folks‐lore 4/20


104


「岡崎さん…起きてください」


「ん…」


体を揺すられる。


目を開けると、風子。


「おはようございます」


「あぁ、おはよ…」


傍らの時計を見る。午前八時。


「おい、今日は日曜だろ。もう少し寝かせてくれ」


「おじさんみたいなこと言わないでくださいっ」


「…」


おじさんみたいって言われた…。


俺はむっくり、起き上がる。まあ、けっこう眠れたから、そこまで寝足りないということはない。


外を見ると、暖かな日差し。雲はちぎれ、青空が覗いていた。よく日の当たるところは、もう地面が乾いている。


「飯でも、作るか」


「はい、お願いします」


「…」


風子の頭を、ぐわしと掴む。


「手伝えよ」


「わっ、わっ」


ぶんぶんと頭を振るが、がっちり固定。そのまま立ち上がって、台所に連行する。



…。



風子に目玉焼きを仕込み、朝食はあとは米と味噌汁。本当はもう一品あると豪勢なのだが、朝飯ではさすがにそんな贅沢は言っていられない。


「お父さんも呼びますか?」


いただきますを言う段になって、風子が聞く。


「いや…いいだろ」


「…」


俺はなんとなく断ってしまい、風子は微妙な顔で見ていた。


襖の向こうに目をやった。帰ってきていれば、親父はそっちで寝ているだろうか。


…あぁ、親父を恐れていてはダメだ。触れ合うことを恐れていては、何も始まらない。


そう思う、本当に思う。それだけど、どうしても一歩を踏み出す気にはなれない。


「いただきます」


俺は手を合わせる。


目玉焼きを食べる。がりっと、殻を噛んだ。脳髄を妙な感覚が抜けていき、俺は天井を仰いだ。






105


いざ休みとなっても、誰かと約束があるわけでもない。


風子で遊んで、一日過ごすか…。


そんな阿呆なことを考えつつ、家事を済ませてしまう。


洗濯機を回し、洗い物をする。布団を干す、部屋の掃除をする。洗濯が終わったから、それも干す。


「……」


風子は自室で木を彫っている。


俺は居間で、ボーっとしていた。部屋干しした洗濯物を、なんとはなしに見る。風子の下着類は分けて、屋内に干してある。


色とりどりのブラとショーツが時折揺れる。


洗濯物として干される下着って、性的なものではなく、独特の風情があるよな…。


宮沢は、それなりにしっかりした下着類を選んでくれたんだな…。


なんとなく、渚との結婚生活を思い出す。


ま、あの頃は衣類を干すのは渚で、しまうのも渚。下着を干すのは、どことなく恥ずかしがっている節があったが…。


ひらり、と下着が風に揺れた。俺は目を細めてそれを見ていた。


別にやらしい視線というわけでもないが、なんとなく見てしまう。


そういうのって、どんな感情といえばいいのだろう。


しばし、考えてみる。


性欲云々というわけではない、また別の視点だ。


…ああ、そうか、これは一種のもののあはれに近い感情なんじゃないか、と思い当たる。


「新・もののあはれ」とでも言うべきか。


こっちも相当暇だから、そんな無意味な考えがぽわぽわと頭を浮かんでくる。


というか…


俺はふと我に返り、今の自分を再確認。


風子の下着を眺めながら目を細めて微笑む男が一人いた。


…というか、俺だった。


「…」


俺は黙って、風子の下着類を移動させる。


洗面所だと、親父も入るからな…


結局、風子の部屋の中にするしかない。


そう思い、彼女の部屋に行こうとするが…


だが、下着を持って「ちーす」などと部屋にはいるのはどう考えてもおかしい風景だ。やめておこう。


じゃあ、やっぱりしばらく居間に干しておくか?


だが、親父が起きてきてこの下着を目にするというのはあまり気分がよくなかった。


といっても、他の部屋というと…


俺は考え込み、歩き出す。


「…」


そこで、風子の視線に気がついた。


襖を開けて顔だけ出して、目が点になっている、その表情。


俺は、一時避難ということで、揺れている彼女の下着を自分の部屋に持って行こうと階段に足をかけているところだった。


俺たちの視線が、交錯した。


今の自分を再確認。


風子の下着を自室へ持って帰ろうとしている男が一人いた。それはどうか俺であってほしくないと、切に願った。


…でも、俺だった。


「ふーっ!!」


「ごめん! ほんとごめん!!」


「ふっ! ふっ!」


「マジ危ないって!」


風子が掛け声とともに彫刻刀を突きたてる。


少しの迷いもない、すさまじい突きだった。たしか突きって、一番殺傷能力高いんだよな。


俺は必死に、逃げ惑う。


どたばたがん、と騒がしくわめきたてる俺たちを、見ている視線…。


風子の重い一撃をかわしながらさっと視線を動かすと…親父。


寝起きで髪のはねた頭と無精ひげ、眠そうな瞳でこちらを見て、首をかしげる。


風子の下着のかかったハンガーを持って攻撃をかわす悲しい俺と、突きを繰り返している風子と…。


親父は少し考えた素振り。そしてにっこり笑うと、その格好のまま家の外へと出て行った。


…。


お…


お……


親父に見られた!?


しかも、こんな阿呆な姿を!?


こんな俺をあの人は息子と認めてくれる日がくるのか!?


俺は絶望した。こんな深い絶望があるなんて、知らなかった…。





106


下着を奪った風子は、ぴしゃりと扉を閉ざしてしまった。


そして、その後、彼女の部屋からは何の沙汰もない。


俺は心配だし自分が悪いから挽回したいし、あれこれ声をかけるが…効果なし。


天岩戸方式で、騒いでみるが、もう全く意味なし。


少し、時間をおくことにする。


「風子」


出かける準備をして、俺は再び彼女の部屋の前に立つ。


「ちょっと出かけてくる」


声をかけるが、反応はない。


「悪かったよ」


言い訳しない。ただ謝ること。


なんといっても、俺は既婚者だ。謝りたおすべき場面くらい知っている。


「なにか、おみやげでも買ってくるよ」


最後にもう一度詫びを言い、俺は家を出た。



…。



外に出ると…陽気。


昨日の雨の痕跡はほとんどない。


日陰の地面は黒く湿っているが、そんなところだった。


世界を洗い直したようだった。また新しい一週間が始まるのだ、と思う。


先週を丸々かけて、部活が体をなした。


来週の日曜には、俺たちはどうなっているのだろうか、と思う。


何かが大きく変わるには短い時間と考える人もいるだろう。だけど、俺はそうとは思わなかった。


一瞬あれば、世界がひっくり返ることだってあるだろう。


一週間たてば、信じられないくらい多くのことが変わっていることだってあるはずだ。


演劇部、もとい、歌劇部だってそうだ。


俺と親父の関係だって、多分、そうだ。


俺はさっきの親父の表情を、思い出す。微妙に自己嫌悪になる風景だが、思い返してみる。


あの時の、親父の俺を見る表情は、息子を見る目だっただろうか、単なる話し相手を見る目だっただろうか。俺は考える。


…その瞳は様々な含みを持っていたような気がする。


だが、俺が血を分けた子供であることを忘れることなんて、絶対にできないだろう。他人だと頭から信じきることなんてできるはずはない。


かつての俺と汐の関係を思い出す。父子の距離を思い出す。


俺は、汐に頑なに。


そして親父は、俺に受け流すように。


それは、恐ろしいように似ている関係だった。


だがそれはひとつの関係だった。つながりはあったのだ。


距離をとりながらも、細々となりながらも、絆という体をなしていなくても、家族の関係は死んではいなかったはずだ。


その一筋が死んでいないならば、手繰り寄せることは、きっとできるはずだ。


思い出す。思い出す。


あの頃。俺は親父と和解をしたのだ。


俺はかつて、彼のふるさとを訪ねた。彼の人生に触れた。


親子揃って、そっくりだった。


境遇も、性格も…。


いつも自堕落に見えていた親父。


だが、親父はどこまで自堕落に落ちても、俺を育てることだけは欠かさなかった。


俺は、親父に、育てられていた。俺は、親父に育てられている。


それをひとつの指針ともらい、俺は汐とともに生きていこうと決意した。


あの、小さな、熱い熱い手を、掴んだのだ。自分の心臓のように激しく熱い小さなてのひら。


あの人は俺を育ててくれている。


あの人の人生は、それさえできればそれでいいと、考えている。


そうだ…俺だけなのだ。


どんな他人行儀だろうと、決定的な溝があっても、俺だけなのだ。


あの人は、友を失い、仕事を失い、運を失い、その人生を失っても、俺だけは手放さなかったのだ。


俺と親父の間には、きっと今では絆はない。だけど、そうだ、それでも繋がりはあるのだ。


俺だけが、あの人を引っ張って、引っぱたいて、引き上げることができる。


なにをやっていくか、などと難しいプロセスは頭から吹き飛んでいた。


ただ、俺は親父とわかり合えればそれでいい。


最後に目指す、俺たちの関係はそこだった。どうやって心を通わせていくかなんて今考えなくてもいい。


俺は、十分親父に育ててもらったのだ。親父は、やるべきことはやっていた。あの人は、やるべきことをやり終えていたのだ。


だが、彼がそれに気づいたのは、すべてを失ってからだった。すべてを失って、田舎へ帰っていった。


俺の母と一緒に、何も持たずに家を出た。多くのものを手に入れて、そしてすべてを失って、ただ、俺だけは育て上げて…帰っていった。


親父の人生だ。あの頃の、親父の生き方だ。


今なら、まだ…あの人の手の中には、様々なきらめきが残っているのではないか。


そうだ。まだ俺にできることがある。やるべきことが、俺にはあるのだ。


俺は親父の手をとることができる。彼の手は孤独に揺らめいている。


俺は、腕を伸ばして伸ばして、その手を掴もうとすることができるはずだ。


俺は十分、大人になった。


あの人にそう言いたかった。


あんたは十分役目を果たした。これからは自分の人生があるんだ。


あの人にそう言いたかった。


…いや、と、否定。


そもそも今は俺は学生だった。自活している身ではない。


あの時の俺は、職を持ち、家族がいた。


だからこそ、俺は親父に、もう大人になったのだと言えたのだ。


今の俺は、親父にどんな言葉をかけられるのだろうか。


俺はまだまだ、学生だった。あの人にとっては、子供だった。


だから俺はあの人に認められるために、なにかをしなくてはならない。


俺は今また、大人になるために、なにかしなくてはならない。


渚とともに、部活を立ち上げた。


それは…親父に認められるような功績ではないだろう。


こっちはどれだけ心血注いだとしても、遊びと思われるのが関の山だ。


ならば、俺は何をするべきなんだ…?


高校生の身の上だ。俺にできることは限られている。


親父と肩を並べるような、何かがほしかった。あの人の人生を切り崩して目指していた目的は、もう成就したと言えるようなものが。


だけど、何かというのは、なんだろうか。


それは、よく、わからなかった。


考えてもうまいことは浮かばず、俺は天を仰ぐ。空を見上げる。いい空だった。


「…!?」


青空。その下。梯子が立てかけられた街灯。


一人の男が、その上で作業をしていた。


その姿。


俺は彼を凝視した。


その姿。


俺はそれを、知っていた。よくよく、見慣れていた。


ずっとずっと傍らにあった存在。


頼れる先輩。尊敬できる人。俺の人生に手を貸してくれた数少ない、大人の男。


「…芳野さん」


俺は。


吐き出される息と共に小さく彼の名前を呼ぶ。




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