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九時になってチャイムが鳴ると、各出展も開始となる。校門が開いて一般客が入ってくるのも同じ時間だ。
今は始まる直前、最後の数分間。
飾り付けに関しては終わっているから教室内には暇そうな奴も多いが、早速接客に入る生徒は衣装をチェックしたり、食器や機材の用意をしたり。
教室にいるのは三十人くらい。全員係の人間というわけでもなく、なんとなく居残っているだけという奴も多い。
部活の様子を見に行ってしまった生徒もいるし、そもそも教室は手狭だからと既にどこかに出かけていった生徒も多いようだ。
「お、岡崎…」
窓側に背をもたせてぼんやりしていると、俺と同じ執事服…というかタキシードを着た春原が腹を抑えてぷるぷる震えていた。
「武者震いしてきちゃったよ、僕…」
「…」
いや、おまえのはただのヘタレだと思うんだが。
とはいえ、その気持ちはわかる。
三年生で唯一の出展であるこの喫茶店、しかも女子はメイド服ということで話題性はあるようで、教室の外には既に何人もの生徒が集まっているのが見える。
チャイムが鳴ったら、すぐに入ってくるだろう。
一応先日少しだけ練習したとはいえ、そして客が同じ学校の生徒や父兄が中心だとはいえ、それは気休め程度のものだ。
こういう接客業、やったことなんてないからな…。
「練習を思い出せ」
「もう何やったか忘れちゃったよ」
先生、アホがいます。
「とりあえず、客に喧嘩売らなければいいから」
「それくらいなら、なんとかできるかな…」
なんとかなのかよ。
「相手がサッカー部員とかでもコーヒーかけたりするなよ」
「そんな大人気ないこと、しないよ」
そうだろうか?
サッカー部員に対しては狂犬みたいなイメージがあるが。
「それに、あいつらは多分ほとんど来ないでしょ。今日、サッカー部は招待試合があるからそっちで忙しいだろうし」
そういや、グラウンドではそんなイベントもやっているらしい。全然興味なかったが。
「じゃ、いいだろ。普通にやれ、普通に」
「普通ねぇ…」
「あ、でも、人間向けの接客にしてくれよ」
「人間じゃなかったら、誰向けの接客なんだよっ」
「そりゃ…モンスター向け?」
「どんな接客だっ」
「そりゃ…ケエェェェーーーッ!! みたいな?」
「わけわかんないんすけど」
「そういう接客はやめてくれって話だ」
「しねぇよっ」
「朋也、陽平っ」
不意に名前を呼ばれる。
はっとしてその方を向くと、カメラのフラッシュ。
杏がにこっと笑うと、すぐに去って行った。
「あいつ、元気だね…」
「ああ…」
今度は別の生徒の写真を撮っているのが見える。ついにカメラマン稼業にまで手を出しているらしい。同じように、クラスの中では結構写真を撮り合ったりしている。
その一団の中から、抜け出した風子が疲れたようにすぐ傍までやってきた。
「風子、とんでもない目に遭いました…」
大方、延々と写真を撮らされていたのだろう。
「大変だな…って…」
俺は風子を見て、視線が彼女の頭の上にのっているものに向けられる。
「…?」
風子はぽかんとした俺の顔を見て、少し首を傾げてこっちを見上げた。
杏と同じように、頭の上にミミがのっていた。フリルのカチューシャの左右にぴょこんとのっているそれは…
「…イヌミミ?」
「はい」
風子は無意識にか、それに手をやる。
「付けてくれと、頼まれました」
「へぇ…」
イヌミミメイドさん…。
「どうでしょうか?」
「あざとい」
「…すごく失礼ですっ」
「冗談だ。似合ってるぞ」
「そうだね。なんか、風子ちゃんって感じ」
春原も俺に同意する。
「そうですか」
少し照れたように、またちょいちょいとイヌミミを触ってみる風子。
普段の憎らしさが帳消しになるような、愛らしい姿だった。
「…朋也くん、おはよう」
いつの間にか、横にことみがいた。
さっきまではいなかったから、着替えて今来たところらしい。
「よう、おはよう…」
彼女に挨拶を返して、俺の視線は頭上へ…。
ことみの頭の上にのっているケモノミミカチューシャ…。
「…ウサギミミ?」
「うん」
ことみはこっくりと頷く。
「杏ちゃんが、これがないと始まらないからって」
「何を始めようとしているんだ、あいつは?」
普通にそれを聞いてみたい。
改めて見てみると、メイド姿の女子の何人かは頭にケモノミミカチューシャを付けているようだった。
この喫茶店…まだ始まってないのに迷走してないか?
心配になってくる…。
キーンコーンカーンコーン…
不意にチャイムが鳴る。
九時になったようだ。
そして、クラス展も開始の時間になったようだった。
俺たちは会話を打ち切って、とりあえず居住まいを正す。
引き戸が取り払われた入り口にテープを付けて入れないようにしたいたが、杏と椋が左右からそれを取り外す。
「喫茶杏仁豆腐、開店でーーーーすっ!」
外行きの溌剌とした声でそう言った。
同時に、先頭の客が教室に入ってくる。
「いらっしゃいませっ」
「いらっしゃいませーーー」
メイドたちが口々に言う。
「い、いらっしゃいませ…」
俺も続けてそう言うが、思いの外声が出ない。
…あぁ、萎縮してしまっているのか、こんなことで。そう思うと情けなくなってくる。
「わ、わ…」
後ろに隠れてしまったことみに比べると、まだマシかもしれないけど…
「おい、ことみ」
「朋也くん…いじめる?」
「いじめないから…」
既に涙目だった。
いよいよ客が入ってくる、という段になって相当緊張しているようだった。
「がんばれるか? 無理なら杏に言うか?」
そう聞くと、ことみはしばらく考えて…ふるふると首を振る。
「ううん…大丈夫」
「そうか」
ずっと図書室に篭っていたことみ。授業中は誰も訪れない場所だ。人が来る昼休みは散歩の時間と言って別のところに行って、放課後も生徒がくる前に帰ってしまっていた。
まるで、誰かと触れ合うことを避けているかのような暮らしだ。
そんな彼女と、俺が出会った。
多分、長い別離の時間を経て、俺たちは再会した。
彼女を図書室から連れ出して、部活の輪の中に入れて、クラス展の準備に巻き込んで、ヴァイオリンの発表会をやって…
少しずつ、その周りの輪が広がっていった。
狭い場所から、その手を広げた。
ことみはおずおずと俺の後ろから出てくる。
何人もの生徒たちが、わあわあと話しながら店内に案内されてくる。
「いらっしゃい、ませっ」
ことみは彼らに頭を下げる。
とてとてと席に案内されていない二人連れに声をかけると、彼らを誘っていく。傍から見ていてもぎこちない感じだが、模擬店だし、相手もそれについてとやかく言うつもりはないだろう。むしろ、微笑ましそうな顔をしていた。
さて、俺もやるか…
客席は結構埋まって、メニューを聞いている姿がそこここに見える。
ちなみに、今回のクラス展は前金制だ。客以外の生徒も頻繁に出入りするだろうということで、退店時後払いにしてしまうとそこまでは管理しきれない。金を貰って、すぐに商品は用意する。
ただ、コーヒーは作るのに時間がかかるからその注文があった場合は専用の立札を注文した客の前に置いておく必要がある。で、コーヒー担当には席の番号を書いたカードを渡しておくという手順だ。
…すげぇ面倒だ。
他のメニューの場合は、応対した人間が用意する。これはドリンク担当者にオーダーを伝えて色々用意してもらう。ここまで分業体制を整えているのは、混むことを予想しているからだろうか。
ま、俺がやるのは案内して、メニューを聞いて、それを用意して最後に会計というのが基本だ。ただコーヒーだけ特殊。
反芻する。大丈夫だ。
「おい」
俺は入り口の辺りで中をうかがっている男の二人連れに声をかける。
「は、はい」
「客か?」
やべ、つい普通の感じで声をかけてしまった。
ま、いいか。相手は下級生のようだし。
そう思ったが…次の瞬間。
…不意に殺気を感じて、俺は反射的に身をかがめる!
直後、頭上を風を切る音と共に何かが通り過ぎていった。そのまま、鈍い音を立てて壁にぶつかったそれは…
「…日仏辞典?」
投げられたところを見ると…殺気立った表情の杏が片手でドリッパーに湯を注ぎながら片手は振りかぶった格好で立っていた…。
すげぇ器用だな…。というか、あんな体勢であの力投かよ。
背中を冷たい汗が流れる。どうやら俺は監視されているようだ。
「いらっしゃいませ」
「は、はぁ…」
気を取り直して言い直すと、相手の男は呆然と俺を見た。
「こちらへ、どうぞ」
席へ案内する。
視界の端で杏の方を見ると、うんうんと頷いていた。これで正解らしい。
その傍らでは、姉の凶行を目にした妹が苦笑しながらこっちを見ていた。
俺は適当に空いた席に案内する。
「悪いな、男の案内で」
「いや、いいけど」
相手は俺の言葉に少し笑った。
多少は打ち解けた気分になったのか、カメラを取り出す。
「なあ、カメラで撮るのって、いいの? さっきも中で撮ってたしさ」
「はあ?」
「ほら、メイドさんを」
「ああ…」
そういえば考えていなかったが、確かに衣装は魅力的だ。カメラで撮りたいと思う気持ちはわかる。オッサンがバイトしていた渚に対してやっていたことと同じだ。
「ちょっと待っててくれ。聞いてみる」
「悪いね」
俺は注文も聞かず、責任者の藤林姉妹のところへ。
「おい」
コーヒーを用意している杏に声をかけると、迷惑そうな視線が返される。
「今聞かれたんだけど、写真を撮るのって自由なのか?」
「ああ…。それ、今椋とも話してたのよ」
「はい。さっきも他の方から聞かれたんです。勝手に撮っている人もいますし、ちゃんとルールを決めようって」
考えていることは、他の奴も同じようだった。
「他の子にも聞いてみて結論出すから、ちょっと待ってって伝えておいて」
「ああ、わかった」
忙しそうだ。始まったら始まったで問題が噴出する。
俺は客の元へ戻る。
「少し待ってくれって」
「あ、そうなの」
「先に注文をしてくれ」
「それじゃ、俺はコーヒー」
「俺はコーラで」
「ああ。両方200円」
ちなみにドリンクは全部200円。ケーキは全部400円だ。わかりやすさ重視らしい。
男子生徒から料金をもらう。
「えーと、かしこまりました。少々お待ちください」
思い出したように接客用語。
席を離れる。
「コーヒーとコーラ」
会計担当にそう伝えて、金を渡す。
「オッケー」
担当の男は表に何か記入しつつ、金を受け取る。何がいくつ売れたとか、売り上げの管理でもしているのだろう。この仕事は執事服を着なくていいみたいだから、こっちの方がよかったな、と少し思う。
俺は杏のところに行く。
「コーヒー入ったぞ」
「うん」
席のカードを杏の手前に置いて、立札を持っていく。
今度はドリンク担当のところへ。
「コーラひとつ」
「おう」
ドリンク担当の男に伝えると、コップに氷を入れて、ペットボトルのコーラを注ぐ。コーヒー以外は普通だよな。
コーラと立札を盆にのせて、客席へ戻る。
「お待たせしました、コーラです。コーヒーはもう少しかかる」
「ああ」
「サンキュ」
「いや…」
なんだか、店員に接するようなもっと気安いような、微妙な関係だった。少し気恥ずかしいな。
ともかく、これで一通り終わりだ。あとはコーヒーがあるが、それは空いている奴が呼ばれて運ぶことになる。
…これを一時間か。大変だな。
早速げんなりする俺。
周囲を見回すと、まだ席は空いているようだ。
また入り口のほうへ行って、待っている生徒に声をかける。
「いらっしゃいませ」
「あっ」
三人連れの女子生徒だった。俺の顔を見るとぱっと顔を上げる。
不良が真面目に接客しているのを見たからか、まじまじとこっちを見てくる。
「…何?」
「あの、岡崎先輩、それ、似合ってますねっ」
「そりゃ、どうも」
いきなり褒められる。知り合いだろうか?
だが、しげしげと相手の顔を見てみても、見覚えはない。
向こうは俺のことを知っているようだが。多分、俺が落ちこぼれで変に有名なせいだろう。
「こちらへ、どうぞ」
「わっ、わっ、ありがとうございますっ」
歩き出して背を向けると、きゃーっと三人が真後ろで騒ぎ出す。ラッキーだね、とか、カッコいいね、とか。
褒められているのか? と思って振り返ると、三人ともそっぽを向いてなんでもないような顔をしていた。なんだか、騙されたような気分になる。
首を傾げつつ、空いている席に案内する。
「注文をどうぞ」
「あのっ、一緒に写真を撮ることってできますか?」
「…」
またかよ。
「今話し合い中らしい」
「そうですか」
「で、注文だけど」
「はいっ」
女生徒たちはテーブルにさしているメニューを広げる。
「ねぇねぇ、どうする?」
「わあ、ケーキもあるよっ」
「結構安いね。一緒に頼んじゃう?」
「また太るよ?」
「今日くらいいいじゃんっ」
「…」
きゃぴきゃぴ。
楽しそうに会話する三人組。
俺はその横で、アホみたいにぼうっと突っ立っている。
間抜けな姿だった。
ああ…。
決めるまで長くかかりそうな時は、どうすればいいんだろうか。
ま、その場で会計してしまわないといけないみたいだから、待つしかないんだろうな…。
周囲を見てみると、もうほとんど客席は埋まっている。それでも外から覗く生徒も多いし、まだ店の手伝いの時間ではないクラスメートたちも店内で雑談をしつつ様子を見ている。
わあわあと騒ぐ生徒たち。歓声。装飾された教室。
春原ははじめヘタレたことを言っていたくせに、既に手馴れた様子で客の女生徒と話をしている。なんだかんだ要領がいい奴だ。
ことみは相変わらずぎくしゃくしていてロボットダンスのような接客になっているが、それがかえって同情を誘うようで、それはそれでできているとは言える。見ていて少し面白い。
滑り出しは、上々というところだろう。この階は三年のクラスが集まる階で、しかも展示はこの喫茶店くらい。僻地といってもいい割に、集まりがいい。
この辺りは、事前の宣伝活動とかが実を結んでいるのだろう。
「あの、先輩」
客の女生徒三人組の一人が甘えるような顔でこっちを見上げてくる。
「なかなか決められなくって、先輩のお勧めは何ですか?」
「えぇと…」
そんなこと聞かれても、知らない。
そうか、そういや、そういうのを聞かれる危険(?)もあるのか。考えていなかった。
「一応、コーヒーはちゃんと作ってるぞ、ほら」
一生懸命にコーヒーを作っている杏のほうを示す。あいつ、さっきからずっとあそこにへばりついているな。予想外にコーヒーの需要が多いのだろう。
写真撮影がどうのこうのを話すなどと言っていたが、今はそんな余裕もなさそうだった。
「でも私、コーヒー飲めないんです」
知るか、そんなの。
「砂糖をもらえ、砂糖を」
「いえー、あの苦味が…」
「わかるーっ。私も、砂糖入れなきゃ飲めないもん」
「わたしは、砂糖入れてもダメだよー」
「…」
なんでもいいから、早く決めてくれ。
…結局、数分間俺は客席の傍らで棒立ちする羽目になった。
ともかく、注文を受けて金をもらい、会計とオーダーと仕事をする。
「朋也っ」
途中、杏に呼ばれる。
「なんだよ」
「さっきの写真の話だけど、当人の許可が取れればオーケーで、隠し撮りはダメってなったから」
「ああ、わかった」
いつの間にか、そんな話し合いを進めていたらしい。こいつはずっとここで作業していたから、椋がそのあたりの調整をつけたのだろう。
杏は後ろでたむろしているE組の生徒を呼ぶと、写真の案内を掲示しろとかマニュアルにそのことを追加しておけとか、そんな話をし始める。
コーヒーを作りながらも、大変そうだ。見ていると、椋はまた別の生徒と一緒に話し合いをしている。なんだか、あいつも大変だな。
俺は商品を女生徒たちの元へ届けつつ、さっき決まったことを伝える。
それを聞くと、彼女らは嬉しそうに沸き立った。
「それじゃ、先輩、一枚お願いしますっ」
「…」
正直、かなり断りたいが…。
だが、そうできる雰囲気でもない。
「ああ…いいけど」
「あ、私もお願いします」
「わたしも、その次でいいので」
接客というより、見世物になっている気分だ…。
…。
しばらく、仕事を続ける。
客の回転サイクルは意外に早い。というか、外で待っている客も多いので、食事が終わった生徒に入れ替えを頼む羽目になる。
注文をしないけど写真を撮ってくれ、という客が結構多かったり単に友達と雑談しにきたりという生徒も多いので、クラスの中は実際の客数以上に人がたくさんいる。
「…あのっ、これ、どうぞっ」
そんな中で、風子は客席を回ってヒトデの彫刻を渡して回っていた。
今日のお祭りの空気に当てられてか、三年生も多い中かなり好意的に貰ってくれている。オープニングでのアピールが効いているのかもしれない。
風子はそれだけじゃなく、写真もよく求められていて多分一番の大人気だった。
今日がヒトデを配るボーナスステージだと言っていたが、本当にそんな感じかもしれない。
あれだけ人気者だと、また変なファンが増えそうなのが心配だった。
順調そうだから、何よりだ。
手の空いた俺は、教室の外に顔を出す。
「先輩っ」
すると、すぐさま声をかけられる。
仁科、杉坂、原田。あと他に数人の二年生の女子。クラスメートか何かだろうか。
「よお」
「盛況みたいですね」
仁科が中をちらっと覗いて、そう言う。
「ああ。今席がないから、待ってもらうことになるぞ」
「あ、いえ。実は私たちもこの後クラスのほうで仮装しなきゃいけないので、早めに戻らないといけないんです」
「そういえば、そんなこと言ってたな」
「なので、お客さんにはなれないんですけど」
「おまえも用事があるんだから、仕方がないだろ。気にするな」
「ありがとうございます」
会話をする俺たちを、杉坂や原田をはじめ、お連れの女子たちが興味深そうに見ている…。
「あの…」
仁科はちらちらとクラスの前に掲げてある看板と俺を見比べて、何か言い出そうとするものの後が続かない。
なんなんだよ、という視線を向けてみるも、仁科は調子の悪い機械みたいに奇妙な動作を繰り返すのみだった。
「あれれー? ここに一緒に写真が撮れるって書いてあるよー?」
「そうね、原田さん。先輩、せっかくだから写真を撮りませんか? ほら、記念に」
わざとらしく原田と杉坂が話に割り込んでくる。
「ねっ、りえちゃんもどう?」
「え、ええと、いいかもしれない、です…」
恥ずかしそうにそう言うと、俺を見上げる。
…こいつは、それが言い出せなかったのか。
「ま、別にいいけど…」
もちろん、悪い気がするわけではない。
それを見て、他の女子たちがくすくすと笑う。なんなんだ、一体。
「それじゃ、あたしが撮りますよっ」
「うん、ありがとう。それじゃ、いいですか?」
「ああ…」
クラスの手伝いから少し外れてしまうが、これくらいならいいだろう、多分。
俺は廊下で合唱の三人組と一緒に写真を撮る。
俺と仁科が真ん中で、両脇に杉坂と原田。
脇の二人が妙に密着してきて、結果的に俺と仁科の肩も触れ合うような距離になる。
ちらりと仁科のほうを見ると、耳の先を赤くして、自分に向けられているカメラにぎこちなく笑顔を向けていた。
「それじゃ、撮るよー」
「イェーイッ」
…原田、おまえは何でそんな元気なんだ?
片手で親指を立てて、片手でピースするという荒業を行っていた。
「いぇ、いえーいっ」
それに触発されてか、仁科も破れかぶれにそんなことを言う。
ああ、まったく、おかしな連中だ。本当。
だが、決してそれが嫌なわけではない。
俺も、なんとなく笑ってしまう。
写真を撮られるのが好きなわけではないが、今は向けられるカメラのレンズに素直に笑顔を向けることができた。
…そして、集合写真(?)のあとは仁科と二人で撮ることになる。
「あの、すみません、中忙しそうなのに」
「いや、大丈夫だ」
仁科は申し訳なさそうな顔をしているが、ここまできたら何しても同じだ。
「それじゃ、撮りますよ」
カメラマン交代して、カメラを持った杉坂がレンズを向ける。
「あ、ちょっと二人とも、そんな離れてるとちょっと一枚に納まらないですねー。もうちょっと寄ってもらえますか?」
「え…ええっ?」
仁科が慌てた声を出す。
杉坂…。てめぇ、一体何の恨みがあるんだ?
あいつからしたら、仁科のフォローができれば何でもOK、という感じなのかもしれないが。
「あー、確かにちょっと遠いですねー。ほらほら、こう、グッとっ」
原田も楽しそうなのが腹立たしい。
「…ッ」
仁科は恥ずかしそうに肩を震わせている。
「こ、これで写れますっ」
さすがに恥ずかしいのか、ちょっと怒ったようにそう言った。杉坂と原田は苦笑する。
「あはは、ごめんね、りえちゃん。それじゃ、撮るね。…はい、チーズ」
シャッター音が鳴る。
その後、すぐに仁科がぱっと距離をとる。
「あのっ、ありがとうございましたっ」
「いや…」
お互い、なんだか、気恥ずかしい。
「それじゃ、次は杉坂さんが撮る?」
「え? 私?」
「あれ? 一緒に撮らないの?」
連れの女生徒が杉坂にそんなことを言い、杉坂はいきなり慌てた様子になる。
「な、何で私が先輩なんかと…」
相当ひどい言い草だな。
「え? いいの、撮らなくて」
普通に不思議、という顔をする女生徒。
「せっかくだし、いいんじゃないの」
「うん、そうだよー」
他の級友からもそう促され、杉坂はおずおずと俺の横にやってくる。
仁科がくすくすと笑いながら女子の集団のところに戻った。
「まったく、もう…」
杉坂は少し照れた様子で、横に並ぶ。
「すみません、それじゃ一枚、お願いします」
「ああ」
さっさと終わらせてしまえ、そうですね、という会話を視線で交わし、俺たちはカメラの方を向く。
「あれ? 杉坂さん、もっと近くに寄らなくていいの?」
「…寄るかっ」
杉坂は原田に口汚くツッコミを入れた。
俺は苦笑するしかない。
…カシャッ。
そしてそんな瞬間が、見事に写されていた。
「…」
「…」
俺と杉坂は、無言で離れる。
デジカメじゃないから、どんな写真が撮れたのかは謎だ…。
その後、彼女らと多少の雑談をして、別れる。これからお化け屋敷のための着替えなどがあるらしい。あいつらもあいつらで、大変そうだ。
後姿を見送って、やれやれとひとつ息をつく。あんな何人もの女子が集まると、さすがにかしましい。
未だ、クラスの周りには順番待ちをしている生徒も多いし、中を覗き込む奴もたくさんいる。
しばらく手伝いから抜けてしまったし、教室に戻るかと足を踏み出した時…。
人ごみの中から、ぬっ、と異様な姿が現れた。
「…」
俺も、周囲の生徒もぽかんとそれを見る。
それは…クマの着ぐるみだった。
生徒たちの姿をうかがうようにしながら歩いてきて…不意に俺の方を見ると、視線を止めて、足が止まった。
「…」
「…」
何で、こんなところにクマの着ぐるみが…?
そいつは、特にどこからの出店の看板を持っているなどということもなかった。所属不明。正体不明。
なぜか急に、廊下に緊迫した空気が流れた。
だが、少しだけ俺を見ていたクマは、不意に視線を外すとまた歩き出した。
悠々とした足取りだった。
「えぇ、なんだったんだ、あれ…」
「着ぐるみ…?」
「おまえ、ちょっかい出してこいよ」
「やだよ、こえぇ」
周囲の生徒も、恐ろしげな様子で噂をしていた。
「ねぇ、岡崎くん、今の…知り合い?」
並んでいた生徒の一人が声をかけてくる。
「さすがに、クマの知り合いはいない」
「そうだよね…。どこかのクラブの宣伝かな?」
「看板、なかっただろ」
「あのクマそのものが、何かを表しているのかもしれないよ」
「何をだよ、一体」
「さあ…」
謎のクマは、生徒たちに困惑だけを投げかけて去って行ったのだった…。
…。
クラスの中に戻ると、相変わらずの盛況。
席が空く様子はまだない。俺は中の様子を見回す。
コーヒーを作っている杏の周りには、下級生の女子がわさわさと群がっていた。
その集団から、似合ってるとか、素敵とか、そんな黄色い声が飛んでくる。
中には、先日杏に愛の告白をしていた女子の姿もある。
あいつも、大変そうだな…。
ぜんぜん羨ましくないのが不思議だ。
「岡崎さん」
「渚」
いつの間にか、来ていたらしい。
客席についていたようではなかったから、他の歌劇部の面々とかと立ち話でもしていたのだろう。
「みなさん、とても忙しそうです」
「そうだな。でも、注文は落ち着いたから少しは暇になったよ」
「そうですかっ。あの…」
渚はつま先から頭まで、俺をしげしげと見やる。
「とっても、カッコいいです」
「そりゃ、ありがと」
「…えへへ」
渚も俺も、互いに気恥ずかしい気分になってしまい、顔を背ける。
とはいえ、渚にそう言ってもらえるのはかなり嬉しい。こんな変な格好をした甲斐があるというものだった。
「朋也ーっ!」
急に、杏に呼ばれる。
見てみると、いつの間にか彼女を囲んでいた集団は散って、またコーヒーの用意を進めているようだった。
配膳をしろということだろう。
「行ってくる」
「がんばってくださいっ」
「ああ」
壁際で雑談している奴らを避けて、杏の元へ。
「これ、お願いね」
「ああ」
コーヒーを受け取り、客席に届け、札を杏の元へと持ち帰る。
「大変そうだったな」
「こんな格好だから、やっぱりね」
杏は苦笑しながら、キツネミミをくいくいと引っ張って見せる。衣装がいい客引きになっていると言いたいのだろう。
「でも、予想外だったわ」
「?」
「思ったよりもコーヒーの注文が多くって、担当は大変かも。あたしは何回もやってるからまだいいけど、昨日練習しただけの子とかもいるし」
「コーヒー作れる奴、そんな少ないのか?」
「ここを二人体勢にすればいいんだけど…でも、そうすると女の子が料理作ってるばっかりで男子が運ぶみたいになっちゃうし」
たしかに、どちらかというと女子の衣装が売りなのに、メイドさんたちが裏方に固まっているというのも変な話だ。
「迂闊だったわ。男子にコーヒー習わせた方がよかったかも」
「暇な時間を見つけて、男にも少しずつ練習させてみるとか」
「うーん、そうしようかしら…」
腰に手を当てて、考え込むそぶり。
だが、不意に、その表情が険しくなって一点を見据えた。
その視線を辿っていくと…
春原が客の女子生徒に親しげに何か話しかけているのが見えた。相手は愛想笑いをしている。ナンパでもしているのだろう。
「あいつは、もうっ」
「春原だからな」
「陽平ーっ!」
渇をいれるが、女子との会話に夢中になっている春原は気付きもしなかった。
「聞こえてないみたいだな」
「ああ、もうっ。あの馬鹿、どうしてやろうかしら」
「呼び方が悪いんだよ」
「呼び方?」
いぶかしげな視線が向けられる。
「ああ。『ヨウヘイ、ヘ〜〜〜イッ!』って呼んでみるのはどうだ?」
「なに、それ?」
冷たい目を向けられる。どうやら通じなかったようだ。
「手っ取り早く済ませるわ」
そう言うと国語辞典を取り出した。いつも持ち歩いているのだろうか。
「…ふんッ」
とても若い女子とも思えない声を出して、振りかぶる。
…ガスン!
「ブベッ!」
見事春原の頭に直撃して、春原は吹っ飛んで行った。
「…おい、春原、大丈夫か?」
俺はさすがに春原の様子を見に行く。
あれだけ直撃したから、いくらギャグとはいえしばらくは復活できないかもしれない。
「おい、春原」
倒れた体を揺する。
「春原…」
だが、動かない。
「はは…」
俺の口から、乾いた笑いが漏れた。
「なぁ、春原…起きてくれよ、春原…。まさか、こんなところでおまえとお別れなんて…」
俺は天を仰ぐ。
「ああ、おまえと過ごした楽しい思い出が浮かんで……、ん…? あぁ、思い返すと、そんな楽しいこともなかったや」
「そこは楽しい思い出がいっぱいだったって言ってくれよっ!」
春原は復活した。
「悪い、俺、嘘はつけないんだ…」
「地味にすんげぇショックなんですけどっ」
「あんたたちーっ、馬鹿なことやってないで、帰ってきなさいーっ!」
杏に呼ばれる。
「ひぃっ」
「邪魔したな」
「あ、い、いえ…」
ぽかんとしていた女子生徒に声をかけて、春原を連れて行く。
「あ、あの」
だが、また声をかけられる。
「今の…そういう出し物なんですか?」
催し物だと思われていた!
「いや、こいつの暴走」
「すんませんでした」
「それは、とってもおかしいですね」
くすくすと笑う。
相手が心の広い奴でよかった。
その場を後にして、杏のところへ戻る。
「陽平、あんたね〜〜〜」
「はは、悪かったって。つい…」
「つい、で女の子ナンパしてるんじゃないわよっ。あんたの舌引っこ抜いて代わりに国語辞典突っ込むわよ」
「ひいいっ」
「お、お姉ちゃん…っ」
心配してか、椋がいさめに入る。
「そんなことしたら、春原くんがかわいそうだよ」
「椋、あんた優しすぎ」
「でも、誰にでもミスはあるし」
「…ねぇ岡崎、僕のナンパって、ミスなんすか?」
「成功率ゼロ、という意味ではミスかもしれないけど」
「ちくしょう、言いたい放題かよ」
「成功させたら、撤回してやるけど」
「それなら、やってみせるよっ。今日、僕は絶対に誰か女の子のナンパを成功してみせる!」
「…言っとくけど、手伝いの時間以外でやれよな」
「ああ。岡崎も、応援しててくれよなっ」
「んー、そうだな…」
俺は春原に向かって、笑顔で親指を立てる。
「グッドエッチ!(変態を祈る!)」
さわやかにそう言ってみせた。
「おう!」
健闘を祈られていると思い込んで、同じようにさわやかな返事が返ってきた。
「何の話をしてるの?」
「ちょっとな」
怪しむようにこちらを見る杏をやり過ごす。
「委員長、コーヒーをひとつお願いー」
いいタイミングで、邪魔(?)がはいる。
「あ、うん、オッケー」
なんとなくそれを合図に、そこに集まっていた俺たちは離散。
俺は空いた客席を片付けに向かう。
空いたところに、椋が別の客を案内してくる。
周囲を見ると、中は相変わらずの満員御礼。
渚はD組の女子やことみと折を見て喋ったりしつつ、俺たちの働く姿を見ていた。にこにこと笑っていて、楽しそうだった。
風子は客席を渡り歩いて、新しく来た客にヒトデをプレゼントして回っている。マスコット的な人気でもあるのか、しょっちゅう呼ばれて一緒に写真を撮ったりもしている。四六時中小動物みたいに周囲を警戒しているような奴だと思っていたが、いつの間にか度胸もついたのか、ちゃんと応対もできているようだった。
ことみも、それは同じかもしれない。人嫌いというわけでもないだろうが、ずっと図書室にこもって過ごしてきた。そこを飛び出して、今はいろいろな人と関わりあうことを知り始めているようだった。
この学校の生徒に対して敵愾心を抱いていた春原は、このお祭りの空気にあてられたのか、いつもより物腰は柔らかだった。男子に対してはいつも喧嘩を売っているような奴だが、今日はさすがにそんなことはしない。たくさんの人が関わりあって作り上げたこの出展を、こいつはこいつで大切に思っているならばいいけど。
そして、この主催者として最初に名乗りをあげた杏と椋。いよいよ当日を迎えて、忙しそうに立ち働いている。だけど、とても充実しているような様子だった。それは、そうだ。はじめは開催すら危ぶまれたくらい手伝いが集まらなかったのだ。それが、こうして、他のクラスからも手伝いが来てくれる規模になった。勉強ばかりが大切にされるこの学校で、楽しいことを作り上げた。多分それは、俺が思っている以上に厳しいものだったと思う。
まだまだ今日は始まったばかりだとはいえ、俺は笑い出したいような気分になっていた。
この学校の、お祭り騒ぎ。
それは、幸福な光景だった。
…。
やがて、給仕として拘束される時間が終わる。
荷物置き場兼着替え部屋にしているE組へ入ると、俺は早速窮屈な喉もとの蝶ネクタイを取ろうとする。
「あ、ちょっと待って」
杏がそれを止めた。
「せっかくだから、部員のみんなで一枚写真を撮りましょ」
「うん。とっても楽しかったから、思い出」
ことみが笑ってそう言う。最初は随分怯えていたが、なんだか一皮むけたような感じさえする。
「私、渚ちゃんと風子ちゃんも呼んできますね」
まだヒトデを配ると言った風子と、客で来ている渚はD組にいる。椋が彼女らを呼んでくる。
シャッターを押すのはクラスメートに任せて、歌劇部兼喫茶杏仁豆腐組がそこに集合。
俺、渚、杏、椋、風子、ことみ、春原。
渚の他は、みんな仮装をしている。
「わ、わたしも一緒でいいんですか…?」
「もちろんよ。渚も、準備手伝ってくれたじゃない」
「はい、ぜひ一緒に、渚ちゃんも写真を撮りましょう」
「…はいっ」
はじめ、少し遠巻きにしていた渚も、輪の中に入ってくる。
「それじゃ、そこにみんな立ってね」
カメラを持った女子が、俺たちに黒板の前を示す。
「杏、椋。おまえたちが真ん中にこいよ」
「へ?」
「私たちですか?」
「ああ。主役は、おまえらだろ?」
「はい、そうですっ。お二人とも、とてもがんばっていましたから、真ん中は杏ちゃんと椋ちゃんです」
「うん。私も、それがいいと思うの」
「はい。早くこっち、来てください」
「ほら、来ないと僕が真ん中取っちゃうよ」
他の連中も、口々に彼女らを誘った。
一番いい場所は、二人のために空けられてある。
「…あは。ありがとね」
杏は一瞬、こみ上げてくるものがあったようだが、それをこらえて笑ってみせる。
「う、ううー…」
椋は何かに耐えるかのような顔になっていた。どうやら、ここにきて感極まったようだった。
藤林姉妹は、俺たちに囲まれた真ん中に来ると、カメラの方を向く。
「はーい、それじゃ、撮るよー。ほら、笑って笑ってーっ」
そうして、小さく、シャッター音。
俺たちは笑っていて、椋だけ少し泣きそうで。
きっと、俺はいつまでもこの光景を覚えているのだろうな。そんなことを思った。