504
四時間目の授業が終わり、教室に弛緩した空気が広がる。
授業中、朦朧とした意識の中で教師の話を聞いていたが、終わると急に明瞭になる。現金なものだ。
ま、横で完全に寝ていた春原に比べればまだマシだろう。そう思いたい。
…別の世界の記憶をいくつも手に入れたのだから、少しは頭の良さも上がってくれているものかと期待したが、まったくそんなことはなかった。俺はアホで、ア
ホが何人揃ってもアホということだろうか。
それにしても、創立者祭が終わった直後でまだ浮かれていると思いきや、クラスメートたちはきちんと集中して授業を聞いていた。感心してしまう。
以前ならそれをせせら笑っていたかもしれないが、今では少しは気持ちが違う。
彼らには彼らの夢がある。それに向かって努力をしているのだ。ろくに何をしているわけでもないような人間がそれを嘲るのは滑稽な姿だろう。
「飯だ飯だ」
「あー、腹減った」
授業が終わって昼休み、何人もの生徒が学食や購買に急いで出て行く。
「おい、創立者祭の竜太定食が今日もちょっとだけ残ってるらしいぞ」
「マジで!? 急がないとなっ」
「おうっ! 竜太最高!」
「…」
竜太定食にはある種の人間を惹きつける独特の魅力があるのだろうか…?
嬉々とした表情で教室を出て行くクラスメートを、呆然と見送ってしまった。
「ふああ…よく寝た」
そんな喧騒の中、やっと目を覚ます春原。
「おまえ、よくそんな寝れるな」
「まあね。この学校で、これだけは負けないよ」
「全然すごくない特技だな…」
俺も同じようにどこでも寝るのは結構得意なのが情けないが…。
「岡崎、飯行こうぜ」
「だな」
席を立つ。
そこに。
「椋ーっ。お昼行きましょっ」
杏が傍若無人に大声で言いながら教室に入ってくる。
「あ…うんっ」
教科書類を机にしまって、椋も立ち上がる。そのまま合流して、俺たちの方にやって来る。
「あの、岡崎くん、春原くん、行きましょう」
「うん。よく寝てたから、お腹すいちゃったよ」
連れ立って教室を出て行きながら、春原はそう言って笑う。
「はは…」
椋も相槌のように微笑んだ。授業をちゃんと聞け、などと注意する気はないようだった。どうやら春原は既にこいつに見捨てられているらしい。
「ことみと渚も呼んできましょ」
「だな」
通り道だから、ついでだ。
ことみは朝両親からの誕生日プレゼントをもらっていて、その後の様子も気になる。
ちなみにあのくまのぬいぐるみはさすがに大きいので部室にそのまま置いてある。あとで持ち帰るらしい。
「朋也、あんた、昼は?」
弁当の入った巾着を揺らしながら、杏が聞く。
「資料室に行けば、あるだろ」
多分誰かが作ってきてくれているのだろう。
…なんかすごいな、それはそれで。こんな宙ぶらりんな状況がいつまでも続くはずもないのだから、いずれきちんとした結論を出さないといけないな…。
俺の返事に、杏は呆れたような目を向けた。
「あんた、貰うばっかじゃなくて、たまには感謝してあげなさいよ」
「かもな…。たまには俺が昼飯作るってのはどうだ?」
ふと思いついて、そんなことを言ってみる。
「朋也が?」
「岡崎くんが?」
よく似た顔が、よく似た表情で俺を見た。
「…あははっ。あんたがまともな料理を作れるわけないでしょっ」
「いえっ、あの、とても素敵だと思います…」
その後の返事は、全然違うものだったが。
ま、確かに俺に料理を作るイメージはないだろうが。
「ま、チャーハンくらいしか得意料理ないけど」
「へぇ、おまえ、得意料理なんてあったの?」
春原が意外そうに俺の方を見る。
ま、こいつとの付き合いでも家庭的なところを見せる場面なんてなかったからな。
「どうせ、味濃ければなんでもいいって感じなんでしょ」
そりゃ否めないが。
「おまえほど料理うまくはないけど、そんな悪くないはずだぞ。結構、評判いいし」
とはいえ、食べさせた相手なんてそうは多くはない。
汐はおいしいおいしいと食べてくれたし、いつだったか、汐を尋ねて遊びに来た奴もうまいと言っていた…。
「…」
…あれ?
その、尋ねてきた奴は、たしか…
「あ、ことみーっ」
教室から、ちょうどことみが出てくる。
像を結びそうになった思考が途切れる。
「あ、みんな、こんにちは」
ことみがにっこりと笑う。朝の動揺が続いているということもなさそうで、俺たちは素早く顔を見合わせて安堵する。
「お昼行くわよ。創立者祭の写真現像したから、ご飯食べたら一緒に見ましょ」
「そうなんだ。とってもたのしみ」
「…あ。みなさん、こんにちはっ」
立ち話をしていると、教室を出てきた渚も合流した。
「よう」
「はい、こんにちはです」
声をかけると、にこりと笑顔を見せてくれる。
「さっさと行こうぜ。僕もうお腹が限界」
「そうだな。こいつ、放っておくと、通行人を食い始めるからな…」
「モンスター扱いはもういいっす」
ぞろぞろと移動をはじめる。
…。
「あれ、智代じゃない?」
「え?」
「ほら」
杏に促されて向こうの方を見てみると、廊下の先で智代が教師と話をしている姿が見えた。
ちょうど終わったところのようで、彼女はすぐに俺たちに気付いたようで、こちらにやってきた。
「奇遇だな」
この学校が広いわけでもないが、たしかにちょうど二年生の階に降りてきたタイミングで出くわすのは珍しい。
「ああ。これから昼なんだが、おまえも来るか?」
誘ってみると、智代は苦笑を浮かべた。
「誘ってもらえるのはうれしいが…すまない。これから、職員室に行かないといけないんだ」
「生徒会長の仕事?」
杏が口を挟む。
「まあ、そんなところかな」
「創立者祭が終わったばかりなのに、大変ですね」
椋が声をかける。椋は結構人見知りする方だと思うが、さすがにしょっちゅう会っていれば智代にも慣れているらしい。
「いや、そんなことはない。これから行くのは、秋にある弁論大会の準備なんだ。生徒会長の仕事というわけではないが、会長になったからやってみたいことが
あってな」
「ああ…」
それを聞いて、合点がいく。
なるほど、弁論大会か。
俺の記憶の一端。別の世界。智代と付き合い、別れて、自堕落に日々を過ごす中で俺はその話を聞いたことがあった。智代は英語で坂の桜が伐採されるのに異を
唱えて話を語り、なにか賞を取っていた。それが校内世論や教師陣をも動かして、坂道の木々の伐採計画を押し止めることになったのだ。
…そういや、智代と過ごした世界以外の記憶ではその辺りが全然記憶にないな。校内でも話題になっていたような記憶があるが、全然引っかかってこない。俺は
結構薄情なのだろうか。
「結構、忙しくなるの?」
「うん、そうだな。先輩の受験勉強が本格的になる前に生徒会も引継ぎを終わらせないといけないし、来月も色々とイベントがある」
「…イベント? なんかあったっけ?」
春原が俺の方を見る。
「さあ?」
創立者祭の後は、正直大きなイベントなど記憶にない。
「おまえらは行事予定も見ていないのか?」
智代が呆れたように俺たちを見る。
「来月には交通安全教室があるぞ。あれは、生徒会主催だ」
「交通安全教室…?」
「交通安全教室…?」
俺と春原は、顔を見合わせた。
…なんだそれ。
全然記憶になかった。
「こいつらは本当にこの学校の生徒なのか?」
智代は困ったように藤林姉妹のほうを向く。
「残念だけど、事実よ」
「ちょっと、地味なイベントですから…」
椋は困ったようにフォローするが、実際大したイベントじゃなさそうな感じだ。まあ、準備する側とすれば規模の大小に関わらずどれも大事なイベントなんだろ
うが。
「今年は自転車の乗り方の講座だ」
「…」
なんだそれめんどくせえ…。
大方、かつての自分もそう思ってサボったのだろう。
「つまんなそうだねぇ。もし生徒会がいいって言うんなら、僕が替わりに超イケてる自転車の乗り方とか教えてあげてもいいよ」
「サドルのところに顔を乗せて、腕で車輪を回して足の裏でハンドルを操作する、シャチホコみたいなスタイルだ」
「んなもんできるかっ」
「春原くん…それ、すごく危ないと思います…」
椋は信じていた!
「一度、見せてほしいの」
…ことみもだった!
「おまえ人間じゃないと思われてるぞ」
「あんたのせいですけどね」
アホアホトークに、智代は呆れたように息をつき、腕を組んだ。
「本当にどうしようもない奴らだな」
「どうしようもないのは春原だけだ」
「岡崎、てめえ、抜け駆けかよ」
「抜け駆けっていうか、おまえがアホなだけだ」
「あんたたち、そんなことで喧嘩してるんじゃないわよみっともない。あとついでに言っとくと頭の悪さは五十歩百歩だから」
杏がどうしようもないものを見るような目で、俺たちを見ていた。
「…おっと、こうしてはいられないな」
智代がはっとした様子で手近の教室を覗き込み時計を確認する。
「おまえたちと話していると、時間があっという間に過ぎてしまうな」
「ま、僕らは存在自体がエンターテイメントみたいもんだからね」
「ちなみにおまえは、エンタメといってもホラーの範疇だからな」
「なんでだよっ」
「その頭の悪さはホラーだろ」
「アホなのはあんたもでしょっ」
「…本当に、退屈しない奴らだな」
アホな会話をする俺と春原を見て、智代はにっこりと笑った。
「それじゃ、すまないが、失礼させてもらう」
そう言うと長い髪をなびかせて廊下の先へ歩いていく。
「うん。…あっ、智代っ」
その背中に、杏が声をかけた。
「あんたも、その弁論の準備、がんばりなさいよ」
「ああ、ありがとう」
振り返り、互いに微笑を交わした。
…実はこのふたり、意外に仲がいいのだろうか。
そう思い、ついつい別の世界の記憶を思い出そうとして…それをやめる。すぐに別の世界の事情を気にするのは、多分、悪い癖だな。少しは自重しよう。
俺は今この世界を生きているのだ。
細かいことを気にしてしまっていても、始まらない。
「坂上さん、忙しそうです」
智代の背中を見送りながら、渚がぽつりと声を出す。
口の端を緩めて、温かい眼差しをしていた。
「そうね。でも、楽しそうだからいいじゃない」
「はい。そうかもしれません」
渚と杏が言葉を交わす。
たしかに、智代は無為に日々を過ごす姿は似合わないな。いつも何かをがんばっているほうが、よっぽどあいつらしい。
505
いつものように、昼食は資料室。
三々五々、部員がぞくぞくと集まってきて、全員揃って昼食を食べ始める。
そこに別段普段との違いなどはない。いつものことだ。創立者祭終わりで多少空気も変わったとはいえ、大きな違いなどはない。
だが。
「…あれ?」
他の部員たちが普段通りの様子で食事を始めて雑談を交わす中、俺はぼんやりとテーブルを囲む面々を見回した。
もうずいぶんここで食事をするのも慣れたもので、だいたい座る位置は決まっている。
足りない分のイスなどは他から持ち込んだりして、全員ここで揃って食事をできるようにした。
だが…。
「なぁ、空席なんて、あったっけ?」
ひとつ。
空いている席が、あった。
「あ…」
「そういえば…」
部員たちは今気付いた、というようにぼんやりと空席を見やった。
だが、あまりそれを追求することもなく、話は別のことへと移ってしまった。
俺もさして気にせず、その話題に入るが…
頭の片隅にちりちりと違和感が残っていた。
空席なんて、あったっけ?
「…」
かすかに誰かの面影が、脳裏に淡く浮かんで消える。
…。
昼食を食べつつ、なんとなく話が今後の展望に移る。
「文化祭で、やってみたい劇ですか」
話題がそのことになると、渚は難しい顔をした。
「ええと…いろいろ考えているんですが、すごく悩んでしまいます…」
どうやら、渚にもまだ何かをやりたいという気持ちがあっても何をやりたいという具体案はないようだ。
まあ、難しいだろう。そもそも創立者祭が終わったばかりだ。まだ具体案まで踏み込んで話す段階ではない。
しかし、俺たちの創立者祭の発表では渚がやってみたい劇をやる、というはっきりした指向性があったからその辺でもめることはなかったが、一から考えていく
となるとなかなか大変そうだ。
…渚の体の調子がどうなるか、というのが予測もつかないが。
「せっかく人数もいるんだし、今度は登場人物を増やしたいわね」
一同を見回して、杏。
「やっぱ、熱いアクションシーンとかも入れてド派手にしようよっ」
「春原、そうなってもお前はむしろやられる側だからな」
「あの、危険なのは多分止められると思います…」
春原の意見を、椋は苦笑して否定する。
「爆竹とかでもダメ?」
「はい…多分…」
「それじゃ、つまんないねえ。銃撃戦とかあっても面白そうなのにさ」
「お前は劇とドラマを勘違いしてるだろ」
「…春原さんは、なにかストーリーを考えているんですか?」
「おっ、有紀寧ちゃん、よく聞いてくれたねっ。せっかくなんだし、学園ドラマみたいなのがいいかなって」
「…学園ドラマ? 恋愛とか、友情ものということですか?」
杉坂が怪訝な顔で聞いた。
「馬鹿、ド派手って言ったじゃん」
「…春原先輩に馬鹿と言われてもものすごく納得できないんですけど」
杉坂はぶつぶつと小声で不満を口にするが、春原は取り合わなかった。
「すげぇワルたちが集まっている学校に、僕が転校生としてやってくるんだよ。それで、出てくる奴らをギッタンギッタンに…」
「あんた、女の子に悪役やらせるつもり?」
拳を握って楽しそうに話す春原を杏が半眼で睨む。
「仮装すればいいじゃん。それに、お話なんだから細かいことはナシナシ」
「…でも、わるい役も、面白そうなの」
ことみは結構乗り気だった。
「それじゃ、ことみちゃんは悪の魔法使い役ねっ」
「やった」
「…それ、喜ぶところ?」
杏がそれを見て苦笑する。
「ええと、そうすると、わたしは何役をすればいいんでしょうか?」
「…渚は悪の歌劇部長とかでいいんじゃないか」
「…ええっ?」
俺のセリフに、困った顔を向ける。
「なんだか…すごく、難しそうですっ」
ぷるぷると頭を振った。
「悪の歌劇部長…」
仁科が苦笑する。
「悪の歌劇部長って、どんな攻撃をするんでしょう?」
有紀寧が楽しそうにそんなことを言う。
「それ、気になるねえ。渚ちゃん、やってみてよ」
「ええっ?」
春原が無茶振りをした。
渚は困ったように慌てて、だがやがて心を決めたようだった(こういうのに律儀に応えようとするあたりが渚の性格だ)。
「ええと…『こんにちは、悪の歌劇部長です』」
「…」
「…」
…。
「あの…終わりです。えへへ」
ずるうううぅぅぅーーーーーーっ! と俺は床を滑っていった。
渚はちょっと頬を染めて笑っている。
「とっても丁寧な悪役なんですね」
仁科がくすくすと笑う。
その横で。
「ここは歌劇部長っぽく、演技で相手の心をえぐるというのはどうでしょう」
杉坂はまだ無茶振りを続けるようだった。
「なるほど、モノマネってことだね」
原田も渚を攻め立てる。
「ええっ…モノマネですか…」
さすがに渚は途方に暮れた。渚のモノマネなんて見たことないんだが。
「幸村の真似とか、結構簡単そうじゃないのか?」
「そうそう。死にそうな感じの声出せばジジイっぽくなるよ」
「春原さんとても失礼ですっ。それに、とっても難しそうです」
「それなら」
杏が口を挟む。
「人類が少なくなった世界で調停官の仕事をしている女の子のモノマネとかできるんじゃない?」
「あの」
椋も付け加える。
「盲目で病弱なケモノミミの女の子のモノマネもできるかもしれません…」
「すみません、よくわからないです」
渚は申し訳なさそうに頭を下げた。
「やっぱり、わたしにはそんな大役は無理そうです」
いや、むしろ端役だと思うんだが…。
「劇のほうじゃなくて、歌のほうでキャラを立てるのはどうでしょう」
「なるほど、超音波攻撃ということだね」
杉坂原田の暴走が止まらない。
「ていうか、超音波攻撃はことみの専売特許だろ」
俺はため息をつきながらツッコミを入れる。
「…超音波攻撃じゃ、ないもん」
ことみは横で膨れていたが。
「で、敵を倒してって目的はなんなのよ、結局?」
「へ?」
杏にそれを聞かれて、春原はアホみたいな顔になった。アクションシーンだけ考えていて、ストーリーは仕立てていなかったみたいだ。ま、そんなところだろう
が。
「うーん、ま、こういうのはやっぱ財宝か、囚われのお姫様を助けに行くって感じじゃない?」
「女の子を倒して女の子を助けに行くって、なんだかすごいストーリーですね…」
椋は苦笑した。
「それなら」
それを聞いていた杉坂が思いついた顔になる。
「お姫様役を岡崎先輩にして、岡崎先輩を助けに行くという筋立てはどうですか?」
「は?」
俺はハニワ顔になって杉坂を見た。
おまえは何を言っているんだ?
杉坂は至極真面目な表情をしていた。こいつ真面目に馬鹿だよな。
「なるほど、最後に『おまえらホモだったのかよォ!?』でエンディングに突入なんだね」
原田もうんうんと頷いた。
「…言っとくけど、それ、バッドエンドだから」
俺は呆れ果ててそれ以上のツッコミをする気も起きなかった。
「はあ。やっぱり、陽平の案なんて聞くんじゃなかったわ」
「ホモしか喜びませんからね」
「いや、あたしもそのラストはどうかと思うけど…」
杏は呆れた様子で原田を見やる。
「やっぱり、こういう劇って自分たちでシナリオをまた作るんでしょうか?」
仁科は友人二人の暴走を尻目に真剣に考え込んでいる様子。
「あるいは、原作を翻案する、というのもあるかもしれませんね」
有紀寧の案もアリかもしれない。
あまり演劇などに詳しくはないが、たしかに海外の物語をアレンジしたような作品とかドラマの舞台化とかもあるし、そういう方向性もいだろう。
「どうなんだ、部長としては」
「あ、ええと…」
あまり演劇知識がない渚は、水を向けるとちょっと慌てた。
「…ちょっと、いろいろ考えてみます。幸村先生とか、お父さんとかに相談したりして」
「…え?」
俺はぎょっとして渚を見た。
渚は、オッサンが昔演劇をやっていたことを知らないはずだが。
「あの、この間の劇でお父さんがすごく喜んでくれていたので、もしかしたら演劇が好きなのかもしれません」
俺の反応を見て、渚がそう言い添えた。
俺は胸をなでおろす。渚はその過去へは踏み込んでいないようだった。
「渚のお父さんがアドバイザーになったら、どんな劇になるか想像つかないわね…」
「ま、たしかにな…」
オッサン監修…。
ありえない話だとは思いつつも、想像するだに恐ろしいな。
「まだ時間はありますから、ゆっくり考えましょう。私たちも、合唱、どうしようかな…」
「そうね。実は、もうちょっと部員を増やしてもいいかなって思ってるんです」
「さすがに三人だと、できないこともありますから」
仁科たちが文化祭で合唱をやったかどうかというのはさすがに記憶にない。そもそもが部活がこんな連合する形になっている現在だ、やはり未来はわからない。
「そうか。がんばれよ」
「わたしも、資料室にもっとお客さんが来てくださるなら、大歓迎ですよ」
「実は、何人か興味を持ってくれている子はいるんです」
仁科がちょっと笑う。
「先輩方はみなさん有名ですから、そういった意味で有名になった部分がありますから。杏先輩とか」
「ま、人集めたいんだったら少しくらいダシにしても文句は言わないけどね」
杏はクールに肩をすくめてみせる。同性にモテすぎてもはやなんとも思わないようだった。
「あるいは、僕の隠れファンが一緒に部活をやりたいって思って合唱に声をかけてるかもねっ」
「いえ、春原先輩にはいませんが…」
杉坂はそう言って、思わせぶりに俺を見る。
…俺にはいるのだろうか。仮にそんな奴がいても、想像もつかないな。
「素敵な方が入ってくれればいいですね」
渚は期待するように言う。たしかにこの時期に部員が入ってくれたならば、それは創立者祭の発表が評価されたからという側面が強いだろう。人数が増えればで
きることも広がるだろうし、それはそれでありがたいし。
「そうですね。もしかしたら、合唱じゃなくて演劇をやりたいって子もいるかもしれませんね」
「もしそんな方がいたなら、とても嬉しいです」
「そうなったら、演劇の方も存続できるかもしれないのね」
「あ、たしかにそうですっ。もしそうなったら、すごく嬉しいです」
たしかに、下の学年にも連綿と部活動が受け継がれていくならば、それは結構嬉しいかもしれない。
今後の展望を語っていると、話は弾んだ。
506
食事も済んで、杏が持ってきた創立者祭の写真をそれぞれ回しながら眺める。
喫茶店でもよく写真を撮っていたが、それ以外の写真も結構あった。風景を写したものもあるし、渚の劇を写したものもあった。
「劇の写真、これ客席からだろ? 誰が撮ったんだ?」
「うちの親」
「ふぅん…」
実は藤林家の両親も来ていたようだ。知らなかったが、わざわざ報告するものでもないからな。
「お父さんもお母さんも、渚ちゃんの劇、よかったって言ってましたよ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、とても嬉しいです」
俺はぱらぱらと写真をくって見る。
喫茶店の写真。執事服姿の自分の姿を見ると、なんだかむず痒い感じがするな。自分の仮装した姿なんてわざわざきちんと見なかったから、こうやって改めて見
てみると違和感が大きい。
買い食いして歩いている写真。お祭り、という感じがして見ているだけでも楽しいものだ。
創立者祭は一昨日のことなのに、終わってしまうと随分昔のことにも感じる。
「やっぱり、りえちゃんのコスプレが一番似合ってるなあ」
二年のお化け屋敷に行った時の写真を眺めつつ、原田がつぶやいた。
「そ、そうかな。原田さんもすごく可愛いと思うけど」
仁科は白い着物を着てお岩さんのコスプレをしていた。原田はハロウィンの魔女姿だ。
「でもりえちゃんはこう、長所を伸ばしてる感じだからやっぱりいいよ。ゲームで言うと、素早さと攻撃力に極振りした感じ」
「よ、よくわからないけど…ありがとう」
「…二人は、そういう衣装だからいいでしょ」
そんな様子を見て、杉坂が若干ふてくされたように言い捨てた。
原田がそれを見てにっこりと笑う。
「あれれ? 杉坂さんは何のコスプレだったっけ?」
「…あんまりそれを言うと、尻小玉抜き取るわよ」
「…ひえぇ」
杉坂の剣呑な口調に、原田はぶるりと体を震わせた。アホだな。
そんな会話を尻目に、部員たちとちょっと言葉を交わしながら、俺は手に持った写真をくって目を通していく。
創立者祭の情景を眺めていくうちに、気付いた。自分が何か違和感を感じていることを。
どうしてそう感じるのかはわからない。
だが、よくよく考えてみると、この違和感は昨日からずっと感じているような気もするな。
それはなんなんだろう、と思う。
考えてみるが、なかなか実体は持たない。
何かが間違っているような感じだ。
突き詰めてみると、それは欠損感なのかもしれない。
俺は写真をくる。
飾り付けをされた校内。笑い合う表情。だが何かが足りない。
俺は写真をくる。
喫茶店で立ち働いている情景。写真を撮られているのに気付いてもいない生徒たち。だが何かが足りない。
俺は写真をくる。
俺は写真を見る。
それは、記念写真だ。
喫茶杏仁豆腐。クラス展が終わったあと、最後にみんなで写真を撮った。
藤林姉妹を真ん中にしている。杏は笑ってこちらを見据えている。椋は感極まって涙を流している。渚はそんな様子を微笑ましそうに見ている。ことみはやり
きった満足げな表情で写っている。春原はキザったらしくカッコつけるように半身でポーズをとっている。俺は忙しく働かされてやっと重荷がおりた、という様
子だ。
それは六人で撮った写真だった。
だが、その写真には違和感がある。
固まって撮ったはずの写真なのに、俺の隣にぽっかりと場所が空けられている。どうして、俺はそこを詰めなかったのだろうか。
違和感。欠損感。
俺は思わず、この資料室のひとつの空席に視線を移した。
何かが欠けている感じ。
何かを忘れている感じ。
胸が痛んだ。ちりちりと焦げ付くように。
俺は。
何かを忘れている。
それは大切なことだ。
俺は思い出す。
記憶を掘り起こす。
そして、頭に浮かんできたのは…
先日。俺が迷い込んだ不思議な場所。
あの場所で、あの少女が俺に言ったこと。
彼女は、記憶と思いを俺にくれると言ったのだ。
そして、彼女は、この世界の歪みを直すと言ったのだ。
そして俺は記憶を取り戻した。
渚と歩んだ未来の他に。
別の少女の手を取った、別の自分の人生を。
杏。智代。ことみ。有紀寧。椋。
…風子。
…。
「…」
俺は思い出していた。
彼女のことを忘れていたのに今やっと気がついた。
後ろから鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
俺はまじまじと手に持った写真を見つめた。
風子のいたはずの場所には誰も写っていなかった。後ろの壁が見えるのみ。
俺は他の写真を見る。
校内を歩いている時の写真。渚が誰もいない空間に向かって笑いかけている。
喫茶店の中を写した写真。客の生徒が、誰もいない空間に向かって話しかけている。
…彼女の姿が消えていた。
伊吹風子。
その少女が、まるで、初めからいなかったかのように。
思わず再びこの資料室の空席を見る。誰もいない。
慌てて、他の奴らが見ている写真を無理矢理に奪い取って、血眼になってそれを見る。
いない。
どこにもいない。
俺がこの世界に迷い込んで、まるで支えてくれるようにずっと傍にいてくれた風の少女の姿はどこにもない。
「ちょっと、朋也、どうしたのよ」
杏が驚いたように俺に言う。
「…風子、が」
俺は思わず彼女の名前を口に出してしまった。
その瞬間、しまった、と思った。
…創立者祭の夜、あの不思議な少女が俺に言ったこと。
この世界の歪みを直す。
その歪みとは一体なんだったのか。
もし彼女の存在そのものがこの世界に受け入れられているものではないのならば。
それなら、彼女は一体どうなってしまったのか。
昨日の公子さんの慌てた様子を思い出す。ああ、あの時、公子さんは一体何をしていたのだろうか。
そして俺はそれをあまり気にとめなかった。
俺でさえも、そうだった。
彼女のことを覚えていなかった。
俺があいつのことを思い出せたのは、別の世界の記憶をあの少女がくれたからだ。
思い出すまでは、彼女がはじめからいないかのように過ごしていた。
別の世界では、徐々に、関係の遠い人間からあいつのことを忘れていった。だが今回はそれとは全く違う。
そんな事情の違いの詳しいところまでは、すぐにはわからない。
だが。
他の奴らは、もう。
もう、彼女のことを…
俺は視線を周囲の部員たちにめぐらす。
突然写真を猛然と確認しだした俺に対して驚いているような表情。
そして、俺が言った彼女の名前に対して…
「風子って、誰?」
不思議そうな言葉。その名に聞き覚えすらないとでもいうような言葉。
俺が言ってしまったその名前に見当がつかないというその様子。
それが誰なのかわからないという言葉。
俺はそんな言葉など、聞きたくはなかったのだ。