516
目を覚まして、天井を見上げる。
「…」
ぼんやりとしたまま思い出されるのは、昨日椋と一緒に隣町の病院まで行った時のこと。
あの後…
椋に院内を覗いて様子を聞きに行ってもらったが、芳しい答えは返ってこなかった。
結局、様子はよくわからないということだ。
ただ…。
どうも、十一日の夜に風子の容体に変化があったようで、ぱたぱたと病室に人の出入りがあったらしい。とはいえ、その時に治療に当たった人はその場におら
ず、状況を知っている人もいなかった。
十一日。創立者祭のあった日だ。
俺が最後に風子の姿を見たのも、あの夜だった。
やはり、あの時に何かが起こったようだ。
とはいえ、これだけの情報では、いいことが起こったかその逆かまでは判断できないが。
ともかく、半歩程度は前進したと思いたい。
それから後は、椋と一緒にこの町に帰ってきて、ひとまずの礼で自販機のジュースをおごって家まで送って別れた。
…さすがにあれだけ無茶苦茶頼んでジュース一本で済むほど安い奴ではないだろうし、俺にとってもそれほど安い問題でもない。また改めて椋には礼をしないと
いけないな。
次に何をするべきか、考えるだに頭が痛い。
とはいえ、それで、諦めるという選択肢があるはずもないが。
また、新しい一日が始まる。
517
食卓に並ぶ膳は二人分だ。
俺と親父で顔を突き合わせて、朝食を口に運ぶ。
よっぽど、風子の分も用意しようかと思ったが、そんなことをしても意味がないだろう。飯を用意してやれば出てくるというような状況のはずもない。
テレビの朝のニュースを眺める。
居間にふたりだけ、というのがずいぶん寂しいものに感じた。
ずっと風子もここにいて、一時期は芽衣ちゃんだっていて、智代も一緒に食卓を囲んだこともあった。
かしましい食卓の情景が懐かしい。
男二人になってしまうと、そんな風景があったことさえ夢みたいに思える。
「朋也」
「え?」
親父に声をかけられる。
顔を上げると、目を細め、心配するような様子で俺を見ていた。
「どうかしたのかい?」
「?」
「なにか、気がかりなことでもあるように見えてね」
「…」
ざわつく心の内は傍からも見えていたようだった。よっぽど、ぼんやりしていたのだろうか。
「いや…」
俺は話をそらそうとしたが、思い止まる。
「なあ、親父」
顔を向ける。
「実は、ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
言って自室に戻り、木彫りのヒトデを持ってくる。
「これに見覚えない?」
「…?」
親父は手渡された謎の物体を怪訝な表情で眺めた。
触ってひっくり返して見ているが、それでもピンとこない様子だった。
「なんだい、これは…星かい?」
戸惑うような口調。まったく見覚えはないようだった。
なんとなくそうだろうとわかっていても、気落ちする。風子の記憶が抜け落ちているのだから、そのプレゼントについての記憶も連鎖的に消えているのか。
「これと同じものが、親父の部屋にあると思う」
たしか、親父も風子からヒトデをもらっていたはずだ。だから、きっと、部屋にはこれがあるはずだ。
「これと同じものが?」
俺の言葉に、いよいよ困惑した表情になる親父。なんとなく親父の心中はわかるだけにこんなことを言うのも気がひけるが、それより大事なものがある。
「だから、頼む。探してみてくれないか?」
その申し出に、親父は少し考え込んだが…
「ああ、わかった。朋也がそう言うなら、少し探してみよう」
そう言ってくれる。
唐突な申し出だ。意味不明な頼み事だ。だがそれでも、わけが分からない部分を脇に置いて、ひとまず俺を信じてくれるようだった。
「ああ…ありがと」
信じようとしてくれている。それは、心強い。
「ただ…」
「…ただ?」
「このご飯を、食べてからだね」
「…ああ、まあ」
拍子抜けした気分になる。
親父はテーブルの隅の方にヒトデを置いて、食事を再開する。
俺はテーブルの上を見つめた。ヒトデが置かれているのは、いつも風子が座っていた場所のすぐ前だった。こうして見ると、まるで親父がここにいない風子のた
めにヒトデをそこに置いてやったかのように見える。
ていうか…
(それじゃまるで風子が死んだみたいだな…)
苦笑してそんな想像を打ち消した。
気を取り直して、俺も自分の飯を食う。
…。
朝食も済み、食器を台所に下げる。
食後の茶を飲んだが、それも飲み終わる。
「さてと、それじゃ、探してみるよ」
「ああ、頼む」
自室に向かう親父を見送る。
自分が貰ったヒトデを見れば、親父も結婚式のことや、風子のことを思い出すかもしれない。
「…」
居間で一人、親父を待ちながら再び考え込んでしまう。
思い返されるのは俺が風子と共に過ごした世界のこと。
風子の努力が実り、結婚式にたくさんの生徒が詰めかけた時のこと。
共に東西奔走した渚たちはもちろん、クラスメートや、顔も知らない生徒たち。彼らはみんな、風子のプレゼントをその手に持っていた。
俺が聞いたら、たしか、プレゼントのヒトデを見たら結婚式のことを思い出したと言ったのだ。だからきっと、あのプレゼントはなにかのファクターになってい
るような気がする。
全ての意味も、意義も、そこに込められているのだ。
やきもきしながらそんなことを考えていて…しばらく待っても、親父が戻ってくる気配がないことに気付く。
登校するまでは多少は時間の余裕があるし、急かしているわけでもないが…それでも時間がかかりすぎのような気がした。
俺は立ち上がり、親父の部屋へ行く。
覗いてみると、親父は部屋のタンスを開けて中を調べていた。
「親父?」
「ああ…今探しているんだけど、見つからなくてね」
俺の方を見ると、苦笑した。
どうやら、見つからなくていろいろ探し回っていたらしい。
「…そうか」
俺は顔を伏せる。
風子の私物は消え失せていた。あいつのプレゼントも、同じようになくなってしまっものだろうか。
「多分、おれはあれを持っていないんじゃないのか」
親父の言葉。
「…」
記憶にないし、部屋を探してもない。
自分がそれを持っていないと判断するのは、常識的だ。
「…そう、か」
「ああ、いや…もしかしたら、納戸の方に入れたのかもしれないな」
俺の気落ちした表情を見てか、そんなことを言ってくれるが…
「いや、探してくれて、助かったよ」
「そうかい…?」
どことなく不完全燃焼という様子だった。親父としてもわけがわからない申し出で、煮え切らないところはあるだろう。
なんとなく、気詰まりな沈黙。
親父が説明を欲しがっている雰囲気は察せられるが、荒唐無稽な話をうまく説明もできない。
ごまかすように顔を背けると…小さな机の上に、写真たてが一つ飾られているのが目に入る。
それは、ひとりの女性の写真だった。柔らかく微笑んでいるその姿は、俺の母親。
つい、目に留まる。ぼうっとそれを見てしまう。
親父も俺の視線をたどって、その写真を見る。
「…なあ、朋也」
「ん…」
「今度、一緒にあいつの墓参りにでも行こうか」
「ああ…」
「忙しい日でなくていい。時間があいた時にでも…」
幾分の緊張をはらんだ親父の言葉。
きっと、親父は前からそのことを考えて、言うタイミングをはかっていたのだろう。なんとなく、そんな気がした。
俺は、こくりと頷いた。
「ああ…。俺も、それがいいと思う」
岡崎敦子。死んでしまった自分の母親。
久しく打ち捨てられたかのようになってしまったその墓。そこに父子が揃って訪れたことはない。少なくとも、俺の記憶にはない。
…それはきっと、悲しいことなのだろう。
やっと前より少しだけ、互いのわだかまりを解消することのできた俺と親父。その姿を、母親にも見てもらいたかった。
「そうかい」
俺の言葉に、親父は安心したように笑う。
「それじゃ、今度の日曜日にでも」
「いや…」
その言葉に、俺は口の端を緩めて頭を振った。
「その日は、用事があるんだ」
「…?」
「その日は、結婚式があるから」
あいつの努力の結果の日。
その日を、俺は、どんな気持ちで迎えることになるのだろうか。
518
通学路を、ひとりで歩く。
昨日はそれも気にならなかった。
だが今では、風子の不在がひどく気になる。
いつもはあいつと並んで通った道のり。別に、いつも楽しく会話をしていたわけでもない。俺はよくしゃべる方でもないし、あいつは気分屋だ。肩を並べて黙っ
て歩く時だって珍しくはなかった。
それでも、隣に誰かがいるというのは、やはり違うものなのだ。
風子がずっとうちに居候していて、毎日一緒に登校する。当然、そんな日々が永遠に続くわけはないとわかっていた。
だが、こうも唐突に終わりを告げるとも想像していなかった。
今ではもう、ひとりで通学路を歩いていたことがうまく思い出せないくらいだ。
違和感。
だが、そればかりを気にしていても仕方がないか。
だんだんと、通学路に同じ学校の生徒の姿も増えてくる。
やがて、学校の前…坂の下までやってくる。
そこには、すでに渚が待っていた。
「あ…」
周囲に生徒も多くいるが、すぐに俺の姿を見つけたようだ。ぱっと顔を輝かせて小さく手を振った。
俺も微笑み返し、軽く手を上げて応えた。
「岡崎さん、おはようございます」
「おはよ」
「今日は、来ないかもしれないって思ってました」
そう言って、ちょっと笑う渚。
「え? なんで?」
「昨日…なんだか、慌てていたいみたいだったので、なにか大変なことが起こったんじゃないかって…」
言葉を濁す。
そういえば、渚からすれば昼休みに唐突にわけのわからないことを言い始め、資料室から出ていき、ついでにそのまま学校からエスケープし、雲隠れしてしまっ
たということだ。心配するのもわかる。
ついでに言うと椋についてはその上夜にいきなり訪ねてきて隣町の病院まで行ってくれなどと頼まれたのだから、あいつの昨夜の動揺が思いやられる。
…よくもまあ、一緒に病院くんだりまで行ってくれたものだ。どれだけ心が広いのだろうか。
ともかく。
「心配いらない。色々あってな」
「はあ…」
全然納得していない表情だった。
怪訝そうで、心配しているようで、事情を秘密にされて怒っているような気配もある。それらがないまぜになった、微妙な顔。
俺は彼女を安心させるように、ちょっと笑う。
全く何の説明にもならないが、少なくとも渚の心を和ませる程度の効果はあったみたいで、わずかに表情は和らぐ。とりあえず、俺自身が危険な状況に陥った、
とかそういう問題ではないのだとわかってくれたのだろう。
「春原は、まだか」
「はい。そういえば、さっき、坂上さんが通りました」
「あいつも忙しそうだな…」
朝からきっと生徒会で用事でもあるのだろう。特に今は引継ぎなどで忙しいのかもしれない。
「そういえば、渚」
俺は手に持ったポーチから、ヒトデの彫刻を取り出す。
「これに見覚えがないか?」
ぽん、とそれを手渡した。
風子のプレゼント。別の世界でも最後の方まで風子のことを覚えていた渚なら、何か引っかかる部分があるかもしれない。
渚はきょとんとした表情で、受け取ったヒトデの彫刻をしげしげと眺めるが…困惑した様子。
「すみません、よくわからないです。演劇の小道具とかでしょうか?」
「…」
全然、記憶にないようだった。
親父もそうだったが、渚も…これを見ても、反応はないか。
だが、それで全てを諦める理由にはならない。
「なあ、渚、これと同じものが、おまえの部屋にあるはずなんだ。それを、探してくれないか?」
「はい?」
ものすごく不思議そうな顔をされた。
「騙されたと思って、頼む」
「はあ…わかりました」
押し切られた風に頷く。
「…これ、なんだか、とっても可愛いです」
その後、手に持ったヒトデを見て、にっこりと笑った。
「…可愛いか?」
正直、そこは非常に疑問だが。
「はいっ」
「…」
そんないい笑顔で言われてしまうと、今度はこっちが、押し切られた風に頷くしかなかった。
…。
しばらく待っていると、原田がやってきた。
「あ、おはようございます」
俺たちに気付くと軽く頭を下げて、そのまま立ち止まる。
「春原先輩を待っているんですか?」
「はい」
「あいつ、結構ぎりぎりのこと多いからまだ来なさそうだけど」
それでも、遅刻をあまりしなくなっただけ立派なものだが。
「はああ。でも、待っちゃうなんて、すごい友情パワーですね」
原田のセリフに失笑する。
「別に、そんなんじゃない。置いて行ってもいいんだけど、下らない日課みたいなものだ」
実際、さして待つ義理もない。吐き捨てるように言う。
だが、それを見て渚も原田もくすくすと笑った。
「先輩らしい答えですね」
「わたしもそう思います」
「…」
なんだか釈然としなかった。
「おまえらな…」
「あの…おはようございます」
そんなところに、椋がやってきた。
渚と原田に文句の一つでも言おうとしていたところだったが、口をつぐむ。
「ああ…おはよ」
「はい…」
挨拶をして…その後、ちょっと目配せをかわす。椋は少し照れたようにそっと顔を伏せた。
「昨日、あんな時間に悪かったな」
「いえ…全然、構わないですから」
やはり、心が広い奴でよかった。椋の笑顔に胸をなでおろす。
会話する俺たちを、渚と原田が『昨日? あんな時間?』とでも言いたそうな顔でこっちの様子をうかがっていた。
その視線に、嘆息する。
「…言っておくけど、ヘンな話じゃないからな」
「え? は、はいっ」
「それじゃどんな話なんですか、先輩」
納得する渚をよそに、突っ込んで聞いてくる原田。
…椋に。
どうやらこいつは椋に話を振れば動揺も相まって全部聞き出せるとでも考えているようだ。どうでもいい場面で姑息な奴だった。
「あ、あの、それは…」
椋が目に見えて慌てる。
「岡崎くんが昨日うちに来て…」
「ま、ちょっと頼みごとがあったんだよ」
ボロが出ないうちにフォローしておく。
「ほぉ…」
原田が悪い顔をして顎に手を当てた。その顔を見て、俺は小さく息をつく。
こっそり彼女に耳打ちする。
「…おまえ、話を大きくして広めたりするなよ」
「あの…先輩は私をなんだと思っているんですか?」
「…」
返事はせず、寛大に微笑んでおく。
「全然信頼されていない視線がつらいっ」
頭を抱えていた。朝から元気な奴だ。
「…でもそれがいいっ」
「原田、おまえ、ただの変態になってるぞ」
つい心配になってしまう、俺だった。
漫才をしていると、渚と椋がくすくすと笑った。
…風子がいなくなっても、当たり前のようにこんな日常があるというのも、なんだか不思議な感じがするな。
「そういえば」
気を取り直した原田が俺に向き直る。
「先輩、その木の星、なんなんですか?」
渚から返してもらって、そのまま手に持っていたヒトデを見る。
「クールな外面をしながら実は寂しがり屋で、お星さまがないと眠れなくなっちゃったボク、という新路線ですか?」
いかがわしいビデオのタイトルみたいな言い方はやめろ。
「ああ…おまえら、これに見覚えはあるか?」
先ほど渚に聞いたやり取りを繰り返す。
だが。
結局、ふたりとも風子のプレゼントについてはきれいさっぱり記憶にないようだった。心動かされた様子さえもない。
俺の他には、やはり、誰も風子のこともプレゼントのことも覚えていないのだろうか。
あまりにも前途多難な展望に、俺は小さく息をつくしかなかった。