029
図書室からの帰り、A組で彼女と別れる。俺は歩きながらB組をひょいと覗くが、渚はいないっぽい。
おおかた昼飯はパンだろう。
いるとしたら、中庭だろうか?
そう思って窓から目をこらすが、それらしい姿はない。とはいっても、さすがに三階からではよくわからない。
いったん降りて、新旧の校舎をつなぐ地上の連絡通路を通りながら、さっと辺りを見渡した。だが、やはり、いない。
購買で手間取っているのだろうか? それはありうる可能性だった。
「先輩」
「…」
購買まで見に行くか? それだって、あの混雑から探すとなるとさすがになぁ。
「先輩?」
「うおっ」
ひょい、と目の前に宮沢が現れた。
「どうかしたんですか?」
「いや、悪い、俺か。先輩なんて呼ばれ慣れてないから」
「そうなんですか?」
「ああ…。宮沢は、昼は資料室?」
「はい。先輩は、どこで食べているんですか?」
「…」
なんか、宮沢に先輩って呼ばれるの、気恥ずかしい。
「?」
「いや、まあ、昼はどうしようかって思ってたとこ」
「そうですかっ。それでは、資料室にいらっしゃいませんか?」
ぽん、と手を合わせて言う。
「そうだな…それじゃ、そうするよ」
渚はどこかとも思うが、それは軽い気持ちだ。 どこに行くという当てもない身だった。
「それじゃ、お先にお待ちしていますね」
「…? いや、一緒に行くよ」
「?」
首をかしげる。
「おひるご飯、食べないんですか?」
…ああ、そういうことか。今は手ぶらだった。
「早弁した」
「ダメですよ」
そう言ってくすくす笑う。
「お菓子がありますから、よければお出ししますね」
「それじゃ、ありがたくもらおう」
ならんで、資料室に向かう。
もしかして俺、またもや餌付けされている?
…。
扉を開けると、むっと空気が吐き出された。
宮沢は窓を開けて、棚からガスコンロとヤカンを出す。
「水入れてくる」
ヤカンを取る。
「ありがとうございます」
手慣れたものだ…というか、宮沢的には初めてなのだが。
…。
やがて、昼食の準備が完了。
俺の目の前にはカントリーなクッキーとコーヒー。
そういや、このクッキーのメーカー、不祥事起こしたよなぁ。未来で。などと考えるといきなり戦々恐々。やれやれ。
宮沢はビニール袋からサンドイッチを取り出して、食べ始める。平和な昼休みだ。
「コーヒー飲んでるとか、教師にばれたことないのか?」
「はい。ほとんど入ってくることがないですから。生徒の掃除場所にも充てられていないんですよ。ですので、棚の中にしまっておけば大丈夫です」
「秘密のスポットってことか」
「はい」
宮沢は幸せそうに部屋の中を見渡す。小さな世界。宮沢にとって、この部屋は高校生活の全てなのだろう。
それはそれで、不安定な世界観だろうが…。
それにしても、宮沢は将来どんな職に就いたのだろう。卒業してから、彼女とはまったく接点がなかった。町を出たのだろうか。
「宮沢は、将来どんな職に就きたいとかあるのか?」
そう聞くと、宮沢はくすくす笑った。
「なんだか、進路相談みたいですね」
「いや、昨日、進路相談のプリント書いてさ」
弁解めいたことを言ってしまう。宮沢は少し考えて、口を開く。
「ですけど、きっと進学ですよね」
普通の生徒はそうだろう。この学校の進学率はほとんど100パーセントだ。
「まあな。俺は違うけど」
「そうなんですか?」
「ああ。電気工になろうかな、と」
「専門職ですね」
「手ほどきを受けたことがあるからさ」
なんだか俺の進路相談みたいになってきた。
「この町で就職するということですよね?」
「ああ」
「わたしも、この町で暮らしたいなって思います。大学はどこか出るかもしれませんが、そのあとは、やっぱり」
「大きな街で暮らしたいとか、そういうのはないのか?」
「好きなんです、この町が。それに、町の人たちも」
出るとしても、数年いけば十分です。にっこり笑ってそう言った。
無垢で、無邪気で、俺にはまぶしい意見だった。
030
昼休みが終わるにはまだ間があるが、資料室を出る。
もしかしたら渚が演劇部室で昼食をとっているかもしれないと思ったのだ。
一度そう考えてしまうと、それ以外はありえないような気がしてくる。
その可能性に思い当たってから気が急いて、宮沢は不思議そうにしながらも笑っていたが、片付けを押しつけてしまった。後で謝らないと。
だがとにかく、もし渚が一人で、それも部室で飯を食っているとしたら、俺は傍にいてあげたかった。
階段をひとつとばしで登っていく。
早足に旧校舎の一番端まで歩いて、扉を開けた。
「…」
演劇部室の、中。
昨日、途中まで片付けをして、そのままだった。
「…」
つまり、勘違いだった。俺は肩を落とす。気にしすぎだな…。
ま、別に勘が鋭いってわけでもないけどな。
ぶつぶつそう考えつつ、部室を後にする。
そして何気なく、左手に教室を眺めながら歩いていき…
「…!」
先日と同じように、風子が教室の中で木を彫っている姿を、見つけた。
…。
「よお。また会ったな」
声をかけると、少女はぼんやりと俺を見上げた。
「あ…」
ほとんど無表情で、何を考えているか読めない。とはいっても、いきなり興奮して逃げる、という様子はなさそうだった。一息つく。
「俺の名前は、岡崎朋也だ」
まず、名乗る。名前を知れば、警戒心は一回り和らぐはず。
そんな気安い気持ちから言ったのだが、驚くほど、彼女は反応を示した。
「岡崎…?」
「ああ」
「岡崎さん?」
「なんだよ」
少女はぐっと眉間にしわを寄せた。何かを考え込むようにうつむく。ぎゅっと彫刻刀を握りしめた。危ないぞ、おい。
しかしなんなんだ、この妙なリアクションは?
風子はまるで殻にこもるようにじっとしていた。
少し経っても、風子はそのまま動かない。段々、こっちが動揺してくる。
「おい」
「もしかして」
言葉が重なった。俺はぐっとセリフを飲み込んでしまうが、風子は構わず言葉を続けた。
「汐ちゃんのお父さんの、岡崎さん、でしょうか…?」
「……」
背後から、冷たく硬いハンマーで頭を殴られたような、ショックだった。
よろめいて、座り込みそうになる。視界が奇妙にぶれた。一瞬遅れて、一歩逃げるように後ろに足が出たのだと気付く。
…彼女は、今、何と言ったのだ?
汐の父。
汐。
その名前を、聞くことになるとは、思わなかった。いや、聞くはずないと思っていた。
「どうしたんですか?」
「…」
呆然としている俺に対して、風子は小さく首をかしげる。
彼女は、なんの気負いもてらいもなく、こちらを見ていた。その話は当然、というように。
「…」
衝撃が喉に張り付いて、言葉が出ない。
瞬間冷凍された体が、だが、段々と感覚が戻る。五十年ぶりくらいに呼吸したような気分だった。
「おまえ…」
一度、火がつくと、それの感情は激しく俺を焦がした。
「なんでっ、汐のことを知ってるんだよっ?!」
汐を知る人間がいる。それは、ありえないはずのことだった。
ほとんど無意識に、座ったままの風子に詰め寄る。彼女の肩をがっしと掴む。
「わ、わっ」
「おい、風子っ!」
目の前にある風子の顔。まだ高校の制服からも幼い表情。
それが、ぐにゃっと、歪んだ。ひくっと、体が弾んだ。
「…お、わ、悪いっ」
驚いたのは確かだが、女生徒に詰め寄るというのはかなりまずい反応だった。手を外してホールドアップのような体勢をとる。今のを誰かに見られていたら、かなりやばい話になる。さっと廊下を見た。
「……」
誰も、いないか?
たん、たんと足音が聞こえる。今はまだ昼休みだし、この階層は他の文化部部室もある。休み時間が終わるこの時間、教室へと戻る生徒は結構いるはずだ。
だが、ここは三階の外れだ。こんな所まで来る生徒はいない…はず。
「ふぅ…」
一息ついて風子の方に向き直ると…
「…うおっ」
喉元に彫刻刀が突きつけられていた!
「岡崎さんが野獣になりました! 最悪ですっ!」
「いや、ち、違うっ」
反論するが、下手に動いたら本気で刺されそうなので首を振るだけにする。
「奥さんが亡くなって、欲求不満なのはわかります。ですけど、言っておきますが、あの時は風子は岡崎さん目当てじゃなくて、汐ちゃん目当てで遊びに行ったんです。変な勘違いされても、迷惑です」
「違うから…」
げんなりする。だが、アホな話を聞いている内にほどよくクールダウン。
衝動は、静まった。だけど頭の中は判別できないくらい複雑にあらゆる考えが飛んでは混じった。
そう。俺はひとつのことを確信していた。
俺と彼女は知り合っている。彼女はやはり、伊吹風子だ。
そして、俺たちは思い出を共有している。
汐のこと。
風子が遊びに来たこと。
…未来のことだ。
俺は一人きりこの世界に迷い込んだと思っていた。これは孤独な旅なのだと思っていた。
だけど、違った。
傍らには、同じく歩む、姿があった。
俺たちは、同じ記憶を持っている。
まるで、一緒に、長い夢を見ているようだ。
そう、
つまり、
彼女も、俺と同じように。
時を遡ったのだ。