folks‐lore 05/18



558


目を覚まして、体を起こす。


外を見ると、雲まじりだが結構よく晴れた青空。


今日はいよいよ結婚式の当日だ。天気がいいにこしたことはない。


いつからか、この部屋から眺める外の景色も、もはやずいぶんと見慣れたものになっていた。


俺がこの時間に迷い込んでから、一ヶ月以上は経っただろうか。初めは、この部屋も、そこからの眺めだってすべてが奇妙なものに見えていた。


その光景は、人生で後に残してきたものだったのだ。再びそこに舞い戻り、俺は戸惑うばかりだった。


それから、ずいぶん長い時間が過ぎたような気がする。あっという間だったような気もする。


だが、今こうして穏やかな気持ちで俺はこの場所にたどりついた。かつては想像もつかなかった、今日という日を迎えた。


立ち上がり、机の上に置かれた結婚式の招待状を手に取る。


簡潔に待ち合わせの時間と場所だけが書かれている。そして、伊吹風子、という署名。


その名を眺めているだけで、かすかに心が震える気がした。



…。



居間に入ると、無人。親父はまだ寝ているようだった。日曜だから、それはいつものことだ。


パンだけ焼いて、ぼんやりとテレビを眺める。朝のワイドショーがやっていた。だが、眺めていても内容が頭に入ってこない。


…今日の結婚式、俺たちが呼んだ人々は来てくれるだろうか。ふと、そんなことを考える。


一応、参考になりそうな記憶は俺の中にあった。俺が風子と過ごした世界の記憶だ。だが、あの世界では風子は結局目覚めていない。状況が全然違うから、横に 並べて比べることはできない。


というか、結局俺自身もあいつのことは忘れてしまったような気がする。


じゃあ、どうして今の俺はその記憶が薄れる気配すらもないのだろうか。考えてもよくわからないな。


それにしても、風子が目覚めたことで木彫りのヒトデの効力が失われるなんてことはないだろうな。なんとなく、そんな不安も感じた。


つい、親父を起こして今日の結婚式を思い出したか、と問いただしたいような気分になる。


だが、頭を振ってその衝動を抑えた。


そんなことされても、親父にとってはいい迷惑だろう。


それに、俺は風子と一緒に思いが届いたかどうかを見届けたい。わざわざそんな探りを入れるのもやめておこう。


今日この日のために、俺たちは努力を続けてきた。


あいつはきっと、この日のためにこの世界に帰ってきたのだ。その結果がどうなろうと、俺は隣で一緒にいてやろう。


そう決めると、後はもう迷いなどはない。ただ、結婚式を待ちわびる高揚感だけが残った。







559


朝食を食べても結局親父は起きてこなかった。


着替えて少しすると、すぐに家を出るべき時間になった。


俺は通い慣れた通学路を歩く。


まだ日はそう高くはない。


公子さんの結婚式自体は、昼前から始まるらしい。


だが、俺が呼び出されたのはいつもの登校時間くらいの時間だった。風子は新婦の親族ということもあり、直前は予定でも詰まっているのかもしれない。先に会 おうとすると、このタイミングしかない、ということだろうか。


店が開いているような時間でもないし、町の住人たちは家の中でのんびりしているのだろう。あまり人通りもなく、しん、としていた。


時折鳥の鳴き声などが聞こえるが、それはかえって静けさを浮き彫りにした。


まだ目覚めていない町の中を、俺はゆっくりと歩いていく。


頭の中を、ぼんやりと色々な記憶が通り過ぎていった。


それは、俺がここにやって来てからのことだ。


まだ、この世界に来て一ヶ月程度か。


しみじみとそんなことを思ってしまう。毎日の思い出が圧倒的に濃いからか、もっと長い時間を過ごしてきたような気がする。


俺が思い返すのは、時間を遡った頃のことだ。


汐とふたりで、旅行に行こうとしていた。


だが、汐は途中で力尽き、世界は雪で埋もれるかのように全て白く染め上げられた。


俺の意識は遠ざかり、奇妙な浮遊感のようなものを感じて、目が覚めた。


もう引き払ったはずの家、懐かしい自分の部屋にいることに気付いた。そして、汐がいないことに気付いた。


冬の日から、春の日へ。


俺が渚と出会った、全てが始まったその日へ。


高校生のこの時間に来てしまったことに気付いた時、俺の脳裏にはすぐに渚の後ろ姿が浮かんでいたのだ。


桜並木。あの後姿。


慌てて制服を着て、懐かしい通学路をたどって学校へと向かった。


いつものように、遅刻して…


そして、坂の下で俺と渚は出会った。


桜が舞って、春だった。


その時の光景は、今でも鮮やかに思い出せる。網膜に焼き付いているかのように。俺の心に楔のように。


俺は失った妻である古河渚と、もう一度やり直す道を手に入れたのだ。


そして、それからは紆余曲折。


懐かしい人たちと再会した。色々な人と出会った。


歌劇部。創立者祭。そういったイベントに付随する様々なこと。


こんな風に自分がたくさんの人と学校生活を楽しむだろうとは、想像もしていなかった。


俺が知るようになった未来の可能性を探ってみても、こんな賑やかな時間などはなかった。


未来の可能性。


自分はそれを手にしていて、本来ならば知らないようなことさえも知っている。


だがそれは、全てを保証してくれるわけではない。


意思なくして、未来を切り開けるはずもない。


あれほどまでに憎んでいた他の生徒や教師との対立は致命的なものにはならなかった。


むしろ、創立者祭へ向かう一つの目的のために、心を通わせるようにさえなっていた。


懐かしい顔ぶれ。


部員たちと一緒に部活をやった。あるいはそれをフォローしてくれた。


仁科や杉坂や原田。


合唱部の面々とも、一緒に活動するようになるとは思わなかった。


部活動。


いくつもの夢が折り重なって、ひとつの大きな未来になった。


くすぐったい気持ちを持ちながらも、いつしか、俺も一緒に未来を見ることができるようになっていた。


だが。


だが、と思う。


いつの間にか、そんな輪から弾き出されてしまった奴がいた。


純粋で、一生懸命で、校内を走り回る…そんな女の子。


思いを尽くしてプレゼントを渡して回ったのに、人々の記憶から、彼女の姿は消えてしまっていた。


でも、俺は覚えている。


他の誰が忘れてしまっても、俺はあいつのことを忘れたりはしない。


風子。


それは、まるで相棒のような存在。


今日の結婚式は、俺とあいつがふたりで見た夢だ。


あいつが願った、結婚式。たくさんの生徒に、それを祝ってほしいと。


…そうして思い出されたのは、人ごみ。


顔を知っている生徒、知らない生徒、「暇だったから来たんだよ」、「おめでとう!」、「お幸せに!」、喧騒と、呆気にとられた公子さんの顔と、生徒たちが 手に持つ…木彫りの、ヒトデ。


口の端を緩める。


俺とあいつが見ていた夢が、周囲をどんどん巻き込んで、やがて大きな未来になればいい。


笑うみたいにからからと、鞄の中のヒトデが音を立てた。


そう。


今日は、ヒトデ祭りなのだ。






560


やがて、高校へと続く坂道が見えてくる。


回り込むようにして曲がって続く坂道。先が見えないから、延々と続いているように思える。


坂の両側に並ぶ桜並木が、風にそよぎ、木々をゆらし、スカーフをゆらした。


校門まで200メートル。


そこに、求めていた姿があった。


見間違うはずもない姿。


制服姿の、少女の後ろ姿。


それは、車椅子にかけた後姿だった。


…車椅子?


さすがに疑問が頭に浮かぶ。


だが、いよいよその姿が見えた時、俺はなりふり構わず駆けだしていた。


「…風子っ!」


俺は彼女を抱きしめる。膝を折って、ほとんど倒れ掛かるような体勢になって、車椅子に掛けた彼女を抱きしめる。


「わっ、わっ…」


坂の上を見つめていたところを、いきなり後ろから抱き着かれてさすがに風子は慌てたようだったが、俺はそんなものは気にも留めなかった。


なにせ、また、会えたのだ。


俺は、思う。


共に、この世界に…過去の世界に迷い込み…


問答無用に引き裂かれたあの時から。


まだ、一週間程度しか経っていない。たしかに、それは長い時間と人は言わないかもしれない。


だがそれは、俺にとって、長い長い時間だった。


腕に力を込める。


風子は…たしかに、ここにいる。


今はもう、目を覚まして…ここに、いてくれている。


「岡崎さん…っ」


腕の中で、息も切れ切れ、と言った感じに風子が言う。


「いたた、痛いです…っ」


「あぁ、わ、悪い」


俺は慌てて体を離す。


嬉しくって、ついつい思いっきり抱きしめてしまっていた。


彼女はまだ、目覚めたばかりで本調子というわけでもないのだ。それは、車椅子を利用しているあたりからもうかがえる。あまり無理をさせてもしょうがない。


俺たちはやっと顔を向け合った。


「もう…、最悪ですっ」


風子はそう言う。


そう言って…笑う。


そして、俺の体に手を寄せた。


ぎゅ、と。


「最悪です…っ」


そう言いながら…彼女は、そっと身を乗り出して俺を抱きしめた。


俺の胸の中に、愛しさが湧き上がった。


今、ふたり…


こうしてここで、また出会えたことは、奇跡のように思えた。


「おかえり、風子」


俺は彼女に、そう言った。もう一度、今度は優しく、抱きしめる。


不器用に抱き合った俺たち。全ての迷いも悲しみを拭い去るように、春の風が吹く。


「はい…っ」


風子は、俺の胸の中で、感極まったような細い声を上げる。


「岡崎さん…っ、ただいまっ」


「…っ」


腕に力がこもる。


かつて…


風子は、いつもおじゃまします、と俺の家に入っていた。そこは風子にとって、帰るべき場所ではなかったのだ。


だが、今、ここが…。


彼女にとって、帰るべき場所になってくれたのだ。


俺は彼女を抱きしめる。


…俺たちは、ここにいる。


この世界に紛れ込んでふたりで寄り添いながら、それでも笑って、ここにいる。


俺たちは…


そうだ。


俺たちは、独りでは、ないのだ…!


そんな思いが胸を照らした。激しく強く、この春の日差しよりも何倍も明るく、俺たちの頭上には、強く輝く光があるような気がした。






561


風子の後手にまわり、車椅子を押しながら、ゆっくりと坂道を登っていく。


「なあ風子。公子さんは?」


「風子はさっき、おねぇちゃんと祐介さんと一緒に来たんです。でも、ふたりは先に行きました。色々準備があるので」


「体は、どうだ?」


「はい、ばっちりです。でも、たくさん歩くのはまだ無理ですので、念のため車椅子を使うように言われたんです」


「ばっちりじゃないだろ、それ…」


俺は息をついてツッコミを入れた。


だが、その程度で済んでいるならば僥倖だろう。顔色だって悪くないし、やせ細っている印象もない。


車椅子さえどこかにやってしまえば、生霊(?)の時と違いなどはないような気がする。


「岡崎さん」


風子は甘えるように、頭を反らせて俺の腹にぽん、ぽんと当てる。真下からじっと俺を見上げる。


「なんだよ」


車椅子を押す俺は、真上からその視線を受け止める。


「今日、お祝いに、皆さん集まってきてくれるでしょうか?」


「…当たり前だろ」


風子はあれだけがんばっていたのだ。きっと、たくさんの生徒が来てくれる。


今日は、お祭りだ。


俺たちは、あとはめいっぱい楽しむだけだ。


「来てくれってプレゼントを渡して回ったんだ。あれだけやったんだから、心配いらない」


「…はいっ、それなら、いいです」


風子は俺の答えに、満足げに笑う。


俺はゆっくり歩いていく。


ころ、ころと車輪が回る。風子は安楽椅子にでも掛けたように、穏やかな顔で辺りを見て、時々俺にちらりと視線を向ける。


「あの、岡崎さん」


恥ずかしそうに俺を見上げる。


「なんだよ」


「実は、今日、岡崎さんにプレゼントがあります」


「プレゼント?」


「はい。風子の後ろです」


「え?」


「後ろのポケットに、入っています」


「後ろの…?」


俺は車椅子の後ろを見てみる。


なるほど、そこにはベビーカーのように、荷物を入れる袋状になっている。そしてそれは、こんもりとふくらみを持っていた。


一度足を止める。


俺はそこに、手を突っ込んで…中にあるものを、取り出した。


「…」


それは、


「…はは」


俺は思わず笑ってしまう。


それは、生徒たちに配っていたものの何倍もある…


大きな大きな、木彫りのヒトデだった。


「岡崎さんへの、プレゼントです」


風子は再び頭をくてんと倒して、俺を見上げた。


「最後のヒトデです。これは、岡崎さん用に作りました」


「…」


俺は巨大ヒトデを脇に挟む。今度は自分の鞄をあさって、目当てのものを、引きずり出した。


「風子」


「…?」


「これ、見てみろよ」


「あ…」


俺が風子に見えるよう彼女の横手にそれを差し出す。


「…なんだか、すごく懐かしい気がします」


「ああ、そうだな」


…俺が取り出したそれは、木彫りのヒトデだった。随分前、風子が俺にくれたもの。彼女が作った、一番初めのヒトデ。まだまだ慣れなくて、あちこちのバラン スは悪くて、だけどたしかに、一生懸命な気持ちのこもったヒトデ。


「一番最初に、作ったものです」


「ああ」


「岡崎さん、とっくになくしているかと思っていました」


「まさか。大事なものだからな」


「…」


風子が再び、俺を見上げる。


俺はもらったヒトデを車椅子のポケットに突っ込んだ。


そして、ごしごしと彼女の頭を撫でる。


「わっ…」


「風子、ありがとな」


「…」


「すげぇ、うれしいよ」


「いえ…」


風子はされるがままになっている。瞳を閉じて、少し頬を染めて、口元は嬉しそうに笑っている。


「風子は、したいことをしただけです」


「そっか。俺も、今、したいことをしているだけだ」


「もぅ、頭がぼさぼさで最悪です…」


そう言いながら、嫌がるような素振りはない。どこか甘えるような素振りだった。


「岡崎さん。岡崎さんは、ヒトデの良さがわかりましたか?」


「ああ…。おまえのおかげでな…」


「それなら、よかったです」


にこりと微笑むあどけない表情。


東風、青空、桜並木。


俺は再び持ち手に手をかけ、坂道を歩き始める。


きいきいと、かすかに金属部分がきしむ。風に揺られた木々の音がする。


静かだ。まるで、俺たちふたりだけがこの世界にいるみたいだ。


「…長かったな」


「いえ、あっという間でした」


「あぁ、そんな気もする。でもやっぱ、長かったような気もするよ」


「はい…岡崎さんの言いたいことは、風子もよくわかります」


「なあ、風子」


俺は鞄をあさって、もうひとつのヒトデを取り出した。


それは、公子さんと芳野さんのために作った特別製のヒトデ。


ふたつ連なった夫婦ヒトデ。


「あ…」


それを見た風子が目を見開く。


創立者祭の日に放り投げて、どこかに行ってしまって、そのままだと思っていたのだろう。


「お祝いのために作ったものだろ。これがなきゃ、しまらないからな」


「…わざわざ、探してくれたんですか?」


「必要なものだと思ったからな」


「ありがとうございます」


風子がそろそろと手を伸ばし、木彫りのヒトデを掴む。


そして、それをぎゅっと胸に抱いた。


「…えへへ」


子供っぽく微笑む。


そんな様子を見ているだけで、俺もなんだか幸せな気持ちになった。


「公子さんの花嫁姿、楽しみだな」


「はい。岡崎さん、見た瞬間気絶するかもしれません」


「あっそ…」


「でも、もし気絶したら、この車椅子使ってもいいです」


「そりゃありがとよ。でも、おまえが困るだろ」


「歩けないわけじゃないです。今の岡崎さんみたいに後ろに回って手で支えていれば、ちゃんと歩けます」


「それ、ちゃんと歩けるとは言わないだろ」


「なら、岡崎さんの上に乗って、誰かに押してもらうことにします」


「車椅子壊れるぞ」


くすぐり合うように、軽口をたたき合う。


それだけで、ざわめく心はずいぶん凪いだ。


そして、やがて。


校門が見えてきた。


校舎が見えてきた。


校舎には幸村の書いてくれた結婚を祝う横断幕が吊るされている。


待ち望んだ、結婚式だ。


今日はこれからまだ長い。


幸せな時間は、始まったばかりなのだ。




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