folks‐lore 04/29



257


今日は祝日、昭和の日。


ちゃんと朝に起きる必要はない。


出かける用事はあるが、普段よりはずっと遅い時間だ。


朝日の中、まどろみの中でそう思うと幸せな気持ちになった。


こうして布団でぐずぐずしているのは、背徳的な快感だった。


まだまだ眠っていられる…。


そう思って目を閉じる。


「岡崎さん、いつまで寝てるんですかっ? 朝ですよっ」


「…」


そういうわけにもいかないようだった。





258


朝食の場に、眠そうな顔がみっつほど並んでいた。


俺、風子、親父。


…休日なのに、いつもより早い時間に起こされていた。


対して芽衣ちゃんは上機嫌だった。今日、俺と彼女と春原で遊びに出かけるのが楽しみらしい。


そう思うと、さすがに腹を立てるわけにもいかなかった。


風子と親父はとばっちりだけどな。


風子はこっくりと舟をこいで、俺の肩に頭を乗せて今にも眠りそうだった。


…というか、半分寝ている。


俺は大きくあくびをした。朝食を食べたら、少しだけ寝よう。


「えへへ、今日は朝から張り切っちゃいましたっ」


芽衣ちゃんが嬉しそうに皿を並べていく。


白飯、麩とほうれん草の味噌汁、白身の焼き魚、ひじきの煮物におひたし、そして大根おろし。


…いつの間にか大根おろしが我が家の定番メニューになっている。


でも意外にうまいんだ。焼き魚がなくとも、単体でも食える。


たっぷりの朝食を食べているうちに、次第に目が覚めてくる。


先ほどまでは二度寝することしか考えていなかったが、活動する意欲が湧いてきた。


親父や風子も同じのようで、顔立ちがしゃんとした。


「お父さんは、今日は何するんですか?」


テレビで流れる朝のニュースを聞き流しながら、芽衣ちゃんが親父に尋ねる。


「そうだね、今日は掃除をしないとね…」


「お父さんの部屋は、掃除しましたよ?」


「納戸がまだだからね」


「ああ、そういえば」


…芽衣ちゃんが親父のことをお父さんって言うのが、いまや当然という感じだ。


でもなんだか、改めて考えてみると芽衣ちゃん、うちに嫁入りしてきたような甲斐甲斐しさだよな…。


「…」


俺は何を考えているんだろうか、と頭を振る。


相手は中学生だ。それに春原の妹だし。


…あいつをお兄さんと呼ぶ姿を想像したら、寒気がした。


そんなことになったら、毎日が罰ゲームだ。


「芽衣ちゃん、お母さんみたいです」


「えぇぇ、そうですか?」


風子に言われて、芽衣ちゃんは顔をしかめた。


「はい」


「うぅん、なんでだろう…家族のせいかなぁ」


はぁぁ、とため息をつく。


「お父さんもおにいちゃんもだらしないから、お母さんがいつも世話を焼いてるんです。そのせいかなぁ…」


「…」


「…」


芽衣ちゃんの言葉を受けて、俺と親父は顔を見合わせた。


(朋也くん、それは僕たちがだらしないということなのかい?)


(言いたくないけど、多分な)


(そうかい…)


「…」


「…」


うわぁ、こんな微妙な場面で親父と心が通い合ってしまった…。


俺は喜んでいいのかどうなのか、よくわからなかった。






259


朝食が済み、俺と風子は今でヒトデを彫っていた。


最初は親父がそれを興味深そうに見て手伝ってくれていたが、芽衣ちゃんに「掃除しないんですか?」と言われてすごすごと物置の方へと引っ込んでいった。


親父、中学生の尻にしかれているよ…。


俺は笑っていいのか泣けばいいのか、わからなかった。


現実は非情である。


…親父…!


「そういえばさ」


「なんでしょうか? 集中しているときに話しかけられると、とても迷惑です」


ふと思い立って風子に声をかけると、迷惑そうに顔をしかめられた。


「…」


「それで、なんでしょうか」


怒りに耐えていると、先を促された。


「別に大したことじゃないけど。それ、何個くらい作るんだ?」


「もちろん、全校生徒の皆さんに渡し終わるまでです」


「ああ、そういえばそんなこと言っていたような…」


七百個くらいか。


今まで、どれくらいの数を作ったのだろう。


美術準備室から大量にかき集めてきた木片も、そろそろ底を尽きそうだ。明日あたり、補充しないといけないかもな。


「先は長いな」


だが、木を彫る手際は随分よくなった。将来何の役にもたたなそうなスキルだが。


風子はこくりと頷き、一心に木を彫る。


それを見て、俺も頑張らないとな、と思った。


かつて、公子さんの結婚は何年も先に伸びてしまった。


俺も風子も、それを知っている。


それでも、そんなことにはならないように。全校生徒が、祝福してくれるように。


頑張らなければいけないのだ。


俺たちはヒトデを生徒たちに配っている。


拒絶されることもあるが、地道に受け取ってくれた生徒の数は増えていると思う。


そして、その先を目指す時がきているのだと思った。


結婚式の、主役が来なくては始まらない。


公子さんに創立者祭に来てもらって、風子と顔合わせをして、それでどうなってしまうのかはわからない。


だが、きっと、その時に何かが変わるはずだ。


一歩、踏み出せるはずだ。


俺はその時を心待ちにしていた。


言いようのない不安が胸に湧き上がる。それでも、その時を待つ気持ちに偽りはなかった。


「なあ、公子さんのこと、迷惑だったか?」


「いえ。そんなことは、ないです」


風子はもう一度、ふるふると頭をふる。


「風子…がんばります」


「ああ。がんばれ」


「はい。言われるまでもありません」


つっけんどんにそう言って、ヒトデを彫る作業に戻った。


一心に、木を削っている。


しゅ、しゅ、という音が部屋に響いた。


言葉は交わさないが、居心地のいい雰囲気だった。


「ありがとうございます、岡崎さん」


「俺の勝手にしたことだ」


「それでもです」


俺たちは顔も合わせず言葉を交わす。


テーブルを挟んだ、俺と風子の二人の距離は。


それはとても、居心地のいいものだった。





260


着替えをしようと部屋を出る。


自分の部屋へと向かう廊下の途中、納戸の脇を通り過ぎる。まあ実際は、物置扱いしている空き部屋なんだけど。


その中で親父が掃除をしている。


物音がしているかと思ったが中は静かなもので、俺は不思議に思い開けっ放しの引き戸から中を覗いた。


その中で、親父は何か本を読んでいた。


その表情は、無表情。


だけど一心に何かを覗き込んでいた。


「…親父?」


「ん…ああ、朋也君か」


親父は俺の方に向き直ると、手にしていたものを乱暴に棚に突っ込んだ。もうもうと埃が湧き上がる。


普段足を踏み入れないところだから、埃も随分溜まっている。


「ごほっ、ごほっ」


「だ、大丈夫か…?」


「あ、ああ…すまないね、心配を掛けて」


「いや、いいけどさ。何を見ていたんだ?」


尋ねると、親父は顔を背ける。


「大したものじゃ、ないさ」


「…ふぅん?」


少し、違和感を覚える。


だが、今ここで追及しようという気分でもなかった。


「ここの掃除は、一日がかりになりそうだよ」


珍しいことに、親父の方から声を掛けてくる。


「ん、ああ、そうだよな。ずっと放置してたし」


意外に思いつつ、答える。


「まずは掃除道具を探さないといけないね…」


「掃除道具…」


この家に、そんなのあったっけ?


それすら疑問だ。情けないことだけど。


でも芽衣ちゃんがこの家の掃除をしてくれたんだし、ないことはないはずなんだけど。もしかしたらないから買い足してくれた…なんてことはないよな。中学生にそんなことをさせていたとなると、さすがに恥ずかしい。


「芽衣ちゃんに聞けばわかると思う」


「そうだね…。この家でわからないことはないだろうからね…」


「…」


とても、この家の世帯主とは思えない台詞だった。


…親父…!


とはいえ、まあ、俺も全面的に親父に賛成ではあるのだけれど。






261


着替えを済ませて階下に降りる。


通りがかりに納戸を覗くが、親父の姿はなかった。


大方、芽衣ちゃんに掃除道具のありかを聞いているのだろう。ついでに軽く説教くらいは受けているかもしれない。そんなことも知らないんですか、などと。


そう考えて、俺は苦笑する。


この家の男性陣の立場が低くて笑えて泣けた。


そのままそこを通り過ぎようとして…ふと思い立って、足を止める。


数歩、歩を戻して納戸を覗く。


さっき親父は、何かを見ていた。


それがなんだったのか、ふいに興味が湧いた。


俺は納戸に足を踏み入れる。


電気が切れ掛かっていて、中は暗い。


和室だけど、部屋の周囲は本棚やたんすで囲まれていて、床も雑多な荷物が積み重なっているのであまり和室という印象はない。倉庫という感じ。実際、そういう使われ方をしている。


圧迫感を感じる部屋ではあるが、俺の部屋だって正直似たようなものだ。綺麗じゃない。


親父がさっき向き合っていた本棚。何かを戻したあたりを探る。


すぐに、親父が見ていたものがなんだったかがわかった。


乱暴に詰め込まれ、少し飛び出している本がある。


いや、本というか、それはアルバムだった。


俺はそれを抜き取る。見るからに安物のアルバムだ。


だが、俺はこの家で家族アルバムなんて見たことがなかった。


そんなの、あったんだ。それが正直な感想だった。


古びた表紙には、そっけなく撮影した年月だけが書いてある。


その西暦を逆算すると、まだまだ俺が物心ついていないような時代に撮られたものだとわかる。


俺は埃っぽい部屋の空気をひとつ吸い込み、ページをくった。


荒い画像の写真が中に詰め込まれていた。


そこに、俺がいた。


どこかの公園で、小さな子供(幼い俺だろう、多分)が砂場で遊んでいる写真があった。カメラの方など向きもせず、一心に小さなスコップを砂に突き立てている。写真全体が光に洗われているように白く濁っていて、現実にあった景色とは思えないような情景。


別の写真。そこに、親父がいた。


今よりもずっと精悍で、今よりもずっと瞳が輝いている。


先ほどの公園と同じ場所だろう。スラックスに白いシャツという地味な格好で立っている写真だ。光の調整がうまくいってなくて、それはまるで夢の中に立っているような写真。だけど、この情景は、存在していた。


そして、そして。


俺は母の姿を、そこに見た。


岡崎敦子。幼い頃に死んだ俺の母親。


小さい頃、俺は親父の部屋に探検して、机の上の写真たてに母親の写真が飾ってあるのを見たことがある。親父が母親のことを語ることはなかったから、俺はそれを見た時、自分がとんでもなく悪いことをしてしまったような気分になって部屋から逃げ出した。


その時見た母親の顔。それは脳裏に焼きついていた。


岡崎敦子は、はにかんだように笑いながら直立してこちらを見ていた。風景はやはり少しピンボケしている。天国で撮ったような、現実離れした光景にも見えた。


ページをめくると、俺の動きは止まった。


俺と、親父と、母親。


三人が並んで撮った写真があった。


親父と母が、真ん中の俺の手をそれぞれ握っている。


幼い俺は何が起きているのかわからない、というような顔でこちらを見ていた。


親父は少し緊張したような表情だ。


母親はかがんで小さな俺を覗き込んでいる。はっきりとは写真に写ってはいないけれど、口元や頬を見ると、俺に向かって笑みを浮かべているのだろうと分かった。


それは、家族の肖像だった。


幸せな、かつての風景がそこにはあった。


親父はきっと、この写真を見ていたのだろう。


俺はなんとなく、そう思った。それは確信にも近かった。


なぜならば、今の俺はさっきの親父のようにそこに立ち尽くしていたからだ。


胸が締め付けられるような気分になった。


幸せそうな、家族の姿。


それはたしにか、そこにはあった。


昔に目にして、なぜか直視できなかったもの。


俺はアルバムから三人揃った家族写真を抜き取って、ポケットに入れた。


昔の自分ではないのだ。これを見たことに後ろめたさを感じて逃げる理由なんてない。


幸福な岡崎家の姿を。


アルバムを元の場所に戻すと、俺はふらふらと納戸を出て行く。


今見たばかりの幸福な場景が、頭の中を渦巻いていた。






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