398
放課後が来てほしくない。
そういう時ほど時間が流れるのは早い。時の流れとは残酷なものだ。
気が付くと最後の授業は終わり、クラスメートたちはわいわいと騒ぎながら創立者祭の準備に入る。
「岡崎…遂にこの時が来たね…」
「ああ…」
隣の春原がげんなりした表情で言う。
春原は周囲の生徒たちを見回すと、苦笑を浮かべた。大方、こいつらはこれから始まることみのヴァイオリンリサイタルという苦行から関係のないところにいるから随分幸せだ、などとでも思っているのだろう。俺も同じことを考えているから、よくわかる。
「というか、ヴァイオリンの腕、マジで成長してないのか?」
「時々、ちゃんとしたメロディーになるよ…」
「…」
「時々ね…」
その時々の頻度について聞きたいが、なぜか聞けなかった。
ふたり、ぐずぐずと机で鞄にノートを詰め込んでいると、隣の教室から杏がやってきて、声を張り上げる。
「ちょっとみんなきいて〜〜〜っ。これから前庭でヴァイオリンのコンサートがあるんだけど聞きに行かない〜〜〜!?」
あいつ…悪魔か!?
杏は同級生を死地に誘っているとは思えないような朗らかな表情だった。
「準備を手伝ってくれてる、A組の一ノ瀬ことみちゃんの演奏なんだけど〜〜〜っ」
それは、楽しいイベントのお誘い、というような調子の声だった。
俺はなんとなく、悪魔の甘言、という言葉が脳裏をよぎる。
「はいっ、あの、ぜひ、一緒に聞きに行きましょう」
藤林も恥ずかしそうに大きな声を出している。
それを聞いて、クラスメートたちは興味を持ったようだった。
幸い(?)ピリピリするほどに創立者祭の準備が逼迫しているわけではない。それに、ことみは何度もこの教室で一緒に準備をしていて知らない人間ではないし、そもそもこの学校でも有名な天才少女ということでネームバリューも充分。
「あの、私の占いでも、聞きに行ったらとてもいいことがあるって出ていましたから…!」
椋はそう続けている。
数人の女子がそのセリフに動きを止めて警戒するような表情になった。正しい反応だ。
「へぇ、ヴァイオリンか…」
「おまえ、行く?」
「ま、みんな行くならな…」
「なんか面白そうじゃん?」
「一ノ瀬って結構可愛いし、せっかくだから行こうぜ」
周囲の話に聞き耳を立てると、結構乗り気な様子だった。お祭り前の浮ついた空気が幸い(?)しているようだった。
「ヴァイオリンねぇ…」
前の席の男が、こちらを振り返る。
「一ノ瀬って、おまえらの友達だろ。やっぱ行くのか」
「ああ、まあな。おまえもくるか?」
さすがに善良な人間を誘うのは気が引けるが、目の前の相手ならば良心が痛むこともなさそうだった。
だが相手はゆっくりと首を振る。
「いや、悪い。創立者祭で出すヒトデキーホルダー作りがなかなか大変でな。この後もそれを作らないといけないんだ」
「そうか…。大変だな」
「いや、風子ちゃんのためだと思えば、これくらい苦しくもなんともないよ。むしろ、快感だっ」
「…この変態がっ」
俺はそう吐き捨てると、男から視線をそらす。
見てみると、クラスメートの大部分が藤林姉妹に前庭へと連れ去られていく。
まるであくどい笛吹きのような姿で、俺はそれに苦笑するしかなかった。
その集団が出て行くと、途端に静かになった。
「行くか」
「そうだね」
俺は春原と肩を並べて、閑散としてしまった教室を出た。
…。
クラスを出てすぐ、前方を歩くヴァイオリンコンサートツアーの生贄集団をぼんやりと見送る三井の姿を見つけた。
廊下の隅に立って、立ち尽くしている。この教室に入ろうとしたところを、集団がちょうど出てきたという感じだった。
不思議そうに首をかしげていた三井と視線が合う。
「よう」
「あ…岡崎さん。こんにちは」
俺の姿を見ると、ぺこりと一礼をする。
「どうかしたのか?」
「あ…その…」
三井はしり込みするように視線を落とした。
気まずげなような、恥ずかしそうな表情に見える。
何か言おうとしながら、うまく言葉にできないような様子だった。
「…愛の告白?」
「…違いますっ。そうじゃないです、そんなんじゃ」
冗談を言うと、恥ずかしそうに頭を振った。
そして、少し恨めしそうな顔で俺を見る。
「A組のクラスの方でも、喫茶店の準備が話題になっていて…少し、様子を見にきたんです。去年、同じクラスだった子もいますし…」
「そうか…」
「そうしたら、みんないきなり出て行ってしまって…」
「そりゃ、ヴァイオリンのコンサートを見に行ったんだよ」
「ヴァイオリン?」
三井が首をかしげる。
「えぇと…吹奏楽部が何かやるんですか?」
まあ、何の説明もなければそう思うだろう。
「いや、ことみのコンサート」
「ことみ…?」
すぐには合点がいかないようだ。
ことみがヴァイオリンを弾けることを知らなければ、すぐにつなげて考えることはできないだろう。
ま、ことみの演奏を、弾けているなどと考えるのにも抵抗があるが。
「一ノ瀬ことみだよ。あんた、A組なら同じクラスだろ」
「…」
春原が話しかけると、萎縮したように肩を縮こまらせる。
それは先週、俺に対したような反応だった。まあ、仕方がないかもしれない。春原の風体は、パッと見では異様だ。
フォローを入れることにする。
「悪いな、三井。おい春原。おまえ、喋り方がチンピラみたいなんだよ」
「そうなの? へへっ、ま、僕はこの学校に住まうモンスターみたいな男だからね」
スライムだけどな。
「もっと親しみやすい感じで話せ」
「え? 親しみやすいって、どんな?」
「そうだな…」
俺は考えてみる。
そして、ふと思いついて春原にこっそり小声で伝える。
「常に語尾に、それと便座カバー、と付けてみてくれ」
「ええ…?」
「ほら、この子と友達になるチャンスだぞ。結構可愛いじゃん」
「でも僕、こんな真面目そうなタイプ、あんま好きじゃないんだよね…」
「いや、こういう奴に限って、実は色々溜まっているかもしれないぞ」
「た、溜まってる?」
「ああ。勉強のストレスとかを抱えているから、彼氏とかには大胆になったり…」
「な、なるほど…!」
春原の鼻息が荒くなった。阿呆な奴だ。
「あの、どうかしたんですか?」
密談を終えて前に向き直ると、三井が困惑した顔でそこに立ち尽くしていた。
「まずは自己紹介からだ」
「ああっ」
春原は朗らかな笑みを三井に向けた。
「やあっ、初めまして。えっと、A組の三井っていったっけ? それと便座カバー」
「いえ、便座カバーではないですけど」
「僕はD組の春原陽平っていうんだ。それと便座カバー」
「あなたが便座カバーになってますけど、いいんですか?」
「僕はこの岡崎の親友さっ…それと便座カバー」
「それ、どういう交友関係なんですか…?」
「君、なかなか可愛いねっ。ま、ちょっと地味かもしれないけれど、磨けばダイヤモンドみたいに光るかもね…それと便座カバー」
「ものすごく両極端ですね…」
三井が少し春原から距離をとった。
「あ、ちょっと待って。怖がらないでくれよ。ちょっとびっくりしちゃったのかもしれないけどね…なにせ、僕は不良だっていわれているからさ…いや、あるいはモンスターかもしれないね…それと便座カバー」
「そっちの呼び名、初めて聞いたんですけど」
「でも、僕のことは気軽に陽平君とかって呼んでくれよっ…それと便座カバー」
「ええと…いいんですか?」
戸惑いがちな三井に、春原は笑って頷く。
「そ、それじゃ…。こんにちは、便座カバー」
「って、もう嫌じゃあぁぁぁぁーーーっ!」
春原は頭を抱えて転げまわった。
「おい、大丈夫か、便座カバー」
「おまえがそう言えって言ったからやってみたけど、僕のトーク術が丸つぶれじゃねーかっ!」
いや、そんなものないと思うんだが…。
「…くすくす」
だが、そんな俺たちのアホアホトークを見て、三井は少し笑った。
「あ、すみません」
「いや、いいよ。こっちこそ悪いな、下らない話をして」
「全部あんたのせいですけどね」
「まさか本当にやるとは思わなかった」
「くそっ。おまえを信頼して損したぜっ」
「…春原さんって、面白いんですね」
「間が抜けているだけだけどな」
「岡崎さんと仲がいいのも、わかる気がします」
「…」
春原と同列扱いされていた!
「で、三井だっけ。クラスの奴らはもう行っちゃったけど、どうすんの?」
春原は気を取り直してそう尋ねる。
「それは…」
「暇なら君も来れば?」
「暇じゃ、ないんです、けど」
煮え切らない返事だった。
三井は、当然受験生。今第一となるのは勉強だ。
遊び呆ける時間はない。彼女は彼女にとっての精一杯をがんばっている。
それでも、少しは、このお祭りに興味を持っているのだろうか。
「ほら、さっさと行こうよ。始まっちゃうよ」
答えも聞かず、春原が歩き出す。
「…は、はい」
逡巡した三井が、その後に続く。そして、うかがうように俺を振り返る。
「…ああ、そうだな」
俺は口の端で少し笑う。
早足に春原に追いつく。そこに付き従うように、三井が続く。
なんだかおかしな三人組だ。
こんな組み合わせで仲良く廊下を歩くことがあるとはな。
不揃いな足音が、前庭まで続いていく。
399
前庭には結構な数の生徒が集まっていた。
部員たちが声をかけたのだろう、三年生が多いが、他学年の姿も見える。ちらほらと教師の姿もあった。ことみの名声によるところもあるのかもしれない。
周囲を見渡すが、演劇組の部員の姿はないようだった。
合唱の三人の姿は見えて、集まる生徒たちにどうぞ座ってください、などとビニールシートが敷かれている場所を案内をしたり、何か手渡したりしている。俺と春原の姿に気付くと礼をしたり笑いかけたりと軽く反応をして、また仕事に戻る。
他には、風子が集まった生徒たちにヒトデを渡しているのが見える。営業熱心な奴だ。
他の部員たちは別の場所で控えていて、直前で緊張していることみを励ましているのかもしれない。俺たちはここに来るのが少し遅れたからな…。
「私は、向こうで聞いていますね」
三井はそう言うと女生徒の集団の方に歩いていった。友達でもいたのだろう。
「岡崎さーんっ、春原さーんっ」
そこに立っていると、聴衆用に敷かれていたビニールシートからひとりの女性が腰を上げてこちらに向かって手を振った。
早苗さんだった。隣にはオッサンの姿もある。
「ああ…。来てしまったんですね…」
近くによって、言葉を交わす。素直に歓迎の言葉など言えない。
「おうよっ。娘の友達がコンサートを開くっていうんだから、もし今日が店の開店記念日でも閉めて駆けつけるぜっ」
古河パンの将来が不安になった。
「えっと、ふたりとも、ヴァイオリンがどんな演奏かは渚ちゃんからは聞いてるんですか?」
春原が冷や汗を流しながら尋ねる。
「はいっ」
それに対して、早苗さんはぽんと手を叩いて笑顔。
「渚からは、とても素敵な演奏だとうかがっていますよっ」
「…」
「…」
渚…。
いや、まあ、あいつはそういう奴だよな。
「ところで小僧、さっき渚の友達の子からこれを渡されたんだが、なんなんだ?」
オッサンは手に持った耳栓を見ながら不思議そうに言った。
「それ、買ったんすか?」
「いや。最後の手段って言われて渡されただけだ」
先ほど合唱の奴らが配っていたのがこれなのだろう。
杏が商売をしようか…などと言っていたが、ここで悪徳商法に手を染めるほどには堕ちきっていなかったらしい。まあ、好意で集まっている集団だからな。
「…演奏を聞いたら、わかりますから」
ともかく。
俺にはそう言うしかなかった。
…。
美佐枝さ〜ん、などというラグビー部の野太い声。
腰掛けているラグビー部員の方に目をやって(部活はいいのだろうか)、そいつらの視線の先を辿ると、美佐枝さんがちょうどこちらに近付いてくるところだった。
美佐枝さんはそいつらに小さく手を振ると、先に横に立っている俺たちのところに来る。
「岡崎に春原。あんたたちもいたのね」
「ああ」
「ていうか、美佐枝さんもきちゃったんスね…」
春原が苦笑する。
「なによ、あたしがきちゃ悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「…美佐枝さんっ」
話をしていると、笑顔の智代が駆け寄ってくる。ちょうど今ここに着いたところのようだった。
「あら、奇遇ね」
「ああ、本当だ。ちょうど、今日あたりにあなたを訪ねようと思っていたんだ」
「ん、岡崎から話は聞いてるわよ。生徒会長当選、おめでと」
「ありがとう。これも、美佐枝さんにお話をうかがったおかげだ」
「そんなことはないわよ、さすがに。あなたが頑張ったおかげよ、胸を張りなさい」
「ありがとう」
「それじゃ、あいつらに呼ばれているから」
「あ…美佐枝さん、あそこで案内している奴らに耳栓を貰っておいたほうがいいですよ」
「耳栓? なんでまた?」
「…演奏を聞いたら、わかりますから」
「…はぁ?」
再度、俺はそう言うしかないのだった。
…。
「岡崎、感謝するぞ。まさかここで美佐枝さんに会えるとは思わなかった」
「いや、たまたまだよ。誘ったのは俺じゃない」
「そうなのか?」
「ああ。ほら、あのラグビー部の連中が誘ったんだよ」
視線の先には、屈強なラグビー部員に囲まれている美佐枝さんの姿。
「さすが美佐枝さんだな。大人気だ」
「あの部員たちがスケベなだけだよ」
春原が投げ捨てるように言う。そういや、こいつとラグビー部は因縁があるんだっけ。
「おまえもな」
「まあ、あのおっぱいのでかさには惹かれるけどね。この間、つい寮のポスターにみさえさんおっぱいでかいって書いちゃったよ」
「バカな奴だな…」
智代が呆れた顔で春原を見ている。
「おっと、そんなこと言うと今度は智代ちゃんパイオツでかいって書いてやるぜ…?」
「岡崎、こいつを蹴っていいと思うか?」
「ああ、思う」
「ちょ、ま…!」
ガスン!
春原が飛んでいった。
「…まったく、仕方がない奴だな」
「春原だし」
智代はやれやれとため息をつく。
が、すぐに気を取り直したように顔を上げた。
「クラスメートとそこで待ち合わせをしているんだ。すまないが、失礼する」
見ると、ビニールシートに座っている下級生の女子集団がこちらに手を振っていた。智代の友達なのだろう。
「ああ。…智代、気をつけてな」
「ああ、岡崎も」
言葉を交わして、別れる。
…まるで、これから戦いに赴くかのような言葉の応酬だった。
…。
しばし待ち、やがて校舎の方からことみを中心にしてうちの部員たちが登場する。
誰かが拍手を始めて、やがて大きな出迎えになる。
杏がその賑わいを見て満足そうに笑った。
「はーい、いっぱいのおはこび、ありがとうございまーすっ!」
聴衆の手前まで来ると、大きく手を振ってそう言う。
「…言っとくけど、耳栓は最後の手段よ。なんでもないところで使った根性無しは、後でしばくからねっ!」
鬼のような女だな、おい。
いや、耳栓を配っているだけ、多少の良心が残っているのかもしれないが。
椋がことみに何か言う。
ことみはそれを聞いて頷くと、こちらに向き直った。多分、挨拶をしろとでも言ったのだろう。
「ええと…」
だが、集まった客にしり込みするような様子だった。
さまよった視線が、つつ、と動いて俺を見る。
俺は軽く手を振って、拳を握って頑張れ、とジェスチャーを送る。
それを見て、少し、ことみの表情が和らぐ。
「三年A組の一ノ瀬ことみです。趣味は読書です。よろしくお願いします」
そう言うと、頭を下げる。
それを受けて、こちらも拍手で応える。
ことみは靴と靴下を脱いで、壇として使っている跳び箱にのぼる。
脇の宮沢からヴァイオリンを受け取る。
部員たちがことみに激励の声をかける。
「本日のスペシャルゲストを紹介します」
ことみはそう言うと、脇に控えている部員の方に手を差し出す。
「カスタネットの、古河渚ちゃん」
いつの間にかカスタネットを装着している渚が、頭を下げる。
まばらな拍手。
「ひゅーーーーっ、渚、最高だぜええーーーーーっ!」
若干一名、うるさい客がいたが。
「トライアングルの、藤林椋ちゃん」
同じく、椋も頭を下げる。
「それでは、まず、一曲目」
挨拶もそこそこに、さっそく演奏が始まるようだった。
ことみがヴァイオリンに弓をつがえる。
渚と椋が楽器を構える。
そして、演奏が始まる。
たん、たん、たん。
ちーん。
がぎがぎごぎごぎごおおお〜〜〜〜〜〜ん…
ごごごあごごぎゅいぃぃぃぃ〜〜〜〜ん…
殺戮ショーが始まった。