234
古河家が近付くと、緊張してくる。
何度も通った渚の実家だ。騒がしくも温かい、ふるさとのような家庭だ。あの家族の他、高校生の頃の俺を癒してくれるものは何もなかった。
だから、やはり、この道のりは楽しみだった。家路のような気分で歩いていた。今日まで、あの家に行く機会はなかった。
…だが、俺はどうしようもなく緊張してしまっている。
なんてったって、初対面。
オッサンだって、少し話はしたものの、まだ大した自己紹介さえしていない。
第一印象は大事だ。だから色々考えてしまう。
悪い印象をつけるくらいならば、今日は人数も多いし、目立たないようにしておいたほうがいいのかもしれない。だがそれはそれで、正解でもないような気もする。
「岡崎さん、どうかしたんですか?」
物思いに沈んでいたところ、芽衣ちゃんが俺の顔を覗き込む。
「なんでもない」
平静を装い、そう答える。だが対して芽衣ちゃんは、くすくす、と秘密めかした笑顔を浮かべた。
「緊張してるんですね?」
「えっ」
心の中を見透かしたような言葉に、俺は素になって彼女の顔をぼんやりと見てしまう。
その反応を見て、わが意を得たり、とでもいうような幼い笑い声をあげた。
「あははっ、やっぱり」
そっと、俺の耳に口を寄せた。
「渚さんの家に行くから緊張してるんですねっ。やっぱり意識しちゃいますよねっ」
「…」
…。
ああ。
秘密云々の話ではなくて、恋バナですか。
…俺は安心して少し自分に呆れて、失笑する。
「ああ、はいはい」
「なんだか適当な返事ですっ」
俺の薄い反応に、不満そうに怒る素振りをする芽衣ちゃん。全然怖くない。
そしてそれを、春原と風子はぼんやりした風に見守っていた。
「な、なんかいつの間にか随分仲良くなったんだね」
「はい」
「…実は僕の知らない間にふたりはそんな関係にっ?!」
「なってるわけあるかっ」
「お兄ちゃん、なに言ってるのっ」
暴走し始めた春原の頭を、三人ではたく。
「いってぇっ……っておいこのガキ、なんでおまえも殴るんだよっ」
「???」
凄まれた風子はきょろきょろと辺りを見回す。
「いや、おまえだおまえ」
ついツッコミを入れてしまった。
「そんな、とても失礼ですっ。風子ガキじゃありません。むしろ大人の魅力がすごいことになっているって、ご近所でも評判です」
「どんな近所だっ」
「わ、わっ…」
風子は慌てて、俺の後ろに隠れる。
「もう、お兄ちゃんっ」
「ちっ、僕は悪者かよ…」
「ああ、これからもよろしく頼むな」
「嫌な役回りっすねぇ!」
ツッコミに忙しい奴だった。
「はぁ…」
「まだ起きたばっかなのに、疲れてるな」
「あんたのせいでねっ」
「…?」
そうなのだろうか。
「でも、ま、仲良くなれたなら良かったよ」
「ああ、おまえの愚痴を言い合ってたらすっかり意気投合だ」
「嫌な共通の話題ですねぇ!」
俺たちの会話を聞きながら、芽衣ちゃんは楽しそうに笑っている。
「…なんだか、岡崎さんももうひとりのお兄ちゃんって感じがするんです」
「俺が?」
「はい。こんなお兄ちゃんがいたらなっていう、希望といいますか…」
「まあ、本物がこんなんだったらそう思うだろ」
「ほっといてくれ」
春原はそう言うと、ポケットに手を突っ込んでそっぽ向いた。
まったく、いつもの通りの俺たちだ。くだらないことを話していると、だんだん落ち着いてきた。
そうだ、結局のところ、慌てても結果は大して変わらない。既に、賽は、投げられているのだ。
235
渚の実家が見えてきた。
見慣れた家。住宅街だから、今の時間あまり人通りはないが、公園は子供が結構いる。公園でほのぼのと野球をしたり遊具で遊ぶ姿には、あまり変わりがない。
「古河パン…って、あれが、渚ちゃんの実家?」
「そのはずだ」
「ふぅん…」
春原は、しげしげと店のたたずまいを眺める。
「…なんか、パッとしない店だね」
「…なんだと?」
「いや、なんでもないよ、うん」
馬鹿にしたような口調に俺の顔は剣呑なものになってしまったが、よくよく考えてみると、俺も初めてあの家を見た時、同じような感想を持ったような気がする。
まあ、それでも、貶されて腹が立つことに変わりはないのだが。
「きっと、みんな待ってますよっ」
芽衣ちゃんは特に店の外観を気にした風もなく、俺たちをせきたてる。部員たちを待たせていることの方を気にしているのだろう。
「…」
風子は、むしろ公園の方を見ている。
「懐かしいな」
「はい」
小声で話しかけると、ちょっと笑って、風子は俺を見上げた。
この公園が、俺と風子が初めて出会った場所だった。
俺が、また、汐に向き直ることができるようになって…そんな頃に俺たちは出会ったのだ。
とはいうものの、その後何度も何度も会った、というほどの関係ではない。あのあと一度、うちに遊びに来たことは会ったが、そのあとは汐の病気があって関係は疎遠になっていた。
実際、俺はこっちで初めて風子に会った時、すぐにはピンとこなかったくらいだし。
だが、今はこうしているのだ。
何の因果か、俺たちは一緒にいる。
それはとても不思議なことだった。
…。
店内に入ると、ふわっと、パンの香り。
健康な香りだった。生命の匂い…などというと大げさだが、自分にとっては嗅ぎ慣れた匂いなので、すごく落ち着く。
「いらっしゃいませっ」
すぐに、カウンターにいた女性に声をかけられる。
ぱたぱたと、手前までやってくると、にっこりと笑った。
…早苗さん。
もちろん、俺は再び彼女…俺の義理の母親になる人と、再会するのだろうということは、わかっていたのだ。
それなのに俺の心は揺さぶられた。
俺は本当に、彼女に会っているのだ。
血を分けてはいない、俺の家族。物心ついてからずっと失われた母親の、理想が立ち返ったようなその人。
「…」
俺は何も言えなくなる。幸いここには四人もいるのだ、俺が喋らなくても場が持った。
「あ。こんにちはっ」
芽衣ちゃんが弾けんばかりに笑って頭を下げる。本当に人当たりのいい子だった。
「渚さんに似て、すごくおきれいな方ですねっ」
「まあ、ありがとうございますっ。渚の、お友達でしょうか?」
「はいっ」
「そうですかっ」
初対面の俺たちに対して、輝かんばかりの笑顔を向けると、ぽん、と手を打った。
「お待ちしていました。わたしは古河早苗といいます」
「僕、春原陽平ッス!」
「なんなんだよ、その勢いは…」
鼻息荒く意気込んでいるバカが一人いた。
そういえばまだ早苗さん、渚の母親とは言っていないからな。姉などと勘違いしているのかもしれない。
「わたしは妹の春原芽衣です」
「風子は、伊吹…わぷっ」
芽衣ちゃんに続いて自己紹介をしようとした風子の口を、慌てて塞ぐ。
…どんだけ簡単に口を滑らそうとしてんだよっ?!
「むーっ、むーっ」
風子が恨めしそうに俺を見るが、すぐに俺の意図を悟ったのか、おとなしくなる。
「どうかしたんですか?」
早苗さんが、不思議そうに俺たちを見た。
「…ちょっと失礼します」
風子を店の外に引っ張っていく。
…。
「岡崎さん、最低ですっ。もっと女の子には優しくしてもいいと思いますっ」
「あのタイミングで無茶言うな、おまえ…。とにかく、早苗さんと公子さんは知り合いだからな。ばれないようにしろよ」
「なるほど、わかりました。風子、演技派と近所でも評判ですので、心配要りません」
「…」
すげぇ心配になってきた。
「まあいいや。早苗さんが見てるし、いくぞ」
店の中から視線を感じて、俺たちは再び店内へ。
…。
「すみません、失礼しました」
「とっても仲がいいですねっ」
あなたにはそう見えますか。
「伊吹風子ちゃんですね」
「あ……はい」
早苗さんに呼ばれて、風子がぽかんと返事をする。
「あ、今芽衣ちゃんからうかがいました」
「…」
俺のフォローは無意味だったらしい。
「それではあなたが、岡崎朋也さんですね」
「そうですけど…?」
突然、名前を呼ばれて俺はぽかんとする。俺の名前も聞いたのだろうか?
無意識に周りを見渡してしまい、そんな様子を見て早苗さんがくすりと笑った。春原も芽衣ちゃんも、不思議そうな顔をしていた。
「渚が言っていたとおりの方だったので、すぐにわかりました」
「…」
渚が?
俺はどぎまぎする。自分のいないところで、一体どんな風に話をされていたのか、正直うまく想像できない。
「ありがとうございました」
とっさに棒立ちになってしまっている俺の前で、早苗さんは深く頭を下げた。
「あの子がまた、あの学校でがんばれるようになったのは、岡崎さんのおかげですから」
「あ、いや…ちょっと待ってください」
突然のことに、俺は慌てる。
「いや、俺は、ほんとなにもしてなくて…全部あいつが頑張ったんです。だから、そんな、いいですって、早苗さん」
早苗さんは俺の言葉にきょとんとして、またちょっと笑った。
「岡崎さんは、とても不思議な人ですね」
「…」
うまく言葉が出てこない。
不思議な出会い、そして再会だった。
「あ、そうだ」
早苗さんはぱっと視線を店の中に走らせた。
「よろしければ、わたしの作ったパンを食べませんかっ?」
「マジすかっ!」
起きてから飯を食っていない春原が嬉しそうに脊髄反射。芽衣ちゃんはそんな様子を見て、呆れたようにため息をついた。
そして、俺は…
(試練の時が来たか…!)
早すぎる戦いの時に心が震えていた。恐怖で。
俺はさっと店の中に並ぶ商品を見る。
どれだ…?
どれだ、はずれは…?
そんな俺の葛藤など知るはずもなく(いや、早苗さんなら察しそうなところが怖い)、にこにこと笑顔でトレイとトングを手に取る早苗さん。
「わたしが作っているのは数は少ないんですが…」
「早苗さんが作ったものなら、おいしいに決まってますよ」
春原は相変わらず調子がいい。
「ありがとうございますっ。今のおすすめは、これですっ」
そう言って、手近に山と詰まれたパンから人数分をトレイに乗せて持ってくる。
「えっ、食べていいんすかっ」
「わあっ、ありがとうございますっ」
素直に喜ぶ、春原兄妹。
だが…。
(冷静に考えろ、おまえらっ。どうして、そのおすすめのパンが大量に売れ残っていると思うんだ…!?)
不吉な予感が、かなりひしひしとした。
このあたり、長い付き合いゆえの危機管理能力なのだが。
…そうはいっても、さすがにここまでくると後に戻ることはできないだろう。俺もふたりに続いてパンを手に取る。
「風子は今おなかいっぱいなので、また今度にします」
空気を読まない奴がいたーーー!?
「そういえば、お昼過ぎですから。またお腹がすいたら、召し上がってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「…」
トラップを華麗にかわしている、憎たらしい偽妹がいた。
こいつ、早苗さんの地雷を知っているのだろうか? あるいは天然なのだろうか?
「そんなことないだろ、もう結構、腹減っただろ?」
「いえ、減ってませんが」
なおも食い下がろうとすると、風子は訝しげに俺を見た。その様子を見て、何も知らずにいっているのだと気付いた。運のいい奴だな…。
そんなことをやっているうちに、春原はさっそく、大口を開けてパンにかぶりついた。
ボリッ!
…そして、直後、パンを食べているとは思えない味がした。
「…」
ボリ、ボリ、ボリ、ボリ…
咀嚼するたび、すごい音がする。春原の晴れやかな表情は完全に暗雲立ち込めていて笑えた。
「えぇと…なんすか、これ?」
「はい、これはですねっ」
春原の問いに、待ってましたと言わんばかりに見事なドヤ顔。
「中におせんべいを入れた、おせんべいパンですっ」
「…」
「テーマは和みです」
「…」
「アイデアの勝利ですねっ」
敗北していた。
春原はぼんやりした顔で早苗さんを見てしまっている。おそらく、さすがは渚の家族だとでも思っているのだろう。その気持ちはよくわかる。
「とっても面白いパンですねっ」
そこに、芽衣ちゃんがフォローを入れた。
「はい、ありがとうございますっ。お味はいかがですか?」
「はい、すごく和みましたっ」
「そうですかっ」
芽衣ちゃん、軽やかにかわしている!?
さすがの対応力だった。
ともあれ、地雷力は弱いブツのようだった。そういう意味では、俺は胸を撫で下ろす。
いつまでもパンを片手に立ち尽くしていてもしょうがない。俺もふたりに倣い、おせんべいパンを口に含む。
バキッ、ボリ、ボリ、ボリ…。
口の中に、パンの小麦の甘さと、せんべいのしょっぱさが広がった。
…ま、まずっ!?
しかも衝撃的なまずさではなく、すげぇ地味にまずい!
早苗さん、料理うまいのにやっぱりパンの腕だけは最低ですね!
貶す言葉がいくつも頭に浮かんでは消えた。
「岡崎さん、お味はどうですか」
「え、えぇと…」
早苗さんに、きらきらした瞳を向けられ、俺は口ごもる。
正直に言うか、嘘をつくか。
俺は一瞬だけ迷い、そして決めた。
「おいしいですよ、早苗さん。まさにアイデアの勝利って感じですよっ」
「ありがとうございますっ」
…俺も、大人になったものだな。
優しい嘘をつけるようになるなんてな。
…。
早苗さんに、部員たちは二階の部屋に案内していると教えてもらい、俺たちはレジ脇の入口から古河家に入る。
「おい、小僧」
「…」
途中、オッサンに呼び止められた。この人はいきなりどこから現れたのだろうか。
「なんだよ、オッサン。ていうかなんで隠れてるんだ?」
物陰からこちらを窺っている姿に、俺は呆れてしまう。
「バカ野郎。早苗に見つかっちまうだろうが」
「いや、わけがわからないんだが」
「小僧、よくわかってるじゃねぇか」
「なにが?」
オッサンは口の端を歪めて、不適に笑った。
「早苗のあのパンを食べて褒め言葉が出るとはな…。この近所一帯のルールを、きちんとわかってるじゃねぇか…」
「…」
そんなルールはない。
だがしかし、俺は既に古河家の暗黙のルールを知り尽くしているようだった。いや、当然といえば当然なのだが。
だが、なんだか…。
俺はオッサンと自分自身に呆れながら、だが少しだけ、心の中で掻き立てられていた不安が鎮まるのを感じていた。
早苗さんもオッサンも、俺にとっては、敵ではないのだ。
そんなことは、もちろん、初めからわかっていたのことなのだ。
だが、きちんと言葉を交わして、目を合わせなければ確認できないこともある。
そうだ、俺は、安心していたのだ。
この古河家はこっちでも相変わらずに、俺の心のふるさとであり続けていてくれたのだ、と。