folks‐lore 4/20


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俺は半ば呆然として、ふらふらと町を歩き回っていた。


俺は今じゃ、まだまだ子供扱いなんだな…。


バイトへの申し出さえ門前払いだった。


というか、ちゃんとしたビジョンもなしに言いたいことを言ってしまったのは俺だ。芳野さんはごく当たり前に俺を諭していたようなものだ。


そして俺は今も、一介の高校生のままでいる。


大人になるというのは、どういうことなのだろうか。


仕事をして家族を作る。守るべき子供を作る。それは、大人なのだろうか。


…よくわからない。


汐に対した俺の仕打ち、あんなの、大人じゃない。


あの後、娘と向き合って俺は、大人になれたのだろうか。よくわからない。


誰かに話を聞いてほしかった。


成長とは、なんだ。人はどうやって大人になるのだろうか?


とはいっても、話を聞いてくれるような大人の知り合いなんてほとんどいない。


せいぜい…



…。



「え? あたしに用?」


「そう」


俺は神妙に頷く。


ぽかんとした顔を見せたのは…美佐枝さん。


ここは学生寮。


ここは調理場。


「春原にじゃなくて?」


「美佐枝さんにだよ」


「…今、すっごい忙しいの、わかってる?」


顔をしかめて言う。


すでに夕食の準備を始めている。初めて見たが、美佐枝さんだけで食事を作っているわけではないらしく、他にオバちゃんたちもいる。


「…ダメなら、今度にするよ」


風子を家に放っておくのも悪い気がする。


あいつはあいつで、そろそろ寂しくなっているかもしれないし。


俺はくるりと振り返る。


「あ、岡崎」


美佐枝さんが、名を呼んだ。


「ちょっと待ちなさい」


美佐枝さんはそう言って、他のオバちゃんたちにちょっと席を外すと詫びる。オバちゃんたちは快く了解してくれていた。


なんとなく、学生寮の支配者みたいな印象だったが、なんだかんだ寮の中にもこういう人間関係はあるらしい。


「ほら、行くわよ」


「いいのか?」


「ちゃんとした相談なら、受けるわよ。あんたから相談なんて、初めてだしね」


美佐枝さんはつけていたエプロンを壁にかけて、歩き始める。


「どこに行くんだ?」


俺は後に続く。


「ここ、ほとんどプライバシーはないのよねぇ」


言いながら、美佐枝さんは歩いて行く。


そして俺は、初めて彼女の部屋に入る。



…。



「はい、コーヒー。砂糖とミルクは入れる?」


「…ミルクだけ」


「じゃ、これ」


マリームの瓶を目の前に置く。


宮沢はコーヒーホワイト派だったが、美佐枝さんはマリーム派らしい。まあ、なんでもいいのだけれど。


なんとなく、そわそわする俺。初めて入ったな、ここ。


周りを見る。


「あんた、相談しに来たんじゃないの?」


「ああ、ごめん、なんか珍しくて」


「そんないいものじゃないと思うけどねぇ…」


呆れたように俺を見て、部屋を見渡す。


「で、相談って何?」


「ああ…美佐枝さん」


「はいはい」


「大人って、なんだろう?」


「はいは…はい?」


ぽかんとした表情。


そして…


「くっくっく…」


笑い出した!?


「そりゃないだろっ」


「ああ、…あはは、ごめんごめん、あんたが大人とか言い出すから…あははっ」


楽しそうに笑っている…。


「ちょっと、真剣なんだけど」


「ああ、そうよね。そりゃそうよね」


口元に手を当てて、だがまだ目元が緩んでいる。


そんなおかしい相談だろうか…?


「それで、どうしたの? なんでいきなりそんなこと思ったわけ?」


「いや、経緯はいいんだ。美佐枝さんは、大人ってなんだと思う?」


「大人、ねぇ…」


美佐枝さんは、緩んだ頬のまま考え込む。


「正直、よくわからないわね…」


「そうなの?」


「うん。あたしだって、自分が大人なのかなんて、正直よくわからないわよ」


「働いてるのに?」


「そんなの、関係ないでしょ」


「…関係ない?」


「そりゃ、そうでしょ。社会的に大人がどうってのはあるかもしれないけど、もっと個人的な話なら、あたしはまだまだ子供だなって思うわ。ま、岡崎からしたら、もうオバさんかもしれないけど」


「そんなことないって。美佐枝さん、若いよ」


「そりゃどうも」


「美佐枝さんはなんで自分を子供だって思うんだ?」


「そりゃ、理由は色々あるわよ。だけど、ま、一言で言うなら…」


美佐枝さんは視線を部屋の隅で眠っている猫へと向ける。


「自分に呆れるような部分が、まだまだあるからかしら。子供の頃から変わってないところが、ほんと、目に付くわ」


「…」


口調は憎々しげだった。だけど、まなざしは、優しかった。


俺は彼女の視線を追って、丸くなってる猫を見る。


「どう? あたしに言えるのはこれくらいだけど?」


「うん…。参考になったよ」


コーヒーに口をつける。


「それなら、いいけどね」


美佐枝さんも同じように、コーヒーカップを手に取った。


「でもさ、岡崎」


「なに?」


「ここ最近、来てなかったじゃない」


「そうだっけ?」


「うん。見ない内に随分…なんていうか、大人っぽくなったわよ。なにかあった?」


「…」


なにか、どころではない。俺と美佐枝さんは、こっちの視点から言えば同年代なんだろうな。


「色々」


「ま、そうよね。若いんだから、色々あるわよね」


「若いだけじゃ、嫌なんだよ」


「そんなに大人になりたいの?」


「まあ」


「それなら、焦らないことよ」


「…」


「ま、あたしにもわからないけどね。でも、追いかけてばっかりじゃ、ダメだと思うわよ。気付いたらなってた、というくらいがちょうどいいんじゃない?」


「…」


期せずして、芳野さんと同じ言葉が彼女の口から出ていた。


「じゃ、俺は、なにをすればいいんだよ?」


「したいことをすればいいじゃない」


「そうなのかな…」


「あたしの意見だけどね。でもさ、他に、なにをするっていうの?」


気軽く言ったその言葉は、やたらと深く、俺の胸を突いていた。






111


礼を言って、美佐枝さんの部屋を出る。


少し、心が軽くなったような気がした。


さて、風子を待たせている、俺は早足に寮を出ようとして…


「岡崎じゃん」


「…」


春原と目が合った。


トイレから出てきた彼は、手を振ってしずくを飛ばす。


だらしない部屋着のまま、俺の顔を見て不適に笑う。


「美佐枝さんに用だったの? 僕の部屋にも寄ってきなよ」


「…」


「聞きたいこともあるしね」


そう言って、春原はきびすを返す。ぶらりと気軽に歩き出す。


一瞬だけ考え、俺はその背中を追った。


無視して立ち去ることもできた。だが、そういうわけにはいかないだろうとも思った。


俺は春原に隠れてこそこそ動いている。それは春原も承知だろう。


だが、それが、部活を立ち上げようとしていると知ったら、春原はどう動くだろうか。


…自業自得とはいえ、サッカー部を追い出された春原。部員からは未だに蔑みの目で見られている春原。


自堕落な生活。俺と共に、泥の底で眠るような生活。


それがどんなに怠惰であろうと、繋がりであり、盟約であり、同情であった。


春原の忌むべき部活。春原はこっちの事情をどこまで知っているのだろう。


揺れる背中の後に従う。俺は彼の背中を見ている。



…。



「昨日、話は聞いたよ」


ベッドに転がる春原と、壁に寄りかかって座る俺の視線が混じる。


「なにをだ」


「岡崎、部活を作ろうとしてるんだって?」


やはり、知っているのか。


「誰に聞いた?」


「一年の女子。なんか、合唱部が部を作れそうだったのに、横槍を入れてそれを邪魔しようとしてるらしいじゃん」


そこまで言うと、春原は楽しそうに笑った。


「面白そうじゃん。僕も混ぜてよ。ま、合唱部とどんな関係なのかは知らないけど、相手の困った顔も見たいし」


…俺の知っていることとずれがあった。


昨日の雨の中、彼女らが俺をみて気まずげな顔をしていたのを思い出す。


俺の風評を使って自分たちは立ち上がろうとした。ま、腹は立つといえば立つが、今となっては大切な仲間でもある。


それにおそらく、今春原の言った何割かは、噂が広がるうちに歪んだ部分もあるだろう。


「こないだ一緒にいた女子は、じゃあおまえの部活の奴なんだろ。紹介してよ」


「そりゃ違う」


俺ははっきりと、言った。


春原がそう言うのも無理はない。俺は間違いなく、部活をして学生生活を謳歌している奴らには腹を立てていた。


俺は、足を踏み出さなかった男だった。春原も同じだ。


だから、部活をつくろうなんて仁科を邪魔しようと考えるのは恰好で、そして暗い遊びだった。


…だけど、逆に。


渚に仁科に。


俺は憧れていたのだろう。彼女らは歩き出していた。


最初はどんなに辛くても、その先に、光はあるのだと信じることができていたのだ。


…今は、俺も、彼女らの隣を歩いていたかった。


そして、できれば、それは…春原も。


目の前のこいつは、ぽかんと俺を見ていた。


予期しなかった言葉を聞いた、という表情。


「俺たちは、演劇部を作ろうとしてるんだ。あれから、合唱部の連中とは話をして、歌劇部ってことで部活の申請をした」


「は…」


一瞬、二瞬、春原は俺を見ていた。


「なんでだよ」


「いつまでたっても、こうしちゃいられねぇよ」


「なにがだよっ」


「うじうじしちゃいられねぇって言ってんだ」


春原が顔をしかめて拳を握る。


未来を見ること、それは今の俺たちにとって一番辛い。俺も、それは、よく知っていた。


「俺も、おまえもだ」


「わかったようなこと、言うなよ」


声を低くして、言う。


「俺だって、わかっちゃいねぇよ。だけど、なにかしないといけないことくらいわかる」


「それで、部活か?」


「ああ」


「…おまえがあんな忌まわしいものに興味を持つとはね」


「そんな、ろくでもないものかよ」


「まぁね」


春原は布団を引き寄せて、頭までかぶる。


それは、拒絶だった。


俺は、できれば、春原も部活に誘いたいと思っていた。


学生生活を取り戻さなくてはならないのは、こいつも同じだ。


だけど…


俺は、丸まったその姿に、声をかけることができなかった。


春原にとって、俺は既に、部外者になっていた。


その頑なな態度に呆れもある。だが、同時に、深く衝撃もあった。


かつての俺も、これくらい、どうしようもない倦怠を抱えていたのだ。


家庭に、学校に、すべての生活に。


その姿は、かつての俺と同じなのだ。


走馬灯のように思い出されるかつての記憶。


渚が再び病床に臥せって、俺はぷらぷらと日々をすごした。学生生活を、すり減らしていった。


就職活動なんてしなかった。教師から逃げ回って、古河パンの世話になった。


そんな俺の隣で、春原は髪を黒く染め、地元で就職を決めていた。


春原はきっと、誰に相談することもなかった。あいつは一人ですべてを見ていた。


自分が何を持っているか。自分自身で探し出した。


なにかしなければならない。自分自身で探し出した。


その決断は、俺にはないものだった。


俺は一人ではなにも決められなかった、あの頃。


そうだ、きっと…春原も、一歩を踏み出していたのだ。


学生生活に見切りをつけて、社会に入ると決めていた。


春原は、たしかに、俺より前を歩いていたのだ。


だから今俺は、春原と一緒に、もう少し、もう一歩、学校へと踏み込んでみたいと思った。


接してみると、あの学校の全員が俺たちを拒絶しようとしているのではない。


最初は、わずかな仲間から始められればいいのだ。


そうして、存分に楽しんで、周囲の人間も、その輪に加わってくれればいいのだ。


芳野さんの話、ここ数日の実感、それらが俺の中を駆け巡る。


そうだ、全ては…これから始まっていくのだ。


俺は何か言おうとして…だが、丸まった布団に、言葉は途絶えた。


春原にとって、俺は裏切り者にも近いのだろう。俺がなにか言って、どうにかなるとも思えなかった。


それならば…


俺は、考える。


誰がこいつを引っ張りあげることができる?


俺にその力はない。今となっては、それはできない。


それならば、誰がこいつの力になれる。


問答無用に春原の手を引っ張って、顔をはたくような…


そして、俺は、思い当たる。


ただ一人。


問答無用に春原を叩き起こせる奴がいる。


俺はきびすを返した。


何も言わずに部屋を出る。何も言われず部屋を出る。



…。



俺は駆け足になる。


寮の調理場に顔を突っ込む。


「美佐枝さんっ」


「……、なによ」


めちゃめちゃ含みを持たせて、睨みつけられる。いや、そりゃ、邪魔してるとは思うけど。


「ちょっと、頼みがあるんだけど」


「あら、相楽さん、大人気ねっ」


「羨ましいわ、あははっ」


また飛び込んできた俺を見て、オバちゃんたちが楽しげに笑った。


「そんないいものなら、いいんですけどねぇ」


「こっちは大丈夫よ」


「はぁ、すみません」


ため息をつきながら、再びエプロンを外す。


「岡崎、何よ」


「ごめん、邪魔して」


「いいわよ。今度はどうしたの?」


「教えてほしいことがあるんだけどさ…」



…。



俺は美佐枝さんに、ひとつの電話番号を聞いた。


寮の入り口脇にある古びた電話に硬貨を入れる。そして、メモした番号を見ながら、ダイヤルを回した。


呼び出し音が鳴る。


俺の胸が高鳴る。


なにを言おうか、練ってるわけでもない。だけど、今の心理状態じゃなければこんなことはできない。


物事にはすべてタイミングがある。それは今なのだと思った。


『はい、もしもし』


少しして、受話器の向こうから、聞き覚えのある声。


『春原です』


懐かしい、声。


芽衣ちゃんの声だった。




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