folks‐lore 4/20


107


俺は彼を見上げていた。


芳野さんは、黙々と仕事をしている。むやみに周りを見渡したりしない。


ただじっと、その姿を見ていた。



…。



「おい、あんたっ」


不意に、絵画のように完結していた情景が破られる。


驚いて視線を向けるが、それは俺に向けられているわけではなかった。


見てみると、芳野さんの作業しているほぼ真下に自動車が止まっている。その脇に立つ男が乱暴に手を振って騒いでいる。


芳野さんは下に顔を向けると、ゆるゆると梯子を降りていく。


地上に降り立つと、待っていた、というように男が芳野さんに詰め寄っていた。


不穏な空気を感じる。俺は怪しみ、少し近づいた。


「このへこみ、あんたがなにか落としたんだろっ」


「だから、何も落としていない」


「じゃあこのへこみはなんなんだよっ。さっきまでこんな跡はなかったんだぞ!」


「今もっている道具で、何を落とせばそんな跡がつくんだ」


「そんなの知るかよ、大方、慌てて隠したんだろう」


「仮になにか落として傷をつけたとしても、隠したりはしない」


「今、隠してるだろっ」


「何も落としていないから、こう言っているんだ」


状況がつかめてくる。


男の言い分はけっこう無茶な部分がある。ま、おそらくしばらくこの場にいなくって、戻ってきたら目に付くへこみがあったのだろう。


だがそもそも、いつそのへこみができたかさえ客観的にははっきりわからない。


俺は冷ややかにそれを見ていたが…そんな視線を感じてか、男がぱっとこちらを向いた。


まずいな、何見てるんだ、などと絡まれたら面倒だ、などと思っていると、男がこっちのほうに駆け寄ってくる。


「ちょっと、そこのあんたっ」


「…俺?」


「そうそう、ちょっときてよっ」


「…」


近づいてみる。


男はべらべらと事情を話す。


さっき傍から聞いたとおりだが、彼の被害妄想が何割か入り込んでいる。


面倒くさいな…。


ただ、芳野さんが絡む事情だし、こういう事態を見るのは初めてではない。俺は男の言を聞き流して、ボンネットの丸いへこみを点検する。


「…あれ?」


「お、なにかわかった?」


男が嬉しそうに俺に顔を寄せる。


「猫だ」


「はあ?」


「ほら、この角度から見ると、足跡が見える」


「えぇっ…」


男が同じように顔を低くして…


「あ、本当だ…」


呟く。


へこみから、足跡が続いている。


猫が塀からここに飛び降りて、歩いていった、という感じ。


「いや、でもこんな大きさの猫なんて…」


と言いかけて固まった男の視線の先。


車の陰から、鞠のように肥え太った三毛猫が顔を出して、悠然と歩いていった。


「…」


「…」


「はは、悪かったね、疑ったりして」


男は取り繕うように笑って言うと、気まずげに車に乗って、行ってしまう。


後には、俺と芳野さんが残された。


「すまない、助かった」


「いや…」


奇妙に縁ができてしまった。


芳野さんはさして俺に興味もなさそうにちらりと腕時計に目をやると、顔をしかめる。


「まずいな…」


小さく呟いた。


「あんた、暇か?」


「え?」


「今、時間はあるか」


「まぁ…」


俺は曖昧に頷く。


「よし、それなら、手伝ってくれ」


「えぇっ…!」


俺はまじまじと芳野さんを見つめた。端正に整った顔。


「向こうにもう一本、街灯をおったてる。バイト代も出そう、ちょっとした手伝いだ」


「はぁ、そりゃ、大丈夫っすけど」


「よし、話が早い」


小さく笑うと、歩き出す。俺はその背中を追った。


「いきなり…素人手伝わせて、いいんすか?」


「大丈夫だ。難しいところは俺がやる。ただ、作業中に支えててほしい」


「ひとりでやってるんですか?」


「もう一人いるはずだったんだがな。ただ、ひとりじゃ時間がかかりすぎる」


「はぁ」


そうして、俺にとっては慣れ親しんだフットワークで作業。


かつて、お互いに呼吸を合わせてやっていたが、今回は俺のほうが積極的に相手に合わせるようにする。


こうしてまた、芳野さんと肩を並べて仕事をしている。


胸の奥が熱くなった。


俺は、芳野さんから預かった、彼のスパナを思い出していた。かつて仕事をやめる時、再び一緒に働こうと、渡された分身。


俺の手元にそれはない。俺の目の前、彼のウェストポーチの中にしっかり呑まれているのをじっと見てしまう。


「あんた…」


芳野さんが怪訝な表情を向ける。


「なんですか?」


「こういう作業、初めてか?」


「いや、まぁ…一応、手ほどき受けたことあります」


「あぁ、やっぱりそうか…。通りで、やりやすいわけだ」


そう言うと、再び作業を始める。


こっちが経験者だとわかったからか、時折積極的に俺を使おうともする。


彼にとって、俺は初めて会った学生の男なのだが、そういう部分で判断したりしない。


できることはなにか。できないことはなにか。


シビアだがシンプルな割り切りだった。俺は、彼の期待に応えたいと働く。


筋力が追いついていないからだろうか、けっこうしんどい。


耐え難いというほどのことでもないが…。


少し経ち、街灯の設置が終わる。


「これでよし」


芳野さんは立てた街頭を満足そうに見上げる。


このあたりに、街頭はない。そうか、このあたりに街頭なんてなかったのか、と俺は今更ながら気付く。


ここは、夜になったら暗くなってしまうような場所だったのか。


俺の記憶では、当然のように灯りはあった。そうか、町は、どんどん変わっていたのだ。


「あまり人通りがないところだけど、立てるんすね」


大した会話じゃないが、そんな話を振ってみる。


「ああ。だが、灯りがあれば安心して通れる人だっているだろう。灯りがあるから、この道を使う人もいるだろう」


クールに言うと、視線を俺に向けた。


「悪いが…まだ、時間はあるか?」


「え?」


「実は、あと二ヶ所、同じような作業があるんだ。そっちの都合がいいなら、手伝ってくれないか?」


「…」


俺は、彼の顔をまた、見る。


「あぁ、もちろんその分の給料は出す。あんたみたいに技術があって勘がいい奴はあまりいないんだ」


俺の表情を、困惑と受け取ったのか、言葉を付け足す。


…そうじゃない。


俺は、今…嬉しいのだ。


芳野さんは、俺を認めてくれていた。彼にとって、俺は単なる子供じゃないのだろうか。


「時間は、大丈夫っす。行きます」


「そうか、それじゃ、乗ってくれ」


近くに停めてあった軽トラをを示す。めちゃめちゃ見慣れた車体。


俺はこの車の細かい癖まで熟知している。


だがさしあたって今は、免許もないけど。


車に乗り込む。


「あぁ、そうだ、名前を言っておいたほうがいいな」


発進させながら、前を向いたまま言う。


「芳野だ」


「岡崎朋也っす」


「そうか」


芳野さんはちらりと横目で俺を見る。


「岡崎か。よろしくな」





108


芳野さんの運転する軽トラで町を回る。作業はさっきと大体同じだ。


街灯の型は違うが、やること自体は大きく変わることはない。


「岡崎は、高校生か?」


作業をしながら、芳野さんは目線はそのままに、尋ねる。


「はい」


「どこの学校だ?」


「あの、坂の上の学校っす」


「あぁ、そうなのか」


口の端を緩める。それ以上なにも言わないが、俺は芳野さんもあの学校を卒業したことを知っている。


「何年生だ?」


「三年です」


「そうか。なら、もう忙しい時期だな」


受験勉強のことを言っているのだろう。


「いえ、全然そんなことないです」


「みんな、そう言うな」


「いえ、ほんと勉強はしてないっす。部活ばっかで」


「あぁ、そうか」


少し、親愛のこもったまなざしが向けられた。


俺は昔、芳野さんの昔語りを聞いたことがあった。


学生の頃から音楽漬け、周りに笑われながら、ミュージシャンになるとこの町を出て行ったこと…。


そして、すべてを失って帰ってきた時…この町は、何も変わらず、ただ彼を受け入れてくれた。


帰ってきた時、この町へ着いたバスを降りた時。


芳野さんの手には、何もなかった。


さ迷い歩くうちに、そして、彼は公子さんに再会した。


彼と彼女は手をとった。


芳野さんの手には、その時、きらめきがあった。


…きらめきがあったのだ。


「やりたいことがあるのは、いいことだ」


作業を続けながら、芳野さんは笑みを浮かべる。


「自分のやりたいことを全力でできるのは何よりも大切なことだ。

全力を尽くせば尽くすほど、周りの奴らは笑うかもしれないが…

だが、おまえも一人で部活をやっているわけじゃないだろう?

おまえの周りには、手を貸してくれる仲間がいるだろう?

一緒になって、笑える奴らと楽しめばいい。

そうすれば、他の奴らだって、おまえたちのことが好きになってくれる…。

岡崎、おまえは卑屈になって生きていないか? 素直に笑えているか?」


「はぁ…多分…」


「そうか…。

それなら、おまえは幸せだ…。

人は、一人きりではどこまでも歩いていくなんてことはできない。

誰かに寄り添うのは、恥ずかしいことじゃない…。

一番恥ずかしいのは、大切な誰かを傷つけることだ」


「あ、そこ、緩んでます」


「おっと、悪いな。

今、周りにいる仲間や大切な人は、かけがえのない財産だ。

周りの奴らが一緒にいてくれるなら、お前は愛されているはずだ…。

その愛が消えてしまわないよう、強く生き続けてくれ…」


「そこ、傾いてますよ」


「ああ、すまない。喋るのに夢中になってしまった」


「…」


相変わらずだ、この人も。





109


仕事がすべて終わったのは、午後三時を回るかという頃だった。


「すまない、助かった」


「いえ、こっちこそ迷惑かけてばっかで」


「そんなことはない。まさか、こんなに早く終わるとは思っていなかった」


芳野さんはちらと時計に目をやった。


「一度仕事場に戻って、手当てを持ってこよう。十五分くらいかかるから、そうだな…」


あたりを見渡して、手近なコンビニを手で示す。


「あそこのコンビニで待っててくれ」


「あ、はい」


「少し、待っていてくれ…あぁ、そうだ」


名刺を取り出す。


「一応渡しておこう。俺の連絡先だ」


「あ、ども」


手伝わせておいて、そのまま逃げ去ったりはしない、という意思表示だろう。別にこちらはそんな人とも思っていないが。


「またな」


背を向けて、行ってしまう。


俺はその背中を見つめる。


慣れてる仕事と、慣れない肉体の酷使でアンバランスに体が傷む。


だが、それ以上に、彼と一緒に仕事をした甘い感傷。


俺も背を向け、待ち合わせのコンビニに向かう。


芳野さんはやはり、大人の男だった。


自立した貫禄。今の俺にはないもの。


…それは、今、俺が本当に欲しているものだったのだ。



…。



「すまない、待たせたな」


しばし待っていると、コンビニの前の道路に軽トラが戻ってくる。


コンビニから出て迎えると、芳野さんは詫びを言う。


「いえ、今日暇でしたから」


「そうか、悪いな…」


申し訳なさそうに言うが、破顔に一転、灰色の封筒を取り出す。


表に会社の名前が書いてある。


「かなり早く上がったから、会社の人間も驚いていた。丸一日分というわけじゃないが、けっこう入れてくれたと思う」


「どうも」


「それじゃあな。助かったよ」


芳野さんはそう言うと、背を向けて立ち去ろうとする。


「…待ってくださいっ」


「ん、どうした?」


「あの、俺、ここで働くことってできないですか?」


「…ここの会社で、か?」


訝しげに、芳野さんはツナギに書いてある電設会社の名前を指差す。


「そうです、無理ですか?」


「バイトでか?」


「まずはバイトでもいいんですけど…」


「…」


訝しげな表情のまま、俺を見る。考え込むように手を顎に当てた。


「だが、お前は部活で忙しいんだろ?」


「そうなんですけど…」


そうなのだ。特にこれから、忙しくなる。


「それに、高校を出たら進学せずに働くつもりか?」


「えぇ、それって、できないですか?」


「悪いことは言わない。まずは部活をがんばれ、その後大学にでも行ってそれを続ければいい」


背を向ける。


「ちょっと待ってくださいっ。俺は大学行くつもりなんてないです、卒業したら芳野さんみたいに電気工になろうと思うんです」


「…」


いっそう、訝しげになった表情がこちらに向いた。


「おまえは、なにを言っている? 電気工になりたい?」


「はい」


「どうしてだ?」


「え…」


問われて、悩む。


そんなこと言われても、困った。


それ以外に想像がつかないから、というのが正直なところだが…。


「将来の夢が電気工ということか?」


「えぇと、まぁ…」


「そういうわけじゃ、ないだろ。おまえくらいの歳だったら、もっと派手なことが将来の夢だろう」


「…」


「やりたいことは、いつか見つかる。慌てずに、じっくり探せばいい。まだまだ若いからな。可能性は、無限にある」


無限も、なにも。


俺は一度、家族をつくって働いていた。その記憶をきれいさっぱり忘れて新たな可能性を探すなんて、残酷な真似はできない。


だけど、今そんな非常識な論理を言ったって話は全く進まないだろう。


現実の話と、非現実な話なのだ。


「だが、俺と働いて、そう思ってくれたなら、嬉しく思う。もしなにか相談でもすることがあったら、また連絡をくれ」


「…」


「それじゃあな」


背中を見せる。


「…俺は、早く、誰が見ても安心するような大人になりたいんです」


親父を安心させてやりたい。彼にはまだ、人生が残っているはずなのだ。


「…岡崎」


芳野さんは再び振り返り、俺の目を見る。


俺は、今、どう見えているのだろうか。進路に迷っている高校生?


「慌てるな」


「…」


「今すべてを決めるのは、まだ早い」


そう言って、芳野さんは去っていく。


今度こそ俺は何も言うことができない。




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