folks‐lore 4/27



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古河家が近付くと、緊張してくる。


何度も通った渚の実家だ。騒がしくも温かい、ふるさとのような家庭だ。あの家族の他、高校生の頃の俺を癒してくれるものは何もなかった。


だから、やはり、この道のりは楽しみだった。家路のような気分で歩いていた。今日まで、あの家に行く機会はなかった。


…だが、俺はどうしようもなく緊張してしまっている。


なんてったって、初対面。


オッサンだって、少し話はしたものの、まだ大した自己紹介さえしていない。


第一印象は大事だ。だから色々考えてしまう。


悪い印象をつけるくらいならば、今日は人数も多いし、目立たないようにしておいたほうがいいのかもしれない。だがそれはそれで、正解でもないような気もする。


「岡崎さん、どうかしたんですか?」


物思いに沈んでいたところ、芽衣ちゃんが俺の顔を覗き込む。


「なんでもない」


平静を装い、そう答える。だが対して芽衣ちゃんは、くすくす、と秘密めかした笑顔を浮かべた。


「緊張してるんですね?」


「えっ」


心の中を見透かしたような言葉に、俺は素になって彼女の顔をぼんやりと見てしまう。


その反応を見て、わが意を得たり、とでもいうような幼い笑い声をあげた。


「あははっ、やっぱり」


そっと、俺の耳に口を寄せた。


「渚さんの家に行くから緊張してるんですねっ。やっぱり意識しちゃいますよねっ」


「…」



…。



ああ。


秘密云々の話ではなくて、恋バナですか。


…俺は安心して少し自分に呆れて、失笑する。


「ああ、はいはい」


「なんだか適当な返事ですっ」


俺の薄い反応に、不満そうに怒る素振りをする芽衣ちゃん。全然怖くない。


そしてそれを、春原と風子はぼんやりした風に見守っていた。


「な、なんかいつの間にか随分仲良くなったんだね」


「はい」


「…実は僕の知らない間にふたりはそんな関係にっ?!」


「なってるわけあるかっ」


「お兄ちゃん、なに言ってるのっ」


暴走し始めた春原の頭を、三人ではたく。


「いってぇっ……っておいこのガキ、なんでおまえも殴るんだよっ」


「???」


凄まれた風子はきょろきょろと辺りを見回す。


「いや、おまえだおまえ」


ついツッコミを入れてしまった。


「そんな、とても失礼ですっ。風子ガキじゃありません。むしろ大人の魅力がすごいことになっているって、ご近所でも評判です」


「どんな近所だっ」


「わ、わっ…」


風子は慌てて、俺の後ろに隠れる。


「もう、お兄ちゃんっ」


「ちっ、僕は悪者かよ…」


「ああ、これからもよろしく頼むな」


「嫌な役回りっすねぇ!」


ツッコミに忙しい奴だった。


「はぁ…」


「まだ起きたばっかなのに、疲れてるな」


「あんたのせいでねっ」


「…?」


そうなのだろうか。


「でも、ま、仲良くなれたなら良かったよ」


「ああ、おまえの愚痴を言い合ってたらすっかり意気投合だ」


「嫌な共通の話題ですねぇ!」


俺たちの会話を聞きながら、芽衣ちゃんは楽しそうに笑っている。


「…なんだか、岡崎さんももうひとりのお兄ちゃんって感じがするんです」


「俺が?」


「はい。こんなお兄ちゃんがいたらなっていう、希望といいますか…」


「まあ、本物がこんなんだったらそう思うだろ」


「ほっといてくれ」


春原はそう言うと、ポケットに手を突っ込んでそっぽ向いた。


まったく、いつもの通りの俺たちだ。くだらないことを話していると、だんだん落ち着いてきた。


そうだ、結局のところ、慌てても結果は大して変わらない。既に、賽は、投げられているのだ。






235


渚の実家が見えてきた。


見慣れた家。住宅街だから、今の時間あまり人通りはないが、公園は子供が結構いる。公園でほのぼのと野球をしたり遊具で遊ぶ姿には、あまり変わりがない。


「古河パン…って、あれが、渚ちゃんの実家?」


「そのはずだ」


「ふぅん…」


春原は、しげしげと店のたたずまいを眺める。


「…なんか、パッとしない店だね」


「…なんだと?」


「いや、なんでもないよ、うん」


馬鹿にしたような口調に俺の顔は剣呑なものになってしまったが、よくよく考えてみると、俺も初めてあの家を見た時、同じような感想を持ったような気がする。


まあ、それでも、貶されて腹が立つことに変わりはないのだが。


「きっと、みんな待ってますよっ」


芽衣ちゃんは特に店の外観を気にした風もなく、俺たちをせきたてる。部員たちを待たせていることの方を気にしているのだろう。


「…」


風子は、むしろ公園の方を見ている。


「懐かしいな」


「はい」


小声で話しかけると、ちょっと笑って、風子は俺を見上げた。


この公園が、俺と風子が初めて出会った場所だった。


俺が、また、汐に向き直ることができるようになって…そんな頃に俺たちは出会ったのだ。


とはいうものの、その後何度も何度も会った、というほどの関係ではない。あのあと一度、うちに遊びに来たことは会ったが、そのあとは汐の病気があって関係は疎遠になっていた。


実際、俺はこっちで初めて風子に会った時、すぐにはピンとこなかったくらいだし。


だが、今はこうしているのだ。


何の因果か、俺たちは一緒にいる。


それはとても不思議なことだった。



…。



店内に入ると、ふわっと、パンの香り。


健康な香りだった。生命の匂い…などというと大げさだが、自分にとっては嗅ぎ慣れた匂いなので、すごく落ち着く。


「いらっしゃいませっ」


すぐに、カウンターにいた女性に声をかけられる。


ぱたぱたと、手前までやってくると、にっこりと笑った。


…早苗さん。


もちろん、俺は再び彼女…俺の義理の母親になる人と、再会するのだろうということは、わかっていたのだ。


それなのに俺の心は揺さぶられた。


俺は本当に、彼女に会っているのだ。


血を分けてはいない、俺の家族。物心ついてからずっと失われた母親の、理想が立ち返ったようなその人。


「…」


俺は何も言えなくなる。幸いここには四人もいるのだ、俺が喋らなくても場が持った。


「あ。こんにちはっ」


芽衣ちゃんが弾けんばかりに笑って頭を下げる。本当に人当たりのいい子だった。


「渚さんに似て、すごくおきれいな方ですねっ」


「まあ、ありがとうございますっ。渚の、お友達でしょうか?」


「はいっ」


「そうですかっ」


初対面の俺たちに対して、輝かんばかりの笑顔を向けると、ぽん、と手を打った。


「お待ちしていました。わたしは古河早苗といいます」


「僕、春原陽平ッス!」


「なんなんだよ、その勢いは…」


鼻息荒く意気込んでいるバカが一人いた。


そういえばまだ早苗さん、渚の母親とは言っていないからな。姉などと勘違いしているのかもしれない。


「わたしは妹の春原芽衣です」


「風子は、伊吹…わぷっ」


芽衣ちゃんに続いて自己紹介をしようとした風子の口を、慌てて塞ぐ。


…どんだけ簡単に口を滑らそうとしてんだよっ?!


「むーっ、むーっ」


風子が恨めしそうに俺を見るが、すぐに俺の意図を悟ったのか、おとなしくなる。


「どうかしたんですか?」


早苗さんが、不思議そうに俺たちを見た。


「…ちょっと失礼します」


風子を店の外に引っ張っていく。



…。



「岡崎さん、最低ですっ。もっと女の子には優しくしてもいいと思いますっ」


「あのタイミングで無茶言うな、おまえ…。とにかく、早苗さんと公子さんは知り合いだからな。ばれないようにしろよ」


「なるほど、わかりました。風子、演技派と近所でも評判ですので、心配要りません」


「…」


すげぇ心配になってきた。


「まあいいや。早苗さんが見てるし、いくぞ」


店の中から視線を感じて、俺たちは再び店内へ。



…。



「すみません、失礼しました」


「とっても仲がいいですねっ」


あなたにはそう見えますか。


「伊吹風子ちゃんですね」


「あ……はい」


早苗さんに呼ばれて、風子がぽかんと返事をする。


「あ、今芽衣ちゃんからうかがいました」


「…」


俺のフォローは無意味だったらしい。


「それではあなたが、岡崎朋也さんですね」


「そうですけど…?」


突然、名前を呼ばれて俺はぽかんとする。俺の名前も聞いたのだろうか?


無意識に周りを見渡してしまい、そんな様子を見て早苗さんがくすりと笑った。春原も芽衣ちゃんも、不思議そうな顔をしていた。


「渚が言っていたとおりの方だったので、すぐにわかりました」


「…」


渚が?


俺はどぎまぎする。自分のいないところで、一体どんな風に話をされていたのか、正直うまく想像できない。


「ありがとうございました」


とっさに棒立ちになってしまっている俺の前で、早苗さんは深く頭を下げた。


「あの子がまた、あの学校でがんばれるようになったのは、岡崎さんのおかげですから」


「あ、いや…ちょっと待ってください」


突然のことに、俺は慌てる。


「いや、俺は、ほんとなにもしてなくて…全部あいつが頑張ったんです。だから、そんな、いいですって、早苗さん」


早苗さんは俺の言葉にきょとんとして、またちょっと笑った。


「岡崎さんは、とても不思議な人ですね」


「…」


うまく言葉が出てこない。


不思議な出会い、そして再会だった。


「あ、そうだ」


早苗さんはぱっと視線を店の中に走らせた。


「よろしければ、わたしの作ったパンを食べませんかっ?」


「マジすかっ!」


起きてから飯を食っていない春原が嬉しそうに脊髄反射。芽衣ちゃんはそんな様子を見て、呆れたようにため息をついた。


そして、俺は…


(試練の時が来たか…!)


早すぎる戦いの時に心が震えていた。恐怖で。


俺はさっと店の中に並ぶ商品を見る。


どれだ…?


どれだ、はずれは…?


そんな俺の葛藤など知るはずもなく(いや、早苗さんなら察しそうなところが怖い)、にこにこと笑顔でトレイとトングを手に取る早苗さん。


「わたしが作っているのは数は少ないんですが…」


「早苗さんが作ったものなら、おいしいに決まってますよ」


春原は相変わらず調子がいい。


「ありがとうございますっ。今のおすすめは、これですっ」


そう言って、手近に山と詰まれたパンから人数分をトレイに乗せて持ってくる。


「えっ、食べていいんすかっ」


「わあっ、ありがとうございますっ」


素直に喜ぶ、春原兄妹。


だが…。


(冷静に考えろ、おまえらっ。どうして、そのおすすめのパンが大量に売れ残っていると思うんだ…!?)


不吉な予感が、かなりひしひしとした。


このあたり、長い付き合いゆえの危機管理能力なのだが。


…そうはいっても、さすがにここまでくると後に戻ることはできないだろう。俺もふたりに続いてパンを手に取る。


「風子は今おなかいっぱいなので、また今度にします」


空気を読まない奴がいたーーー!?


「そういえば、お昼過ぎですから。またお腹がすいたら、召し上がってくださいね」


「はい、ありがとうございます」


「…」


トラップを華麗にかわしている、憎たらしい偽妹がいた。


こいつ、早苗さんの地雷を知っているのだろうか? あるいは天然なのだろうか?


「そんなことないだろ、もう結構、腹減っただろ?」


「いえ、減ってませんが」


なおも食い下がろうとすると、風子は訝しげに俺を見た。その様子を見て、何も知らずにいっているのだと気付いた。運のいい奴だな…。


そんなことをやっているうちに、春原はさっそく、大口を開けてパンにかぶりついた。


ボリッ!


…そして、直後、パンを食べているとは思えない味がした。


「…」


ボリ、ボリ、ボリ、ボリ…


咀嚼するたび、すごい音がする。春原の晴れやかな表情は完全に暗雲立ち込めていて笑えた。


「えぇと…なんすか、これ?」


「はい、これはですねっ」


春原の問いに、待ってましたと言わんばかりに見事なドヤ顔。


「中におせんべいを入れた、おせんべいパンですっ」


「…」


「テーマは和みです」


「…」


「アイデアの勝利ですねっ」


敗北していた。


春原はぼんやりした顔で早苗さんを見てしまっている。おそらく、さすがは渚の家族だとでも思っているのだろう。その気持ちはよくわかる。


「とっても面白いパンですねっ」


そこに、芽衣ちゃんがフォローを入れた。


「はい、ありがとうございますっ。お味はいかがですか?」


「はい、すごく和みましたっ」


「そうですかっ」


芽衣ちゃん、軽やかにかわしている!?


さすがの対応力だった。


ともあれ、地雷力は弱いブツのようだった。そういう意味では、俺は胸を撫で下ろす。


いつまでもパンを片手に立ち尽くしていてもしょうがない。俺もふたりに倣い、おせんべいパンを口に含む。


バキッ、ボリ、ボリ、ボリ…。


口の中に、パンの小麦の甘さと、せんべいのしょっぱさが広がった。


…ま、まずっ!?


しかも衝撃的なまずさではなく、すげぇ地味にまずい!


早苗さん、料理うまいのにやっぱりパンの腕だけは最低ですね!


貶す言葉がいくつも頭に浮かんでは消えた。


「岡崎さん、お味はどうですか」


「え、えぇと…」


早苗さんに、きらきらした瞳を向けられ、俺は口ごもる。


正直に言うか、嘘をつくか。


俺は一瞬だけ迷い、そして決めた。


「おいしいですよ、早苗さん。まさにアイデアの勝利って感じですよっ」


「ありがとうございますっ」


…俺も、大人になったものだな。


優しい嘘をつけるようになるなんてな。



…。



早苗さんに、部員たちは二階の部屋に案内していると教えてもらい、俺たちはレジ脇の入口から古河家に入る。


「おい、小僧」


「…」


途中、オッサンに呼び止められた。この人はいきなりどこから現れたのだろうか。


「なんだよ、オッサン。ていうかなんで隠れてるんだ?」


物陰からこちらを窺っている姿に、俺は呆れてしまう。


「バカ野郎。早苗に見つかっちまうだろうが」


「いや、わけがわからないんだが」


「小僧、よくわかってるじゃねぇか」


「なにが?」


オッサンは口の端を歪めて、不適に笑った。


「早苗のあのパンを食べて褒め言葉が出るとはな…。この近所一帯のルールを、きちんとわかってるじゃねぇか…」


「…」


そんなルールはない。


だがしかし、俺は既に古河家の暗黙のルールを知り尽くしているようだった。いや、当然といえば当然なのだが。


だが、なんだか…。


俺はオッサンと自分自身に呆れながら、だが少しだけ、心の中で掻き立てられていた不安が鎮まるのを感じていた。


早苗さんもオッサンも、俺にとっては、敵ではないのだ。


そんなことは、もちろん、初めからわかっていたのことなのだ。


だが、きちんと言葉を交わして、目を合わせなければ確認できないこともある。


そうだ、俺は、安心していたのだ。


この古河家はこっちでも相変わらずに、俺の心のふるさとであり続けていてくれたのだ、と。



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