことみも俺たちと合流するまではあちこちを流浪していたようで、身につまされる表情だった。


「落ち合う場所は決めてあるから、大丈夫だ」


「そうか…ていうか、生徒会の仕事でもしてるのか?」


「うん。人が多いからな、見回りをするのも大変だ」


「…こんなイベントでも、色々活動しているんですね」


椋が感心したように言う。


「いや、そういうわけじゃないんだ。結婚式があることを思い出して学校に来たんだが、すごくたくさんの人が集まっていて驚いた。でも、それだけ人が集まる と予期しない騒動があるかもしれないからな。念のため、生徒会を招集したんだ」


緊急招集をかけて、対応に当たっているらしい。こんなことにまで精力的に働いてくれているとは。


「ぼ、ボランティアですか」


「それが生徒会の役目だ。せっかくのおめでたい日に、騒動が起こっても悪いだろう」


「坂上さん、カッコよすぎです」


「ありがとう、藤林さん。でも、あなたも創立者祭ではクラスを引っ張って活動していたと聞いている。あなたこそ、立派だ」


「い、いえ、そんな…」


褒め合いになっていた。


…まあ、たしかに受験生たちに別の夢を見せた藤林姉妹の功績は、智代とは別方向だが立派なものだろうが。


「智代、おまえもあんまり根を詰めるなよ。せっかくの結婚式だし、教師だって結構来てる。おまえだって楽しまないともったいないぞ」


「はい。ぜひ、坂上さんも楽しんでいってください」


俺と風子は一応当事者側の人間なので、ついそう言ってしまう。俺たちにとって、彼らは客なのだ。苦労を掛けたくはない。


「ありがとう。でも…楽しそうにしている姿を見ているだけでも、十分楽しいぞ」


智代はそう言うと周囲に視線を巡らせた。


たしかに、その感覚は理解できた。


たくさんの笑顔。それだけで疲れが取れるような気がする。


「ま、無理するな」


「うん。軽く見て回ったら、のんびりさせてもらう」


智代らしい返事だった。


ちゃんと、休んでくれればいいがと思う。まあ、もし後でまだ見回りをしている姿でも見たら、小突いてやろう。


…蹴り飛ばされる恐れもあるが。


颯爽と去っていく智代。俺たちはその後ろ姿を見送った。


あいつが生徒会長になって、まだ一週間とちょっとしか経っていない。なのに、既に会長職が板についているようだった。


智代の姿を見かけて声をかける生徒も何人もいるようだ。


今日は、結婚式。風子の夢は叶った。だが、智代の夢はこれから始まるのだ。


桜並木を守ること。


それが、どのくらい大変なのか、今の俺にはよくわかる。


だがそれでも、あいつならばやり遂げることができるだろう。


そう確信させてくれるような、後ろ姿だった。






586


俺が持ってきた食べ物も、あらかた食べ終わる。


…残ったのは、案の定竜太サンドのみだった。


「…」


「…」


一同無言になって、さあどうする、と目配せを交わした。


…なんだこの緊張感。


互いをチラチラと眺めて、すぐに顔をそらして、そして視線は…


「…ぷひ?」


風子の膝の上でのんびりとしていたボタンになんとなく集中した。


特に他意はない。


風子を囲むような形だったから、ただ視線が集まったというだけだ。


だが…。


「ぷ…ぷひ〜〜〜っ!!」


ボタンは逃げ出した!


ばっ! と車椅子にかける風子の膝を飛び降りて、行き交う生徒の足元を器用にすり抜けて逃げていった。


「しまった…」


害意もないのだが、勘違いされたようだった。


「岡崎さん」


「岡崎くん…」


「朋也くん、いじめっこなの」


だが、周囲の女子から非難される。どうやら、生贄に逃げられた、という意味での「しまった」だと思われたらしい。


普段から、俺、どう思われているのだろうかと心配になる。


「そういうつもりじゃない。というか、おまえらも同罪だ」


やれやれ…。


とりあえず、後を追うことにする。


「あ、私も行きましょうか」


椋がそう提案する。


「それ、逆効果だから」


「あぅ…」


椋はボタンに恐れられているので、ダメだ。


その話を横で聞いていたことみの表情がぱああぁっと輝いた。


「朋也くん朋也くん朋也くんっ」


くいくいと制服の裾をつまむ。


俺は苦笑した。あまり引っ張らないでほしい。


「わかった。行くぞ」


「うんっ」


風子と椋に手を振って、俺たちはボタンの後を追った。



…。



相変わらず、食堂内は混み合っている。ある程度は廊下や中庭に人が流れているとはいっても、やはりなんとなくここに留まっている姿は多い。


「わ、わ」


後ろを付いてくることみは、ボタンが逃げた食堂の奥の方に近付くに従い、戸惑っているようだ。普段は昼食は弁当持参だし、こういう混雑時の身の振り方がよ くわからないのだろう。というより、人が多すぎてそれだけで慌てているという感じ。


「ほら」


手を差し出す。


ことみはその手をじっと見て、俺の顔に視線を移す。


「ボタンの次に、今度はおまえが迷子になるぞ」


「…そんなこと、ないもん」


ちょっとふくれて言いながら、そっとことみは手を取った。


温かくも、柔らかい感触。


ぐっとその手を引く。


「あ…」


はじめ、ちょっと足をもたつかせて、だが、すぐにとてとてと付いてくる。


ひしめく生徒たちをかき分けて。足元を、ボタンを探しながら。


幸い、ボタンは行く先々で騒動を起こしているようで、なんとなくは居場所がわかる。


「うわ、何!?」


「下を見ろ!」


「猫だ!」


「モモンガだ!」


「いや、イノシシの子供だ!」


大騒ぎになっているようだった。


近付くにつれて、もっと人も多くなる。


ぐいっと人波にもまれて、ことみがぎゅっと俺の背中に体を押し付けた。


むにょん、と柔らかい感触…。


「あ、ご、ごめんね、朋也くん」


「ああ、いや」


むしろありがとうと言いたい。


ことみは恥ずかしそうに頬を染めて、さっと体を離した。


「近いな」


「うん…」


随分、ボタンがいるであろう騒動の中心に近付いている。


その時。


「ボタン!」


よく通る声が、聞こえた。


杏の声だ。そういえば、あいつもボタンを探していると言っていたな。騒ぎになっているのを聞きつけて、来たみたいだった。


「…ぷひっ」


互いに姿も見えないだろうに、一言ずつ言葉を交わしただけで意思疎通でもできたかのようだった。


「杏ちゃん」


「ああ。あいつの声、どっちから聞こえた?」


何分、ボタンの騒動がなくても騒がしいので、一声だけではどこから聞こえてきたかよくわからない。


「ええと、多分、こっち」


そっと俺を手を取って歩くことみの後に付いていく。


そうして、ちょっと歩き…


「あれ? あんたたちも、来てたんだ」


ボタンを胸に抱いた杏と顔を合わせた。


「よう。俺たちもボタンを探してたんだ。先に、椋に会ってさ」


「あ、そうなんだ。ありがとね、朋也」


「杏ちゃん、すごいの。名前を呼んだだけなのに」


杏の呼びかけに答えて、すぐさまボタンはそこに走った。たしかに、大したものかもしれない。


「そりゃ、あたしとボタン、仲良しだから」


「ぷひぷひっ」


当のコンビは、なんでもない風だったが。


「あんたたち、椋は?」


「ああ。向こうで待ってるから、おまえも来いよ」


「うん。よかった、あの子大丈夫かなって心配してたの」


「ま、この人出だからな…」


杏を仲間に加えて、歩き出す。


「ねえ朋也、あんた、花嫁の人の妹さんと知り合いなの?」


「ああ。おまえ、俺とあいつが一緒にいるのを見てたの?」


「見てないけど、目撃証言があったから」


先ほど外で風子が公子さんにプレゼントを渡した。その姿でも見ていた人の話でも聞いたのか。


「風子っていうんでしょ。あの子がこの結婚式を開こうって、頑張ったって」


そんなことまで話が広がっているのか。


いや、というか…。


「誰に聞いたんだ、それ?」


名前を知っているくらいならば、まあわかる。だが、あいつが望んでこの結婚式を開こうとしたという内情は、どこから話が広がるというのか。


つい聞いた俺の問いに、杏は困ったような顔をした。


「それは、噂よ。噂」


「噂って…」


「誰に聞いたんだっけ、それ…。えっと…」


考え込む。


「思い出せないのか?」


「うん。ああもう、気になってきちゃった。なんだかモヤモヤするから、あんたを殴って気分転換していい?」


「いいわけあるかっ」


恐ろしい女だった。


「そういえば、私もそう聞いたことがあるような気がするの」


「あ、ことみも?」


「うん。噂で、そう聞いたから」


噂…。


「…」


俺はやっと、腑に落ちる。


そうか。


やはり、あいつの記憶の残滓が残っているのだろう。


だが本来は、それは覚えているはずのない記憶だから、こうして曖昧に誰かから聞いた話として残っているのかもしれない。


そう思い至ると、俺はくつくつと笑った。


「ああ、そういや、俺もそんな噂を聞いた気がするな」


優しい思いが、噂になった。


ああこれならば、風子の足がちゃんと回復して、復学できるようになってあとも、あいつはきっと優しい気持ちに囲まれた学校生活を送っていくことができるは ずだ。


俺の緩んだ頬を、杏もことみも不思議そうに見ていたが、何か言うということはなかった。


人ごみをかき分けて、俺たちは部員の待つ場所に戻っていく。







587


先ほどの場所に戻ってきて、合流する。


逃げ出したボタンを再び風子の上に乗せると、安心したように丸くなって眠り始める。


杏と風子の顔合わせは、つつがなく済んだ。


ふたりの自己紹介を横目に見つつ、諸悪の根源を確認してみると…ない。


竜太サンドはトレーから消えてなくなっていた。


「…おい、あれはどうしたんだ?」


「あ、あれは…」


聞いてみると、椋が困った顔をした。


「まさか、食ったのか?」


「椋ちゃん、すごいの」


「い、いえ、そういうわけじゃないんです」


「それじゃ、捨てたのか?」


「椋ちゃん、ひどいの」


俺の横で、ころころ意見を変えることみだった。


「あの、そういうわけでもなくて…通りすがりの人が、大好物だと貰っていってくれました」


「マジで?」


どうやら、熱烈な愛好家がいるようだった。


「何の話?」


杏が首を突っ込む。


「ああ、実は…」


俺が食堂から食料をもらってきた時、なぜか古河パンのパンに混じって竜太サンドが混入していたことを説明する。


「…というわけだ」


「それじゃ、なに」


説明を聞いて、杏は呆れた顔をする。


「誰かがどさくさに紛れてそれを置いたってこと?」


「あるいは、竜太サンドが実は早苗さんのパンって可能性もなくはない」


「早苗さんって、渚のお母さんの?」


「ああ」


その推論を進めてみると、すぐさま、なぜ竜太サンドだけ学食に卸されているのかという疑問にぶつかってしまうが。


「…」


「…」


俺たちは、そろって腕を組んで考え込んでしまった。



…。



「飲み物でも、持ってくるよ」


少し話しているうちに、また飲み物がなくなる。


「あたしも行っていい?」


「別に、トレー使うからひとりでいい」


「あんた、途中でこぼしそうだし」


「それだけドジだと思われてるんだよ」


まあ、混雑しているからその危険はあるかもしれないから、ありがたい申し出ではあった。


「ま、いいけど」


「うん、ありがと」


「それじゃ、行ってくる」


さっさと話はまとまった。


「朋也くん、がんばってね」


「はい、気を付けてください。岡崎くんも、お姉ちゃんも」


「あの、早く帰ってきてください」


見送られて、旅に出る。


…距離にして数十メートルというくらいの旅路だが。


杏とふたり、肩を並べて歩いていく。


「悪いな、付き合わせて」


「別にいいわよ。聞きたいこともあったし」


「…聞きたいこと?」


問い返すと、杏は溌剌とした笑顔を返した。


「あの風子って子、どんな関係なの?」


「…」


どうやら俺は、問い詰められているらしい。


ため息でもつきたくなるが、そういうわけにもいかない。


「ちょっとした、知り合いだよ」


ぼかしてかわす。


「どんな関係なの?」


「…」


どうやら、逃げることはできないようだった。


だが正直、うまく言えない。言い訳を考えていたわけでもないし、いい理由が浮かんでもこない。


「妹みたいなものだ」


「あんたの妹があんなに可愛いわけがないでしょ」


「みたいなもんだって」


…というか、ひどいことを言う奴だ。


杏は疑わしげにちらちらと俺を見たが、やがてため息をついてそれきり黙る。納得したというわけでもないが、見逃してくれるようだった。正直、助かる。


なにせ風子は、この学校には入学式の日にしか通っていないのだ。俺とはクラスだって別だったし、接点はない。


いざという時のために、入学式の日に出会って意気投合した、とでも口裏を合わせておいた方がいいのかもしれない。


「…ふわ」


そんなことを考えながら歩いていると、気が抜けたからか欠伸が漏れた。よくよく考えてみれば、夜は校門でヒトデ探しをしていてあまり寝ていない。今日も ずっと気が張っていて、疲れが出たのかもしれない。


「あんた、女の子と歩いてて欠伸するって、どんだけ失礼なのよっ」


「眠いんだよ。あんま、寝てないからさ」


「陽平の部屋行かなくなって、生活習慣はマトモになったんじゃないの?」


「昨日はたまたま。休みの前だからさ」


話しながら歩いていると…


「よう、小僧。また会ったな」


「…」


オッサンが現れた。


さっき会った時はスーツ姿だったが、今はその上に見慣れたエプロンをつけていた。無茶苦茶違和感がある取り合わせだった。もう少しなんとかならなかったの だろうか。


「岡崎さん、こんにちは」


「あ、こんにちはです」


早苗さんと渚も一緒のようだ。


全員、その手にはトレーを持っていた。どうやら、パンの補充中のようだ。


渚も見かけないと思っていたら、両親の手伝いをしていたらしい。


「よう、渚」


「あんたも大変ね、手伝いなんて」


「いえ、伊吹先生のお祝いですから、全然大変じゃないです」


にこにこ笑って言う渚。苦労を苦労とも思わない、というのは美徳だろう。


「小僧、ずいぶん眠そうだなぁ、おい」


「ま、ちょっとは…」


「なら、いいものがあるぜ」


オッサンは手に持っているトレーから、怪しい雰囲気を醸し出しているパンを掴んで見せた。


「これだ」


…それは、七色のパンだった。


危険な香りがする。これは明らかに早苗さんパンだ。それも、かなりやばいやつ。


「はい、自信作なんですよっ」


横で、早苗さんが楽しそうに笑っている。


「名付けて、レインボーブレッドですっ」


「おうっ。小僧、おまえに…レインボー」


「…」


押し付けてくる…。


最悪だ…。


「なんで、そんなのをおすすめされているんだよ、俺は…」


顔を背けて、精一杯拒絶する。


「そりゃ、てめぇが眠そうだったからなっ」


オッサンが笑う。


「これを食ったら一気に目が覚めるぜっ。なんせ、早苗のパンは刺激物だからなっ」


「…」


それを横で聞いていた早苗さんの目が、みるみる潤んでいった。俺は慌てて、早苗さんの手からトレーをもらう。


「わたしのパンは…わたしのパンはっ…」


「げ、しまったっ」


「眠気を覚ますためのものだったんですねーーーーっ!!」


だっ! と走り去っていった。


「早苗っ! …く、くそ」


オッサンは手に持ったトレー山盛りのレインボーブレッドを口に突っ込む!


「俺は大好きだーーーっ!」


そう叫ぶと、早苗さんの後を追っていった。


「…」


「…」


「…」


残された俺たち三人は、そんなやり取りをぼおお〜っと眺めていた。


アホだ…。


「はぁ…」


渚まで、ため息をついていた。


「元気ねぇ…」


杏は呆れた顔でその背中を見送る。


「で、これ、どうするんだ?」


泣く、と思って咄嗟に早苗さんから奪ったトレー。その上にはレインボーブレッドが乗っていた。よくよく見てみると、パンなのに心なしか輝いているような気 がする。目の錯覚だろうか。


「お母さんの、新作です」


「へぇ…」


渚はこのパンの醸し出すおぞましい気配に気付いているなようだった。長年、早苗さんのパンに囲まれて育ったせいで感性が鈍っているのだろう。にこにこ笑っ ている。


「あと、これがお母さんのお友達が作ってくれたものです」


腕に下げていたランチバッグから、オレンジ色のジャムを取り出す。


「…」


何故か、そのジャムから溢れる妖気を感じた。


「究極のジャムだそうです。お母さんのパンにつけて食べれば、最強コラボの完成です」


「ああ…確かに最強かもな…」


なんというか、ダメージ的に。


謎のジャムの登場に、改めて戦々恐々とする俺。つい、一歩下がってしまった。


というか、これは早苗さんの新作ご賞味、という流れなのだろうか。まだ死にたくないんだけど。


「悪いな渚、さっき結構いろいろ食って、ちょっとパンは重いかもしれない」


「うん。お腹空かせてる人にあげましょ」


俺と杏は、びっくりするほど、阿吽の呼吸。


杏の方も、危機を感じているのは同様のようだった。そっと杏の横顔を見てみると、見たことないくらい真剣な顔だった。そんな切羽詰まった顔をしていると、 嘘がバレるぞ。


もっとも、俺の顔だって強張っているだろうが…。


「そうなんですか。なら、仕方ないです」


残念そうな渚。


…どうやら、騙されてくれたようだった。


「ほら、渚、あんたもそのパンそこにでも置いてさ、一緒に来なさいよ。みんないるから」


「あ、はい。わかりました」


半ば無理矢理に、渚を連れ出す。


少し名残惜しげな様子だったが、手に持ったトレーを手近な机に置いて、俺と杏に付いて歩き出す。


食べ物を置いておけば、あとは勝手に周囲の人間が手に取るだろう。


連れ立ってその場を離れる際、俺はふと振り返り、置き去りにされたレインボーブレッドを見返した。ご丁寧に謎のジャムも添えられたそれに、何人かの生徒が 興味深そうに群がっているのが見えた。


俺は彼らに対して静かに瞑目して、もう、振り返らなかった。






588


「…あれ?」


ジュースを用意して戻る道すがら、テーブルの上に置かれた奇妙なものが目に留まる。


パーティ会場という雰囲気には沿ったものだが、そんなものがここにあるとは思わなかった。


つい、近づいてそれを手にとってしまう。


それは、三角帽子だった。


大したものでもない。紙製の簡単なものだ。銀紙がぎらぎらと照明の光を弾いている。大方、誰かがクラッカー欲しさにこういうパーティセットを買い求め、そ のまま置いていったものなのだろう。


高校生にもなって手に取るようなものでもない。


だが…。


「岡崎さん、どうかしましたか?」


「なにそれ?」


後を付いてきた渚と杏が、俺の手に取る三角帽子を見て目を丸くした。


「拾った」


「あんた、もしかしてかぶりたいの?」


「かぶってほしいのか?」


「そうしたら、思いっきり笑ってあげる」


「…」


ひどい言い草だ。


「いえ、きっと、とても似合うと思いますっ」


「…」


そういうフォローをされても、別に嬉しくもないけどな…。


「ま、俺には似合わないけど」


…けど。


こういうものを、心から喜ぶ奴だっている。


俺は三角帽子を手にとった。


「行こうぜ」


そう言うと、さっさと歩き出す。


どう見ても使いようもないようなものを後生大事に手に取って歩き出す俺を見て、ふたりはぽかんとして、慌てて後に付いてきた。


疑問に思うのも仕方がないかもしれないだろう。


だが俺にとっては、思わぬめぐり合わせだった。


いつか、別の世界で。


俺はあいつに、三角帽子をプレゼントしたことがあった。


あいつは、わがままなようで遠慮しがちな性格だ。人からものを貰うというのに抵抗を感じるタイプだ。たとえそれが、こんな安っぽいものでも。


でも、そんな奴だからこそ、何かプレゼントしたくなるのかもしれない。


…もっとも。


拾い物を渡すのがプレゼントと言えるかはわからないけど。



…。



風子たちのところに戻ってくると、いつの間にか合流したのか春原がいた。合唱部の三人も、クラスの連中の方に行っていたはずだが、戻ってきたらしい。有紀 寧も仕事を終えたらしい。智代も一緒だった。


「あ…」


結構な大所帯となっているのを見て、渚は嬉しそうに微笑む。


向こうも、俺たちに気付いたようで笑顔を向けた。


「みんな、います」


親しい仲間が揃っているのを見て、つぶやく。小さな声、短い言葉。だがそこには、万感の思いが込められていた。


待っている人がいる、というのはなかなか幸福なことだろう。


俺たちも応えながら、傍に寄る。


「待たせたな」


「あ、岡崎さん、それ…」


風子が、俺の手に持つ三角帽子を見てぽつりとつぶやく。


「ああ、おみやげだ」


「拾いものでしょ」


「ばらすなよ」


杏と言い合いをしながら、風子の頭にそれをのせてやる。


「ほら、どうだ」


「先輩、ちょっとそれは子供っぽ過ぎやしませんか」


杉坂が呆れたように言う。


「ほら、伊吹先輩、怒ってぷるぷる震えてますよ」


そう言う通り、風子は俯いてかすかに肩を揺らせていた。


たしかに怒っているように見えるかもしれない。


だが…。


「んーっ!」


顔を上げた風子は、感極まった表情だった。


「最高ですっ!」


ビシッ! と親指を立てた。


「えええ! 喜んだ!?」


「お祝いごとだから、こういうのもあっていいだろ」


驚愕する杉坂を無視して風子にそう言ってやると、満面の笑みが返ってきた。


「はい、とてもいいと思いますっ。もう…血沸き肉躍るお祭りの始まりですっ!」


こいつは何を始めようとしているのだろうか。


ま、喜んでくれているみたいだからよかった。


「あの…」


そんな風子に、渚がおずおずと声をかける。


そういえば、渚は風子とは今日は初めて会う。


「色々、噂を聞いています。わたし、古河渚といいます。伊吹先生の妹さんですよね」


「はい。風子です」


「なんだか、初めて会ったような気がしないです。伊吹先生に妹さんがいるって、前から知っていたからかもしれないです」


「風子も、初めて会ったような気がしません」


風子も、そう言うくらいが精いっぱいだろう。こないだまで一緒に部室で活動していたとは言えない。


だがその言葉は、渚を安心させたようだった。表情が緩む。


「なあ。こいつが復学したら、うちの部活にいれようぜ。期待の新人だ」


ぽん、とその頭に手を置いて言う。


風子は、以前一緒に行動していた頃も、部員として籍をおいていたわけではない。事情が事情だったから、部員に入れるはずもなかった。


だがやっと、俺と渚が始めて広がった輪に、彼女も正式に入れれる時が来た。


その言葉に、渚はこくこくと頷いた。


「はい。もちろん、大歓迎ですっ」


秋にはまた何かやろうなどと考えている俺たちだ。人手は多いに越したことはない。こいつならば、彫刻の腕も上がったし、小道具とか作るとかできそうだ。そ れに、正直、いてくれるだけだって構わない。


輪が広がって、世界が広がる。


他の連中も口々に賛同した。それを受けて、風子ははにかんでいる。


「あの、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」


ことばを交し合う、その姿。


それは、とても幸せな光景に見えた。





589


ハウリング音に顔を上げる。


俺たちは会話を止めて、その音がした方…食堂の奥を見やる。


相変わらず、そちらは人が多くいて見通すことはできない。だが、集まった生徒たちの視線が最奥…新郎新婦がいる場所に集まっているのがわかる。


徐々に周囲の喧騒が収まっていく。ここに料理が来てから、無目的に騒いでいるだけだったが…どうやら、何かが始まるようだった。


先ほど結婚式の時に司会をしていた男性の声で、新郎新婦の退場が告げられた。


ふと壁にかかっている時計を見てみると、もうそろそろ夕方だ。いつの間にか、結構時間が経っていたらしい。


『最後に、新婦よりお集まりいただきました皆様に、ご挨拶をさせていただきます』


司会の声。電源も切らずにマイクを受け渡しているようで、ごそごそと音がして…やがて、公子さんの声。


『みなさん、今日はお祝いに来てくださって、ありがとうございます』


それは、優しい、語り掛けるような声だった。


公子さんが教師としてこの学校に勤めていた頃は、こんな声音で生徒たちに言葉をかけていたのだろう。


『私は、三年前までこの学校で美術教師をしていました。だから、ここにいるほとんどの方は、私のことは知らないと思います』


『それなのに、こうして…こんなにたくさんの方が来てくれて、本当にうれしいです』


『急なことだったので、みなさんにきちんと食べ物や飲み物が届いたか、少し心配です』


『そうとわかっていたなら先週みたいにグラウンドに出店を並べたんですけれど』


冗談めかしてそう言って、生徒たちは笑った。


『私は、創立者祭の日に、久しぶりにこの学校に来ました』


『みんなも同じだと思うけれど、校門までの坂道が長くて、ああ辛いなって思ったんだけど…それ以上に、すごく、懐かしかったです』


『でも、私は、昔からこの坂道を上るのが嫌いではありませんでした』


『私は、この学校が好きです。先生のみなさんも、生徒のみんなも』


『だから、坂道を上るのは辛くても、その後の楽しいことを考えると、それは嫌ではありませんでした』


『みんなは、この学校が好きですか?』


『普段、どんな気持ちで坂道を上っていますか?』


『あるいは、今日は、どうだった?』


『楽しい気持ちで坂道を登ってきたなら、私はとてもうれしいです』


『このパーティに参加してくれて、帰りに坂を下っていく時に、来た時よりも楽しい気持ちなら、もっとうれしいです』


…俺は、これまでどんな気持ちであの坂を上ってきたかと思い返す。


生徒たちも、静かに公子さんの話に耳をすませていた。


『今日、みんながどうしてこの結婚式を知ったのか、私はよく知りません』


『ですけど、それは、誰かの優しい気持ちのおかげでこうしてみんなとこうしてお話できているんだと思います』


『願った誰かも優しいですけど、叶えたみんなも、とても優しいと思います』


『その優しさを、大切にしてください』


『みんなにお祝いしてもらって、私はとても幸せです』


『今日は、本当に、ありがとうございました』


挨拶が終わって、食堂は地鳴りのような拍手で揺れた。


おめでとう、と叫んでいる奴だってたくさんいる。


親しい仲間に囲まれて、俺も、手が痛くなるのも構わず盛大な拍手を送った。


新郎新婦退場。


生徒たちが体をずらして通路を開ける。


その間を縫って、夫婦となったふたりが歩いてくる。周りから、祝福の言葉をかけられながら。


そんな姿を、俺たちは部員と一緒に見送った。


公子さんは、俺と風子が肩を並べて部員に囲まれているのを見ると、にっこりと笑った。


人見知りで、いつもひとりで遊んでいるような子供だった風子…。


そんな少女が、いつの間にか、こんなたくさんの人に囲まれて自分の結婚を祝ってくれている。


この姿を見せるのが、もしかしたら、一番のプレゼントなのかもしれない。


笑顔を交し合う姉妹を見ていて、俺は、そんなことを思った。






590


夕暮れの風が優しい。


周囲には、もう、他の生徒の姿は少ない。


なにせ、さっきまで食堂の掃除を手伝っていたからな。俺は当事者側の人間だろうからそれを手伝うのには抵抗もないが、歌劇部の部員たちが快く手伝ってくれ たので、助かった。智代も、生徒会長として、友人として、一緒に片付けをしてくれた。


いや、それだけではない。


知っている生徒、知らない生徒…多くの奴らが、食堂の後始末をしていた。教師も大勢いたが、指示されての行動というわけでもなかった。


別に、全校生徒が普段から品行方正だとは思っていない。


だが、ただ…。


彼らも、新郎新婦に何か恩返しがしたかったのではないのかと思う。そう思わせるような力が、今日のこの場には、公子さんの言葉には込められていた。


そうして撤収も完了し、生徒たちはまた明日からの生活に戻っていった。俺たちは、そんな姿を、なにか大切なものでも見るかのように、じっと見送っていた。


やがて結婚式に参加していた親族の多くも帰途につき、あれほど盛り上がっていた学校は急にひっそりとしてしまった。


風子の両親と少し話をして、そのまま風子は俺たちと一緒に帰ることになった。


その頃になると、風子はもう部員たちとも随分なじんだ様子だった。


俺たちは、学校を後にする。長い坂道をゆっくりと下っていた。


「伊吹先生の最後のスピーチ、とても、感動しました」


隣を歩く、渚がつぶやく。


「ああ、そうだな」


「はい。さすがおねぇちゃんです」


渚の言葉に俺も風子もうなずく。顔を上げて、伸びる影を見送った。坂の向こうに、見慣れた町並みが見えた。夕方、家々に灯った明かりが、かけがえのないも のに感じる。


部員も多いので、集団はゆるく縦長の列に伸びている。


先頭に、ことみ、椋、春原。ヴァイオリンの練習に付き合わされていたおかげか、この三人組というのもなんだかしっくり感じるな。


続いて、智代と杏。春原辺りは、最強&最凶コンビとでも呼びそうだ。互いに、ぶつかり合うかもしれないよいう性格だが、もうずいぶん親しんでいる様子だっ た。


次に有紀寧、仁科、杉坂、原田。二年生組が仲良さそうに話をしているのを見ていると、ずいぶんと心が和む。


そして一番後ろを、俺と渚と、車椅子の風子。


芳野さんと公子さんは、これから互いの両親と夕飯を食べに行くらしい。風子がひとりになってしまうからと公子さんなど心配していたらしいが、風子はもとよ り俺にくっ付いて来る算段のようだった。結局、家族が帰ってくる夜まで、どこかに遊びに行くことにする。


おかげで風子の母親にはまたよろしく頼むなどと平身低頭された上、父親の方からはこの子をよろしく頼むなどと半ば託されるような言葉をもらってしまった。


ま、病後だから軽く食事をして帰るというところだが…その話が部員に伝わり、結局全員で行くこととなった。


「あのお話を聞いて、ずっと、そのことが頭の中に残っているんです」


渚の瞳が、不安そうに揺れていた。


「わたし、楽しい気持ちで坂を上ることができているでしょうか」


「できてるさ」


ぽつりとつぶやく渚の言葉。すぐさま俺は、それを肯定した。


…あの始まりの日。


坂道の下で、逡巡していた後姿。


未来への一歩が、踏み出せない姿。


俺の脳裏に、刻まれている光景だ。


だが、その坂の上には楽しいことがたくさん待っていた。


そして、そこで、いくつも大事なものを見つけることができた。


そんな気持ちを胸に抱き、俺たちは今、満ち足りた気持ちで坂道を下っている。


「渚、おまえは、大事なものを見つけられただろ?」


「…はい」


渚は、こくりと頷く。


「長い間休学していて…ぜんぶ、変わらずにはいられなくて、学校が好きになれるかわからなかったですけど…わたし、見つけました」


だがすぐに、ふるふると頭を振る。


「いえ、最初は、探そうともしていなかったかもしれません。もし何も見つからなかったらって、怖くって。でも、岡崎さんのおかげでがんばれました」


「俺は、何もしてないよ。おまえががんばったんだ」


「…ありがとうございます」


渚は、嬉しそうに笑った。


未来がわからなくなったけれど、勇気をもって一歩を踏み出した。そして、その先には楽しいことがたくさん待っていた。


そんな渚の気持ちは、それはそのまま俺の気持ちでもある。


そして。


…それは、風子の気持ちでもあってほしかった。


風子は、穏やかな表情で俺たちの会話を聞いていた。


渚はそんな横顔に軽く微笑むと、車椅子の縁に手を置いてそっと風子に話し掛ける。


「ふぅちゃんも、長い間休学していて、これから、不安がいっぱいかもしれませんね」


「それは、そうかもしれないです。きっと、風子、一年生からですから」


休学明けて、二年のビハインド。渚と状況は近い。


だからこそ、渚はずいぶんそのことに心を砕いている様子だった。


「大丈夫です」


ぐ、と拳を握る。


「わたしや、岡崎さんや、部員のみなさんが付いていますから。だから、楽しいことは、これから始まりますよ」


その言葉は、力強かった。


「…はいっ」


頷く風子の表情には、希望があった。


全てはこれから始まっていくという、確信があった。


風子のことは、俺以外誰も覚えていない。


風子は世界に忘れ去られた。


だが、全てを失ったわけではない。


全部、変わらずにはいられなくても、それでも残るものはある。そして、新たに求めるべき大事なものだって、あるはずなのだ。


渚と風子の笑顔を見ていて、俺自身も鼓舞されているような気分になった。


空を見上げてみると、そこには光。


一番星が、輝き始めていた。


俺たちは、ゆっくりと坂道を下っていった。


楽しいことは、これから始まるのだ。


そう思いながら。


住み慣れた、俺たちの町へ向かって。


たくさんの人に囲まれて…歩き出した。




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