folks‐lore 05/13


502


紳士は案内で同行してきていた教師とふたことみこと言葉を交わす。


A組担任の女教師は部室内の俺達をちらりと見やって、だが何も言わずに去っていった。


少し、緊張した雰囲気になる。


紳士はそんな俺たちを見ると、微笑んでみせた。


「先生が、この間の創立者祭はとても素敵な劇だったと言っていたよ。歌劇部、だったね」


すぐさま、本題には入らなかったのはこちらの様子を察してだろうか。


「は、はい。あの、ことみちゃんには日頃からすごくお世話になってますっ」


渚が慌てたように立ち上がって、ぴょこんと頭を下げた。


「一ノ瀬ことみくんの後見人を拝命しているものです。こちらこそ、日頃彼女に良くしてもらって、本当にありがとう」


高校生を相手にしているとも思えないほど、折り目正しくきちんと頭を下げた。


「君たちのような子たちが一緒にいてくれたなら、本当によかった」


目尻を下げて、そう言う。その視線が不意に俺に向いた。


先日、俺はこの人と過去のことを話した。ことみと会っているはずだがそれを覚えていないという話だ。それでも、彼は俺たちが友人になれていることを喜んで くれていた。


俺はかすかに頭を下げる。


「あの、こちら、どうぞ」


渚が俺たちのすぐそばの机を勧める。ここが部室だから、渚は部長としてきちんとエスコートしなければと思っているようだった。


「ああ、それじゃ、失礼するよ」


紳士はそう言うと、椅子の背にコートをかけ、ごとり、とトランクケースを机に置く。


「あ…」


ことみはそれを見て、小さく声を上げた。


ジェラルミン製らしいその旅行鞄。


金属の鈍い光沢は、だが、随分とくすんで見える。


「それ…」


ことみの体が震えた。


「お父さんの、かばん…」


亡父の持ち物。


墜落事故と共に失われたはずのもの。


俺はことみの様子を見た。彼女がふらりと体を倒すようなことがあるならば、いつでも支えられるようにと思った。


だが、それは杞憂だった。


さっきのことみの小さな震え。


今のことみのその瞳。


彼女が感じたものは、恐怖や絶望などではなかった。ことみは既にそれを乗り越えている。


だから、ことみがその鞄を見て感じたものは、きっと、もっと、大きな感動だったのだろう。


「そう」


紳士は深々と頷いた。


「昨夜遅く、研究所に届いたんだよ。私が中を見て、たしかに博士のものだと確認した。それで今日、届けに来たんだ。どうしても、すぐに君に渡さないといけ ないと思ったからね」


ことみはじっと、古ぼけた鞄を見つめていた。


「ことみくん。この中には、何が入っていると思うかい?」


「え?」


紳士の問いに、ことみは顔を上げた。


「ええと…論文?」


「…」


紳士はその答えに、返事をしない。柔和な表情でゆっくりと首を振るう。


「鞄を開けてみてごらん」


「…」


「ことみ…」


「ことみちゃん…」


周囲を囲む友人たちが、心配そうにことみの名前を呼んだ。


ことみは顔を上げて、一同の顔を見ていく。ゆっくりと、顔と名前を確認するかのように。


杏。椋。渚。春原。


誰もが、一ヶ月前にはまだことみと知り合ってもいなかった面々だ。


だけど今では、ことみ自身が彼女と過去を分かつものとしてここに同席を頼んでいる。


そして、俺。


ことみの眼差しが俺の目を見る。心の中まで掘り起こすように、深く強く。


そう、この鞄の中には大切なものが詰まっている。


過去があるのだ。


そして、未来があるのだ。


俺は彼女に頷いた。


部室の中、静寂が包む。


ことみが俺から目をそらし、また、鞄へと視線を戻した。


そろそろと、ことみの腕が上がり、鞄へ伸びた。


俺はそんな光景を眺めながら、別の世界のことを思った。


今、俺たちはことみを囲んでここにいる。ことみを支える仲間がいる。


だが、そうならない世界もあった。それはたくさん、あったのだ。


それらの世界では、ことみはひとりで過去の思い出に相対したのだろう。


俺と出会わず一人ぼっちでずっと図書室にこもりきりの少女がいて、彼女はたった一人で昔の思い出に接することになった。


俺はその世界を思う。自分の知らないその情景を思う。


それを考えただけで、胸が痛んだ。


そのことみは亡き両親の手紙を読んで、どう思ったのだろうか。その未来に、どんな展望を持ったのか。


俺にはそれを知ることはできない。今となっては、別の世界のことは取り返しがつかない。


ことみの手が、トランクケースに触れた。


かちり、と音がして留め金が外される。


軋む音と共に、中が開けられる。


俺たちはその中を覗き込んだ。


中身が見える。


それは、ぬいぐるみ。


大きなくまのぬいぐるみ。それが、トランクケースにぎゅうぎゅうになって詰め込まれている。


つぶらな眼差しが、ことみの揺れるまなざしを見返していた。


「え…」


「ぬいぐるみ…?」


周囲で様子を伺っていた面々は、戸惑ったような声を出した。


だが、それにも反応せず、ことみはそろそろとおっかなびっくり手を伸ばし、ぬいぐるみを抱き上げた。


ぱらぱらと砂とともに、するり、と鞄とぬいぐるみの間に挟まれていた手紙が床に落ちた。


俺はそれを拾う。


それは、封筒だ。随分古ぼけた封筒。幾人もの人の手を介してきたように、今やよれて、変色している。


だが、丁寧に扱われてきたものだ。折れたりなどはしていない。破れたりなどはしていない。


「手紙、か」


ざわつく心。俺はここにしたためられた思いの強さを知っている。これを持つだけで、心が震えた。


裏返すと、その封筒には英文が書かれていた。なめらかな筆記体。




 If you find this suitcase, please take it to our daughter. K&M Ich




このスーツケースを見つけたならば、どうか、わたしたちの娘に届けてください。


急いで書いたのだろう、最後の署名は途切れていた。


俺たちはしばし無言で中身を確認した。


くまのぬいぐるみと、手紙。


紳士は目を細めて俺たちを眺め、ぽつりぽつりと説明をしてくれる。


飛行機事故に遭った中で、ことみの両親が論文を捨ててまでこの中に誕生日プレゼントを入れたこと。


書き残した手紙で、これを受け取った誰かにその願いを託したこと。


どこか、遠い国。一之瀬夫妻を知りもしない誰かがこのトランクを拾った。そして、その願いの続きを引き継いだ。


残された手がかりなどは、決して多くはない。


この願いを受け取ったその人は、きっと、日本語などはわからなかっただろう。英文を読んで、捨て置けないものだと思ったのだろう。


きっとその人は方々手を尽くしてくれたのだ。慣れ親しんだこともないような文章がなんという言語なのかを調べて、そして、ゆかりある人にこのトランクを託 した。


これは日本に届けるものだと、きっとそう言い添えて。


そうやって、このトランクは多くの人の手を介して旅を続けてきた。


いくつもの夏、いくつもの冬。


壊れた部位は修繕された。時を経てくたびれ始めたぬいぐるみには丁寧にブラシがかけられた。


誰か、英語を介さない人間の元へ渡されてもその願いがくじけないように、手紙の裏にはたくさんの言語で翻訳が加えられていった。


アルファベットの文字がある。読み方すらわからないアラビア語の文字がある。記号にしか見えないような外国の文字がある。


それは、ただ、書かれた文字に過ぎない。それなのに、その裏に刻まれたたくさんの人の思いを、感じることができる。


それらの言葉は、ただ、こう言っていた。


このスーツケースを見つけたならば、どうか、わたしたちの娘に届けてください。


それだけの言葉。


ただ、娘に託したもの。


このトランクを受け取った人たちには、きっとわかっていたのだ。


簡素なそのメッセージだけで、彼らにはわかっていた。


…この文章を書いた人物は、もうこの世にはいないのだ、と。


自分がいま手に持っているこれは、その人たちの最後のきらめきなのだと。


親が我が子に思う気持ちには人種や国籍などは関係がなかった。


その願いを叶えるために、この鞄は旅を続けてきた。


途中で誰かが自分のものにすることも、捨て置いてしまうこともできたのに。


彼らは、まるで次代へと願いを託すように、手から手へとこれを託してきた。


そして、今日。


あれから、長い時間が経った。


その時間は、温かい願いも悲しい思い出も全てを内包して、今この瞬間に収束していた。


ことみは両親から届いたプレゼントのぬいぐるみをじっと見つめている。


長い時間を飛び越えて、その思いは届いた。


そうだ。


思い、それ自体に時間なんかは大した要因ではないのだ。


思い、願い、あるいは祈り。


それらの力は何より強く、時を飛び越え、世界をも超える。


そうだ、俺はきっと、もう、それを知っている…。


「ことみくん」


紳士が優しい声音でことみに声をかける。


「ご夫妻が事故に遭って、私が君の家に行った時のことだ。君が燃やしてしまった封筒…。あの中に、何が入っていたと思うかい?」


「ええと、それは…論文の、控え?」


「いや…」


紳士は首をふるう。


俺の脳裏にはあの日見た炎がちらついた。


ことみの両親が事故に遭い、突然のことに大人たちは狼狽して、家でたった一人で過ごしている小さな女の子のことはしばらく誰の頭にも浮かばなかった。


ことみは、誕生日に、ひとりぼっちで両親の事故のニュースを聞いていたのだ。


ニュースでは、その事故によって失われた大切な論文のことを話していた。


だからことみは、その論文さえなくなってしまえば、すべてが清算されると思ってしまった。


彼女はよろよろと二階の書斎へ登って行って、テーブルの上に置かれた封筒を見つけた。


論文の控えだ、と、ことみは思った。


机の上にあったライターを使って、それに火をつけた。


きっと、それで、すべてが変わってくれると思ったのだ。


だが、残酷な現実はただ立ちはだかるのみだった。


もうすべてが取り返しがつかないことを悟ったことみは、わんわんと泣いた。


揺れる炎が小さな少女の泣き崩れる姿をこうこうと照らしていた。


そして、そんな場面に俺が出くわしたのだ。


ことみの誕生日を祝うために誰か友達を連れてくるなどと勝手に約束をしたのに、結局、ひとりも集めることはできなかった。


それでも、せめて俺だけはことみの誕生日を祝おうと思って通い慣れた家に入った。


だけど、ぞっとするほどその家の中は真っ暗で、二階から泣き声だけが聞こえていた。


慌ててのぼってみると、そこには火の手が上がっていて、その前でことみがわんわんと泣きじゃくっていた。


俺はその火を消そうとした。手で火をあおいで叩いた。台所から水を汲んできて火にかけた。


だが、それらはうまくいかなかった。


火の手はまるで呪いのように燃え狂い、ことみの泣き声は呪詛として響いた。


その頃俺は小さくて、か弱い腕では誰も守ることはできなかったのだ。


火は燃え続けた。ことみは泣き続けた。悪い夢でも見ているかのように、俺は立ち尽くした。


そんな場面に、紳士が現れたのだ。


混乱する情勢の中でことみのことに思い当たり、わざわざ家にまで様子を見に来てくれた彼が見たのは、そんな情景だった。


紳士はその時、ジャケットを脱いでばたばたとあおいで火を押さえこんで、俺たちを助けてくれた。


その時あらかた燃えてはしまったけれど、封筒の残骸は残った。


それを確認した彼は、こう繰り返していた。


大丈夫だから。これは、違うから。


彼はそう言っていた。


「あの時、燃え残りを確認してみて、すぐにわかった…」


紳士は目を細めて、思い返しながら言葉を紡いだ。


「あれは、論文の控えではないんだ。そんなものは、もともと、存在していなかったんだ」


「それなら…なにが入っていたの?」


「博士が取り寄せた、ぬいぐるみのカタログだよ。あの何日か前…娘が初めて欲しいものを言ってくれた、と、嬉しそうに話していたからね…。きっと、君のた めのプレゼントを吟味していたんだね」


「…」


そう、あの場で紳士は燃やされたものが何かはわかった。


だが、錯乱していたことみはその言葉に耳を貸さなかった。


彼女は、自分が燃やしてしまったのは論文の控えなのだとかたくなに信じ続けた。


悲しみで蓋をして、真実から目を背けた。


…そして今。


真実はこの手の中にあった。


古ぼけた旅行鞄。手入れされたくまのぬいぐるみ。そして、残された手紙。


「ことみ」


俺は彼女に封筒を手渡した。ことみはおっかなびっくり、それを受け取る。


「これ…」


じっと、その手紙に目を落として、やがて顔を上げた。


「読んでも、いいの?」


「ああ。ことみくん、それは君に宛てられた手紙だ」


「…」


ことみは封筒の中を覗く。それはかさかさと乾いた音を立てる。


手紙に目を落とした。彼女の瞳が静かに本を読んでいる時のようにきょろきょろと動いた。それ以外は、まるで時間が止まったようだ。俺たちは息を潜めて彼女 の様子を見守った。


そして、しばらくして…。


「ことみへ」


ことみは口を開いた。


「世界は美しい」


それは両親の手紙。その文面。


「悲しみと涙に満ちてさえ」


まるで詩のような、最後のメッセージだった。








503


両親の手紙を読み終えて、それから、ことみは泣きじゃくった。


今まで目を背けていた真実。見ようとしてこなかったもの。


それらは、決して軽いものではない。


だが、涙を流すことみの周囲にたくさんの人が集まって、しきりに彼女を慰めた。


それを見て、俺はなぜか大きな安堵感を感じていた。


この情景は、非常に好ましいものだと思っていたのだ。


「…ことみくんの友達にもこの話を聞かせていいのかと最初は思ったが、こうやって見ていると、こうやって彼女をたくさんの友達が囲んでいるのは、とてもい いことだと感じるよ」


隣にやって来た紳士が、満足そうに目を細めてことみたちを眺めている。


「あいつらは、みんな、ことみの友達ですから。だから、大丈夫ですよ。ひとりで聞くよりは、この方がいいとあいつも思ったんだろうから」


「ああ、そうだね。悲しみを分かち合い、喜びを分かち合う。それはとても大切なことだ」


「ええ…」


俺たちは彼らの輪から離れたところで、ぽつりぽつりと言葉を交わす。


「…俺は、あの事故の時、あいつをひとりぼっちにしてしまったから。だから、この学校でひとりで図書室にこもっているあいつを見た時、もっと広い世界を見 せてやりたいと思ったのかもしれない。あの時のことを忘れてしまっていても、それでもなお」


俺の言葉に、紳士はこちらに目をやる。


「思い出したのかい?」


「はい。ずっと忘れていたのが、ひどい話だけど」


「いや…」


紳士は頭を振った。人を安心させるような、落ち着いた声音だった。


「まだあの時の君は幼かったから、それは仕方がないことだ。もし君があの時のことを忘れていた事が間違いだと言うのだとしても…間違うことは、誰でもあ る。大事なのは、間違えたことそのものに対してどう向き合うかだと思うよ」


「そうですかね…」


間違えたことについて、どう向き合うか。


その言葉が胸に確かな質量をもってすとんと落ちる。


「私だってあの事故の時…対応に追われて、ことみくんのことを思い出すのに随分時間がかかってしまった。急遽一ノ瀬博士たちの学会の参加が決まった時、私 は博士から彼女のことを聞いていたんだ。それなのに、すっかり忘れてしまっていた。だけど、君は傍にいてくれたんだ」


「そんないいものじゃなくて…俺だって、しばらくあいつを一人にしてしまってたのは、同じですよ」


「そうかい。それなら、私たちは似た者同士ということか」


低く笑う紳士。


彼もきっと、今日のことみのプレゼントがどう転がるかにはかすかに不安があったのだろう。最初に部室に現れた時と比べると、リラックスした様子だった。


「俺は、あなたほど立派じゃないですけど」


「いや、私こそそんな大したものじゃないさ。あの時のことは後悔したし、しばらく踏ん切りもつかなかった。それに今でも、まだ迷い続けているかもしれな い」


俺は彼の横顔を見る。


ほとんど会話をしたこともない奴に、よくもまあ胸襟を開いてそんな話をしてくれるものだ。


「…だが、迷ってばかりではしょうがないからね。昨日、あの鞄が研究室に届いた時、中を見た時…そろそろ、すべてを終わらせなければならないと思ったん だ」


こんな立派な人でも、そんな風に思い悩みながら生きているのか。それは驚きだった。


だが、その実感はすっと胸に染みとおった。


自分だって、同じような悩みを抱えているからだった。


過去への後悔。まだ見ぬ未来への不安。


そこには別の世界の記憶という要因が絡んできている。


だがそれでも、それはきっと未来そのものを否定する材料にはならない。


多分、きっと、そういうことなのだ。


俺は素直にそのことが飲み込める。納得まではできないにしても、そういうことなのだとはわかる。


目を閉じて、思いを馳せた。


失われてしまった可能性。そして、その全てを手中に収めることなどはできない未来。


それに、どう向き合っていくのか。


その結論を先延ばしにするわけにもいかないだろう。


俺は目の前の光景を見る。


ことみが涙を拭ってくまのぬいぐるみを抱きしめて、笑顔を見せてくれていた。


間違うことが人の弱さだとしても、それを受け入れて笑い、未来を見据えることは、それは人の持つ強さなのだ。


視線を移すと、派手に色々と書き込みをされたままの黒板が目に入る。


黒板には、『新しい夢へ』という文字が書かれていた。それは俺が、創立者祭の終わりに書き残したメッセージだった。


新しい夢へ。そして、未来へ。


眼前に開けた未来は今なら自分を閉じ込める壁のようだとまでは感じない。


だがそれは、まだまだ急な坂道のような存在としてあることには変わりがなかった。


この情景はきっと、幸せな姿なのだ。


それを目にしてもそれでも、俺にはまだまだ全てを受け入れる準備が整っていないような気がする。







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