folks‐lore 05/10



431


リハーサルは、比較的順調に終わった。


舞台の上に実際に立って発表をやるのは初めてだったが、幸村も納得の出来にはなったようだ。いくつかアドバイスはあったものの、致命的にどこが悪いという指摘はなかった。


劇もそこまで複雑なものではないし、あれだけ練習してきたのだ。前回の創立者祭の時よりは、断然完成度が高いだろう。


今回はじめてやって見る背景の入れ替えも、特に問題はなく済んだ。一瞬とはいえ自分が実際に舞台上で何かやるというだけでも、結構緊張する。


そう思うと、延々あの場所で演技をしている渚はがんばっていると感じた。


一通りリハーサルを終えて備品を舞台袖に整理していると、そこに智代が訪れた。渚の劇をしている途中はそちらに意識集中していて気付かなかったが、約束どおり見に来てくれたようだった。


「劇を見させてもらった。とても、よかったぞ」


「ありがとうございますっ」


劇の感想を励ますように渚に言っていて、対する渚も嬉しそうに笑っていた。


智代はその後もいくつか劇の感想を話して、渚もそれに対して真剣な顔をして耳を傾けていた。


人に見せられるようにお披露目はできたようで、ひと安心だ。


あとは明日も同じようにできれば、それでいい。


一通り備品類を舞台袖の隅にまとめると、今度はクラスの方の準備だ。


ちなみに渚も手伝うことについては、さっき杏と椋の了解は得ている。どことなくその申し出を予期していたかのような反応で、割とあっさり受け入れてくれていた。彼女らも、渚の性格はわかっているのだろう。


智代も生徒会の仕事は今が一番忙しいだろうし、宮沢や仁科たちもクラスの準備が佳境を迎えているはずだ。


祭りの準備の、最終盤。


浮き足立ったような心を抱えて、バタバタと、だけど楽しげにまた各々の持ち場へと向かっていく。


…だが、その前に。


クラスの準備に行くその前に、俺は仁科と部室で待ち合わせをしていた。


俺は他の連中に連れられて新校舎まで行ったが、そこで用事を思い出したなどと言って旧校舎へと取って返す。


廊下にべたべたとポスターや飾りを貼り付ける生徒たち。物が足りなくなったのか、慌ててあれを用意しろとか、買いに行けなどという言葉が飛び交う一角を通り過ぎる。


昇降口の掲示板には様々な告知が所狭しと並ぶ。


学食は生徒たちが一角で会議をしていたり、広いスペースを使って機材の組み立てなどをしている。


旧校舎の階段の段々になっている面の部分は、正面から見ると絵が繋がるようにたくさんの生徒が張り付いて作業に没頭している(おかげで遠回りする羽目になった)。


俺はそんな喧騒を眺めながら、三階へとたどり着く。


三階は文化部の部室はぐっと減るし、特別教室もない。大体が空き教室だ。


行き交う生徒はあるものの、すっと喧騒は遠のいた。


俺はその端へ。部室へと向かう。


端まで来ると、祭りの前の騒ぎは膜一枚隔てた向こう側の出来事のように思えた。


画面越しの祭囃子のようなものだ。


歌劇部の部室。


俺は引き戸に手をかけて、部室のドアを開けた。


中を覗きこむと、仁科がいる。


彼女は俺の姿を見ると、はにかむように笑った。


「すみません、お呼びだてしてしまいまして」


「いや…」


仁科はその手に、ヴァイオリンを持っていた。ことみに貸していた、練習用のヴァイオリンだ。


俺は彼女に促され、部室の後ろの方にある椅子に座る。


奥でヴァイオリンをいじっていた仁科は入れ替わるように黒板の手前まで歩いていく。


「そのヴァイオリン…」


「はい。譲っていただけることになりまして、今日修理に持って行こうと思っているんです」


「そうか」


話はいい方向に転がっているようだ。ことみも喜ぶだろう。


「ですけど、その前に」


仁科は手に持ってヴァイオリンをしげしげと見やる。


子供でも抱いているような優しい手つきだった。


「もしよろしければ、岡崎さんに一度、演奏を聞いていただければと思いまして」


思い返すと、俺は仁科がヴァイオリンを弾いている姿を見たことがない。


以前、遠くからその音色を聞いたことはあった。だが目にしたことはない。


「なんで、そんなことを?」


俺はつい、そんな質問をしてしまう。


仁科はついと俺から視線を外し、その目を手元の楽器へ向けた。


その目元にある感情はどんなものなのか。


「…以前。私が事故に遭ってヴァイオリンを続けられなくなったという話をしましたよね」


「ああ」


「それまで、私にとって、ヴァイオリンは夢だったんです。それ以外に大切なものなんて、見えないくらいに」


「…」


俺は彼女の言葉に耳をすませる。


ヴァイオリン、それは彼女の夢だった。だが、その夢は唐突に失われることになる。


自分にとっての失われた可能性をその手に抱えるという気分が一体どんなものなのか、俺には少しだけわかるような気がする。


「ですけど、今は合唱をがんばろうって思えているんです。もちろん、ずっとヴァイオリンをがんばってきたことは忘れることはできないですし、辛さがあるのも、本当です。でも…だからといって、絶対に向き合えないわけじゃないって、最近は思えるようになったんです」


言葉をつっかえながら、言葉を探しながら。仁科はぽつぽつとそんな話をした。


その言葉は、俺の身にしみた。


俺も同じように、バスケットボールを続けることはできなくなったのだ。その喪失を。


彼女と同じように、俺は何かを手に入れることはできたのだろうか。その切望を。


俺たちは互いにその気持ちを知っている。


「この間」


仁科は俺の心中にも構わず、言葉を続けた。


「岡崎さんが、バスケットボールをしているのを見ました」


「ああ…」


先日、バスケ部の部長とほんのお遊びで対決した時のことだ。その時、ふと気付くと部員たちがそれを見ていた。


「とても、楽しそうでした」


「…」


俺と仁科の視線が重なる。


今ははっきりと、仁科が微笑んでいることがわかる。


「バスケットボールを前のようには続けられないけれど、とても楽しそうで…私は、すごく、びっくりしたんです」


仁科はそう言って苦笑。


「すみません、私が勝手に思っているだけで、嫌な気分かもしれないですよね」


「いや、そんなことはないよ」


俺の言葉に、安心したように笑う。


「私は、もうヴァイオリンを前のようには弾けないとわかった時、一生弾きたくないとまで思いました」


「…」


その気持ちはよくわかる。


俺は、その気持ちが部活を楽しむ生徒たちへの憎しみという形になった。


「ですけど、新しく夢を見つけることができて、またヴァイオリンを弾けるようになりました」


世界が彼女にとって高い壁となって塞がった時、その向こうから聞こえる歌声があった。


そしてそれはそのまま、彼女の夢となった。


「岡崎さんも、バスケットボールを続けることができなくなって、それでもまた部活をがんばっていて、私たちの合唱の方も気にかけてくれていて…。だから、何かお礼をしたいと思っていたんです」


「…」


「それで、大したことじゃないんですけど、私のヴァイオリンを聞いてもらおうかなと思い立ちまして。あの、創立者祭の前に」


ヴァイオリン。


彼女がかつて見てた夢。


一度は拒絶したそれを再び手にとってきちんと弾いてみせて、彼女はその過去を受け入れたいのだろう。


俺へのプレゼントでもあり、きっと彼女には越えるべきひとつの壁なのだろうか。


その辺りの心中は、さすがにうまく推し量ることができない。


「ああ。ありがとう」


俺はそう答える。


「聞かせてくれ」


断る理由などはなかった。


「はい」


仁科は安心したように笑う。


「それでは、お聞きください」


ヴァイオリンを肩に乗せ、弓をつがえる。


すぐに、繊細な音楽が始まる。


俺は体重を背もたれにかけて、目を閉じる。


音楽に耳を澄ませた。


…この旋律は、彼女のかつての夢の欠片。


かつては何よりも大事だったものだ。


…だが、と俺は思う。


だが今は。


その夢の価値は、どこに行ってしまったのだろうか?


仁科は以前のようにヴァイオリンを弾くことはできない。握力が前のようにはなくなって、長時間の演奏には体が耐えられない。


しかし俺は、すぐにそれは愚問だと思い直す。


それは、目を開けて眺めた仁科の表情。


彼女は口の端を緩めて、幸せそうにヴァイオリンを弾いていた。


仁科は、笑っていた。


彼女は、楽しそうだった。


…それならば、それがその夢の行き先だ。


かつて彼女が見ていた夢は、霞のように消えたわけではない。


それは、ずっと、彼女の内にあったのだ。


ヴァイオリンのために費やした時間は、無意味に消えたわけではない。


それは今の夢ではなくとも、その経験を踏まえた上で、今の彼女は存在している。


彼女の奏でる静かな旋律。


それはうつろなものではない。


それは、美しいものだ。






432


仁科の演奏が終わる。


ヴァイオリンをおろして息をつく彼女に、俺は惜しみない拍手を送った。


彼女はそれを聞いて、ほっとしたように笑った。


部室の中に、親密な空気が広がる。


俺はいくつか彼女に感想を言って、仁科はそれに対してはにかみながら謙遜して…


…そして、不意に、仁科の表情が強張る。


固まった笑顔のまま、彼女の視線は部室の外に向けられていた。


その視線を追ってみると…わずかに広げられたドアの先から、苦笑する杉坂と原田の顔が見えた。どうやら、覗き見をしていたようだった。


仁科が実は彼女らも呼んでいた、というような感じでもない。大方、勝手に仁科の後をつけたか、いないから探しにでも来たのか…。


なんにせよ、歓迎されない侵入者のようだった。


穏やかな空気はあっという間に四散しそうだ。俺はこっそりと苦笑した。


杉坂が、ドアを開けると取り繕うようにぱちぱちと拍手をしてみせた。


「杉坂さんっ、なんでここにいるのっ」


仁科がちょっと怒ったように詰め寄る。


「ご、ごめんね。気になっちゃって」


「原田さんもっ」


「いやぁ、杉坂さんがどうしてもって言うから、私も仕方なく」


「杉坂さんっ!」


「えええ!?」


杉坂が見捨てられた子狐のような顔をして原田を見た。多分原田も杉坂の前ではノリノリだったのだろう。


原田は顔を背けて口笛を吹き始める。


「ふゅー、ふゅー」


「言っとくけど、全然吹けてないからな」


わあわあと騒ぐ仁科と杉坂を余所に、俺は原田にツッコミを入れる。


「はは、奇遇ですね」


原田は恥ずかしげに笑うと隣のイスに座る。


「なにしてんの、おまえら」


「リハーサルの後、仁科さんに忘れ物をしたから部室に寄ってくって言われたんです」


原田は素直に説明を始める。彼女らはこれからクラスの準備のはずだったが、仁科はそう言い訳をして抜け出してきたようだった。


「でも、杉坂さんが、喋り方がいつもと違う感じがするから、何か秘密があるんじゃないかって言って、それで言われるがままに後をつけてきて…」


「…」


杉坂…おまえどんだけ仁科のこと詳しいんだよっ!


俺の背中に冷たい汗が一筋、流れていった…。


「ですけど、お邪魔、してしまいましたね」


原田はそう言うと苦笑する。


「ああ、いや、いいけどさ」


結局、彼女らも悪気があってここに来たわけでもない。


それに、見られて困るものでもない…と思う。とやかく言うつもりはない。


「りえちゃんがヴァイオリンをちゃんと一曲弾くの、初めて見ました」


「そうなのか?」


「はい。怪我してからは、長い時間ヴァイオリンを持てないと聞いていたので。この間もちょっと聞きましたけど、ワンフレーズ、というくらいでしたし」


「そうか…」


一曲弾く、というのが今の仁科にとってどの程度に負担になるのかはわからない。


だが、多少の無理をしてでも俺に曲を聞いてほしいという彼女の気持ちは、ありがたいものとして受け取っておくべきなのだろう。


というか…


「原田。おまえも、あいつの怪我のことは知っていたんだな」


「はい」


普段、彼女らが表立って仁科の事故について話題にすることはない。当然といえば、当然だ。声高に話すような話題ではない。


夢を失った仁科が、新しい夢を見つけた。原田はその場面に居合わせたわけではない。


だが、いつのことかはわからないが、仁科と杉坂はその時のことをきちんと彼女にも伝えているようだった。


「あ、ですけど」


原田が思いついたような素振りで俺に言う。


「私は、別に仁科さんがそんな事情を抱えているから、それを知って入ってあげたとか、そういうわけじゃないですよ。楽しそうだから、一緒にやっているだけなので」


「そんなこと、思ってないよ」


俺は苦笑する。


それほどに彼女のことを見くびっているわけではない。


原田は俺の言葉に、ならいいですけど、と頷いてみせる。


「先輩も…」


「ん?」


「先輩も、昔やってたバスケットを続けられなくなったんですよね」


「ああ、そうだけど。というか、よく知ってるな、そんなこと」


「りえちゃんがそんなことを言ってたので」


「ふぅん」


「先輩と自分は、似ているって」


「…」


俺は肩をすくめてみせる。


自分は仁科ほど立派な奴でもない。


「そんな似たもの同士のふたりが出会うなんて、運命みたいですね」


「…」


一気に話が陳腐なドラマじみたものになった気がする。


「はいはい」


俺はそう言って、原田の言葉を適当に受け流す。


そうしていると、杉坂への折檻を終えた仁科が戻ってくる。


「すみません、なんだか、騒がしくなってしまいまして」


「いや、いいけど。いつものことだし」


「いつものこと…」


確かに、と仁科は苦笑した。


彼女は手近なイスに座り、後から来た杉坂もイスに腰掛ける。こいつらはクラスの準備に行かなくていいのだろうか。


「さっきのリハーサル、どうでしたか?」


「え?」


仁科の問いに、俺はハニワ顔になる。


三人が期待するようにこっちを見ていた。感想がほしいのだろう。


だが…。


俺は合唱のリハーサルの時のことを思い出してみる。


バスケ部の部長と馬鹿話をして、その後は部員とリハーサルの話し合いをしていた。


…合唱がどんなものだったのか、全然ちゃんと聞いていない。


でも、そんなことを正直に言える空気でもなかった。


まあ、特に気にならなかったのだから、おかしなところもなかったのだと思う。


「よかったぞ」


俺はともかく、そう言う。


「明日も期待している」


そう言ってから、反応やいかに? と少女たちの顔色を伺う。


だが、俺が心配していたように糾弾されることはなく、ほっとしたような様子だった。


…それを見て、さすがに少し心が痛む。


明日の本番は、心穏やかに聞いてやろうと決めた。



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