372
いつもよりも、少しだけ早く起きる。
外を見る。今日はすっきりと晴れたいい天気になりそうだ。
部屋を出て顔を洗う。家の中は、まだしんと静まっていた。
風子も親父もまだ起きだしていないようだった。
…起こしてやろうか。
なんとなく、そう思った。
最近は風子を起こしに行くということはない。こっちが起こされるか、勝手に起きてくるかだ。
それに、親父を起こしに行ったこともない。
親父がもっと自堕落にしていた頃に居間で寝ていたのを起こしたこともあるが、それは少し意味合いが違う。
世話を焼いて、焼かれたり。なんだかそれって、ちゃんとした家族のようだ。
そう思って、俺の足取りは少し軽くなったような気がした。
まず、風子の部屋に起こしに行ってみる。
そういえば、風子の部屋に入るって、久しぶりだな。開けようとして、そんなことを思う。
女性の部屋、などと遠慮する気持ちも特にはないのだが。
それにしても、いつの間にかこの元空き部屋も素直に風子の部屋だと思ってしまうあたり、随分岡崎家に馴染んできたものだと思って感心してしまう。
あんまり適応力があるような奴ではないが、今ではもうこの家から風子がいないというのがうまく想像できない。
まあ、もちろん、永遠に一緒に暮らし続けるわけにもいかないのだが。
引き戸を開けて、中に入る。
部屋の中は、色気も何もない。私物が少ないせいもあるだろうが、一番の原因は布団の周りに散らばるヒトデの彫刻のせいだろう。
そのせいで風子の部屋、という感じになっている。
風子は呑気にまだ眠っていた。
いつもよりも早い時間だから、当然だろう。
俺は風子の肩を軽く揺する。
「朝だぞ」
「んん〜…」
もぞもぞと、寝返りを打つ。
布団がめくれて、少しパジャマがはだける。白い脇腹が見えた。
俺はやれやれと頭を振って、風子の居住まいを正してやる。
こいつの父親にでもなったような気分だ。
「ほら、起きろ。いつまでも寝てるなよ」
「ん…」
なおも体を揺すってやると、やがて不承不承というように目を開けた。
「おはよ」
「おはようございます…」
むにゃむにゃと口を動かしながら、なんとかそんなことを言う。
「ん〜…」
風子はまだまだ寝ぼけているようで、ぎゅっと俺の腰に手を回すと膝枕をしてもらうように傍らに膝をついていた俺の腿に頭をぐいぐい乗せてくる。
「起きろ、馬鹿」
ぽんぽんと頭をはたくと、威嚇するようにわき腹に頭をぐりぐり押し付けてくる。少し痛い。
再び閉じた目をカッと指で開けてみると、やっと起きる気になったようだった。
なかなか強情な奴だった。
「さっさと起きてこいよ」
「…なんだか、とても偉そうです」
寝惚け眼で不満そうな顔をしている風子を余所に、俺は颯爽と部屋を後にした。
次は親父。
家の奥の親父の部屋に足を踏み入れる。少し、煙草の臭いのする部屋。
親父は布団に包まって眠っていた。
「親父、朝だぞ」
俺は傍らに膝をついて、先ほど風子にしたように肩を揺する。
「…ぐぅ」
…起きない。相変わらず、規則正しく小さくいびきをかくのみだった。
とはいえ、風子にしたみたいにはたいてやるのも気が引ける。
だが、それくらいの遠慮がないくらいの方がいいのかもしれないな、と思い直す。
そう思って、決意する。
俺は親父の顔に手をやって、カッと指で目を開けてみる。
「…」
「…」
「…」
「…ぐう」
親父、目を開けたまま眠ってるーーーーっ!?
うぉぉ、なんだか超こええぇぇぇーーーーっ!!
「…」
俺はそっと、親父のまぶたを閉ざした。
「親父、朝だぞ」
「ん、ああ…。もう朝か…」
もう一度声をかけると、親父はゆっくりと目を開けた。
「すまないね、起こしてもらって…」
「い、いや…」
俺はなんだか顔を背けてしまう。
さっきまで親父の目をド派手に開いていたことなど言えない。
「朝飯、今から用意するから」
「ああ、ありがとう」
俺はそそくさと親父の部屋を後にする。
373
通学路で智代と行き会う。
「おはよう、岡崎。伊吹」
「ああ、おはよ」
「おはようございます」
挨拶を交わして、自然に隣に並ぶ。
「今日、投票だな」
「うん、いよいよだ」
俺は智代の顔を見る。特に緊張しているような印象はなかった。
さすが、心が据わっているというか。
「落ち着いているな」
「もちろん、緊張している。ただ、やるべきことは全てやったと思っているからな。今から焦っても仕方がない」
「そういえば、坂上さんとはヒトデとコラボする約束だったのですが…実現できなくて、残念です」
隣で風子が悔しそうな顔をしている。
正直、その企画がボツって救われた部分が多いような気もする。
「ああ、そんな話もあったな。できなくて、残念だ」
「いや、マイナス要素でしかないだろ…」
風子に同調している智代に思わずツッコミをいれてしまう。
「ただでさえ、俺と関わっててマイナスなのにな」
「いや、そんなことはない」
つい口に出た言葉を、智代は強い口調で否定した。
「私は最近岡崎と一緒にいれて、とても楽しかったからな。それを誰かにとやかく言われる筋合いはない。それに、岡崎はそんな嫌われてるわけじゃないだろう」
「この学校の中で不良をやってるんだから、好かれてはいないよ」
智代は転校生だ。
彼女がこの学校にやってきて一月も経っていない。
それに俺と智代が初めて出会った時、俺はすでに未来の記憶を持っている自分だった。さすがに高校時代よりは落ち着いているだろうし、彼女の俺への評価と他の生徒の俺への感情は釣り合わないだろう。
「そんなことはない」
智代はすぐにそれも否定する。
「おまえのことを悪く言う生徒はたしかにいるかもしれないが、岡崎を評価している生徒もいる」
「そりゃ、よかったよ」
いまいち本当だとも思えず、気のない返事をする。
「うん、よかった」
智代はそれでも俺の返事に満足したのか、にっこりと笑っていたが。
…。
坂の下にやってくる。
「おはようございます」
渚が待っていた。俺たちを見ると笑顔を浮かべる。
この時間に舞い戻って随分時間が経ったような気がするが、それでも彼女笑顔はすべてが新鮮だ。
いつもだと、このまま全員春原を待つところだが…。
「すまない、今日は先に職員室に行く用事があるんだ」
智代はそう詫びて、坂を登り始める。
「何かあるのか?」
「今日のホームルームは候補者の演説があるからな。その説明会みたいなものだ」
「ふぅん…」
自分の前回の記憶をさらってみるが、まったく覚えていない。大方、以前はサボったのだろう。
「あ、そういえば今日ですねっ。わたし、坂上さんに投票しますねっ」
「うん、ありがとう。すまないが、先に失礼する」
「ああ」
俺たちは歩きだす智代を見送る。
智代の颯爽とした後姿。
彼女は俺たちを振り返らず、だが、空を仰いだ。
いや、違うな。俺は彼女の素振りを見て考え直す。
智代が見ているのは、空ではない。
今は緑に染まった、桜並木だ。彼女が守ろうと決めているもの。
374
しばらく待っていると、春原がやってくる。
しかしいつの間にか、こいつもちゃんと起きるようになった。
春原の周囲を歩く生徒はぐーたらの不良がきちんと登校しているのを見て、少し意外そうにちらりと一瞥を向ける奴もいる。
「おはよう、渚ちゃん」
当人はそんな周囲の反応も気にせず、朝から元気だが。
「おはようございます、春原さん」
渚も律儀に挨拶を返す。
「おまえ、ちゃんと朝起きれるようになったんだな」
四人で並んで歩きながら、俺はついそんなことを言ってしまう。
「そりゃ、まあね」
春原はニヤッと笑う。
「なんてったって、毎朝僕のことを待ってくれている子がいるんだからね。へへっ、やっぱり高校生活に華があると、真面目になっちゃうよねっ」
「あん?」
何こいつは渚に色目を使っている?
つい俺の返事は恫喝するような感じになってしまった。
「あの、そう思ってくれる気持ちだけはもらっておきます。ですけど、風子、頭のおかしい人のこと別に好きではないので」
「いやぁ、君に言ったんじゃないんだけど…」
あんまりな反応の風子に、春原は汗を流してツッコミをいれた。
…おかげで、俺の素の反応が隠れたようなかたちになる。
結果的には、助かった。
いけないな。未だにやはり、どうしてもリアクションしてしまう。
まあ、仕方がないのかもしれないが。
そんなことを思いながら歩いていると…
「…だーれだ」
突然。
後ろから、声をかけられる。
同時に小さな手で目隠しをされて、視線が真っ黒になる。
そして、同時に。
俺の背中に、ぽよんとした柔らかい感触が、ふたつ。
…。
この感触を、俺は知っている…。
いや、俺の知っているのは、もっと小さかったけど、これは…!
その感触の正体に思い当たった時、俺の脳髄は柔らかく溶けた。
「…胸が触ってる、胸が」
「…ムネガサワッテル=ムネガさん?」
「外国人みたいに発音するなっ。おまえは一ノ瀬ことみで、後ろから抱きついてるからおまえの胸があたってるんだよっ」
「…………」
少し沈黙して…
「!?!?!」
後ろでことみはひとりで大混乱におちいったようだった。目に当てられていた手がどいて視界が戻り、背中のやわらかな感触が離れる。
振り返ると、顔を真っ赤にしたことみが胸元を隠していた。
「岡崎さん、エッチですっ」
風子がビシッと俺を指差す。
「いや、待てっ。エッチなのはことみだっ」
「…ええっ」
俺も負けじとことみを指差した。目に見えて慌てることみ。
…なんだか、今俺はすごいことを言ったような気がする。
「ふ、ふたりとも落ち着いてくださいっ」
渚が慌てて仲裁をする。
「ねぇねぇことみちゃん。僕にも今の目隠しやってよ」
「…」
ことみは静かに春原から距離をとった。
「おまえ、スケベな」
「ちっ、あんないい思いは、岡崎限定かよ…」
「す、春原くん、ごめんね」
「いや、いいけどさ…」
ことみは俺の後ろに隠れてそう詫びた。
「というか、なんでいきなりあんなことを?」
「えぇと…」
ことみはきょろきょろと辺りを見渡し、視線が留まる。
その先には、ニヤニヤ笑っている杏がいた。
…悪の元凶はお前か。
俺はもはやため息すら出ない。
「こうすれば、朋也くんが喜んでくれるって」
「ひゅーひゅーっ、朝っぱらからお熱いことっ」
駆け足に近付いてきて、アホなことを言う。無茶苦茶楽しそうな表情だった。
ホントどうしようもない奴だな…。
「はい、ことみ、鞄」
「うん、ありがとう」
そのまま、このふたりも合流して一緒になって坂を登っていく。
「今度は渚もやってみる?」
「わ、わたしは、そんなっ」
渚を悪い道に引き込もうとする杏を見て、俺はため息をついた。
いいぞ、もっとやれ。
…。
昇降口につくと、いったん別れてそれぞれのクラスの下駄箱に。
余談だが、風子は一年の他のクラスの空いている下駄箱をひとつ使わせてもらっているらしい。
俺と春原はさっさと上履きに履き替えて歩き出す。
そこで、杏が下駄箱を空けたまま硬直しているのが目に入る。
手に持っているのは…手紙だろうか。
杏が慌てた素振りでぱっぱと周囲を見渡し、俺と春原の姿を見る。
「あ、あはは、おまたせ〜」
取り繕うような様子でそう言う。別に待ってはいないが。
手紙をスカートのポケットに入れると、和やかな笑顔で近付いてくる。
「ねぇ杏、今の何?」
春原がのその様子に目ざとく気付いた。
「なんでもないわよ」
「脅迫状か?」
俺は以前渚の下駄箱に脅迫状が入っていたことを思い出す。
「へぇ? 杏を脅迫するなんて、度胸あるじゃん」
「そんなんじゃないわよ」
杏は呆れたように肩を落とす。
それを見て、春原はニヤッと笑った。
「それじゃ、あれでしょ? ラぶっ!?」
…言い切る前に、顔面パンチを食らってもんどりうって倒れていた。
「大したものじゃないわよ、ほ、ほんと」
そう言いながら、さっさと歩いていく。
なんなんだ、一体。
俺はその後姿を追った。
杏の後姿は、少し強張ったような、いつもと違うような様子に見えた。