325
目を覚ますと、風の音がした。
今日は日曜日…。
だが、いつものように部活だ。
俺は体を起こす。
頭の中にカレンダーを浮かべて数えると、ちょうど一週間後が創立者祭。
当日の本番が近付くにつれて、急かされるような気分になる。気負いすぎているからだろうか。
だが、先のことばかりを考えていても仕方がない。
そうだな、今はまずは…朝食の支度でもすることにしよう。
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無心になって朝食の準備をしていると、物音につられてか風子と親父が起きてくる。
…いや、飯のにおいに誘われて、という感じだろうか。
わかりやすい反応に、俺は笑うしかない。
台所を覗き込むふたりには居間で待っていてもらうことにして、俺はさっさと準備をしてしまおうと料理を進める。
飯を待っている人がいるというのは、なかなか作り甲斐があるものだった。
…。
俺と、風子と、親父。
三人で食卓を囲む。
昨日は智代がいたからあまり感じはしなかったが、今日は違う。
いつも四人で囲んでいた食卓の一片が欠けていることを少し意識してしまうのはどうしようもない。
「悪いな、芽衣ちゃんほどのものは用意できないけど」
黙々と食事を口に運ぶ親父に、言い訳するように言う。
「いや、そんなことはないよ、朋也くん。十分、おいしいよ」
「そりゃ、よかったよ」
親父は目を細めてもそもそと食事を口に運ぶ。味に不満がある様子ではなく、安心する。
さすがに芽衣ちゃん時代に比べると簡素になった。時代などといってしまうが、ほんの二日前だ。
「岡崎さんの味付けは、やっぱり芽衣ちゃんと少しだけ違います」
風子がもぐもぐ口を動かしながらそう評する。
「そうなのか?」
自分ではあまり気付かない。食えれば何でもいいというところがあるから、あまり味に頓着はしていない。
「はい、岡崎さんの方が味付けが濃いような気がします」
「ああ…言われてみればそんな気もするね…」
「俺の場合、味付け適当だから日によって濃かったり薄かったりするだけだ。明日は、薄いかもな」
「岡崎さん、適当すぎですっ」
「んなこと言うなら、おまえが作れよ」
「…お父さん、見てください、昨日作ったヒトデです」
「ん、うん…。あぁ…なんだか、前よりもうまくなったような気がするね…」
「…」
なんてスムーズにこっちのセリフを無視しやがる、風子。こいつはいらない技能を備えつつあるようだった。
「女の子なんだから、料理くらい作れてもいいだろ」
呆れたように呟くと、風子はさすがにムッとした視線を俺に向けた。
「岡崎さんは、とても失礼ですっ」
「いや、事実じゃん」
「…そんなにおいしいご飯を作ってもらいたいなら、他のみなさんにお願いすればいいと思います」
ぷいっと顔をそらす。
突き放すような口調。なんだか、拗ねているようだった。
そりゃ普段は昼、作ってもらっている身ではあるが…。
他の奴と比べるのはいけないのだろうか。
それを見て、親父が案ずるような視線を俺に送った。
朋也くん、言いすぎだよ…とでもいうような視線。親父は風子の味方かよ。
「…」
やれやれ、と俺は心中で息をつく。
「悪かったよ、料理が出来るのだけが大事じゃないよな」
「…」
風子はやはり不機嫌そうに、だがちらりと俺を見る。
「そういうつもりで言ったんじゃない」
言い訳がすらすらと出てくるあたり、俺は妙な成長をしているのかもしれない。
「ちょっと、おまえの手料理も食べたいって思っただけだ」
「そうですか」
俺の弁解に、興味のなさそうな口調で風子は言った。指でくるくると髪を弄ぶのは珍しい仕草だった。
「岡崎さんがそれくらい言うなら…気が向いたら、作ってもいいです」
「ああ、頼むな」
…なんとか丸く収まったようだった。
親父の方を見ると、目を細めて小さく頷いていた。横から一部始終を見られていたのがなんだか恥ずかしい。
…というか、俺も妙なスキルばかりが上達しているような気がする。
327
朝食も済み、俺と親父は居間に残って茶を飲んでいた。
風子は、台所で洗い物。さっき俺が機嫌をとった功績…などというわけでもなく、最近は結構家事も手伝ってくれている。
黙ってテレビのニュースを眺める。
流れるニュースにはこんな事件があったと懐かしいものもある。そういう意味では、見ていても退屈というわけではない。
「朋也くん」
「なに?」
茶をすすって息をついた親父が、俺の名を呼ぶ。
「あの子は、親御さんが心配していたりしないのかい?」
「あの子って、風子?」
「ああ…」
唐突なことで、俺は驚く。
親父が風子の素性に関わる質問をするのは初めてだった。
風子に対して少しは何らかの感情を持つようになったのだろうか。
今までのような、同じ屋根の下の他人、という以外にも。
「大丈夫だ」
まさか、馬鹿正直に風子のことを話すわけにはいかない。なにせ、あいつの存在自体がファンタジーみたいなものだ。
さすがに幽体離脱などと説明は出来ない。
まあ、俺の存在も十分ファンタジーかもしれないが、ともかく。
「ちょっと事情が複雑でさ、うまく説明は出来ないんだけど、あいつの家族が心配してるとか、そういうわけじゃない」
…もちろん、家族はあいつを心配している。事故に遭ってずっと目を覚まさない風子のことを。
「…」
俺の答えは、無茶苦茶だ。
親父が俺を見ている。何を考えているのかはよくわからない。
だが、親父はやがて少しだけ口の端を緩めた。
「そうかい…。わかったよ、朋也くんが言うなら、きっとそうなんだろうね」
「悪い、親父。これで信じてくれって、調子がよすぎるな」
「…」
親父は頭をふった。
「こっちも、あの子がいてくれると楽しいからね。いつまでも、いてくれていいよ」
「…」
それはもうおまえら結婚してしまえ、という意味なのだろうか。
いや、そこまでの含みはないよな。俺の考えすぎだろう。
風子は単なる居候だ。
言うなれば、かつて渚の実家に居候した俺みたいな立場。
しばらく厄介になる、というくらいの気分。
…まあ俺はその後結果的に渚と結婚して、家族の一員になったけれど。
そう言うとなんだか風子が後々俺の嫁にでもなりそうな話の流れだな。
別にそんな予定はないのだが。
「なぁ、親父」
「なんだい」
「あのさ、別に俺はあいつと付き合ってるわけじゃないから」
「…」
俺の言葉に、親父は少し困ったような顔になった。
「そうかい…。それは、どうも、勘違いしていたようだ」
「…」
えぇ…。
彼氏彼女だと思われていたのか…。
やれやれ、と俺は肩を落とした。
風子は、家族みたいなものだ。
だがそれは、妹的なものとして、ということ。
嫁としてというつもりではないんだ。
本当に。
心から。
328
俺と風子は、通学路を歩く。
普段は出勤する社会人や学生服姿が多いのだが、今日は日曜だから道行く人は制服や仕事着などではなく、なんとなく町全体にリラックスした空気が満ちているような感じがする。
俺と風子は制服姿だが、勉強しに行くわけでもないので普段よりも足取りは軽い。
「そういえば、今日の部活の監督は会長さんなんですよね」
「…」
その言葉に、いきなり足取りが重くなった。
「岡崎さん? どうしたんですか?」
「いや…」
風子は全く気にしていないようだった。まあ、こいつは部員でもないし会長に大して関わってもいないのだから、あまり感じるものもないのかもしれない。幸せな奴だ。
「今日の部活は、どうなるかなって急に心配になってきた」
「大丈夫です」
気が重い俺に対して、断言する風子。特に何も考えていないのかもしれない。
「生徒会長が見に来るんだし、気詰まりだろ。おまえだって、前あいつになにか言われただろ」
「たしか、岡崎さんの親戚ならろくなものじゃないって言われました」
「だろ?」
「でも、親戚ではないので」
まあ、そうなんだが。
…そのせいであまり悪い印象がないのだろうか。
「あの人がそのことを知ったら、言ったことを訂正してくれると思います」
「そんな、うまくいくかよ」
というか、そんなことを説明するような場面になるとも思えない。
「そしてヒトデも受け取ってくれます。むしろ、ヒトデを好きになりすぎて生徒会の規則に夜はヒトデを抱いて眠ること、とか付け加えてくれるかもしれませんっ。やばいですっ」
「いや、おまえの能天気さがやばいんだが…」
俺は呆れ果てた口調で言うが、風子が気にした様子はなかった。
「学校のみなさんがヒトデを抱いて眠ってくれると思うと、風子大感激ですっ」
「言っとくけど、誰もそんなことはしないからな」
「そう言いながら、岡崎さんもヒトデを抱いて眠らずにはいられなくなるはずです」
「ヒトデを抱いて眠る状況なんてこねぇよ」
「いえ、きっときます。岡崎さんが寂しい夜にヒトデを抱きしめる姿が見えるようです…」
「何が見えてるんだよ、おまえの目には」
俺は風子にツッコミを入れた。
…。
学校への坂が見えてくるあたりで、ちょうど渚と行き合った。
渚は俺たちの姿を見ると、嬉しそうに顔をほころばせ、挨拶と共に隣に並んだ。
「今日も、一日よろしくお願いします」
「ああ…。今日はじいさんがいないから、練習はどうする?」
今日の部活の中心は、渚の演技練習になるはずだ。
「昨日宮沢さんが資料室から本を持ってきてくれたので、それを見ながら練習をしてみようかと思っています。それに、杏ちゃんたちもいますから」
「だな…」
まあ、素人の目ではあるが、誰にも見られていないよりはマシかもしれない。
少なくとも、人前に立つための度胸は鍛えられるだろう。
それに正直言って、感情込めてセリフを言わなければ伝わらない、という劇ではない。アクションシーンもなく、泣き所みたいなのもなく、物語は淡々と進む。
どちらかというと、演劇の本というより朗読の方法についての本とかの方が役に立つかもしれない。
「それに、部活ばかりじゃないです。クラスの方の準備もしないといけないですし」
「そうだな」
クラス展の準備。そっちの手伝いも、しないわけにはいかないだろう。
これから部活の方も追い込みにかかるだろうし、来週は渚がクラスの方を手伝う余力は多分ないだろう。
杏と椋の力を借りている礼でクラス展の準備を手伝うなら、今日がラストチャンスだ。
クラス展は昨日の時点で看板類の準備は大体終わったとは聞いたが、他にもビラやチラシを色々作るのもあるし、内装の準備も残っている。
衣装だってまだまだだったはずだし。
「…そういや、風子。おまえも喫茶店でウェイトレスをやるんだよな」
「はい。杏さんがどうしても風子の力が必要と言いましたので」
「そこまで言ってったっけ?」
聞き覚えがないぞ。俺は渚に話をふる。
「はいっ。ふぅちゃん、とっても可愛いですからきっとお客さんがたくさんきてくれますっ」
「…渚さん、とってもわかってますっ」
風子は嬉しそうだった。
俺は苦笑するしかない。
「で、もう衣装は着たのか?」
俺の問いに、風子はふるふると頭をふった。
なんだかんだ、思い返すとまだ杏以外の生徒のウェイトレス姿は見ていないな。
俺はそんな思ったことを口にすると、風子は微妙に呆れたような顔を俺に向けた。
「おにぃちゃん、そんなにウェイトレスの格好を見たいんですか?」
「人をウェイトレスマニアみたいに言うなっ」
単純に、衣装の準備が遅れているのを心配しているだけだっ。
というか、久しぶりに風子のおにぃちゃんを聞いた気がするな。
しかしやはりそう呼ばれると俺の心は凪いで、多少失礼なことを言われても気にならないような度量がわきあがってきたような気がするから不思議なものだった。
それが妹の力…。
いや、まあ、そんなのをいちいちかみしめていても仕方がない。
「別にウェイトレスが好きなわけじゃない」
ともかく、そう弁明するしかない。
「そうなんですか?」
「ああ」
「ですが、ウェイトレスさんを隠し撮りしに行ったことがあると前に聞いたことがあるような気がします」
「お、岡崎さん…」
風子の言葉を聞いて、渚が切ない視線を向けてくる。
たしかにそれは事実だが、それはオッサンに付き合っただけだ。しかもそれは未来の話だからな。
「渚もこいつの言うことを信じるなっ」
結局、俺は部室に着くまでの時間をウェイトレスマニア疑惑を振り払うために使う羽目になったのだった。
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部室に入ると既に何人かの部員は来ていて、少し待つと全員が揃った。
春原なんかは遅れても驚かないが、きちんと時間に間に合うから大したものだ。部活を結構楽しんでいるから、ちゃんと出席しているのかもしれないな。
そしてさらにもう少し待つと、生徒会長が歌劇部部室のドアを開けた。
引き戸の音に、部員たちは顔を上げ、視線は会長に集まった。
…無言の視線が交錯する。
俺は、少し緊張している自分を見つけた。
小さく息をつく。
別に相手を恐れているわけではないと思うのだが…。
会長は部員たちが揃っていることを見ると、渚の下へ歩いてくる。
「おはようございます」
「は、はいっ。おはようございますっ」
渚の声は、少し上ずっていた。やはり、この展開は緊張するようだ。
対して会長は、何を考えているのか全くつかめない。
緊張しているのか、怒っているのか。
当然、今ここにこうしていることを歓迎しているわけはないだろうが。
「先日話した通り、二時間に一度ここにきます。部活の終了は、三時で間違いないですか?」
「はい。わざわざ、すみません」
「いえ」
会長はそれ以上は何も言わず、部室の隅にある席について持ってきた資料に目を通し始めた。
まるでこちらに興味もなさそうに。
…二時間に一度来る。今は九時だから、十一時、午後一時、三時にくるということか。正直、やりづらい。
ま、すぐに生徒会室とかに戻るのだろうけど。
他の部員たちも、ちらちらと会長を気にした様子だった。春原なんかは、明らかに不機嫌そうな表情になっている。
会長に腹が立って戸惑っているのは俺も同じだが、ともかく場を取り成すことにする。
「渚、それじゃ、始めようぜ」
「そうね。初めの挨拶、する?」
「は、はいっ」
昨日と同じように、全員で部活を始める挨拶を唱和した。
その声に、会長は目を落としていた資料から顔を上げて、少しだけ俺たちを見た。
さて、どうなることだろうか、本日の部活。
俺は見えない先行きを思って、嘆息するしかなかった。