043
「ふ…風子をここに連れてきて、いったいどういうつもりなんですかっ」
「どうもしねぇよ…」
チャイムに追われた渚と杏を見送り、俺と風子は静かな資料室へとやってきていた。さすがに新校舎にいては、人目にとまりすぎる。俺はいいのだが、風子がやたら注目されるのはなんだかデッドエンドいきな感じがする。
「授業中に教師に見つかったら面倒だろ」
「それなら上の教室でいいです」
「ここだったら宮沢くるし」
「風子、ひとりで平気です。人をさみしんぼみたいに言わないでください」
「言ってないって」
不満げな風子を座らせる。さて、自分はどうしようかと考え、だがすぐに、彼女を一人で置いていくなんて俺にはできそうにもない、と気付く。
少なくとも、今は。風子自身が、自分が何者かもわかっていないような今の状況で、放り出すなんて、できない。
俺は彼女の向かいに腰を下ろす。いつも、宮沢が座っている席だった。イスには彼女が持参したらしいクッションが敷かれていた。そんなことに、初めて気付く。
…。
「そういえば」
「??」
沈黙に耐えかねたわけでもないが、さすがにいつまでも黙って座っているわけにもいかないので、適当に話しかける。
「おまえ、はじめて会った時、彫刻みたいなことしてたよな。あれってなんなんだ?」
「え…」
俺は、その問いを、気軽にしたつもりだった。意図もてらいも何もなく。
だが風子は始めぽかんとして、困惑した表情に変わり、そして今にも泣きそうな顔に変わった。
「おい…?」
まさか、そんな反応されるとは思っていなかった。
困惑気味の俺の瞳と、潤んだ風子の瞳が、一瞬、交錯した。
そして、風子は、ばっと身を翻した。その勢いで、彼女の座っているイスは派手に床に転がる。
「おいっ」
呼ぶ声もむなしい。風子は、逃げるように、一直線に、この部屋から出て行こうとした。
…くそっ、なんなんだよっ。
心中に毒づいて、俺も弾かれたように彼女の後姿を追った。がらん、と転がるイスが、空虚に響いた。
一歩、二歩。やかましい足音はすぐにやんだ。資料室の扉の手前。引き戸に手をかけた風子を、俺は後ろから抱きしめるようにして引き止めていた。
「あっ…わっ」
手の内で、風子が逃げようともがいたが、やがて、おとなしくなる。
「……」
「……」
「落ち着いたか?」
返事はなかったが、こくりと頷く。
体から力は抜けていたから、また逃げることはないだろうと思ったが、念のため肩には手を置いたまま、体を離す。
「いきなり、どうした。…ああ、嫌なことを言ったなら、悪い」
風子はまた、ふるふると頭を振った。
「違うんです」
沈んだ、声だった。
「風子、気付いてしまいました」
それからやがて、風子はぽつりぽつりと話し出す。
「風子は、おねぇちゃんの結婚を、お祝いしようとしてたんです」
「公子さんの?」
突然な話題だった。少し面食らうが、話の始めから腰を折るつもりもない。
「はい。学校での結婚式にしたいという話は聞いていたので、生徒の皆さんにも、お祝いしてほしいと思ったんです。だから、可愛いヒトデを差し上げれば、きっと当日もお祝いに来てくれると思ったんです」
「…」
いや…それはどうだろう…?
少し懐疑的になってしまう俺だったが、口は挟まず。
「もうすぐ、お姉ちゃんの結婚式になるんです」
「ああ…って、あれ…?」
今の言葉に、違和感。
風子は、俺を伺うように見る。
俺は少し考えて、思い出す。
「いや…でも、公子さんが結婚したのは、たしか…」
俺が、汐と向かい合えるようになった、その後だ。だから、もうすぐ、なんて近い未来の話ではない。
五年、六年、随分先だ。
「そうです」
風子は、頷いた。
「おねぇちゃんは、病院の風子のことを考えて、風子が目を覚ますまで、ずっと結婚しないで待っていたんです。風子が目を覚まさないのに、自分だけが結婚するなんて、できないって、考えていたんです」
「……」
芳野さんと一緒に風子を幸せそうに見ていた、公子さんの横顔を思い出した。穏やかな、笑顔だった。
彼女はその表情の裏に、何年も何年も、目覚めるかもわからない妹を待つ覚悟を灯し続けていたのだ。
いや、きっといつかは目覚める妹に、結婚式を見てほしかったのかもしれない。
だから、あの夫婦は、待ち続けた。その少女の目覚めを。
「風子は、ここにいます。
ここにいて、お姉ちゃんが結婚式を迎えられるように、風子は、できることをしているつもりです。
ですが…、
お姉ちゃんの結婚式は、結局、ずっと先まで伸びてしまうことを、風子、もう、思い出してしまいました。
だから、風子は、どうしてここにいるのか、わからないです。
もう、どうしようもないことを、知ってますから」
どうすればいいのかわからない。現状への困惑。それはきっと、俺も風子も、同じことを思っている。
だが、風子にとって、もはや未来は終わっていた。
…心が飛び出して、学校をさまよった。
ただ、姉の結婚式を祝いたくて、もともとこの学校の先生だった公子さんを喜ばせようと、生徒を募ろうとした。
だけどそれは結局実を結ばないのだ。すでにそれを知ってしまった。
もう、今となっては、徒労を積み重ねることはできない。
「風子は、どうして、まだここにいるんでしょうか。もう、風子にできることなんて、ないんです」
役目を終えた精神は、薄れて消えて、いなくなる。そのはずだ。
なぜ、ここにいるのか。風子の問いは、俺へではなかった、彼女自身にでもなかった。その問いは何かもっと、大きなものへと、向けられているような気がした。
「…俺は」
俺は、何と言えばいいのだろう。大丈夫だ、なんて言えない。励まそうとしても、何を励ませばいい?
言うべき言葉が見つからない。俺は考える、考える。言いたいことはある。だから、言葉を探す。
俺は、公子さんの結婚式を思った。
それはきっと、休日の学校で、部活動の生徒くらいしかいなくて、よく晴れた空で、世界から切り離されたような静かな場所だった。
公子さんが懐かしそうに教室の机を触り、芳野さんと、昔の思い出を話す。風子は二人のそばにいて、自分がかつて、この学校に通っていたことが信じられない…ただ一度きりしか、生徒としては登っていない坂道。
一瞬の内に、ちぎれちぎれの情景が浮かび、だが、それはあっという間に色あせて頭から消えていく。
…思い出されたのは、人ごみ。
顔を知っている生徒、知らない生徒、「暇だったから来たんだよ」、「おめでとう!」、「お幸せに!」、喧騒と、呆気にとられた公子さんの顔と、生徒たちが手に持つ…木彫りの、………。
……。
…。
…記憶がはじけた。
一瞬だけ、胸の奥から去来したそれは、幸せな情景だった。もう俺はそれを覚えてはいられなかった。
だが、一瞬でも激しい光に当てられて、生まれなおしたかのように、胸が熱くなっていた。
胸の奥から、奇妙なほどの感情があふれ出していた。この思いが喉に達し、顎に達し、俺は口を開いていた。
「風子」
心の深く、奥深く。小さく輝く言葉があった。
「俺は、まだ何も終わっていないと思う」
「?」
「風子。ここはいつだ? ずっと過去で、俺たちはまだまだ呆れるくらい若くて、やろうと思えば、なんだってできるんだよ。まだ何も終わってないし、ほとんどのことは、始まってもいないんだ。俺たちは、たしかにひとつの未来を知っている。だけど、その未来は、どうにでも変えられるんだと思わないか?」
「岡崎さん…」
「俺はさ、何ができるかわからないけれど、また今こうしてここにいて、できることをやろうと思ってる。おまえも、やるべきことは、きっと色々あるだろう。やれるべきことは、まだ、あるはずだ」
その言葉は、むしろ、自分自身に向けられたことでもあった。戸惑っているのは、俺も同じだ。時間を跳んだなんて経験だ、きっと俺は一生戸惑い続けるんだろう。だけど、だから、後悔したり、前後不覚になったりはしたくない。
「できることは、まだ、たくさんある。それを見逃すためにここにいるわけじゃないはずだ」
そうだ。まだ何も始まっていないのだ。全ては、これから始まるのだ。
俺は、話さずにいられなかった。風子は、しばらく固まっていた。
だが、しばらくして、彼女は小さく笑って俺を見た。
「まさか、岡崎さんの言葉に感動する日が来るとは思いませんでした…一生の不覚です」
「おい」
「わかりました。風子、がんばってみます」
彼女はまだ、迷っている。それは、わかった。だけど、迷いながらでも、前を目指すことはできる。
「…ああ」
俺たちは、向かい合って、ちょっと笑った。
なんてことないその笑顔は、俺たちにとって、ひとつの誓いだった。
雲がちぎれ、風が吹き、空は高く、日差しは優しかった。俺たちは、今ここにいる。
こんなわけのわからない状況を共有するそのただ一人が、風子でよかった。そう思えた。