folks‐lore 4/27



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学生寮に着くと、入口で美佐枝さんが掃除をしていた。


背が高くてすらっとしているので、こんな所帯染みたことをしていてもなかなか様になる。


近付く俺たちを見ると、にこりと笑って働く手を休めた。


「岡崎じゃない。それに、芽衣ちゃんも。あと…」


視線をずらして風子を見た。風子はそれに、ぺこりと頭を下げて応える。


「伊吹風子。俺の知り合いで、今芽衣ちゃんはこいつの家に泊まってる」


そういえば、初対面なのか。俺は風子を手で示し、軽く紹介する。


「ああ、そうなの、よろしく。あたしは相楽美佐枝。ここの寮母」


「…」


風子は応えるように、一礼する。


そんな様子を美佐枝さんはしげしげと眺めた。


「…なんか、岡崎のまわり、最近女の子ばっかりねぇ」


「部活でいろいろあったからな」


「はぁ、青春ねぇ」


美佐枝さんはそう言うと、憂鬱そうに目を細めて息をつく。


「…それで、春原に用?」


「はい。あの、お兄ちゃんと一時に約束していたんですけど、待ち合わせに来なくって…」


「あぁ、そりゃ、来ないでしょうねぇ。多分、まだ寝てるわ」


美佐枝さんは容赦なくぶった切ってくれる。


呆れたように息をつくと、ちょっと待って、と俺たちに一言声をかけて箒を寮の壁に立てかける。


玄関に入った脇になる下駄箱のうち、ひとつを開けて、中にまだ靴があることを確認する。


「出かけてはないはずよ。あいつ、靴これしか持ってなかったはずだから」


「わかりました。ありがとうございますっ」


芽衣ちゃんがぱっと頭を下げると、美佐枝さんは目を細めて、ひらひらと手を振った。


「いいわよ。でも、あんたも大変ね。ぐうたらな兄で」


「ですけど、いいところもあるので」


「ま、そりゃね」


美佐枝さんは肩をすくめてそう答え、再び箒を手に取った。


仕事を再開した彼女に礼を言い、俺たちは中に入る。


寮の中は妙にしんとしている。休日だから、もっと騒がしくてもいいはずなのだが。


俺と風子がぼんやり寮の中を見渡していても、芽衣ちゃんは構わず廊下を歩いていき、俺たちは慌てて後を追う。


彼女にとって、もはやここは珍しい場所でもなんでもないのだろう。大した適応力だった。


芽衣ちゃんはどん、どん、と足音荒く通路を進む。そしてそのまま、見慣れた春原の部屋の扉を大きく開け放った。


俺はそれを見て、ぼんやりしてしまう。


さすが家族だ、何の遠慮もないな…。


俺なんかだと、なんとなくやっぱり入るときにノックしたり声をかけたりといった行動を挟んでしまうのだが…。


「お兄ちゃんっ! いつまで寝てるのっ!?」


ずんずんと、部屋の中に入っていってしまう。


俺と風子は、廊下からそんな姿を見ていた。


「芽衣ちゃん、元気です」


「あぁ、そうだな」


今朝は俺をあんな優しく起こしてくれたのだが、日が経つとあんな感じになっていくのだろうか?


そう思ってしまうが、あれはあれで、愛があっていいかもしれないな、などと思ってしまう。もはや心遣いの垣根の消えた関係だ。


「おまえはあんな感じで起こされてる?」


「岡崎さん、とっても失礼です。風子寝起きはいい方なので、あんなことされなくても、すぐ起きます」


「寝起き、いいのか?」


「はい。田舎のおじいちゃんくらいに早起きです」


「それは多分、年取ってるから眠りが浅いだけだと思うぞ」


というか、普段結構こいつを起こしているので、寝起きはまあまあというのは知っているが。逆に俺が起こされることもあるので、お互い様な話題だ。


「岡崎さんは、渚さんにあんなふうに起こされていたんですか?」


「いや、さすがにあそこまで派手じゃないぞ…」


肩を揺すって起こされたり、後は目覚まし時計で目覚め、顔を上げると渚が台所で朝食を作っていたりしていた。そんな感じだったように思う。


だが実際、渚との結婚生活は、俺の記憶からも随分遠く隔たったところにあり、なかなかうまく思い出せない。


特にあまりに日常めいた部分は、うまく記憶に引っかからない。


それは実際、仕方がないことなのかもしれない。日常は何も起こらないことであり、記憶に残りづらいことであり、一番大事なこともである。


「ていうか風子。おまえこそ、あの頃どこで暮らしてたんだ?」


「えぇと…」


そう聞くと、風子は困ったように俺を見た。


「なんだよ」


「いえ…」


「岡崎さんっ、ふぅちゃんっ」


…そんな空気を切り裂くように、芽衣ちゃんがひょっこり春原の部屋から顔を出した。


「お兄ちゃんをすぐ起こすので、もうちょっと待っててくださいねっ」


「えぇっ、岡崎も来てるのっ」


部屋の中から素っ頓狂な声が聞こえて、芽衣ちゃんの後ろから髪の毛ぼさぼさで部屋着の春原が姿を見せる。


「うわ、岡崎。おまえまで来たのかよっ」


「芽衣ちゃんじゃこの町不案内だから、渚の家まで行けないだろ」


「ちっ、ま、そうかもしれないけどさ…。渚ちゃん、おまえも一緒に来て欲しかったと思うけど」


「…いいから、早く着替えろよ」


「へいへい。…おい、芽衣、おまえもどっかで待ってろよ。準備するからさ」


「ほんとにぃ? すぐやる?」


「僕はどんだけ信頼ないんだよ…」


「残念ながら、ゼロだ」


「ほっとけっ」


春原はそう言うと、芽衣ちゃんを部屋から押し出して、ドアを閉めた。


そのドアに向かって、芽衣ちゃんが早く準備するように、と声をかけている。


笑えるくらい春原の信頼のなさの見える光景だった。


「あらま、春原、素直に起きたの?」


「美佐枝さん」


いつの間にか、美佐枝さんがすぐ後ろに立っていた。玄関の掃除は終わったらしい。


「今、着替え中です」


「へぇ、随分スムーズね。もっとあいつ、駄々こねると思ったけど」


「あの人とてつもなく、子供扱いされてます」


「いや、まぁ春原だから」


「まったく、風子と同い年とは思えませんっ」


「…」


なんだよ、その、ツッコミどころ満載なコメントは…。俺は拳を握り、耐えた。


「お兄ちゃん、きっと渚さんの家に行くのが楽しみなんですよ。それで、準備も早いんだと思いますよ」


「なんだって?」


聞き捨てならない台詞だった。渚に色目を使ってるってことだろうか? あぁん?


一瞬そんなことを考えたが、それよりもむしろ、あいつが部活に対して楽しみに思っている、という意味合いなのだろうと合点する。それならば、いいことだ。


「岡崎さん、芽衣ちゃん。待っている間、どうしますか?」


風子が俺たちを見上げる。


「…」


「…」


この寮に待合室などというしゃれた設備などない。ま、天気もいいのだから玄関のあたりで待っていればいいか。


そんなことを考えていると、美佐枝さんがにっこり笑って俺たちの話に口を挟んだ。


「それならさ、あたしの部屋、くる?」



…。



「はい。インスタントだけど」


「ありがとうございますーっ」


先日智代と一緒に美佐枝さんの部屋にはお邪魔したのだが、俺も美佐枝さんも、なんとなくそのことには触れずに初めて招待した、というような体裁で中に案内される。


ま、秘密にしなくともやましいことがあるわけでもないんだけどな、などと思いつつ、差し出されたコーヒーに口をつける。


温かくて、ほろ苦くて、おいしい。心が和んだ。


「にゃーん」


のんびりしていると、傍らに猫が擦り寄ってくる。


撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らした。人懐っこい猫だ。


普段、春原の部屋にいる時なども、どこからか入り込んでくることがある。


「わ、可愛いっ」


芽衣ちゃんが、目を細めて俺にされるがままになっている猫を見て羨ましそうな顔をする。


「あの、美佐枝さん、この子美佐枝さんの猫なんですかっ?」


「ん? どうかしらねぇ。住み着いてるってだけよ」


芽衣ちゃんの問いに、美佐枝さんはクールに答える。そっぽを向いて、興味なさそうな素振りだった。


「あれ? 飼い猫じゃないのか?」


俺も美佐枝さんのペットか、この寮の猫だと思っていただけに意外だった。


住み着いている、という割にはきちんと手入れされているし、やはり美佐枝さんの飼い猫なんだろうけど…。


「違うわよ。居付いてるし、害もないから置いてるの。あたしがここの管理人になってちょっとしたら、ふらっと現れて、それからずっとよ」


「へぇ、初耳だな」


「ま、猫が増えてもうちの寮生がそんなことは気にしないしねぇ」


「男子寮だからな…」


さすがに運動部のガタイのいい連中が猫に熱狂している画は想像できない。


…というか、想像したくない。


「でも、可愛いです。ねっ、ふぅちゃんもそう思いますよねっ?」


じっと猫を見ていた風子に声をかける。


「…はい、人懐っこくて、とても可愛いですっ」


風子は両手を目いっぱいに伸ばして親指を上に立てた。


「ち、ち、ち…」


そして、舌を鳴らして指を猫に向けてぐるぐると回す。


「そんなんで、寄ってこないだろ…」


トンボの目を回すアレとかが混ざっているような気がするのだが。


猫は風子の努力に興味もなく、俺の膝の上に乗ると身を丸めた。その重さが、汐の頭を乗せているくらいの重さで、懐かしいような感じがする。


「岡崎さん、一体どうやって懐柔したんですか…!?」


「してねぇっ」


「…でも、やけに岡崎に懐いてるわよねぇ。ずっと気になってたのよ」


俺と風子との会話を聞いて、くすくすと笑っていた美佐枝さんが言う。


「そうなの? すげぇ人懐っこいと思ってたけど」


「逆よ。人見知りが激しいの。あたしと、あんたくらいにしか寄ってこないのよねぇ。あとは春原にも結構寄ってくけど、いつも岡崎と一緒にいるから、慣れたんじゃないかしら」


「へぇ…」


「岡崎さん、動物に好かれるタイプなんですか?」


「いや、そんなことはないと思うけどな…」


記憶をさらってみても、やはり動物に好かれた記憶はあまりない。


俺はなんとなく、傍らの風子の頭を撫でてみる。


「あ、うぅ……ふーーーーーっ!」


風子は一瞬困った顔をして、だがすぐに身をかわして威嚇した。


「ほら、好かれてない」


「人間です、人間です」


芽衣ちゃんは冷静にツッコミを入れた。


「今度は、ふっ、風子を懐柔するつもりですかっ」


「美佐枝さん、こいつに名前はある?」


「しかも、無視されましたっ!」


最悪ですっ! と風子。元気な奴だ。


「名前はないわよ」


俺の質問に、美佐枝さんは少しだけ、強張った表情で答えた。


「別になくても、困るわけじゃないし」


「ですけど、やっぱりちょっと、かわいそうじゃないですか?」


芽衣ちゃんがもっともな疑問を口にする。


それに対して、美佐枝さんは困った顔になった。滅多に見る顔ではなく(呆れ顔や疲れ顔や怒り顔はよく見るが)、意外な気がした。


「それは、そうかもしれないけど、ね」


美佐枝さんの中でも、うまい答えが見つからないのだろう。


彼女のイメージだと、さっさと適当な、的外れでもない名前をつけていそうな感じだ。


名前がない宙ぶらりんなままで過ごしている、というのが不自然な気がした。


「じゃ、どうしてなんだ?」


困らせるつもりはないが、俺も気になって聞いてみると、美佐枝さんは首筋をこする。


あまり見慣れぬ、落ち着かない様子。


「そりゃ、そうねぇ…ま、願掛けみたいなものよ」


「願掛け?」


「願掛け?」


俺と芽衣ちゃんの言葉が重なる。


じっと見られて、美佐枝さんは十代の学生みたいな表情になって、しどろもどろに弁解を始めた。


「ええと、ね、なんていうか、昔の知り合いに似てるのよ、ちょっとだけ。だからなんとなくそいつのイメージなんだけど、でも動物にあいつの名前を付けるのも変じゃない?」


だから違うのよ、などとぶつぶつと続ける。段々と言っていることが支離滅裂になっていくのが、見ていて楽しい。


「あの、美佐枝さん。その似てる人って…」


「彼氏?」


俺は芽衣ちゃんの言葉を繋ぐ。


すると、美佐枝さんはぐっと顔をしかめた。


「…そんなんじゃ、ないわよっ」


怒ったような…傷ついたような表情で、吐き捨てる。


「…」


「…」


俺たちは、なんだか強烈な美佐枝さんの雰囲気に圧倒されてしまい、口をつぐんだ。


まさか、そこまで過激な反応が返ってくるとは思えなかった。触れてはいけない話題だったのだろうか。


美佐枝さんのその元彼というのは、もしかして、もう…


「…あ……」


つい、強い口調になってしまった美佐枝さんは、はっとした顔になる。


彼女にとっては、子供たちに当たってしまったと思ったのだろう、気まずそうに顔を歪めた。


だが言葉は続かず、一瞬、気まずい沈黙が降りる。


「…」


「…」


その不穏な空気を破ったのは、人声ではなかった。


「にゃーん…」


鳴声。


俺の膝上で丸くなっていた猫が、さっと体を美佐枝さんに寄せていた。人懐っこい、いつものような調子で。


美佐枝さんは驚いたように自分に擦り寄る猫を見る。


最初ぽかんと開いた瞳は、だがすぐに、優しいものになった。


美佐枝さんは猫の背をゆっくり撫でた。猫は目を細めて、気持ちよさそうにそれを受け入れる。


それはとても、絵になる光景だった。


「…ごめんね」


苦笑いを浮かべながら、俺たちに詫びる。


「いえ、そんなっ。わたしたちこそすみませんっ」


「ううん、ちょっと昔を思い出しちゃってね」


ほろ苦く笑う。


「年をとると、そういう思い出があるのよ」


「大人の魅力って奴だな」


「ありがと、岡崎」


茶々を入れると、美佐枝さんはにっこりと笑った。


「そろそろ、あいつも準備できたでしょ。そろそろ迎えに行ってあげなさい」


言われてみると、たしかに少し時間は経った。


俺たちはコーヒーの最後の一口を飲み干すと、礼を言って美佐枝さんの部屋を出た。


出掛けに振り返ると、美佐枝さんは目を細めて笑いながら、膝の上の猫を優しく撫でていた。



…。



「やっほ、おまたせ」


玄関に出ると、春原は出かける準備をして俺たちを待っていた。


もたれていた壁から背を離すと、ニヤッと笑って俺たちを迎えた。


「もしかして、美佐枝さんの部屋に行ってたの?」


俺たちが現れたのは、寮室ではない食堂側。美佐枝さんの部屋である管理人室もそちらの方にある。やけに勘の鋭い奴だ。


「ああ、まあな」


「マジかよっ、いいなっ」


「もう、お兄ちゃんっ、何言ってるのっ」


「いや、入ったことないからさ」


芽衣ちゃんに叱られても、のらりくらりと笑ってかわす。なんだか機嫌がいい。


「それじゃ、行こうぜっ。渚ちゃんの家にさっ」


「おまえ、能天気な」


足取り軽く歩き出す春原に、俺たちは続いた。



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