folks‐lore 4/22



129


手を、握っていた。


暖かい手、小さな手。


その手を引いて、僕は歩いていた。


振り返る。


空に、不気味に重く垂れ込めた雲があった。


雪雲だ。


鋭い風が僕らを追い越していく。冬の風だ。


いつしか、空気のにおいは変わっていた。


冬に追いつかれたら…


きっと、全てが手遅れになってしまう。


僕は、視線を下にずらす。


少女は、僕を見て、にっこりと笑ったような気がした。


そして、その手が…


握った手が、弾かれる。


俺は驚いて少女の顔を見る。表情が見えない。


視界が、ぐるりと、回転する、俺は…







…反転。





「…」


目を開ける。


風子が片手を押さえて、膝立ちになって傍らにいた。


しばし、俺と視線が交わる。


「…最悪ですっ」


「開口一番、ひどいだろ、それは…」


風子に何を言われても、今更怒らないが。


「岡崎さんが悪いですから」


「なんでだよ」


「いきなり、手、掴みました…っ」


「え…」


風子が押さえている右手。俺の左手にかすかに残るような、手の感触。


さっき、夢を見ていた。


どんな内容かは、完全に飛んでいってしまった。


だけど、そうだ…俺は手に残る感触に、少し夢の余韻を感じた。


俺は、誰かの手を握っていた。


誰なのかは、よくわからない。


というか、つまり俺は起こしに来てくれた風子の手を思いっきり掴んで、ベッドに連れ込もうとした…?


いや、そんな言い方すると、ちょっと、な…。


怒っているというより、戸惑っているというような風子を見ていると、微妙な気分になる。


俺は照れ隠しのように勢いよく体を起こすと、伸びをした。


「悪い、寝ぼけてた。おはよ」


「はい、おはようございます」


時計を確認する。


いつもの時間、というくらい。


「わざわざ起こしに来てくれたのか?」


「はい。早くご飯の準備してください」


「俺は、家政婦かよ…?」


かつて、汐目当てにアパートに遊びに来た時、俺が昼飯作ろうとしただけでかなり怪しんでいたのだが…


今じゃごらんの有様だった。順調に懐柔されている。


「…?」


ベッドから起きて歩き出し、ちらりと彼女を見ながらそう考えていると、風子は不思議そうな目で俺を見た。






130


通勤、通学で人や車が混雑する時間だった。


…などと言うと、大げさかもしれないな。別にここは都会ってわけでもないし。


「昨日、ヒトデ配り始めてただろ。けっこう貰ってくれた?」


「はい、もちろん大人気です。さすがみなさん、価値がわかってます」


「マジで? 貰ってくれたの?」


「なんで嘘つかないといけないといけないんですかっ」


「もう残ってないの?」


「はい。また作らないといけません」


大盛況なのは嘘だろうが…風子のほうは、意外にうまくいっているようだった。


しかしネックは、ヒトデの数がまだまだ少ないことだろう。


ヒトデを作る量産体制、部員に頼むしかないよな…。それ以外にツテはない。


手伝わせるにあたって、風子の事情は説明したほうがいいだろうか…などと考えて、ある可能性に思い当たる。


「そういえば、渚にはまだ言ってないんだよな」


「なにをですか?」


「おまえのこと」


「?」


「幽体離脱してることだよ」


「幽体離脱じゃないですっ」


「同じようなもんだろ…」


「全然、違いますっ。岡崎さんは、とても失礼です」


何かこだわりでもあるのだろうか。


「で、渚には言った?」


「言ってないです」


言いながら、首を振る。


案の定だ。まあ、話しているならば渚から何らかのアクションがあるだろうし。


「ずっと秘密ってわけにもいかないよな。変にばれるよりは、話したほうがいいかもしれない」


「秘密を守ればいいんですから、大丈夫です。風子、絶対に話しません」


「そうか…。じゃぁ、早苗さんがヒトデの形のパンを作ってくれて、『これと引き換えに秘密を喋れ』とかって言われたらどうする?」


「まずはパンを渡してもらって、後は黙秘します」


「めちゃめちゃこすいな、おいっ」


「こすいってなんですか?」


「ずるいって意味だ」


「風子ずるくないですっ」


いや、めちゃめちゃ悪役の手法だったんだが。


「風子、とてもフェアですっ。近所でもあの子はとてもフェアだとよく言われます」


「どんな近所だよ…」


「変なことは言ったりしないです」


「…」


俺は考える。


風子を巡る、人の輪。


俺は風子を信じている。もちろん渚も信じてる。


だから、俺たちは同じものを抱えて、それは不幸にはなりえないとも、思う。


だが…


それでも、内心、わずかな逡巡があった。


なぜ迷いがあるのかは、よくわからない。


でも、なんとなく、もう少しだけ…。


「もう少し…」


「?」


風子が俺を見て首をかしげる。


「もう少しだけ、待ってくれ」


そう言っていた。


もう少し、それが何を示しているか…それは俺自身にもわからない。


だが、反射的にそう言ってしまっていた。


「もう少し?」


「ああ」


風子は不思議そうに俺を見る。


待ってくれ、と、俺は何を待ってほしいのだろうか。よくわからない。


だが…


「わかりました」


風子はなにも訊かず、頷いた。


俺の抱えた不定形な疑問を受け入れる単純な返事。それが、ありがたかった。





131


「おはようございます」


坂の下、俺たちを待っていた渚と合流。


「おはよ」


「おはようございます」


いつもの朝の風景だ。並んで、歩き出す。


ぽつぽつとした会話はやがて部活のことになり、劇のことになる。


「渚」


「はい、なんですか」


「そういえばさ、劇のあの話っていつどこで聞いたんだ?」


「ええと、すみません、よく覚えてないです」


昔、俺は同じ質問を渚にしたことはあったと思う。だが、どんな答えをその時貰ったかは覚えていない。


今改めて聞けば、また別の切り口からヒントになるかもしれないとも思ったが…。


渚は少しだけ戸惑ったような、困った表情をする。


「ただ、小さい頃聞かされた話なんです」


「誰に?」


オッサンではない。早苗さんではない。


…だったら、誰だ?


渚は祖父母との付き合いはほとんど全くないはずだ。幼稚園とかの、先生?


いや、なぜだか、それは違うような気もする。


「よく覚えていないんです。いつごろ聞いたかとか…」


「あぁ、たしかに、小さい頃じゃな。でもやっぱり、ちゃんと筋がわからないと脚本がな…」


「あ、たしかにそうです」


思い出したように、慌てる。


うまくはぐらかされてくれたようだが…


しかし、渚はともかく。


俺は、どうやってこの話を知ったのだろうか?


誰かに聞いた…という記憶はない。


「わたし、もう少し、調べてみます」


「調べるって?」


「はい、聞いたならお父さんかお母さんだと思うので、お話を聞いてみようと思います」


「まあ、そうだな…」


あまりアテにはならないだろうな、と思う。


「ふぅちゃんは、この話、聞いたことありますか?」


「いえ、初耳でした」


「マイナーな話なんだろ」


「そうかもしれません。わたしは、すごく心に残ってるんですけど」


「風子もそう思います」


「まぁな…」


普通の童話とは、明らかに毛色が違う。


あらゆる苦楽を混ぜ込めた寓話のような。


「このお話は、悲しい物語ですけど…」


渚は、前を見ながら、ゆっくり歩きながら、ぽつりと呟く。


「それでも、きっと救いがあるような気がするんです」


「ふぅん…?」


「わたしにこのお話をしてくれたのが、誰なのかは、覚えてないですが…」


渚は、ほっと小さく息をつき、軽く握った片手を胸に当てた。


風が吹いて、髪がぱっと乱れて、彼女のその姿はまるで神託を受けているみたいで、俺はしばし見とれていた。


「この話のことを考えると、懐かしいような、胸が温かくなるような気がします」



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