044
プレゼントを作ります、と言って風子は美術準備室へと資材確保に行ってしまった。俺も付いていこうかと申し出たが、断られてしまった。
「岡崎さんも、今できることをやってください」
…そんなこと言われても、正直今すぐやるべきことがなかった。だがそれではあまりにもかっこ悪いので、「おう」などと答えてしまったが…。
正直行く場所はなかった。この時間だと、授業に戻るにも微妙だ。というか、俺はもう少し真面目に授業に出たほうがいいな…。
だがさしわたしどうするか。
少し考えて、足は登り階段へと向いた。図書室へ。
歩きながら、先ほど胸に浮かんだ情景を思い出す。風子にかけるべき言葉を探しているうちに、ふいに浮かんだ光景。だが、それは今ではほとんど像を結ばなかった。
大切なことだったような気がする。とても、嬉しいことだったような気がする。
俺の中の深海とでもいうべきところに眠っていたなにか。
一瞬だけ、光に照らされたそれは、今は既に元の静寂へと還っていった。
今となっては、それは俺に何も訴えてはこない。ただ、暖かさだけが、まだかすかに残っている…。
045
「…あ」
「よ」
図書室に入ると、読書少女が床をモップで拭いていた。
「もうちょっと、待っててね」
全然驚いたそぶりもなく、声だけかけると作業を再開する。
床を拭いて、クッションを持ち出して、近くの机の上に置いてあった本をまわりに広げて、靴下を脱ぐ。
その間、俺はイスに座ってのんびり外を見ていた。なんか、老人みたいだな。まだ何も始まってないぜ、なんて言っていたのが嘘のようにやることがなかった。いやいや、今はない、というだけだが。
「なあ」
「?」
声をかけると、少女は首をかしげる。
「えぇと、一緒にご本、読む?」
クッションの隣をぽんぽん。
「違う」
「そっか…」
しょんぼりしてしまった。
「名前、教えてくれ」
「…うん」
彼女は目を細めて小さく笑う。座っていたが、立ち上がる。まっすぐに俺を見る。
「ことみ、ひらがなみっつで、ことみ」
「ことみ…」
「呼ぶときは、ことみちゃん」
「いや、ちゃん付けは勘弁してくれ」
「だめなの?」
「もういい年だからな。ことみって呼べばいいか?」
「ええと、うん」
「名字は?」
「一ノ瀬」
「俺は、岡崎朋也だ」
「朋也くん」
「ああ」
「朋也くん」
「…」
「朋也くん?」
「ああ」
「朋也くん朋也くん朋也くん」
「…」
「朋也きゅん」
噛んでいた。いや、わざとか…?
「朋也くん」
最後に、確認するように呟くと、うんうんと頷く。
「なんだか、不思議な感じ」
おまえがだ、と言いたくなったが、やめておいた。
しかし、一ノ瀬ことみね…。名前を聞けばなにか思い出すかもしれないと思ったが、俺の記憶には、ひとつの波紋も浮かばなかった。
「今日はずっとここにいるのか?」
「ええと…うん。お昼休み以外は」
「そうか」
俺は外を見やる。今日もいい天気だ。緑が混じり始めた桜。季節は、移っている。
「俺は今日は、授業に出ないとな。出席がやばいんだ」
「そうなの?」
「ああ。おまえは大丈夫だけどさ…」
…波紋が、広がった。
あれ?
違和感を覚えた。どうして彼女は、内申が平気なんだ? 俺は彼女について、何も知らない。
どうしてそれを、自然に言えたんだ?
小さな波紋は、さざなみへと、変わっていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
頭を振る。なんなんだ、今の焦燥は。心がしぼんだような、俺の存在がかすんだような、異様な不安感。
「でもなにか、お勧めの本でもないか? さすがに今からじゃ授業に戻れないかさ、それまで読むような」
取り繕うように、そう言っていた。
「あんまり読書してなくても読めるような、簡単なやつ」
「入門編みたいなご本?」
「ああ、そういうのがいい」
「少し、待っててね」
にこりと言うと、本棚のほうへ歩いていった。
書棚の中を右往左往して、本を持ってくる。
「これはどう?」
「えーと、『力学・場の理論』?」
「物理学なら、まずはこれ」
「…」
どれだけ高いハードルを用意しているのだろうか。
「いや、物語のほうがいい」
「うん。ちょっと待ってて」
気を悪くした様子もなく、また戻っていって、右往左往。
で、帰ってくる。
「これはどう?」
「『旧約聖書』『ラーマーヤナ』『コーラン』」
「とっても有名な物語」
「旧約聖書とコーランは問題外として、このラーマーヤナってどんな話だ?」
「えーと…」
ちょっと考え込む。
「王子様が、おさるさんの軍隊を率いて、王女様を救う話なの」
「ちょっと面白そうだな…」
ぱらぱら広げると、超難しそうだった。こっちも神話かよ。
「ちょっと…難しそうだな……」
「そっか…」
「短くて一話完結みたいなのがいい…って、リクエストが多くて悪いな」
「ううん」
みたび、ことみは書棚を右往左往。
「はい」
『絵のない絵本』
「…」
もう難しい本は諦めてくれたようだった。なんだか、それはそれで悔しかった。
「すごく短いけど、とってもとっても面白いの」
「まあな」
たしかに、これくらいぺらぺらなら、問題なく読めそうだった。童話だし。
「じゃ、しばらく読ませてもらうよ」
「うん」
ことみはクッションに座り、本を読み始める。
その姿を眺めて、ちょっと和んでから、俺も本に目を落とした。
…。
チャイムが鳴った。俺は顔を上げる。
一時間目が終わったところだった。教室に戻ろうと、腰を上げる。
「おい」
「…」
声をかけても、反応なし。そこには、一心に本を読んでいることみの姿が。
「ことみ」
「…」
名前を呼んでも、やはり意味なし。
もうさっさと出て行ってしまおうか、などとも思うが、それもさすがに、とも思う。
「おい、ことみ…ちゃん」
ふと、思いついた。
呼ぶときはことみちゃん、というわけだ。
「…朋也くん」
信じられないことに、ことみは夢から覚めたように顔を上げた。
…なんだか妙に、気恥ずかしい気分になる。
「ああ、邪魔して悪い…。俺、二時間目から授業行くから」
「そうなんだ」
互いに、時計を見やる。
「お昼は、くる?」
「まさか弁当作ってきたとか、言わないとな」
「ええと…」
ちらり、と視線を巾着に移す…巾着じゃない!? あれは明らかに重箱だ!
「全然反省してないだろおまえっ。いつも一緒に食えるわけじゃないって昨日言っただろうがっ」
「いじめる? いじめてる?」
「いや、いじめてはないと思うんだが…」
涙目になられても。
ぐったりと力が抜ける。そして、なんだか笑ってしまう。
「わざわざ、ありがとな」
「ええと…」
戸惑った瞳が俺に向けられていた。
「せっかくだし、一緒にそれ、食わせてもらうよ」
「うんっ」
ぱあっと、笑顔が広がった。小さな子供みたいだ。本に囲まれて、純粋培養されてきたのだろうか。本に、囲われて。
いじらしい彼女の表情に、だけどどうしても俺は、胸の奥に違和感。
「…でも、ここで食うのはまた今度だ」
「???」
「今日は、資料室で飯を食おうぜ」
「資料室?」
「ああ。図書室に入りきらなかった本が入ってる部屋があるんだ。知ってるか?」
「ううん」
首を振った。
「今日はそこでどうだ?」
「ええと…」
目を伏せてちょっと考え込み、また俺の顔を見た。
「うん…」
「決まりだな」
俺は笑う。とりあえず、彼女をここから連れ出すことに成功だ。
どうしてかわからないが、なんとなく、ここに篭ったままでは、ことみにとってよくないような気がした。まず最初は、宮沢をぶつければとりあえず心配はない。
なんとなく、ことみは、藤林姉妹とかともかなりいい相性なんじゃないかという気もした。
ああ、むしろ、渚も誘ったらどうか、と思いつく。
ことみと宮沢。彼女らは俺の中で演劇部員候補者に入っている。勧誘できる空気になるかわからないが、顔合わせくらいはしておいて、後で渚に人材としてどうかと聞いてみるくらいならいいだろう。
まあ、渚が「あいつはダメ」なんて言うわけないが…。
「昼休みになったら、資料室に来てくれ。旧校舎の一階、一番端だから」
「うん。わかったの」
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
図書室を後にする。
最後、振り返ると、ことみは立って小さく手を振っていた。
俺は、その姿を見て、なぜか胸がつまった。そんな姿を、俺は、知っているような気がしたのだ。