243
小さな後姿を俺は追った。
全力で追った。
だが、その後姿は捉まらない。
角を曲がると、遠くの角に少女の姿が一瞬見える。だが、追いつくことができない。
蜃気楼を追っているようだった。
だがたしかに、俺にはその姿が見える。
見間違いなんかでは、ない。
たしかに汐はそこにいる。俺はまだ、触れてもおらず、言葉も交わしていないけど。
…どうして彼女は俺から逃げる?
わけがわからない。
始めてこの世界に紛れ込んだ時に感じた混乱。渚とめぐりあった時の衝撃。風子と再会した時の驚き。その全てが揺り戻しのように一気に自分を押しつぶそうとしているような感触。
どうして俺はここにいるのだろうか。
今の状況に慣れよう慣れようと思って心の底に隠していた、根本的な問いが頭をもたげる。
俺はどうして、ここにいるのだ?
どうして、高校生の頃に戻って、この時代にはまだいないはずの逃げる娘を追っている?
心臓を握りつぶさんばかりに誰かの手の中に押さえられているような嫌な感覚。
空は夕方、少し闇。
奈落に向かって走っているような気さえする。
走っても走っても、汐の姿は追いきれない。幼稚園児が、こんなに足が速いわけがない。それならば俺は夢でも見ているのだろうか。
そういえば、さっきから、俺は誰ともすれ違っていないのではないか?
走りながら、周囲を見渡す。
ここは町、俺の育った場所。いつもの町の風景だった。
だがこの町並みが具体的にどこなのか、俺にはわからなかった。
人通りはない。少しもない。
人々は、いったい、どこに行ってしまったのだろうか?
焦燥感が、胸を焦がした。
心の底から恐怖心が頭をもたげる。だが足を止めることができない。
俺には走り続けることしかできなかった。
244
周囲は闇に包まれた。
夜が来たのだ。
今、自分がどこにいるのかもわからない。
周囲には家の壁がある。だから町のどこかにはいるのだと思う。だがここがどこなのかはわからない。
俺は、ひとりだった。
誰もいない。誰の姿も見えない。
汐の姿が消えていた。
だけど俺はその後姿を諦めることができない。
ほんの少しでも、まだ彼女を見つけ出せる可能性があるのではないかと、無理をして信じるしかなかった。
それでも、心の底ではわかっていたのだ。
俺と彼女の邂逅は、もう終わったことなのだ。
一瞬姿を見せた彼女は、既に去っていた。
あらゆるものが、過ぎ去って、消え去っていくのだ。
風が吹いては季節は変わる。
俺は自分が橋の上の立ち、流れる川を見下ろしているような気分になる。全ては流れ去っていくのだ。俺はたったひとり、その流れを見ているだけだった。
…。
俺が小さい頃、母親は事故で死んだ。
高校時代の友人は、卒業と同時に疎遠になっていった。
渚は汐の出産の負担で死んでしまった。
親父は実家に帰っていった。
そしてただひとり、俺に残された、娘は、汐は…。
この夜とひとつになってしまったように、溶けていなくなったように、もうその姿はなかった。
…俺は取り残されていた。
足を止める。息が切れている。胸がどきどきしている。
空を見上げると、そこには光。
闇が濃くなり、星が輝く。
手を伸ばせば、それに手が届きそうな気がした。
「もし、よろしければ…」
すぐ後ろで声がした。
俺は振り返る。
そこには…ひとりの少女がいた。
気高くも、無垢な。
「あなたを…」
言葉を紡ぐ。
「あなたを、お連れしましょうか」
ゆっくりと目を閉じ…
「この町の願いが叶う場所に」
そう告げていた。
小さな…異世界からの使者が。
張りつめる空気の中で。
一番、その入り口に近い場所で。
「あ…」
俺は声を振り絞る。金縛りにあったような、その体で。
「ああ…」
震える声で…答えていた。