folks‐lore 4/26



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「はあ? 落書き? あの子のポスターに?」


教室に戻り、後からやってきた杏に先ほどの話をすると、彼女は目をむいて憎々しげな顔になった。


「高校生にもなって、バカみたいね、それっ。ねえ朋也、あんた誰がやったかわからないの?」


「いや、わかんねぇよ。多分他の候補者だと思うけど」


「何人いると思ってるのよ、そんなの。使えないわねぇ…」


言いながら、どかっと目の前、俺の机に座る。


行儀が悪い。目の前に突き出された太ももが眩しかった。俺は顔を背ける。


「ていうか、おまえ智代とそんな仲良かったっけ? やけに怒るな」


「いや、そりゃあの子は気に食わないけどさ。でも嫌いじゃないわよ、ああいうバカ正直なの。あたしが嫌いなのは、陰険なのよ」


言いながら、足を組む。スカートが少し乱れる。とても眩しい。俺は顔を背ける。


「目撃者でもいれば、話は早いんだけどな」


「そうね。知り合いの後輩に聞いてみるわ。ま、犯行時刻は朝早くだろうし、難しいかもしれないけど」


「やらないよりかは、マシだよ」


「そうね。ね、朋也。あんたは智代のことを気にしてあげなさい。普通、落ち込んでるわよ」


「智代が?」


「誰でもそうよ」


「…ああ、そうかもな」


たしかに、智代も規格外に強いが、だからといって精神的に超人というわけではない。


智代には智代の葛藤を持って暮らしているのだ。


彼女は決して、俺にとっても場違いな人間ではない。


…そう思って、だが、彼女と付き合うな、といった会長の言葉が蘇る。


俺は彼女を不幸にするのだろうか。


その言葉は、まだ消えずにちりりと俺の胸を焦がした。


「でも、それ、必要なのか」


「必要よ」


「…俺でも、か?」


「いや、あんただから効き目があるんじゃない。ま、癪だけど」


「?」


「あんたが慰めてあげたほうが、あの子喜ぶでしょ。こんな時くらい甲斐性見せてあげなさいよ」


「…」


杏は…俺が智代と共にいて、彼女が幸福になると言ってくれていた。


その意見は会長と正反対で、俺は面食らう。


だが、杏と会長、どちらの意見を採択すべきか、迷うべくもなかった。


「あぁ…わかったよ」


俺は頷いていた。


「智代に声をかけてみる」


「それがいいわ。あ、もうすぐホームルームだから、あたし行くからっ」


杏は満足そうにそう言って、ぱっと机から飛ぶように降りて、小気味よく足音を鳴らして教室を出て行く。俺は手を振りながら去っていくその姿を見送った。


「…まったく、あいつ、朝からすげぇ元気だね」


横で頬杖をついてこちらを見ていた春原が、声をかけてくる。


「あれ? おまえ起きてたの?」


「起きてたよっ。ていうか、ずっと見てただろっ」


「何も喋らないから、寝てるかと思って」


「思いっきり目を開けてましたから」


「おまえだったら目を開けたまま寝てもおかしくない」


「そんな期待されても、応えられないからさ…」


春原はやれやれ、と頭を振って…すぐに、鼻息荒く俺に向き直った。


「僕が何も話さなかったのには、理由がある」


「なんだよ」


「僕の角度からさ、杏のパンツが丸見えだったんだよっ」


「…」


エロだった。


俺はくいっと頭を反らせて、天井を仰ぐ。


こいつはさっきの話の間、杏のパンツを熟視していたのだろうか。


「で、何色だった?」


「お? 先生、気になりますか?」


聞いてみると、春原はニヤニヤと笑った。


「いや、気にならないけどさ」


「ははっ。聞きたいって顔に書いてあるよ」


「別に書いてない」


「聞きたい? 何色だったか?」


「別に」


「聞いて驚くなよっ」


「言うのかよ…」


「…水色だったよ」


ぼそり、と呟くように言う。


水色か…。


「え? なんだって?」


だが俺は、あえて聞こえなかったように振舞った。


「だから、水色だって」


「え? なに?」


「だからーっ、杏のパンツが水色だったんだって!!」


「…」


「…」


「…」


教室に静寂が満ちた。


視線を巡らすと、朝の歓談をしていたクラスメートたちが、一斉に春原を見ていた。


そんな中…。


たたた…っ。


春原の下に歩み寄るのは…椋。


「す、春原くん…っ」


「な、なにかな、委員長?」


さすがにヤバイと思ったのか、春原は冷や汗をかきながら応対した。


「春原くん…エッチですっ」


「ちょ…待ってくれーーーーっ!!」


春原が慌てて釈明を始めた。


俺はそれをBGMにして、頬杖をついて外を見た。


外は、空。空は、水色。


あぁ、今日はいい空だ。


俺はそう思った。



…。



「朋也」


ホームルームが終わった後、杏が教室にやってくる。


「ん、ああ」


「あんた、智代に会ったら部活にでも誘ってあげたら? ほら、今日は発表あるじゃない。それでも見れば、ちょっとは気分転換になるわよ」


さっきの話の続きのようだった。ホームルームの間にでも、それを考えていたのだろう。


「あぁ、そうだな…。ま、向こうに用事がなければな」


「ま、そうね」


そんな話をしていると…


ひそひそ…


おい、藤林杏だぜ…


ああ…


水色だぜ…


み、水色…


水色かぁ…


藤林ィ…


ひそひそ…


「え? なんなの?」


さっきの春原の暴言が尾を引いていて、杏が登場しただけで教室は少し異様な空気になっていた。一同がこちらの動向をさりげなく、あるいはしげしげと見守っていた。


「水色って、なに?」


耳ざとく噂話の穂を捕らえて、俺に聞いてくる。


…困った。


まさか正直に答えるわけにもいかない。


俺は考えて、適当な嘘を答える。


「さっき、藤林の占いでさ、今日のラッキーカラーは水色だっていっててさ」


「み、水色?」


俺の言葉に、杏は視線をさまよわせた。


「そうなの。椋の占いで、ラッキーが、水色…」


ぼんやりとそう呟いて、やがてため息をつく。


「なんだか、ろくでもないことがありそうね。あ、あたしはともかく、水色の物身につけてる人とかねっ」


慌ててそう付け足していた。


あぁ…。


俺は今、杏の心中が手に取るようにわかっていた。なんだか、すごくこいつがいじらしく思えてきたのだが。


「ま、あたしには関係ないけどねっ。あ、あははっ」


…というか、既にろくでもないことは杏の身に降りかかっているよな、実際。


「俺、智代の教室に行ってくるよ」


「そうね。また来るかどうかわかったら、教えてね」


「ああ」


そう言って、俺は不思議な空気に満たされた教室を後にして出て行く。


最後、振り返ると杏が椋のいるほうになにか話しかけて行っているのが見えた。



…。



二年B組、智代の教室。俺はその前に立っていた。


「なあ」


「え? なんすか?」


入口の辺り、手近な男子生徒に声をかける。


「ちょっと、坂上を呼んできてくれないか?」


「え? 坂上さん?」


言うと、男子生徒は訝しげに俺を見た。


「頼むよ」


「…」


微妙な表情のまま、教室に戻っていった。


中を覗いてみると、智代が何人かの女子生徒に囲まれて話しているのが見える。智代の表情は暗くはなくて、俺はそれを見て安心する。


女子の輪に、おっかなびっくりな様子で男子生徒が割って入って、なにやら話をする。


そして一斉に、彼女らがこちらを見た。


智代は俺の姿を見て、ぱっと笑ってくれた。俺も手を上げてこたえる。


だが、彼女を取り巻く周囲の女子は訝しげに、あるいは不快そうに顔をしかめた。


智代が周囲の女子に声をかけて、こちらに歩いてくるが、周りの女子たちも釣られるようにして、智代に続いて出入り口の辺りまで付いてくる。


「岡崎、どうかしたのか」


「いや、ちょっと様子を見に来た」


「そうか、ありがとう。私は気にしていないから、大丈夫だ。おまえこそ、会長になにか言われなかったか?」


「いや、大したことじゃないよ」


「それなら、いいが」


智代は俺の答えに納得した風ではないが、まさか言われた言葉をここで繰り返すわけにもいくまい。


「おまえ、今日の放課後暇か?」


「?」


「実は今日、劇のちょっとしたお披露目があってさ…」


予定している渚の演劇(未完成版ではあるのだが)の話をする。


智代はうんうんと話を聞いていて、だが申し訳なさそうな表情になった。


「誘ってくれてありがとう、だがすまない。実は今日の放課後は、あいつらと一緒に遊びに行く約束をしたんだ」


あいつら、と向けられた視線の先を追うと、教室の出入口の辺りからこちらを不振に窺っている女子の集団。


今にも俺が智代に絡みだすのではないか、などと警戒しているような様子だった。


おそらくは、俺の風評を知っているからこそそんな態度なのだろう。不良が関わってきて、いいことなどない、と彼女らは考えているのだろう。


「さっきああいうことがあったからな。私のことを、心配してくれているんだと思う」


「そうか。よかったじゃん」


「うん、そうだな。せっかくだから好意に甘えようと思う。古河さんの劇も、ぜひ見てみたかったが…」


「いや、部室とかにきてくれれば、いつだって見せられる。気にするな」


「そうか…」


「じゃ、俺はもう戻るから」


「ああ、そうだな」


俺は背を向けて、歩き出す。


智代に誘いは断られたが、彼女は彼女なりに、また別に元気付けてくれる仲間がいるようで俺は安心した。


「岡崎、ありがとう」


後ろから声をかけられる。俺は振り返らずに手を上げて、それに答えた。


振り返らなかったからよくはわからないが、傍から見ていた女子たちが智代の元に駆け寄った様子がわかった。


彼女らは口々に智代に声をかけた。


俺に変なことを言われなかったか、されなかったかを聞いているのだろう。


…そうだ、俺は彼女らからは不良で悪だと思われている。


もしかしたら…


彼女らは、智代のポスターに落書きされたのは、俺とつるんでいるからだと思っているのかもしれない。あるいは、最悪、あの犯人が俺なのではないかと疑っているのかもしれない。


それは十分にありえる話だった。


休み時間の終わり、下級生たちのクラスの階を歩く喧騒、どうしても気になるのは俺を避けて廊下の隅に避けて行く生徒たちの数の多さ。
俺が忌避されている忘れられない事実。


…俺は人を不幸にする。


会長の言葉が耳に蘇った。杏が後押ししてくれたよりも強く暗く。


思い出したその言葉に、俺は頭がくらくらする。


その言葉は、どうしても拭い去ることができない。


その言葉は…俺の頭の中を、ぐるぐると、バターになって融けるほど、渦巻いていた。


呪詛のように。



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