238
ひとまず、全員で話の着地点を話し合うが、思いの外この議題は進まなかった。
そもそも、原作を知っているのが俺と渚だけなのだ。どんな方向に持っていけば話の雰囲気を崩さずに結末を変えられるか、というのは判断として難しい。
俺は頭が真っ白になってしまっている。渚もそこまで重症ではないとはいえ、戸惑っているのがわかる。
「要するに、最後に女の子が助かればオッケーってことよね」
杏の言葉はかなり乱暴だが、筋としてはその通りだ。
だがその先、どうやってそうするか、というとなかなか筋道たてて考えることができない。
少女は、世界とひとつになるのだ。彼女は望んでそれを選んだ。
そしてガラクタは、紛れ込んだひとつの光は、もうひとつの世界へと帰っていく。大切なことを、やりぬくために。
…つまり、少女は何かを守るためにこの結末を選んだのだ。
だからこの結末をいじると、その背面に隠されていた、信じられないくらい多くの物事が、音をたてて崩れてしまうはずだ。
俺は交わされる言葉に相槌をうって、頭の中では別のことを考えていた。
あの物語。
悲しいけれど、恵みに満ちた終焉を。
まるで、俺は、見てきたようにその結末を思い出せるな、などと思いながら。
239
やがて脚本は後に回され、各々の仕事の話になる。
藤林姉妹とことみは、渚と一緒に演技の修正点を洗っている。
残りのメンバーで、大道具、小道具の準備を開始。思えば、まだその辺の物品は全く準備していない。
「そういえば、智代。この金って部費で出るのか?」
ふと思いついた質問をぶつけると、智代は呆れたように俺を見た。
「岡崎。私はまだ生徒会の人間ではないし、転校してきてから一ヶ月も経っていないぞ」
…そういえば、そうだった。
「でも多分、出ないと思う」
「もともと演劇部は廃部になっていたので。部費が割り振られるのは九月の生徒総会の時ですし」
宮沢が補則する。
「九月か…」
遠いな。
「前借りとかできないの?」
春原が馬鹿なことを言う。
「お兄ちゃんは黙っててっ。大事な話なんだから」
「いや、絶対に無理というわけではないかもしれない」
だが、春原の荒唐無稽な案に、智代は乗る。
「この時期は、新しい部の創設が多いはずだ。もしかしたら、そういう場合の救済があるかもしれない。あるいは前の演劇部の部費が繰り越されている可能性もある」
「なるほどな…」
「ただ、私も今まで生徒会に関わったことはないんだ。何ができるかは、幸村先生や、生徒会の顧問や役員に確認しないとわからない」
「智代。おまえはできると思うか?」
そう聞くと、彼女は苦笑いを浮かべた。
「正直、難しいと思う。元からそういう規則があればいいが、そうでなければ一度決まっていることを覆すのは難しい。うん、難しいだろうな」
難しいと、二回も言った…。
「あまり期待はしないほうがいいということですね」
「そういうことだ」
宮沢と智代がそう結ぶ。
「自分たちで出すしかないってことか」
「でもそこは、先輩の財力でポン、と」
「うちは貧乏だ…」
原田の言葉に肩を落とす。力が抜けた。
「じゃあそこは、りえちゃんの財力でポン、と」
「わ、私…?」
「ほらほら、無茶振りしないの」
「でもりえちゃん、お嬢様っぽい感じがするから」
「そ、そうかな…?」
「では、一ノ瀬先輩の財力でポン、と」
「えぇと…うん…」
「ことみ、流されないの」
「善良な先輩を騙すな…」
…話がそれている。
「やはり全員で折半、でしょうか」
「ああ、そうだな。そうするしかないと思う」
「えっ? 金取られるの?」
「ある程度は備品があるはずだから、そこまでの額にはならないと思う」
「おい智代、おまえ、自分が払わないからって随分勝手なこと言ってくれるじゃねぇか?」
「もう、お兄ちゃんっ」
「芽衣、おまえは黙ってな。今こいつから金を絞ってやるからさっ」
「いや、また返り討ちだろ…」
「心配は無用だ、岡崎っ。こんな時のために、秘策が用意してある…」
「どんな秘策だよ」
「ほら、いっつも僕を蹴るだろ? だからさ、その前にパンツ見えるぞ、って言えば足技は封じることができるはずさっ」
「智代、今日はズボンだけど」
「えっ」
…。
バシーン!
…春原は吹っ飛んでいった。
「こいつ、バカだな」
智代は、廊下に蹴り出された春原を見て言った。
「ああ。…最悪な作戦だったな」
「ほんと、すみません…坂上さん」
「いや、慣れている」
フォローになっていないぞ。
「ですけど、近くで見るとすごい戦闘能力ですよね」
杉坂は感心したように頷いている。
「はい。さすがは風子と肩を並べて戦っただけあります…」
「いや、そんなのしたことないだろ」
「えっ?」
「えっ?」
俺と風子は、顔を見合わせた。
「さ、必要な物品をリストにしましょうか」
宮沢が手を打って場を収める。
その声にしたがって、輪になって話し合いを始める。
…。
担当は大きくふたつ。衣装と舞台だ。
前回は早苗さんに任せっぱなしだったが、さすがに今回は人数がいるのでこの人員で負担したい。
とはいえ、元々俺と宮沢が脚本担当みたいなところがあるので、残された人員は限られる。
結局合唱の三人が衣装を作ってくれることになり、俺と宮沢は兼任で大道具もやる。
本当は杏や椋の力を借りたいところだが、ことみも含めてクラスのほうとの兼任だし、そもそも仁科、杉坂、原田も合唱のほうとの兼任で頼んでいるのだ。担当を割り振ると人員は厳しいが、致し方ない。
しかしそれにしても、こうしてみると以前はどうして俺、渚、春原の三人で舞台にたどり着けたのか、不思議でならない。見えない部分で、かなり他からの助力があったのだろう。あの頃は気付きもしなかったが。
…。
今日のうちに作れそうなものをリストアップし、買出しに出ることになる。
「じゃ、行ってくるよ」
大してリストは長くない。俺はそう言うと立ち上がる。
「あ、朋也。買出し?」
渚となにか本を覗き込みながら話していた杏が顔を上げる。
「ああ、なにか買ってくるか?」
「それじゃ、百花屋のケーキを人数分」
「買うかっ」
杏は俺をパシリだと勘違いしているようだった。
言い捨てて、歩き出す…が、再び杏は声をかけて俺を止めた。
「待ちなさいって。これだけ人数いるんだから、もう一人くらい連れてけばいいじゃない。買うもの、少ないわけじゃないんでしょ?」
「まあ、そうだが」
「それじゃ、そうしなさい」
「ああ」
「…で、誰を連れてくの?」
「えっ」
俺は杏の言葉に、部屋の中を見回す。
…いつの間にか注目が集まっていた。
誰か一人を連れて行く?
どうしよう。
選択肢が発生していた。
え?
誰かを選ぶ?
マジで?
選んだらどうなるの?
なんか、変に真面目な視線にさらされているような気がするけど。
渚という選択肢は、さすがに主演を連れ出せない、よな。
じゃあ、誰を連れて行く?
俺は混乱した。
…。
「ああ、それじゃ、私が一緒に行こう」
俺の混乱は、一瞬で終止符が打たれた。自然に立ち上がった智代が、俺の横に並ぶ。
「岡崎、行こうか」
「あ、ああ…」
「ちょっと待ちなさい坂上智代ッ!」
「なんなんだ、いったい」
「なんなんだはこっちのセリフよっ! あんたどんだけ空気読めないのっ?」
「何の話だ?」
杏の剣幕に、訝しげな智代。
本当に気付いていないのか、俺を助けてくれたのか…よくわからない。
だがとにかく、助かった。
杏が鬼か龍か、という目をしていたが、智代を引き連れて早足に部屋を後にした。
240
しばらく同じところで座っていたから、やはり外に出ると気分が一新。
俺はオッサンが小学生と一緒に野球をしているのを見ながら体を伸ばした。というか、あんたは仕事しろ。
智代と並んで歩いていく。並んで歩くのはいつものことだが、私服なので、少しちぐはぐな印象がする。決してそれは、悪い感情ではなかった。
「岡崎、聞いたぞ」
「なんだよ」
「昨日のことだ」
「…」
あまり智代には知られたくないことだった。だが、放っておいても知られていたような気もするし、それは仕方がないか。
春原と会長が停学、なんて話題にならないわけがない。
「すまない、私のせいで、岡崎には迷惑をかけてしまっている」
「いや、違う。迷惑かけてるのは、こっちの方だ」
俺も春原も、不良扱いされている問題児だ。
だが、智代には生徒会長選挙がある。
この騒動、巡り巡って智代にも降りかかるような気がする。あるいは会長も停学になっているから、両成敗ということで受け入れられるかもしれないが…根本的な風評が違うのだ、あまりそれも期待できない。
「なにかできることがあれば、するよ」
「ありがとう、岡崎」
「いや、それはこっちのセリフだ。お前にはいつも助けられてるからな…」
今日も、そうだ。智代がいてくれることで、話し合いがすごくスムーズになる気がする。
いてくれるだけで違うのだ。
なにかもっと、智代のためになにかできればいいのだけれど。
「それなら、お互い様だな」
「それじゃ割に合わないだろ。…そうだ、智代、おまえのポスターに落書きされてたこと、あっただろ」
「ん、ああ…」
「多分明日も、その噂はあるだろ」
「噂だからな。だが、岡崎が気にすることはない。元々の原因は私にあったんだ」
「今、いい方法が思い浮かんだ」
「いい方法?」
「ああ。噂を消すには、噂だろ」
それは合唱部との確執が表面化した際、俺たちが取った策だった。
そういえば、最近は演劇・合唱部間の噂は聞かない。
いつの間にか沈静化している。おそらく、結局は噂でしかなかったのだと周囲の生徒が判断したのだろう。
普通に仁科とかとは関係良好だし、ガセの噂にしがみつくほど、うちの学校の生徒は暇ではないだろう。
その応用が、智代の噂にも使えるような気がする。
「別の噂を流すということか?」
「ああ、そうだ」
「どんな?」
「おまえのおかげで、俺が更生したって噂だ」
「更生?」
「そう。俺が色々暴力事件を起こしていたけど、おまえはそれに巻き込まれながら身を挺して俺を救ってくれて、俺は真面目になったっていう話で。で、明日から掃除とかやってみたりしてさ、学校に恩返しをすればどうだ?」
「わざとらしいな…」
「それくらいの方がいいだろ。目立ったほうが効くし」
「私はおまえに掃除の指導とかをするのか?」
「ああ、ダメか?」
「いや、ダメじゃない。岡崎がいいっていうなら、やってみよう」
智代は、感銘を受けた風でもないが、拒否するほどでもないようだった。
対して俺は、結構いけるんじゃないか、とも思う。
智代は元々下級生の間での信頼は篤い。悪評から目をそらせさえすれば、後はどうとでもなるような気がする。
「それに、少し面白そうだ」
少し歩いて、智代は笑う。
「なにがだ」
「おまえが真面目な振りをすることが、だ。想像できないな」
「そうだな。徹底的にやってみようぜ」
俺たちはいたずらを話し合うように笑い合った。
そうだ、これくらいの空気でちょうどいい。
楽しくなければ、意味はない。
241
買出しから戻る。
古河パンのドアをまたぐと、中で早苗さんが接客していた。
「あ、岡崎さん、坂上さん、おかえりなさい」
「ども」
頭を下げる。
しかしこの人、接客中に声かけたりして大丈夫なのだろうか、などと思いながらレジの前に立つ女性に目を移すと…
「…」
その女性と、目が合った。
…というか、それは公子さんだった。
「…ッ」
俺は思わず飛び上がりそうになるが、なんとかそれは堪えた。
…そうか。そうだよな。そういえば公子さんはこの店の常連だから、こうなる可能性もあったのだ。
ああ、でも、さすがに想像はしていなかった。
「…」
公子さんは、じっと俺を見つめて、それからニコッと笑った。
公子さん、若いなぁ…。
「あなたが岡崎さんですか。早苗さんから今、噂を聞いていたところです」
「はい、とっても素敵な子だと、噂をしていました」
「はいっ、そうですね」
「…」
大人の女性たちは、きゃぴきゃぴと会話を交わしている…。
というか、俺も智代も置いてけぼりなんですが。
…。
「伊吹公子さんです」
「はじめまして、伊吹公子です」
しばらく経って、仕切りなおし。公子さんはしゃなりと一礼。
俺と智代も自己紹介をする。
「公子さんは、少し前まで皆さんの学校で先生をやっていたんですよ」
「そうなのか。岡崎も、指導を受けたのか?」
「いや、俺は…」
「岡崎さんとは、ちょうど入れ違いですね。私が辞めたのは、三年前ですから」
「そうなのか。それでは、古河さんとは顔見知りというわけか」
「はい。みなさんが渚ちゃんと仲良くしてくれて、とても嬉しいです」
公子さんは、我がことのように本当に嬉しそうな表情をした。
「留年したことを聞いた時は心配でしたが、たくさんのお友達ができたみたいですし」
「はい」
早苗さんと頷き合って、俺を見る。
…なんだか、むずがゆい気分になる。
「それじゃ、みんな待ってるんで」
「はい、お引止めしてすみません」
「いえ」
声を交わして、家に上がろうとして…ふと気付く。
公子さんと、渚の話はしたものの…風子の話は、オーケーなのだろうか。
俺は足を止めて、公子さんを振り返る。
そういえば、風子は言っていた。あいつは、公子さんの結婚を祝うために、木彫りのヒトデを作っている。学校の生徒たちに声をかけて、姉を祝ってほしいと呼びかけている。
だが、俺の知っているこれからの歴史は別の道を歩む。公子さんが結婚するのは、まだずっと先のことのはずだ。
風子の願い。それは決して叶えられないものなのだろうか。
あいつは今も、結局叶えられない夢だと思いながら、ヒトデを生徒に配っているのだろうか。
「あの、公子さん」
「はい、なんでしょうか」
俺は色々な、聞きたいことがあった。彼女のこと、風子のこと。
だが、と踏みとどまる。俺は彼女と、今が初対面なのだ。聞けることには限りがある。
だが、と思い返す。何度も何度も公子さんと会えるわけではないのだ。今会えているのは、チャンスのはずだ。
「…」
そして俺は、このチャンスを見過ごすことはできないと思った。
「ちょっとだけ、話をさせてもらっても、いいですか?」
…。
「岡崎さん、お話ってなんでしょうか」
「はい…」
俺と公子さんは、住宅街を並んで歩いていた。
ゆっくりとした足取り、頬を撫でる風は優しく、町は健康で、俺の心は落ち着かない。
「えぇと、ですね」
「はい」
公子さんは、全然緊張していないような様子だった。普通初対面の人間にふたりっきりで会ってほしいなどと言われたら訝しげに思うし、固くもなるとも思うのだが。これも人生経験の違いなのだろうか。まあ、俺の精神年齢と比べても年上だし、教師をやっていたというのは、人生経験値も高そうだ。
「あの、俺、かなりおかしいことを言うんですけど…」
「はい」
「公子さん」
「はい」
「結婚の予定、ありますか?」
「…」
さすがに、このセリフは意外だったようだ。公子さんは足を止めた。きょろっと目が開かれている。
そして…
「くすくすっ」
おかしそうに、笑った。
「岡崎さんは、ちょっと変わってますね」
「いや、まあ、そう言われてもおかしくない質問だとは思うんですが…」
「どうして、そんな質問をするんですか?」
「えぇと」
それが言えないから、これはおかしな質問なのだった。俺は答えに窮する。
失敗だったかな、と思いながら公子さんの表情を盗み見ると…笑顔はもうなくなり、彼女は真剣な表情で俺を見ていた。
俺の言葉は、彼女の心の湖に、大きな波紋を打ったようだった。そしてそれは、もしかしたら、覗き込んではいけない湖だったのかもしれない、と思った。
どうしたんですか公子さん、早苗さんのパンを食べたみたいな顔色になってますよ、などと軽口を言おうとしたけれど、俺は口をつぐむ。
彼女の考えていること。
それが、不用意に覗き込んではいけないものだとしても、俺は風子のためになにかしてやらなければならないのだ。
「人に聞いたから、です」
「…」
「公子さんの結婚を、祝ってあげたいって、そう言ってる奴から、聞いたからです」
「…」
沈黙。
…沈黙。
黙ったまま…公子さんは、歩き出す。
俺は、その隣に肩を並べる。
しばらく俺たちは、並んで歩いた。
きっとお互い、色々なことを考えながら、青空の下。
…。
「岡崎さんは、不思議ですね」
「…」
「渚ちゃんに聞いたとおりです」
「え?」
「岡崎さんが来る少し前に、少し渚ちゃんと話していたんですよ。それで岡崎さんのお話が出たんです」
「そうですか」
不思議と言われても、どう反応すればいいのか分からない。変わっているということだろうか。そんなことはないと思うのだが。
「結婚の予定は、あります」
「えっ?」
突然の言葉に、俺は公子さんの横顔を見る。
「予定だけ、ですけど」
「…」
「岡崎さん…。まだこの話は、誰にもしていないんです。もちろん相手の方は知ってますが、親にも言っていません」
「…」
親も友達も知らない、ただ結婚相手しか知らないはずの話を、初対面の俺が口に出した。
やはり、この話題は、危険な話のようだった。
だが同時に、俺はなにか扉をひとつ開けたような気もしていた。
「ですが…ただひとりだけ、この話をした子がいます」
公子さんの表情は、淡々としていた。
「私の妹の、風子です。その子は、二年前に事故に遭って…今も、病院で、眠っているんです」
「…」
ああ。
そうか。
風子はやはり、本当に事故に遭っていて、病院で眠っている。
俺といつも一緒にいる彼女は。
本当の伊吹風子ではない。
彼女はやはり、ちぐはぐな存在なのだ。世界に紛れ込んだ、影のような存在なのだ。
俺のように。
「風子がそんな時に、私ひとりが幸せになっていいのか…。ずっと、考えているんです。あの子が目覚めるのを待ちたいって、お話をして…」
そこまで言って、口をつぐむ。
それ以上、言葉は続かない。
話は、終わったのだ。俺は思った。
「公子さん」
物思いに沈んだ彼女。だが俺は、胸に灯りがともっていた。
風子が目覚めた時、公子さんは決心できるはずだ。それは、希望だった。
俺は何かができるような気がした。
あの姉妹が笑い合う、結婚式の風景を思い描けるような気がしていた。
だから、一歩。
また前に、進んでいきたいと思っていた。
「創立者祭、来てください。俺たちの劇を、見に来てください」
全ての努力も希望も何もかも、俺はその日に託したい。
「その時に、この話を教えてくれた奴を、紹介しますよ」
242
劇の準備をしながら遊んだり喋ったりしているうちに夕方になった。
オッサンと早苗さんは夕飯を誘ってくれたが、さすがにこの人数なのでそれは辞して、古河パンを出る。
またこいよ、という声を後ろに、帰り道を歩き出した。
また明日、また明日と部員と別れ、道行く影はみっつ。俺と風子と芽衣ちゃん。
ぽつぽつと会話を交わしながら、伸びる影を踏んで道を行く。
俺は、ぼんやりと今日のことを思い返していた。
公子さんと、最後に交わした約束。創立者祭で、再び会おうということ。
病院で眠る風子とのこと。公子さんは、俺の言葉に何を考えたのだろうか、と思う。いたずらに混乱させてしまっているような気がする。だがそれでも、その混乱の先にあの姉妹の再会があるならば、それは悪くはないのでは、とも思う。
そして、劇の物語の終わりのこと。
ハッピーエンドとは、どんな終わりなのだろうか。
よくわからない。
俺は脚本を書きながら、あの物語の出来事が、骨に沁みているように、体の中に入り込んでいるのを感じていた。
どうしてなのか、それはわからない。
だけどあの世界は、俺にとって大切なことのような気がする。
あの世界。
草原と、風に舞う光の世界。
雪原と、迫りくる冬の世界。
俺が少女と共にあった世界。
そんなことを考えていて…ずっと先に伸びる俺の影を、ひとりの少女が踏んでいることに気付いた。
…。
夕方。傾く陽射。
おれはぼんやりと彼女を見る。
そして目を見開いた。
視線の先。
少女がいた。
小さな少女。
青い制服を着ている。
俺はその制服に見覚えがあった。
青い帽子をかぶっている。
俺はその帽子に見覚えがあった。
彼女は、くりっとした瞳で俺を見返していた。
「…」
嘘だろ、と思った。ありえない、と感じた。
俺はこの世界に迷い込んだ。今まで過ごしていたよりも、何年も前の世界だ。
俺はまだ高校生で、渚は今も生きている。だが、俺の娘は生まれていない。そんな世界。
この世界に、彼女はいないのだ。俺はそう思っていた。それ以外、どう考えろというのだ?
だがそんな結論が一瞬で覆される。
喉がからからで、ちりちりと不穏に痛んだ。
俺は言葉が出なかった。
真っ直ぐ、目は、彼女に向いていた。
そんな馬鹿な。
俺は呆然と立ち尽くす。なにやら話していた芽衣ちゃんと風子が、俺の様子に不思議そうに首をかしげる。
彼女らは特に前方に意識を払ってはいないようだった。風子も、すぐ前に居る小さな少女に気付いていない。
彼女らは俺が目の前を凝視していることを見ると、顔を前に向けた。
だがその時、ばっ、と、俺の影を踏んでいた少女が身を翻す。小さな体が塀に隠れた。
「…岡崎さん?」
「どうしたんですか?」
ふたりは誰もいない夕暮れの道を見て、不思議そうに首をかしげた。
「…っ」
俺は弾かれたように走り出す。言葉を返す、余裕はなかった。消えた彼女の後を追う。
どうして彼女は逃げるように走り出したのだ?
理由はわからない。
俺は彼女の名を呼ぼうとする。言葉は喉に張り付いている。
この世界に、俺は紛れ込んでいた。そして風子も。
世界に放り出された、ふたりぼっち。
…そんな結論は、誤りだった。
あの時。
俺の腕の中でぐったりとしていた小さな娘。
もう会えないのかと思った、俺のただひとつの希望。俺と渚の幸福のかたち。
俺は彼女の後を追う。
足がもつれる。だが転ぶわけにもいかない。自分の心がぎゅうぎゅうに圧縮されているような焦燥感。
後ろから俺を呼ぶ声が聞こえる。だが振り返ることもできない。
俺は彼女の後を追う。
…汐、汐!
心の底から、搾り出すように、彼女の名前を叫びながら。
後を追う。走る。
汐!
俺は、ここにいるぞっ!
だが、言葉は、心の中で凍り付いている。
俺は夕暮れの町を走った。
少女の後姿を追った。