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校門のあたりに着くと、既に風子の姿があった。
ひとり立ち尽くして、手持ち無沙汰な様子で待っていた。
格好は制服に着替えている。手元には公子さんのために作った特製のヒトデがある。
「あ…」
俺の姿を見ると、少しほっとした表情になった。ひとりでここで公子さんを待ちながら期待と不安を感じていたのだろう。俺が彼女の横に立って、それで少しでも気がまぎれればいい。
「よう」
「…」
声をかけると、ぺこりと頭を下げた。
その様子は、傍から見ても緊張しているようだった。
それも仕方がない、と思う。
なにせ、この姉妹はずっと言葉を交わすことなどできなかったのだ。
公子さんはきっと何度も風子の病室を訪れて声をかけたのだろう。だが、それに返事はなかった。
交通事故に遭って、風子はずっと眠り続けた。
彼女が事故に遭ったのは始業式の日だというから、二年も前だ。二年間、それは長い時間だ。
そして風子も、意識だけが飛び出してこの学校をさまよい、それでも公子さんに会うことはなかった。
彼女が願ったのは、公子さんの結婚を祝うことだ。
よりたくさんの学校の生徒に、一緒にその結婚を祝ってもらおうとした。
姉妹の思いはお互いに向けられていて、それでもその思いは触れ合わなかった。
それはきっと、悲しいことだろう。
言葉を交わすことができるならば、二人手を取り合って、肩を並べ合って、同じ場所を目指していけばいい。
そして今日が、そのきっかけになればいい。
俺はそう思った。
二人で並んで、校門の脇で待つ。
今はそろそろ、昼下がり。
外来の客が一番来ている時間だろう。
ぽつぽつと坂を上ってくる人がいる。でも、まだまだ帰っていく姿はほとんどない。
きっと校内の出展やイベントは盛り上がっていることだろう。
俺はその中を遊んで回る部員たちや、校内の状況に視線をめぐらせる智代の姿や、忙しく立ち働くクラスメートたちの姿を想像してみる。
創立者祭。
待ちわびたその日。
すべては今日のためにやってきて、すべては今日から始まっていくのだ。
俺はしばらくの間、目を閉じて遠くに聞こえるお祭りの喧騒に耳を澄ませていた。
それは、悪い気分ではない。
きっとずっと昔の自分ならば憎憎しく感じていたに違いないその感じを、むしろ今では好ましく思っている。
それは、自分の中に何が変わったからだろうか。
俺はあの始まりの日から、どれだけ前に進めたのだろうか。
…しばらく、そんなことを考えていて。
俺は目を開ける。坂の方を見る。
「あ…」
そこに、公子さんがやってくるのを見つけた。
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「岡崎さん。わざわざ、すみません。迎えに来てもらって」
近づく俺を見て、公子さんはにっこりと笑った。
「いえ」
「この学校に来るのも、ずいぶん久しぶりです。お客さんとしてくるというのも、なんだか照れくさいですね」
公子さんはそう言うと笑顔を見せて、校舎を見上げる。ここから校舎を見上げると、創立者祭の垂れ幕がかかっているのが見える。喧騒は遠いが、ここからでも中での活気が伝わってくる。
「渚ちゃんは、一緒じゃないんですか?」
公子さんは周囲を見回して、俺に尋ねた。
「あいつは…そろそろ本番だから、先に部室に行って練習しないといけなくて…」
「ああ、そうですよね。渚ちゃんにとっては今日が夢の舞台ですから、今頃すごく緊張していそう」
にっこりと笑う。
俺は公子さんの様子を見て、段々と…不安になってくる。
少し離れたところで、風子がこちらを見ている。公子さんがこちらに気付いた時、俺はすぐさま駆け寄ったが、風子は様子を伺うように、じっとその場にとどまっていた。
そして公子さんは、そのまま立ち尽くしている風子を気にする様子がない。
公子さんは、あまりにも自然な様子だった。
近づく俺を見つけた時にしっかりこちらを見ていたはずなのに。渚のことを聞いた時、彼女は辺りを見回したというのに。
それならば、こちらをじっと見ている一人の少女がいることに気が付くはずなのに。
あまりにも、それに対する反応がない。
それは…
…まるで、先日の芳野さんと同じように。
まるで、その目の前に…ずっと言葉を交わすこともかなわなかった妹がいることにも気付かないように…。
小さな不安が燃え上がり、俺の心を焦燥で焦がす。
俺は聞けない。
また、怖くて聞くことができない。
そこにあなたの妹がいるんですよ、などと俺は言えない。
…その結果を、俺は予測していないわけではなかった。
だけど、そんなことがあってたまるか、と。あいつがあれだけがんばっているのに、それが報われないことがあってなるものかと思っていた。
互いを求め合っている姉妹が、こんな傍にいるのに言葉を交わせないことがあっていいのか、と。
俺は結局、考えたくもないことから目を背けていたということなのだろうか。
前に進んでいけばいいと思ってこんな状況を作り出して、そうすればすべてがうまく運ぶとでも思っていたのだろうか。
心臓が鉛にでもなってしまったかのような気分だった。
俺でさえそうなのだから、風子の心中は想像もできない。
風子は、公子さんのためにずっとがんばってきた。
たくさんのプレゼントを作った。そして、時に誰かに拒絶されながらも、少しずつ彼女の周囲にその輪を広げていった。
それでも、その思いは結局公子さんに届かなかったのだ。
…かつて。
俺がこの時間に舞い戻ってくる前。一度目の高校生活を送っていた時。
その時代に、俺と風子がこの学校で出会うことはなかった。
だが、もしかしたら俺の知らないところで当時の風子も学校の生徒たちにプレゼントを配って回っていたのかもしれない。
そして、その少女も…同じように、その思いが届かなかったのかもしれない。
「岡崎さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ」
公子さんが俺の顔を覗き込んでいる。
思い悩んで立ち尽くした俺を見て、心配そうな表情で。
彼女はしばらく俺の顔を見ていたが…やがて、にこりと笑った。
「もしかして、岡崎さんも、緊張しているんですか?」
「…」
いよいよ本番が近くなっていて、それが気がかりなのだと思ったようだ。
だが、それは…違う。
違うんです、公子さん。
俺はどうしてもそう言いたくなる。だけどどうしてもそう言うことなどできない。
俺は後ろを振り返る。
風子は…
じっと、公子さんのことを見ていた。瞬きすらしないで、強く強く。
だが、公子さんはそんな視線に気付きさえもしなかった。
結局、無駄な努力だったのだろうか。
風子の思いは届かなかったのだろうか。
また、公子さんが芳野さんと結婚するのは何年も先になってしまって、風子が目覚めるのもずっと先になってしまうのだろうか。
俺はそこまで思って、自分の考えが恐ろしい方向に向かっていることに気付く。
風子が目覚めるのは、あと何年も先になってしまう。
そうしたら…。
今ここにいる、この風子は、一体どうなってしまうんだ?
俺は背筋を氷で撫でられたような気分になる。
思わず風子をしっかりと見つめてしまう。まるで、気を抜くと彼女がいなくなってしまうのではないか、というような焦りに襲われて。
視線の先で、風子はやはりこちらを見ている。
姿の見えない、言葉を交わすこともできない姉の姿を瞳に焼き付けるようにじっと見ている。
「…?」
俺の視線に公子さんが小首をかしげる。
彼女も俺と同じように、校門の脇…風子の元に、視線を送った。
そして、目を凝らすようにそちらを見た。
風子と、公子さん。
ふたりの視線が重なった。
俺はそれを見て、はっとする。
今やっと、姉妹の思いは通じたのだろうかと。
公子さんと目が合ったからだろうか、風子が弾かれたようにこちらに駆けてくる。公子さんの眼差しを求めるように、まっすぐに姉のもとへと。
「…おねぇちゃんっ!」
切実な風子の声。
すぐ傍まで来て、慌てたようにプレゼントを差し出す。彼女の方を見てくれている姉に向かって。
それは、風子の作った特別製。ふたつのヒトデが仲良く重なった形をした結婚のお祝い。
「これっ、どうぞっ。おねぇちゃんのために、作りましたっ」
そう言って、ぐっと差し出すプレゼント。
そして…
公子さんは、すっと自然に、風子から視線をそらせた。
「岡崎さん、どうかしたんですか? あちらに、なにかあったんですか?」
小首を傾げて、そう聞いた。
「公子さん…」
俺はそれ以上何も言うことができなかった。
あまりのことに、言葉が出ない。
そんな俺の様子を公子さんは不思議そうに見ていたが、ともかく、あまり気にしないように決めたようだった。
きっと、本番直前でナイーブになっているとでも思ったのだろう。彼女は気を取り直して笑顔を見せてくれる。
「私は、先に少し校内を見てみますね。他の先生方にも、挨拶をしたいですし」
その隣で立ち尽くす風子のことを顧みることもない。
風子が泣きそうな顔で力なく腕を落とす。からん、と音を立ててプレゼントが地面に落ちた。
その音を聞いて、公子さんは不思議そうにまた風子のほうに目をやって…だが、特に何の感懐も沸かなかった様子で俺に向き直る。
「岡崎さんも、わざわざおひとりでここまで来ていただいて、ありがとうございます。渚ちゃんに、私からがんばってと言っていたと伝えておいてくださいねっ」
なんて…
それは、なんて残酷な言葉なのだろうか…。
すぐ横で立ち尽くしている妹の姿に気付くことさえなくて…
公子さんはにこにこと笑いながら、小さく手を振って歩いていってしまった。
そして、そこに俺と風子が取り残される。
まるで、違う世界に置き去りにされたように。
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俺はいつまでも公子さんが去っていった方を見ていた。今はもうその先に誰もいない。創立者祭の案内で通常はこのあたりにも係の人間がいるはずなのに、なぜか今は周囲に誰もいなかった。
もれ聞こえる祭りのざわめきさえも、薄い膜を隔てて聞こえてくるような気がする。
世界が色を失ってしまったかのようだった。
今まで、希望を持って、前を向いて、ひたむきにがんばってきた。
それが一瞬でひっくり返されて、頭の奥がしびれたように何も考えられない。
呆然と立ち尽くし、だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「風子…?」
俺は恐る恐る、後ろを振り返る。
彼女は、さっきと同じ体勢で、プレゼントのヒトデを傍らに落として立ち尽くしたまま、公子さんの消えた先を見ていた。
その瞳に、少しの輝きすらない。
「…風子」
俺は彼女のすぐ傍に寄る。
落としたままのヒトデを拾って、その手に持たせてやる。
これはこいつにとって大切なものだ。転がしといていいものではない。
だが、彼女の手にそれを触れさせた瞬間、風子はびくりと体を震わせて、俺の手から彫刻をもぎ取った。そして、そのまま力いっぱいに木彫りの彫刻を投げ飛ばす。
かすかに風を切る音と共に、彼女の星型の気持ちは坂道の脇の茂みに飛んでいった。あっという間に、見えなくなる。
あまりのことで、それはむしろ非現実的なものに見えた。
「…っ」
呆然とする俺をよそに、風子はぶんぶんと頭を振る。
「もう、いいです…っ」
それは、駄々をこねるような仕草だった。
「あんなもの…っ!」
「風子っ!」
俺は思わず彼女の小さな体を抱きしめる。
彼女の体がぶるぶると震えている。
あの風子が、ヒトデのことが大好きだと言っている彼女が、それを投げてしまって、あんなものと言い放って。
その姿があまりにも悲しげだった。
それは、俺が見たこともないような彼女の姿だった。
ひたむきな努力が少しの実りもなく否定された。おまけに今の彼女は、公子さんのお祝いのためだけに存在しているような状況だというのに。
「悪かった、俺のせいだ」
こんなことになるならば、顔を合わせないほうがよかった。
風子が積極的に求めていないのに、俺が無理矢理に姉妹のつながりを求めた。公子さんをこの場に呼んで、顔合わせの場を設けた。
そして、蓋を開けてみて。
…その結果が、これだ。
自分自身が嫌になる。
抱きすくめられた風子はどしどしと二度俺の肩を殴る。自棄になったように。
それも当然だ。これで気が済むならばいくらでも叩いてくれればいい。だが問題はそう単純ではない。
すぐに、風子は俺を叩くのをやめた。
代わりに、その手を背に回してぎゅっと体を寄せてくる。
…まるで、すがりつくように。たった一つの拠り所であるように。
俺たちは言葉を失ってしまった。かける言葉が見当たらない。
大丈夫だ、などと誰が言える? こんなことがあって平気な顔をしている奴は馬鹿だ。
心配するな、などと誰が言える? こんなことがあって笑っていられる奴は最低だ。
抱きしめる風子の体が消えてなくなってしまわないように、俺はその小さな少女をその腕に抱いた。
あの時のように、彼女を失ってしまうような気がした。
そうしていて、今と同じような気分になっていた時があったと思い出される。
…あの時。
それは、俺がこの時間に舞い戻ってきた時のことだ。
俺と汐は、降りしきる雪の中にいた。
白く染まる世界が、希望も喜びも、すべて覆い隠してしまうような気がしていた。
すべてが霞んでいくような気がしていた。
俺は思い出す。
あの時。
俺と汐が、まるで世界に取り残されたように感じた、あの時。
雪、静かな世界、絶望感。そんな中で、俺の心の内にはひとつの思いがあったのだ。
それは…。
もし俺に、何かを願うことができるならば…
俺が願うもの、それは。
…。
不意に、ぐっと、風子の体が離される。
突然のことに俺は驚いて、頭の中に渦巻いた考えが吹き飛んでしまう。
目を白黒させているうちに、俺から体を引き離した風子が、強引に手をつないでくる。
そしてぐいぐいと、俺の体を引っ張る。
公子さんが向かった先、校舎へと。
ぼうっとしていたところ、俺を現実へと引っ張りあげる。
頭がうまく回らない。
だが、霞んでしまっていた視界の中に、肩越しに振り返りながらはっきりとこちらを見据える風子の視線だけがまるでたしかな錨のように現実に鋲をさしている。
このまま座り込んでどこにも行けないような気分になっていたのに、彼女の瞳に俺は立ち上がる。
風子のその視線は、揺れてざわめいている。弱弱しく震えている。不安と衝撃によって潤んでいる。
それでも彼女は、俺の手を引いていた。
交わす言葉はない。視線が重なっているだけだ。
風子の唐突な行動。
絶望の淵にいたはずの風子の瞳に、再び欠片ほどの力があるのを見て取る。
…彼女は立ち上がったのだ。
俺が混乱して何も言えなくなっているのを余所に、たった一人で。
衝撃が尾を引いて今はまだ何も言えないのだろう。
言葉が俺たちの間の空気を引き裂いてしまうと感じているのだろう。
だから、交わす言葉はない。
それでも俺は彼女の言いたいことがわかる。
風子はこう言いたいのだろう。
行きましょう、と。
あれだけ心を揺すぶられてなお、彼女はまだ立つことができる。ずっとここで膝をついているわけにはいかないと、ともかく立ち上がることができる。
それはいまだに俺には足りない強さだった。
そうだ。彼女は強い。
「…」
俺はその手を、握り返した。
ふたり、並んで歩き出す。
この世界の現実の障壁にぶつかって、それでもなお。
まるで互いの存在が、自分を保証してくれているような気持ちになりながら。
校舎の方に歩き出す。
先ほど自分を包んでいたように感じた白い世界に背を向けて。
新しい、温かい場所を求めているかのように。
互いにその手を離さないままで。
学校の方へ。ざわめきの方へ。
俺たちは再び立ち上がって、歩き始めた。