folks‐lore 05/11



466


俺と風子は、ほとんど手を離さずに靴を履き替えて、そのまま部室に入る。


中では既に部員は全員揃って練習を始めており、無言で中に入ってくる俺と風子のことを、奇妙なものでも見るように見つめた。


当然かもしれない。仲良く手を繋いでいる姿などを見せたことは今までなかった。


だが結局、彼らは何も言わなかった。


おそらく、俺と風子がかなり厳しい表情をしていたから、気を遣ってくれたのだろう。


なにがあったのかはわからないけれど、そっとしておこう、という了解が部室の中にすぐに満ちたのを感じた。


正直、その心遣いは今はありがたい。うまく誰かと会話する元気は、今のところはなかった。


俺と風子は部室の隅の椅子に腰掛けて部室の中を見回した


入ってきた俺たちに軽く挨拶の声をかけてきた後は、他の部員たちはそのままさっきまでしていた作業に戻っている。


渚が奥の方で演劇の練習をしていた。春原と椋とことみがそれを見ている。


仁科と杉坂と原田は入り口側で発声練習をしていた。


黒板の前で、杏と有紀寧が黒板に絵を描いていた。黒板には『あと0日!』と描かれていて、カウントダウンは終わっている。既に来たるべき時が来ている。そこに二人の少女が彩り鮮やかにチョークを滑らせて装飾を加えている。まるで祝福を与えるように。


その部室の空気は、俺の心になじんだ。


衝撃と絶望感にこちこちに固まっていた心が、少しずつほどけてくるのがわかる。そして、それは隣の風子も同じようだった。


ここは、温かい場所だった。


この創立者祭に向けて心通わせた仲間たち。


初めは、俺と渚だけがいて。


有紀寧が加わり、部活動としての体をなした。


仁科、杉坂との悶着があったものの、合同で発表をすることに決めて、共に歩みを踏み出した。


そこから、残り五人の部員探し。


仁科たちの努力が実って原田が加わり、クラス展の準備を手伝う代わりに藤林姉妹も手を貸してくれることになった。


ずっと図書室に引きこもっていたことみも、人の輪に加わって…


かつての俺と同じように部活動を憎んでいた春原も、俺たちの手を取った。


部活以外でも、芽衣ちゃんは自分たちのために骨をおってくれたし、美佐枝さんや芳野さんは助言をくれて、オッサンや早苗さんも暖かい目で見守ってくれていたことを知っている。


俺や風子の周囲には、輝く星のようにたくさんの人がいてくれたのだ。


腰掛けて、部室の中を見回していると、そんな今更すぎる事実に気付いてはっとする。


その光景は。


全員で目標に向かって努力している光景。笑顔を向けあう光景。


それは深く沈んだ自分の心を、少しでも救ってくれたように思った。



…。



ぼんやりとしているうちに、発表の時間は迫っていた。


いつの間にか幸村も部室にきていて、いよいよという雰囲気になっている。


幸村の最後のアドバイスを、渚が真剣に聞いている。


それを見ていて、俺はいよいよ本番なのだからもっとちゃんと渚を励ましてやらないと、と思う。


大切な発表の機会なのだ、ここで副部長であり、初めからこの部活をやってきた俺がきちんと彼女を支えてやらなければ、と。


だが、そう思うものの、体がきちんと動かない。


風子が公子さんに認識されず、目の前に分厚い幕を落とされたような気分になった。


やっとのことでそこから立ち上がったといっても、すぐに吹っ切れるわけでもない。


今の自分の足取りが、正しい場所に向かっているかわからない。


頭の中では本番の直前なのだからと思っていても、一度どん底まで落ちた気分がそれですぐに回復するということもない。


そんな俺を見かねてか、幸村との話を終えた渚がぱたぱたとすぐ傍にやってきた。


「岡崎さん、ふぅちゃん」


「ん?」


「はい」


「あの…元気、出してください」


心配そうな表情だった。


そりゃ、世界の終わりでも見てきたような顔をしていれば気にはなるだろうな。


「ああ、ありがと」


「大丈夫です」


とはいえ、こっちの事情をわざわざ説明することもできない。


渚は俺たちの返事に納得した様子でもなかったが、さすがに今は時間がない。


困ったような表情で部員たちの元へ戻っていこうとして…


急に、思い立ったような表情で踵を返し、俺と風子の手をとった。


「渚?」


「あの、わたし、おふたりがどうしたのか、事情はよくわからないですけど…」


「…」


俺も風子も、黙り込んで彼女の顔を見る。


包み込むような彼女の掌が温かい。


それは、まるで、この世界でただひとつ確かなものに思える。


「岡崎さんも、ふぅちゃんも、私にとってとても大切な方ですから…そんなに、悲しそうな顔をしないでほしいです」


「渚さん…ありがとうございます」


風子が、そうつぶやいて少しだけ頭を下げる。


「風子、少しだけ元気が出てきたかもしれません」


「だな…」


俺も横の風子に同意する。


さっき、公子さんと話して感じた閉塞感は、少しずつ薄れたようにも思う。


ひとつの目標に向かって努力している姿を見て。渚に心からの言葉をかけられて。


絶望と失望だけで世界は回っているわけではないのだと、そう思わせてくれた。


「そろそろ、時間じゃ」


幸村が言う。


発表の時間が迫っていた。


部員一同の表情が引き締まる。


「体育館に行かねば」


そう言って幸村が部室を出て行き、部員たちはその後を追った。


俺と風子は一番最後に部室を出る。


部室を出しなに、最後にちらりと中を見る。


部活を結成してから、毎日のように通った場所。


新しい居場所。暖かい居場所。


生きてもいないものを擬人化するのも間が抜けているかもしれない。それでも、この部室は、俺たちを勇気付けるようにそっと背中を押してくれているような気がした。


先を歩く部員たちの背中を追いかける。


「岡崎さん」


「ん?」


横を歩く風子が、こちらを見上げる。思えば、公子さんと会ってからずっと、言葉は交わしていなかった。ただ手を繋いで、心だけは繋がっていたが。


「もう、大丈夫ですか? 元気ですか?」


風子も、多少は精神的に落ち着いたようだ。


とはいえまだまだ本調子ではないだろうに、人の心配している場合ではない。


「大丈夫だ。元気だ。元気があれば何でもできる」


「はぁ…」


ぽかーんと俺を見る。少し恥ずかしかった。


「ていうか、おまえの方がショックは大きいだろ。辛いなら、無理しなくてもいいぞ」


「いえ、大丈夫です。風子、ああなるって、なんとなくわかっていましたから」


それでも、もしかしたらと期待もしていた。だから、自分が公子さんに見えていないとわかった時は反射的に癇癪を起こした。


今はもうあの時よりは冷静みたいだった。


普段はガキっぽいくせに、時々はっとさせられるほどしっかりしている。多分、それは、芯が強いということなのだろう。


それはこいつの美徳だろう。


「だから、大丈夫です。おねぇちゃんの結婚式があるまで、がんばります」


「それが…ずっと先のことになってしまっても?」


「はい」


こくりと頷く。迷いなどはない。


「それでも、です」


「…」


「やれるべきことは、きっと、あるはずなので」


そうなのだろうか。


公子さんに認識さえされず、まだこいつは希望を持ち続けられるのか。


俺は絶望や失望だけで世界が回っているわけではないと思いながらも、希望だけで世界が回っているわけでもないと考えていた。


風子のように、未来を信じて迷いなく歩んでいるとは言いづらい。


迷いながら、恐る恐ると、それでも足を進めているのみだ。


俺はまだまだ、一人前の人間というわけではないな。


まだまだ…俺は、この世界を恐れている。







467


体育館では、別の生徒が発表をしていた。バンドの演奏のようで、なかなか盛り上がっている。客の入りも結構いいみたいだ。


「…」


盛り上がっている様子を見て、仁科の表情がこわばっていた。緊張しているようだ。


あるいは、今の発表を見ていて、果たして自分たちもこれくらい盛り上げることができるか、などと考えてナイーブになっているのかもしれない。


仁科の性格を思うと、なんとなく彼女が考えていることも察せられる。


「仁科」


「…はい」


「今までがんばってきたんだから、大丈夫だ」


「そ、そうですね。ありがとうございます」


がんばって笑ってみせる仁科。


ああ、やはり、動きが固くなっている…。


「客を意識しすぎるなよ」


「はい…」


「全部、春原だと思え」


「…」


仁科は苦笑した。


「悪い、それじゃ歌ってやる気も失せるな」


「いえ、ぜんぜん、そんなことはないですけど」


「それじゃ、客を全部俺だと思え」


「…あの、その方が、ずっと緊張します」


顔を赤くして小声でそう言う。


「…」


なんとなく彼女の意図する意味が察せられて、俺も照れる。


「すみません、岡崎さんも気がかりなことがあるみたいなのに、私なんかに気を遣っていただいて」


「俺のことはいい」


気にしてもらっても、さすがに申し訳ない。


「自分のために、がんばれ」


「…はい」


「今日のために、がんばってきたんだろ」


「はい」


一度は諦めかけた、合唱という彼女の夢。


部員を集めようと努力して、それでもなかなか実を結ばなかった。


演劇と一緒になって部員を集めようという話になった時、彼女の心はきっと折れそうになったはずだ。


だが、それでも。


仁科は前に進むことを選んだ。


「俺は、おまえの歌っている姿が好きだよ。だから、がんばれ」


「ありがとうございますっ」


俺の言葉に、少しは表情がほぐれたような気もする。


「期待にこたえられるように、がんばってみます」


仁科は笑ってみせた。


少しは、気がまぎれればいい。俺はそう思った。







468


演劇・合唱共に部員全員が舞台袖に移動する。


バンドの演奏はそろそろ終わりそうだ。


次はいよいよ合唱の発表。


彼女らは先ほどまでは幸村も一緒になって輪になって最後の話をしていたが、今ではそれも終わった。


仁科、杉坂、原田はさすがに真剣な様子で自分たちの出番を待っている。


仁科を真ん中にして、舞台の袖で手を繋ぎあって出番を待っていた。


ステージの上は明るく照明が輝いて、こちらは陰になっている。


だから、少し離れたここからだと、彼女らの姿がシルエットになって見えた。


まるで、明るいほうへ向かって歩き出そうとしているような姿だった。


彼女らへのエールは、先ほど済ませた。後はその晴れ舞台をここから見守るのみだ。



…。



バンドの演奏が終わり、発表をしていた生徒たちが舞台袖に下がってくる。


彼らは、拍手を受けて、満ち足りた表情だった。


準備のために小休止、ということで幕が下りる。舞台の上の演奏器具が撤去され、壇上には何も残らない。


今回の合唱では伴奏はテープで流されるから舞台の上にのぼるのは、三人の少女だけ。だから、ひどく、向かう先は広く見える。


舞台を見ていた彼女らが、そこへ行く直前、俺たちを振り返った。


そして、照明溢れる壇上へ進むと、ぱっとその身がシルエットから実体へとかわる。


彼女らは手を離すと、小さく言葉を交わす。少しの距離をとり、客席の方へ向いて並んだ。


そしてやがて。


『続きまして、歌劇部、合唱の発表です』


簡素なアナウンスが流れる。客席の方から拍手が聞こえる。かすかな起動音と一緒に、下ろされていた幕が上がった。


客席の方から、拍手が聞こえる。


こうしてみていると、壇上に三人の少女が立っているだけ、というのはなんとも心もとないような印象がある。


俺ははらはらとした気持ちでそれを見てしまうが、こちらはこちらで次の演劇の準備をしなくてはならない。用具置き場になっているところから背景などの備品を取り出して、合唱が終わったらすぐに設営ができるように準備をする。


…落ちていく砂時計ばかり見てるよ…


…逆さまにすればほらまた始まるよ…


聞こえてくる歌声に、俺は作業の手を止めて、壇上を見やる。


たくさんの光を受けて、仁科たちが歌をうたっている。


彼女らの、夢の舞台。


新しい夢が今果たされている。


ここからでは、彼女らの表情はよくは見えない。


だが、この歌を聞いていれば、どんな顔をしているかはわかる。


きっと、彼女らは、笑っている。


それならば、それ以上に求めることなどはないだろう。



…。



一曲目、『時を刻む唄』が終わる。


伴奏が終わると、再び拍手。


たくさんの拍手。


目を閉じると、それはざあざあと波音にも聞こえる。


合唱は三人で人数が多いとは言えないが、その歌声はのびのびとしていて、広い体育館にいっぱいに響いた。合唱に詳しくはないが、彼女らの歌は決してレベルが低いということはないだろう。


人数が少ないからこそ、ひとりひとりが役目を果たさなくては発表が成り立たない。


最初の曲が終わる頃には既に演劇の準備も終わっていて、舞台袖の俺たちも心からの拍手を送った。


仁科たちは、ぺこりと揃って礼をする。


そして頭を上げると、再び別の曲の伴奏が始まった。


途中でMCみたいなものはないらしい。バンドではないから当然だろう。


この曲も、聞き覚えがあるもの。


部活をしていると、いつも隣の教室から漏れ聞こえてきた曲…。


だが、きちんと耳を澄ませたことはないな。


それでも、曲の題名くらいは覚えている。


たしか、この曲は…


「…」


そうだ、題名は。


影二つ。


…あの始まりの日 強がってた…


…幼い出逢いに 背伸びをしていた…


…同じ風を受け 笑いあった…


…ああ 振り返れば 懐かしい日々…


歌が聞こえる。


俺は目を閉じて、耳を澄ませた。


公子さんと会ってからずっと乱れていた心が、落ち着いていた。


その歌声が、俺を慰撫した。


まだがんばれる、と俺は思う。


なにを諦める、なにができないと考えるのはやめておく。


俺は夢を見よう。


願いのために、夢を見よう。


自分のための夢であり、渚のためで夢であり、たくさんの人の夢だ。


そう思った、瞬間。


不意に、閉じたまぶたのその裏に、懐かしい景色が見えたような気がした。


それは草原。


風が吹く場所。


そして、その上を飛び交う、数多の…


…だが、不意にその幻想はやぶられる。


いつの間にか仁科たちの合唱が終わっていて、俺の意識はたくさんの拍手に現実に引き戻されていた。


夢でも見ていた気分だ。


俺は気を取り直して、彼女らに惜しみなく拍手を送る。


だが、そう思いながら、頭の片隅に。


風吹く丘が、おぼろげに見えるような気がする。







469


拍手。


それを受けて頭を下げる合唱の三人…仁科、杉坂、原田。


彼女らは幕がおろされるまで頭を下げたままで、やがて客席が見えなくなると軽く声を掛け合い、こちらの舞台袖に戻ってくる。


その表情は、晴れやかだった。


彼女らは夢を果たしたのだ。


仁科を中心にして、新しい夢を見つけて。


一度は断念しそうになっても、諦めずに努力してこの場所にたどり着いた。


「よかったぞ」


「ありがとうございます」


仁科と言葉を交わす。


ゆっくりと話をしている時間はない。こっちはこれから本番だ。


「岡崎さんのおかげです」


「おまえの力だよ」


「…」


仁科は、にっこりと笑う。


「がんばってください」


「ああ」


「私たちも、応援してますね」


「先輩、ご武運を」


杉坂と原田もそう言葉をかける。


彼女らは渚にも色々と声をかけていた。


あまり長話をする余裕がないのは互いに承知だ、それもすぐに終わる。


幸村に呼ばれて、部員たちが輪になって集まる。


渚は演劇の衣装に身を包んでいる。


俺を含め、背景の入れ替えなどで壇上で作業がある部員は動きやすい黒いTシャツに着替えている。


「…うむ、全員、揃ってるの」


一同を見渡し、老教師は何度も頷く。


「いよいよ、本番じゃ」


その言葉に、部員も頷く。


渚、有紀寧、杏、ことみ、椋、春原、仁科、杉坂、原田。


「十分、練習はしたはずだからの。後は存分に楽しめばよい」


はいっ、と、俺たちは先生の言葉に声を揃えて返事をする。


先生は、目を細めて俺たちの顔を眺め、やがて何かを促すように渚に目をやった。


渚も、さすがにしばらく部長としてやってきただけあって、自分が号令を求められているとすぐに合点がいったようだった。


とはいえそういうのが得意なわけでもなく、ちょっと困ったような表情で一堂を見回した。


「ええと、その…」


なにを言うか考えているような様子で、しばらく口をつぐみ…


「わたし、ずっと…演劇をするのが夢でした」


言葉を、つむぐ。


「ですけど、一、二年生の頃はそれどころじゃなくって…」

「三年生になってからはずっと欠席してしまって…」

「もう一度三年生としてこの学校に戻ってきたのも、始業式から二週間も過ぎてからでした」

「クラスはもうグループができてしまって、わたしはひとりきりだと思いました」

「そう思ったら、坂の下まで来て、それ以上上ることができなくなってしまいました」

「仲のよかったお友達もいなくなってしまって…」

「時の流れは変えることができなくて…」

「それを思ったら、もう動けなくなってしまいました」

「でも、そんなわたしに、声をかけてくれる人がいました」

「岡崎さん」


俺を見る。視線が重なる。


「岡崎さんはわたしと一緒に坂を上ってくれて…」

「毎日、坂の下で立ち止まってしまうわたしの背中を押してくれて…」

「新しい大事なものを見つければいいって言ってくれて…」

「それで、がんばれました」

「諦めていた夢でしたけど、演劇をやろうと決めました」

「最初はわたしたちだけで…」


俺と渚は目配せをかわす。


「宮沢さんが部員になってくれて…」


有紀寧がにっこりと笑う。


「仁科さんたちとは最初幸村先生の取り合いもしましたけど、そのあと、一緒にがんばろうと決めました」


仁科がはにかむように笑う。杉坂が苦笑気味に笑う。


「原田さん、杏ちゃん、椋ちゃん、ことみちゃん、春原さんも部員になってくださいました」


名を呼ばれた部員たちが、渚に笑顔を向けた。


「初めは演劇部は廃部になっていて、誰もいませんでした」

「でも今は、歌劇部になって、こんなたくさんの人が集まってくれました」

「わたしは、大事なものを見つけることができました」

「だから、ありがとうございます」

「みなさんと一緒なら、がんばれると思います」

「これから、いよいよ、本番です」

「みなさん、がんばりましょうっ」


渚の号令。


彼女の心の底から語った言葉。


部員たちは声を上げて、彼女の心の応えた。


声を掛け合って、準備に奔る。仁科たちも準備に手を貸してくれた。


俺も自分の準備をする。


背景を用意する。


イスやテーブルなどのセットを音を立てないようにそっとステージ上の所定の場所に設置する。


下ろされた幕の向こうから、客のざわめきが聞こえてくる。


オッサンや早苗さんは娘の晴れ舞台を心待ちにしているだろう。


公子さんも、親父も、風子も、芽衣ちゃんも、美佐枝さんも、木村という渚の休学前の友人も。


渚の演技が始まるのを待っている。


「始めていいですか?」


こちらの準備を伺っていた実行委員が尋ねる。


背景や小道具類の設置も終えて、渚も壇上の中央に立っている。


「は…はいっ」


渚が、緊張した様子で返事をした。


「ちょっと待って」


だが、俺はそう言って、渚のそばに寄る。


「…岡崎さん?」


壇上でたった一人で立っていた渚は、俺を不思議そうに見上げる。


「渚」


反射的に声をかけて、なにを言うというつもりもなかった。


何か激励の言葉を、と思い巡らせて考えたのは…前回の創立者祭のこと。


かつての創立者祭。


俺と渚と春原だけの創立者祭。


あの日、渚は両親がかつて見ていた夢を渚に託したことを知ってしまった。


自分が親の夢を阻んでしまったと思って、一歩も動き出せなくなってしまった。


だが、今日は違う。


渚は自分の夢を見据えている。


部員たちは彼女を支えている。


進む先には、少しの障害もない。


かつてのように、渚が壇上で涙を流してしまうことはないだろう。


…俺は、あの時のことを鮮やかに思い出す。


歩みを止めてしまった彼女にかけられた、いくつもの言葉。


「夢を叶えろ、渚」


俺はそれを、口にした。


あの時のように、彼女を引っ張りあげるための言葉ではない。


共に隣を歩むための言葉。


「…はいっ」


渚は笑って、頷いてみせた。


それを見届けて、安心する。


舞台袖に戻ると同時、放送がかかる。


「続きまして、歌劇部、演劇『幻想物語』です」


幕が上がる、拍手が聞こえる。


「がんばれーっ!」


客席の方から、声が聞こえた。


聞き覚えはないが、若い女の声。渚のクラスメートか、あるいは木村という友人か。


「がんばってっ!」


「がんばってくださいーっ!」


「渚、おまえは最高だぜええーーーっ!!」


続くように、いくつかの声。芽衣ちゃんの声も聞こえた。


オッサンの見当違いのエールは聞かなかったことにする。


劇は結構シリアスなんだけど、そんなスポ根的な応援をされるとは。


俺は苦笑する。だが、こういう感じも悪くない。


幕が上がりきる。


劇が始まった。



…。



渚に光が当てられる。


だんだんと音楽が聞こえてくる。


マ・メール・ロワ。仁科が用意してくれた曲だ。


「あなたを…」


そっと、右手を差し出した。


「あなたを、お連れしましょうか」


小さな姿。


彼女の姿は、俺にとって何よりも尊いものに感じた。


俺の知らない世界からやってきた、異世界からの使者。


「この町の願いが叶う場所に」


そうだ、と頷く。


渚。


連れて行ってくれ、俺たちを。




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