folks‐lore 05/17



555


土曜日の授業は昼までだ。


普段よりは授業を聞かなければならな時間は短いと言っても、やはり結構疲れた。テスト前ということもあって、緊張感があるからかもしれない。


教師が出ていき、生徒たちにはすぐさま帰る奴もいたり、昼食を広げ始める奴もいる。これから塾に行ったり、校内で自習するのだろう。


俺はそんな様子を見回しながら、伸びをして息をついた。


さて、親父との約束もあるし、さっさと行くか。


そう思い、手早く教科書類を鞄に詰める。


「岡崎くん」


ぱたぱたと椋が傍らにやってきた。


「今日は…勉強、しますか?」


「ああ…。悪い、用事があるんだ」


たしかにテスト直前ではあるが、墓参りに行く約束がある。


「…」


そんな俺の返事に、椋は黙ってこっちを見つめた。


なんだか、咎めるような眼差しだった。


「なんだよ」


「あの、岡崎くん、勉強するつもりありますか?」


「そりゃ、多少は」


「このままじゃ、赤点です」


どうやら、面倒を見てやらないと赤点→追試→留年というようなコンボに陥るというくらいのアホだと思われているらしい。


だが、心配されているだけマシだな。横で寝ている春原なんて、椋に一瞥すらされていない(きっと、見捨てられているのだろう)。


「ま、そうかもしれないけどさ…これから、墓参りなんだ」


「墓参り…?」


椋は不思議そうに俺を見た。


こいつは俺に母親がいないのを知らないようだ。杏が知っているのだからその伝手で知っているかとも思っていたが、どうやら杏は意外に口が堅いようだった。


「うち、母親いないから」


「あ…」


それを聞いて、一気に表情が暗くなった。


どうやら、聞いてはいけないことを聞いてしまったとでも思ったようだ。俺としては、物心がついた時から母親はいなかったのだし、そこまで気にしているというわけではないのだが。


「す、すみません」


「別にいい。こっちこそ、悪いな」


いきなりこんな話をされて、面食らうのは当然だろう。


「いえ、そんなことは…」


慌てて手を振る椋。


俺は鞄を手に取ると、その傍らを通り過ぎる。


「じゃ、行くから」


「はい。…あの、もしよければ、明日会えませんか?」


「え?」


俺は振り返る。


「あ、いえ、そのっ、せっかくの休みの日ですから勉強する時間があると思いますからっ」


すごい早口で言った。デートの誘いっぽいセリフを言ってしまって、慌てているようだった。


俺は苦笑する。


「明日は、用事があるんだ」


「なんだか、忙しいんですね」


「明日用事があるのは、おまえも同じだぞ」


「え…?」


椋は不思議そうに俺を見た。


「私は特に、予定はないんですけど…」


「ああ、そりゃ、明日になればわかるから」


明日は、結婚式がある。


きっとこいつならば、お祝いに来てくれるだろう。


椋はなにか聞きたそうな顔をしていたが、俺はそれには取り合わず、ひらひらと手を振って教室を出た。






556


待ち合わせ場所は、墓地へと向かう途中の小さな公園だ。


俺がたどり着いた時、親父は既に待っていた。


ベンチに座って、ぼんやりと空を見上げていた。まるで何かを探しているかのような表情だった。


今日は好天だ。


日差しを浴びて、俺の額にはじっとりと汗が浮かんだ。


近付くと、親父は目を細めて俺の方を見る。


日陰になっているベンチの傍まで来ると、むしろ風が心地いい。


「悪い、親父。待たせたか」


「いや、いいよ。少し、昔のことを思い出していたんだ」


「へぇ…」


俺は親父は眺めていた視線の先を追う。


小さな公園。


何組か、家族連れの姿が見える。


それを見て、かつて母親が生きていた頃、家族で遊びに出かけた頃のことでも思い出していたのかもしれない。


その表情は、穏やかだった。


過去。今となっては、動かすこともできないもの。


ひとりでそれを抱えていくのは、時にはひどく苦しい。俺はそのことを知っている。


「行こうぜ」


「ああ、そうだね…よっこらしょ」


横に置いていたビニール袋を手に取る。掃除するための簡単な道具や、花が入っているようだった。


「それ、持つよ」


「ああ、すまないね」


いくつかあった袋の一つをもらう。大して重くもない。


「その、水が入ってるやつ、もらうけど」


「いや、これくらいなら平気だよ。おまえは鞄もあるから」


「ま、ならいいけど」


俺と親父は肩を並べて、歩き出す。


「暑いね」


「ああ。もう夏みたいな天気だな」


「そうだね…」


「親父、もう昼飯食った?」


「いや…」


「俺もまだだから、先に何か食っていかないか」


「ああ、そうだね」


大した会話をするわけでもない。


だが、何物にも替えがたい。


ふたつの足音を心地よく聞きながら、俺たちは昼下がりの町を歩いていった。



…。



墓地に足を踏み入れる。


天気は相変わらず、やたらといい。墓地の中には日陰もないから、この空の下で掃除するとなると一身に日差しを浴びることになる。それを想像して、げんなりとした。


周囲にはほとんど、人の姿はない。あたりはひっそりと静まっていた。


俺と親父は無言で目的の区画を目指す。足音が、石畳の舗装の上に響いた。


母親の墓の前に立つ。


先日掃除を一度しているからか、そこまですぐに汚れているということはない。だが、この季節だからそれでも雑草は生えてきているし、当然少しは墓石もくすむ。今日はきちんと道具を揃えて来ているのだから、一度きちんと掃除をするのもいいだろう。


俺と親父は墓石の前に肩を並べると、どちらともなく手を合わせた。


「…それじゃ、掃除をしようか」


「ああ」


手分けして、掃除を始める。


雑草をとって、ビニールのごみ袋に入れる。ペットボトルに入れた水を墓石にかけて、たわしで磨く。しおれた花を新しいものに入れ替える。


大した労働というつもりもないが、そんなことをしているとすぐに汗が噴き出した。なにせこの陽気だ。春なのに、もう夏の兆しを感じる。


俺はブレザーを脱いで地面に置いて、また作業を再開する。


「朋也」


親父が声をかけて、ビニール袋からタオルを出してくれる。墓でも磨くものかと思っていたが、単に汗拭き用のものだったようだ(うちにあるのは半分雑巾みたいなタオルくらいなものなので、勝手にそう思っただけだが)。


「ああ、悪い」


ありがたく受け取り、首に引っ掛ける。それで暑さが和らぐなどということはないが、少しは不快感は減った。


親父もタオルをひっかけて汗をかきながらも黙々と手を動かしている。墓石の銘が彫られた細かい場所を磨いている。この辺りは、先日の掃除でもさすがに手をつけなかった場所だ。今日は、いい機会だろう。


そうしているうちに、俺の方は草むしりが終わってしまう。もともと結構きれいだったから、当然だろう。


「飲み物でも買ってくるよ」


暑いし、さすがに喉も乾いた。


「ありがとう」


声をかけて、墓地を出たところにあった自販機に向かう。


途中一度振り返ってみると、親父は遠目にも一心に掃除を続けていた。


そんな姿に、俺はなんだか胸が詰まった。


俺はあんなにも心を尽くして渚の墓を掃除したことなんてなかったな。俺はいつも、自分のことばかりだった。


何かに、あるいは誰かに尽くしてみるということを、俺はずっと知らずに生きてきていたのだ。


だが、今の俺は、それがどういうものかわかったような気がする。この親父の姿を見ていると、それがわかるような気がした。


飲み物を買って墓前に戻ると、親父の方の掃除も完了しているようだった。


それぞれ一口二口ペットボトルに口をつける。


広い墓などではないのだから、大して時間がかかるはずもない。きちんときれいにしたと言っても、作業時間はそう長いものでもない。


だがそれだけで、見違えるとまでは言わないまでもきちんと岡崎家の墓はきれいになっていた。


親父はうまそうにお茶を飲みながら満足そうに墓前を見やる。


「掃除をすると、違うね」


「たまには掃除もしないとな」


「ああ、そうだね」


「きっと、母さんも喜んでくれてるよ」


「だといいけど…おれたちがふたりでここに来るのが遅すぎるって、怒られるかもしれない」


「そんな性格だったのか?」


「まあ、たまには、そうだね」


「ふぅん…」


苦笑する親父の表情を眺めて、俺は鼻を鳴らす。


岡崎敦子。俺の母親。


物心がつく前に死別してしまっているその人の話。親父も詳しく話したことはなかったし、俺もきちんと聞いたことなどはなかった。


死んだ母親がいた。


俺にとっては、その程度の存在だった。


だが。


それでもたしかにその人は、俺を産んでくれた人なのだ。


「さて…」


親父は飲み干したペットボトルを、ごみ入れの袋に入れる。


「それじゃ、さっそく、お参りをしようか」


「ああ」


墓石は水をかけて一度磨いていて、日差しを浴びてきらきらと輝いている。


俺たちは揃って墓前に並んでかがみ、黙って静かに手を合わせた。


俺と親父。


今となっては、ふたりだけの岡崎家。


こうして揃って墓前に並ぶなど、初めてだ。少なくとも、俺が物心ついてからは。


そう思うと、今この瞬間は特別なものなのだと感じる。


…母さん。


心中、静かに呼びかける。


…ありがとう。


言いたいことはたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。


だがそれでも、いざ何かを語り掛けようとすると、出てくる言葉はそう多くはなかった。


ふん、と息をついて早々に閉じていた目をあける。横を見てみると、親父は瞑目して微動だにせずにいた。


俺はじっと、その横顔を見た。


やがて、親父は目を開けると、そのままじっと墓石を眺めていた。


「なあ、朋也」


独白するような調子だった。


「おれは、この町で幸せを見つけたいと思って、ここに来た」


「…」


「あいつとふたりで、この町で生活を始めて、おまえが生まれた」


「…」


「だが、あいつは事故で死んでしまった」


淡々とした口ぶり。


それが返って、俺に空恐ろしいような印象を持たせる。


「それから、色々なことがあった」


嘆息するようなその調子。


俺は親父から目を逸らし、じっと墓石を見つめた。心に刻めというほどに、睨むように俺はその墓を眺めた。


「おれはもう何もしたいとも思わなかったが…だが…」


隣から、親父の視線を感じる。


「おまえがいた」


「…」


「ありがとう、朋也」


「…」


「おまえが息子で、よかった」


胸が熱くなった。


立ち上がって叫びだしたいような衝動に駆られた。だがその全てを胸の内におさめた。そうして、湧き上がってくる言葉があった。


胸へと喉へと、言葉がせりあがった。


そこに意思などは関係なかった。俺は頭に浮かんだことを口に出した。


「俺は」


「…」


「俺は、あんたのことが嫌いだった」


「…」


「でも…本当に自分が嫌っていたのは、あんたじゃない。それは、自分のことだったんだ」


俺は親父を嫌っていた。憎んでいた。


だが、それはそのままの感情ではない。いつしか、俺はそのことに気が付いていた。


俺は、親父に未来の自分自身の姿を見ていたのだ。


自身の身の上に押しつぶされて、周囲全てを拒絶した。そうして周囲を隔てられたもののように見ていた。


その姿は世間を斜に構えて見ていた自分自身に重なった。


俺が大人になって自活するようになっても、たどりつく先は親父のようなものなのだと心の奥底で感じていたのかもしれない。


そしてそれは、期せずして事実となった。俺は親父のように、一度汐を拒絶した。


そう。


俺は、自分自身を憎む代わりに、親父を憎んで過ごしていたのだ。


「だから、ごめん」


「…」


「俺はあんたのことを、ずっと、見ていなかったんだ」


「それは、おれも同じようなものだよ」


俺は親の顔を見る。


穏やかに微笑んでいる、そのまなざしを。


「誰もおまえを責めたりはしない。これから、ゆっくり、やり直していこう」


「ああ…。ああっ」


俺は頷く。


何度も頷く。


一度は壊れてしまった俺たちの関係。


だが、人とのつながりは物ではない。


時間はかかるかもしれないが、互いの思いがかみ合えば、それはきっとやり直すことができる。


水を弾いて墓石がきらめく。


陽光、東風、世界が輝く。


母親は、もういない。


三人だった岡崎家は、ふたりになった。


傷つきながらも、それでも、ここから始めていこう。


そして、俺たちならば、きっとまたわかり合うことができるはずだ。


この場所で言葉を交わして、それを信じることができると思った。







557


夜半、目が覚める。


誰かに呼ばれたかのような、目覚めだった。


明日の結婚式に備えて早めに布団にもぐったが、それで夜中に目が覚めては世話はない。


息をついて、体を起こした。


眠気はきれいに消えていた。この世界に眠気というものなど存在していないかのようなくらい、意識ははっきりと明瞭だった。


もしかしたら、緊張しているのかもしれないな。そう思うと苦笑する。


再び布団をかぶっても、眠れるような気配はない。俺は諦めて寝床から出た。


窓を開けて外を見る。


清涼な夜風が、頬を撫でた。


虫の音。


空には雲もなく、月の光は煌々としていた。


手を伸ばせば、届きそうな夜空だった。


ぼんやりとそれを見ながら、明日の結婚式を思う。


いよいよ、この日がやってきたのだ。


この日のために、あいつは頑張ってきたのだ。


そう思い、少女の姿が脳裏に浮かぶ。


ヒトデを作って、たくさんの人に配った。そんな思い出が、浮かんでは消えた。


「…」


そんな中。


ひとつだけ、引っかかる記憶があった。


創立者祭の日。姉妹が顔を合わせ、だが、出会いことが叶わなかったあの場面。


俺はその時のことを思い出していた。


…プレゼント。


あいつは、姉の結婚式を祝ってもらうために、たくさんのプレゼントを用意した。


学校の生徒たちに、式に駆けつけてほしいと心を込めて用意した星形の気持ち。


そして同様に。


公子さんのために作った、特別製のヒトデがあったはずだ。


俺はそれを思い出していた。


それに気付いてしまえば、もう、寝直すなどという選択肢はなかった。


軽く着替えて、家を出る。



…。



寝静まった町を早足に通り抜ける。


道中、色々な考えが頭の中には浮かんで消えた。


結婚式に生徒たちは集まってくれるだろうか。久しぶりに会うあいつと、何を話せばいいのだろうか。


そんな心配を孕んだ吐息はすべて、春の夜風に溶けては消えた。


俺は夜の坂の下にたどりつく。


街灯に照らされた坂道。周囲に人気はなく、酷く寒々しい。


坂を上り、校門の手前までやってくる。


この時間だ、当然校門は締まっていた。だが、中に忍び込むつもりはないから問題はない。


…俺は、創立者祭の日のことを思い出す。


やっと顔を合わせたと思った姉の姿を見て、彼女は自分を認識してくれたと思って、だが、そんな希望はすべてが打ち砕かれた。


姉妹の出会いは叶わなかった。


そんな時、特別製と作ったヒトデを投げ捨てて、あいつは身を震わせた。


自分ががんばってきた全てを、否定されたと思えたのだ。


だが。


互いの思いがかみ合えば、やり直すことは可能なのだ。


姉は決意し、妹は目覚めた。


俺はふたりのために、今…。


あの時投げ捨てられたプレゼントを探そうと思っていた。


新郎新婦に捧げるための、連なったヒトデ。


だがなにせ、あれはもう一週間も前のことだ。


具体的にどこにある記憶は曖昧だ。


既に誰かが見つけて持って行ってしまっていても、不思議はない。


だが、それでも。


自分が大好きなあの姉妹のために、何かしてやりたいと思っていた。


坂道の脇の茂み。


大体の場所はわかっても、せいぜい見当をつけるという程度のものだ。


おまけに、街灯の光もひどく心もとない。少し暗がりに行けば、陰になっている場所は何も見えない。


めくらめっぽうに手を突っ込むと、茂みで少し手を切った。


舌打ちしたくなる。


よくよく考えてみれば、こうなることはわかりきっていたはずだ。


自身の考えに急かされて、ほとんど何も考えずにこんなところまで来てしまった。


一度家に戻って態勢を整えるかとも思う。だが、それで探し物が見つかるとも限らないのだ。


だから、そのまま街灯の明かりの下での探索を実行した。


人が今の俺の姿を見れば悲鳴を上げてもおかしくはないだろうが、幸い、こんな時間に高校への坂道を上ってくる奴などはいなかった。


そして、どれだけ時間が経ったのか。


手は、小さな切り傷だらけになった。冷えた夜風に晒されながら、額は汗ばんだ。全身は泥にまみれている。


そんな中で、俺は探し求めていた物を掴んだ。


「なあ、風子」


それを、天にかざす。


光に照らされて、ふたつ連なったヒトデは、美しいシルエットとして映えた。


寄り添うヒトデ。


それは芳野さんと公子さんだ。


そして、それは俺と風子だ。


「明日は、ヒトデ祭りだぞ」


五月の春の、夜空の下で。


星形の気持ちは、月光を弾いた。




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