433
仁科、杉坂、原田と別れた俺は教室に戻る。
中は昼に出て行った時からは様変わりしていた。
机の大部分は撤去されて、客席用に必要な数だけが残され、随分すっきりした。とはいえ、店内にポスターや装飾などが色々あるおかげで割と雑然とした印象になる。
派手なのははお祭り向きの内装、ということなのかもしれない。
テーブルの上にはシートがしかれてメニューが立てられていて、それを見ると喫茶店、という感じがする。
教室の手前には当日に飲み物などを置く机があり、今はそこには商品の札だけがのっている。コーラとか、紅茶とか、そういうものだ。
黒板には大きくメニューと店名である『喫茶杏仁豆腐』の文字。杏仁豆腐ってなんなんだろう、やっぱり。
ぐっと準備も進んだが、中ではまだまだ生徒たちが飾り付けの作業を続けていた。大まかな内装は終わり、こまごまとしたところに移っているようだ。クラスメートや他のクラスからの手伝いの生徒たちが、雑談を交わしながら手を動かしている。
たしか大道具の責任者だっただろうか、クラスメートの女子が中心になって色々と指示を出していた。
藤林姉妹の姿はない。コーヒーの修行、などということを言っていたから今日はもう下校したのだろう。
先に来ているはずの渚たちもいないな…。どこかに駆り出されているのだろうか。
「あっ、岡崎くん」
入口でぼんやりしていると、すかさずリーダーの女子に声をかけられる。
「そんなところでボーっとしてないで、こっちきてっ。ちょうどよかった、天井から吊るしたい飾りがあったの。岡崎くんなら届くでしょ?」
「いや…」
俺、右肩が上がらないんだけど。
そう言おうとしたが、阻まれる。
「あっ、そっか、でも脚立がないわね。ごめん、ちょっと探してきてもらっていい? よろしくね?」
言うなり、作業に戻ってしまった。口を挟む暇すらない。
自分は脚立を用意してきて、作業自体は他の奴にやってもらえばいいか。
「…はいはい」
せいぜい、俺にできることは肩をすくめてそう言うくらいだった。
「はいは一回っ」
「…」
それすら許されていないようだった。
「わかったわかった」
「わかったも一回っ」
「…」
もう何も言わないことにする。
俺は苦笑して、踵を返した。
脚立か。用務員室にでも行くか。
そう思って、足をそちらに向ける。
「よう、岡崎」
「ああ」
教室を出てすぐ、クラスメートの男とすれ違う。
「どうしたんだ?」
「脚立持ってこいって言われてな」
「大変だな」
「おまえは?」
相手の手にはファイルがあった。
「他のクラスとかを回ってるんだよ。うちのクラスのビラを貼ってもらう代わりに、向こうのビラを壁に貼るって話になっててな」
どうやら、営業回りをしているようだった。
「そりゃ、大変だな」
「おまえもな」
お互い苦労しているようだった。
「じゃあな」
「ああ。いや、ちょっと待ってくれ」
「なに?」
「脚立って、用務員室にあると思うか?」
「多分。もしかしたら生徒会に聞いたほうが早いかもしれないけど。備品みたいな感じで」
「なるほどな」
「見つからなかったら、最悪、誰かに下敷きになってもらえば? 組体操みたいに」
「サンキュー、頼むなっ」
「俺はしねぇよ…」
ひとしきり馬鹿話をして、別れる。
ざわめく教室を歩きながら、そういえば、と思う。
クラスでの女子生徒との会話。先ほどの男子生徒との会話。
いつの間にか、自分は随分、彼らと普通に話すようになったな、と思う。
かつては、クラスにおいてほとんどないものとして扱われていたというのに。
随分、関係も変わったものだ。
前回と今回。以前と現在。その違いはどこからきたのだろうか、と思う。
だがそんなことを考えてもよくわからない。
なんとなく…
自分の気持ちの持ちよう、それ自体が一番大切なのではという気はする。
こちらが相手を受け入れようとしなければ、その逆というのはなかなか起こらない。そういうことだろうか。
434
生徒会室を訪ね、脚立が必要であるということを話すと、すぐに返してくれるなら構わない、と割とあっさりと借りることができた。
生徒会室にある備品の脚立のようだった。しっかりクラスと名前はメモされたが、それくらいは当然だろう。
借りた脚立は古いもののようで、大きさの割りに重い。教室までの道のりを考えるとげんなりした。
肩に担いで廊下を歩いていく。
「岡崎さん」
後ろから声をかけられる。
振り返らなくてもわかる。渚の声。
すぐに脇に渚が並んだ。目を丸くして、俺の担ぐ脚立を見る。
「…とても重そうです」
「いや、全然平気だ」
なんとなく、へこたれるのも格好悪いような気がした。
「おまえ、どこ行ってたの?」
「チラシを張りに、昇降口の方に行ってたんです」
渚は渚で仕事を任されていたようだった。
「あの、わたし、先にクラスに行って誰か呼んできますか?」
俺の様子を見て、気遣うように言う。
「いや、大丈夫だ…」
「でも、やっぱり、重そうです」
実際重いが。
「それなら、横で応援してくれ。そうすればがんばれるから」
「応援ですか」
「そう」
「わかりましたっ。わたしでよければ」
半ば冗談で言ったのだが、渚は相変わらず素直な奴だった。
「岡崎さん、がんばってくださいっ」
「ああ…」
隣で、渚が恥ずかしそうにエールを送ってくれる。
それでがんばれそうな気がしてくるから、俺も俺で、相当呑気なもんだな。
「もっと頼む…」
「は、はいっ」
渚はこくこくと頷く。
「ふれーっ、ふれーっ」
渚が再び、応援をしてくれる。
この恥ずかしそうな顔を見ているだけで、がんばれるような気がしてくる俺はおかしいのだろうか。
…そんな俺たちの脇を、下級生の女子の二人連れがくすくすと笑いながら通り過ぎていく。大方、阿呆な三年生だとでも思ったのだろう。
渚は顔を真っ赤に染めた。
「って、これじゃわたし、ヘンな子だと思われますっ」
「いや、そんなことないぞ」
「もう、知らないですっ」
ぷい、とそっぽを向いてしまう。だが、足並みはそろえてくれているので、そこまで不機嫌になってはいないのだと思う。
「いや、そんなことないって。おかげで教室までがんばれそうだ」
教室に着くまで、俺は延々とそんなフォローを入れることになった。
馬鹿みたいだが、こんなことができるのが楽しいというのも事実。
それに、おかげで、最初げんなりしていた道のりが随分楽になった。
やはり隣には誰かがいてくれたほうがいい。そしてそれが渚なら、俺はもう言うことはなかった。
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やがて、クラス展の準備も終わる。
杏と椋を含め、料理を担当する生徒の姿はないものの、大道具のリーダーの女子が中心になって内装を完成させ、手伝いに集まっている生徒たちと明日へ向けての掛け声をかけた。
空は夕暮れ。だがまだ学校には多くの生徒が残っているようで、ざわめきは途絶えない。
クラスの中には受験生でありながらも準備にやってきた多くの生徒がたくさんいる。
全員、明日を待ちわびるような表情だった。
いよいよ明日は、創立者祭。
それは俺たちが見ている夢の一日なのだ。
436
坂道を下っていく。
俺と、渚と、ことみと、風子と、春原。
明日のことを話す春原は上機嫌だ。学校行事に対してこうも無防備にこいつが話すなんて、めったにないことだ。
ことみも楽しみな様子で、少し高揚したような様子で春原の話に相槌をうっている。
風子は、明日いかにヒトデを配りまくってやるかの計画について、大風呂敷を広げている。
風子の計算だと、明日で全校生徒に行き渡るらしい。その理論も、眉唾物だと思うが。だが実際、校内でも結構な割合の生徒がプレゼントをすでに受け取っているような気もする。
渚は彼らの様子を笑って見ながら…ふと、足を止めて坂道に立ち止まった。
そして、彼女は振り返る。今、自分が下ってきたその坂道を。
「…渚?」
不意に、彼女がどこかに行ってしまうのではないかと不安になって、その名前を呼んだ。
俺は何歩か進んで歩いてしまっていて、少しだけ渚を見上げる格好になる。
渚はすぐに俺の方を見て、優しい笑顔を見せた。
「もう明日が本番なんて、信じられないです」
「…ああ、そうだな」
俺がこの時間に迷い込んできた初めの日。
渚はこの坂の下に立ち尽くしていた。
彼女は長い間自宅で療養を余儀なくされていて…
ここに帰ってきた時、坂道を登ることができなくなっていた。
彼女の前に広がる未来に、足を踏み出せなくなっていた。
坂の下。その時渚が立ち止まった場所からは、緩くカーブして伸びていく坂道が見える。
だが、そこからでは、校門や校舎の姿などは見えなかった。そこで立ち止まっていては、未来の姿さえも見えなかった。
そんな場所で。
渚は俺と出会い、俺は渚に再会した。
俺たちはふたりで坂道を登って、もう一度、大事なものを見つけようとしたのだ。
考えてみると、あれから色々なことがあった。
様々な思い出が胸をよぎるが、それらはまだまだ、つい最近の出来事なのだ。
だが、時間というものは大して大事なものではない。
大切なのは、気持ちの問題。
俺は、さっきまで渚が見ていた校舎の方を見る。
校門には大きく創立者祭と描かれた門が作られていた。
まだ作業中のようで、その周囲に生徒たちの姿が見える。日が傾いてもまだまだ、坂の上からは活気のある声が聞こえてくる。
かつて、坂の下からは見えなかった校門が、今は見える。
それは、とても、楽しそうな光景だった。
こんな気持ちでふたり、坂からその上を見上げる日が来るなどとは、あの時の俺は考えもしなかった。
だけど、まだまだ、坂道の途中。
楽しいことは、これから始まるのだ。
「岡崎さん」
渚が俺に微笑んだ。
その顔は陽に照らされて、光を弾いてきらきらと輝いているような気がする。
「ありがとうございました」
そして彼女は、頭を下げる。
「岡崎さんのおかげで、わたし、ここまでこれました」
「いや、そんなことはないよ」
俺はすぐさま、それを否定した。
「ありがとう、渚」
「…え?」
礼を返した俺を見て、渚はぽかんと首をかしげる。
「おまえのおかげで、俺はここまでこれた」
それは俺の、本当の気持ち。
俺ひとりでは、未来などあやふやなものでしかなかった。
だけど、隣に渚の姿があったからこそ、俺は一歩を踏み出すことができた。
彼女の演劇という夢に手を貸したのは、全部が全部渚のためではない。
それは、多分、俺の夢でもあったのだ。
一歩、前に、進むこと。
それが。
俺と彼女の見てた夢。
心の底から、求めてやまなかったものだ。
…。
急に足を止めた俺たちに気付いてか、坂の下から春原が声を上げて俺たちを呼んだ。
見てみると、少し先に行ったところから春原が手を振っているのが見える。
「行くか」
「はいっ」
俺と渚は言葉を交わし、ふたり並んで坂道を下っていく。
最後に、俺は少しだけ校舎の方を振り返った。
夕日に照らされて、輝くばかりの校舎を、俺は見た。
それを見て、改めて、心に思う。
そうだ。
明日。
俺たちの、最後の、創立者祭が始まる。