213
「岡崎、朝だぞ」
声と共に、カシャァッ、とカーテンが開けられる。
まばゆい日差しが顔にかかった。
一度、ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりあける。
朝日。
窓から差し込む光を頬に受け、智代が微笑んでいた。
「おはよう」
「…」
たっぷり十秒くらい、呆然とする。
目覚めてぼんやりしたまま、智代を見つめた。朝っぱらから、にっこりといい笑顔だった。
俺はもう十年歳をとっても、朝っぱらからそんないい笑顔はできないような気がする。
…えぇと、だな。
目の前にいるのは、智代、だよな…。
寝起きでストップしている頭が、回りだす。
「…はぁ」
そして、結論として。俺はため息をついた。昨日に続いて、今日もわざわざ来たようだった。なんだかどんどん朝が賑やかになっているような気がするのだが。
「人の顔を見てため息をつくなんて、失礼な奴だな、おまえは…」
智代は呆れたように目を細めた。
「それに、朝からため息ばかりつくと、一日がつまらなくなるぞ。もっと笑って挨拶をしたらどうだ」
「あぁ、わかったよ…」
やれやれ、と思って俺は息をつく。
「…」
「…」
「智代、おはようっ!!」
「…」
「…」
「…おまえに元気に挨拶をされると、それはそれで気持ちが悪い」
「どうしろってんだ!?」
「冗談だ」
智代は笑って俺のツッコミをかわした。
だけど、さっきの言葉は何気に本心のような気がする。そんな顔をしていた。まあいいけど…。
俺は体を起こす。
「別に、わざわざ起こしに来なくていいぞ。正直、そこまでされると気を遣うしな」
「あぁ、そうかもしれないな…」
智代は少しだけ考え込む。
「私としては、お礼としてこれくらいはしてあげたいんだが…岡崎が要らないというなら、明日からはやめておこう」
「…」
なんだかそう言われたら、それはそれで寂しいのはなぜだろうか。
「着替えて、降りるよ」
「うん、待っているぞ」
にこりと小さく頷いて、智代は部屋を出て行った。
…朝っぱらから、騒がしい家だな、ここは。
俺はそう思って笑ってしまう。ここ何日かで、急に岡崎家の閉ざされた窓が大きく開けて、暴風みたいに全てを吹き飛ばすような風が吹いていた。
なんだか、俺の親父の不和でさえ、その勢いの中で流されていってしまいそうな気さえした。
…。
一同居間に集まり、朝食。
俺と、風子と、智代と、芽衣ちゃんと…。
「あれ?」
視線を追って数えていくが、四まで数えて点呼は止まる。親父の食器が出ていない。
「芽衣ちゃん、親父は?」
台所からご飯を配膳してきた芽衣ちゃんに尋ねる。
「あぁ、お父さんだったら今朝は用事があるみたいで、早くに出かけていきましたよ」
「用事?」
「はい」
「…」
親父に、こんな朝っぱらから用事?
あの人は今は、友人のところを転々としたり、そのツテでちょっと仕事をしたり、というくらいの生活だよな、たしか。
こんな時間だから仕事ではないだろうし…人に会いに行く?
いやいや…。
「…親父?」
俺は小さく呟いて、居間の出口に目をやった。
…なんだか、家主のあの人を見事に追い出しつつあるような気がするのだが、どうしたものだろうか。
あんまり騒がしすぎて、ちょっと辛かったのかもしれない。そういうの、慣れてないだろうから。
あるいはこちらに気を遣ってくれたのかもしれないが、そのあたりはよくわからないな。
やがて、智代もおかずを持ってきてくれて、朝食を食べ始める。
「それじゃ、いただきます」
俺が音頭をとって、食べ始める。
部活でいつもこうやって食べてるから、なんとなく家でもこうしてしまう。
他の三人も口々にいただきます、続けた。
「そういや智代、昨日ロッカーに入れておいた手紙読んだ?」
「うん。日曜だな。用事は空けておこう」
明日は渚の家に遊びに行くという話。まだ、いつどこに集合という話までは決まっていないな。通学の時に渚と合流したら、その話をしないといけない。
「残念です、風子が優勝したら、とっておきのごほうびがあったんですが…」
渚さんのお願いも悪くないですが、と風子は付け足すが、やはり昨日から負けには不服のようだった。
「おまえの場合、なんとなく予想がつくんだが」
「そろそろ、おにぃちゃんもヒトデの素晴らしさがわかってきましたか?」
「いや、全然」
「もぅ、全然ダメですっ」
妹にダメ扱いされている。
「ですが、渚さんの家に遊びに行くのも、変な罰ゲームじゃなくてよかったです」
「あぁ、そうだな…」
「ん? なんだ、岡崎と伊吹は古河さんの家に行ったことがあるのか?」
「…」
「…」
俺と風子は黙り込む。ちょっと失言だった。
「いや、遊びに行くだけなら大したことないな、って」
軌道修正をする俺。冷や汗が、一瞬流れた。最近こういうこと、多いよな。宮沢がいれば彼女に振ればなんとでもなるからある意味気が楽なのだが。
「そうですね。なんでもアリなら、もっと恥ずかしいことさせよう、とか思いますけど。渚さん、優しいですねっ」
「恥ずかしいことって、たとえば?」
「そうですねぇ…」
俺の問いに、芽衣ちゃんは納豆をかき混ぜつつ、少しだけ視線を宙に向ける。
「授業中に『お母さん! 質問があります!』みたいに恥ずかしいことを言わせるとか、どうでしょうか?」
にっこり笑顔で、そんなことを言った。
「素で嫌な要求がきたな…」
「あぁ、それは嫌だな」
「芽衣ちゃんも、なかなかあくどいです」
「あ、あれっ? 普通まだこんなもんじゃないんじゃないですか?」
芽衣ちゃんはなかなか恐ろしい子のようだった。
「でも、今回岡崎さんはなにもお願いとかなかったんですか?」
「ないよ、そんなの」
「岡崎は欲がないな」
智代は笑いながら、そう言う。
「そういうわけじゃないけどさ、実際考えると浮かばないからな。それに正直、渚がペアじゃなかったら勝ち抜けなかった気がするし、あいつの方が功労者だよ」
渚以外の誰と組んでも、勝てた気はしない。
智代にも、オッサンにも。
「岡崎がそう言うなら、構わないが…、私は、岡崎がどんな願い事を言うか、興味があったな」
智代はぽつりと、そう呟いた。
214
暖かな日差しの下を歩いていく。
まだ四月だ、風は少し冷たいが、この陽気の下を歩いているとブレザーの下に少しだけ汗をかく。
「今日は晴れてよかったな」
「あぁ、雨だと傘さすのが面倒だしな」
「そんなことまで面倒くさいのか、おまえは…」
智代は呆れた顔で俺を見た。
「いや、めんどいじゃん」
「それはそれで、情緒があっていいと思うぞ。岡崎は、もっとしゃんとすればいいと思う」
「する時は、するぞ」
「うん、そうだな。だけど、いつもきちんとしていれば、もっとみんなにおまえの良さがわかると思うんだ」
「良さ、ねぇ…」
今さら良さも悪さもないくらい、俺の評価は固まってしまっているような気もするが。
「ただ…」
智代は小声で続ける。
「あまりおまえが人気者になっても、私は、困る…」
「…」
聞こえてしまっているのだが。
人気がありすぎても、距離感がありすぎて辛い、ということか。完全に立場逆だろそれ、と言いたい。
というか、そんなこと言うって、こいつは結構俺のこと気にしてくれているのだろうか?
「…」
いや、なんか、智代に恋愛感情って想像しづらいな。誰に対しても公平・清廉だし、別に俺を特別扱いしてるってわけでもないかな。
杏や仁科の思いをなんとなく肌で感じ取ってしまっていて、そういうのに考えを持っていきがちになっているのかもしれない。
「ともかく、さ」
俺は慌てて沈黙を避けるように話を続ける。
「おまえはよかったよな。今日から選挙活動が始まるんだろ?」
「うん、そうだな。まだ今日は告示の張り出しで、来週から選挙演説が始まるから、本番はまだ少し先になる」
「へぇ…」
「あの、坂上さん」
「うん、どうした」
黙ってこちらを窺っていた風子が、ぽつりと口を開いた。
「坂上さんは、どんなことを話すんですか?」
「あぁ、やってみたいことは色々ある。部費の振り分けが不透明だったり、遅刻に対するお咎めが甘かったりするからな。それに、行事の運営にも興味がある」
「…」
ものすごく優等生な答えが返ってきた。というか遅刻へのお咎めとか、俺や春原への黄信号だよな。
「だがな…一番やってみたいことは、他にもあるんだ」
智代は声音を変えて、空を見上げた。
なにか大切な思い出を思い出すように、彼女はしばし、思いをはせた。
唇の端が、ほんの少し、持ち上がっていた。
「それは、なんなんだ?」
彼女の様子は、少し特別。
聞いていいのかいけないのかはわからないが、俺は軽くそう尋ねてみる。
「…岡崎。岡崎は、桜は好きか?」
「桜?」
「ああ」
「…」
桜。
その言葉。俺は思い出す。
桜を巡る、いくつもの風景。
それは、春。
坂の下、渚との出会い。
坂の上、渚の卒業式。
桜を巡る思い出は、渚を巡る思い出だった。
彼女と共に、歩んだ坂道。俺にとっての桜は、学校へと続くあの坂道。
それらは大切な思い出だった。
だが同時に、陰鬱な思い出もある。
渚が留年して、ひとりで迎えた卒業式。俺ひとりだけ、押し出されるように、学校というモラトリアムから出てしまったこと。
そして。あの時。
坂の下から渚の後姿を見ていたことがあった。
渚の後姿を見ていて、だけど喉に張り付いたように言葉が出なかった。俺はその後姿になにか言葉を掛けなければならなかった。桜が待っていて、時間が流れて、だけど体は動いてくれなかった。言葉は出てきてくれなかった。あの時の焦燥感。自分の人生がゼロになっていくような感覚。それらの思い出は、今となってもやはり、苦いままで胸の奥に残っている。
…あれ。
心の底を掘り起こすように浮かんだ情景に、疑問が湧いた。あの時?
…渚に言葉を掛けられなかった、あの時? それはいつだ?
俺は慌てて、記憶をさらっていく。
世界は真っ白、桜が舞っている、制服姿の渚の後姿、俺はそれを見ている、だけど言葉がない。
…あの時は、いつなんだ?
記憶にある。確固としてある。だがその記憶は、孤島のように隔絶されて存在していた。
ホットスポットのように、熱く熱く煮えたぎりながら、それらは大きな大きな距離を隔たり存在していた。
「…」
「岡崎、どうした?」
「…いや、なんでもない」
智代に声をかけられて、我に返る。
一瞬、思考の海に溺れていた。
だがまだ胸に動悸が残っている。俺は、わけのわからない記憶を引っ張り出して再びここに帰ってきてしまっていた。
海に潜り、海底から宝石か、あるいは宝石に似たなにかを手にしてのぼってきたような気分。
慌てて焦燥を押し込める。平静を装って彼女に答える。
「俺も桜は、好きだよ」
清濁併せ持ち、辛酸甘露を混ぜ込みながら、それでも俺の答えは間違いなく肯定だった。
「うん、そうか」
智代はその答えに、嬉しそうに笑う。
「私の一番の目標は、あの坂の桜を守ることだ」
「桜を?」
「ああ。実は、あの桜を伐採して、道を広げる計画があるんだ」
「…」
初耳だった。
「もちろん、それで便利になる面もあると思うが…私はどうしても、あの桜並木は守りたいんだ」
「そうか…」
そんな計画があるなんて、知らなかった。
「俺も、あの桜は残して欲しいな。応援してるよ。おまえなら、できるさ」
「うん、ありがとう」
実際、将来、あの桜並木は残されることを、俺は知識として知っている。
「なるほど…」
そこに、うんうんとしたり顔に頷きつつ、風子が首を突っ込んでくる。
「坂上さんの、桜を守りたいという計画…素晴らしいと思いますっ」
「…?」
風子の意図がわからない。
「実は、生徒の皆さんのハートをがっちり掴む、とっておきの方法があるんです」
「そうなのか。どんな方法なんだ?」
「はい。それは…」
言って、風子はトートバッグから木彫りのヒトデをひとつ取り出す。
「生徒のみなさんにヒトデを配りながら演説すれば、効果百倍ですっ。みなさん、ヒトデの魅力でついつい坂上さんに票を投じてしまうでしょう…」
「…」
「…」
恐ろしいほど的外れな贈賄行為を提唱されていた。
というか風子、やり手の営業マンみたいになってる!?
結構人見知りの奴のはずだが、ヒトデの魔力の前にはこうも情熱的になってしまうものだろうか。
「現金や食券を配るのは禁止されているが、ビラだったら申請すれば許可がもらえたはずだったな…。ビラとして事前に生徒会に言ってみれば、通るかもしれないが」
「ほんとうですかっ」
律儀に答えた智代に、風子はぐっと顔を寄せる。
「それでは、よろしくお願いしますっ」
「…」
「…」
風子は真っ直ぐ智代を見て、頭を下げた。
「あぁ、わかった…。申請してみよう…」
…智代、受けいれてしまったーーーーっ!?
かなり、懐の広い奴だった。
来週の智代の選挙演説はどんな状況になってしまうのだろうか? 新感覚な生徒会選挙が幕を開けたような気がした。
それにしても、ともかく。
風子のおかげというべきか、シリアスな空気は完全にどこかに吹き飛んで行ったよな。