011
夢じゃない。
目を覚まし、部屋を見渡し、そう思う。
俺は、ここにいるのだ。
012
登校する生徒の流れに乗って歩いていく。
俺は渚と出会った時のことを思い出していた。
初めは坂の下で出会った。昨日のことだ。
その後何日か、彼女と同じように坂下で出会っていた。毎日毎日、渚は壁にぶつかっていたのだ。遅刻してきた俺と二人で、登っていったのだ。
そこで、基本的な事実に気付く。
今、俺は普通に始業に間に合うようなペースで学校に向かっていた。もしかしてこれはまずいのだろうか? 「前回」と同じように遅刻すべきなのか?
もちろん全てをなぞってもしょうがないだろうが、今はまだ渚と知り合ってもいない状況だし…。
悩みながら、だが歩みを止める決定的な理由もなく、なんとなく人波に流されて、坂に着いてしまった。
その中に。
後ろ姿が、すぐに目に入った。どんな人混みの中だろうと、俺はその姿を見つけられる。
彼女は背を伸ばして、鞄を両手に持って、じっと前を見据えていた。
坂を見上げていた。
周囲の生徒たちには、ほんの少し、彼女の方を見る人もいる。誰かを待っているように見えなくもないが、それにしては不自然だ、と。
美術館で絵画でも見るように、前を見つめている。
そんな姿は、だが、極端に生徒たちの気を引くものでもないようで、特に振り返られることもなく追い越されていく。
俺は杭で打ち付けられたように動けなくなった。
渚の姿は、そんな悲壮なものでもない。立っているだけなのだ。坂を、見上げているだけなのだ。
だが、俺の中のなにかが揺すぶられた。
彼女は決して他の生徒に拒否されているわけではない。しかし、すごく自然に、距離を置かれているように思えた。
復学した渚にはもう、友達といえるような生徒はいない。だから、誰にも話しかけられない。その辺りも理由としてあるのかもしれない。
つまり彼女は、決定的に浮いていたのだ。お前は違うと区別されているように。
…その気持ちは、俺にも、通じるものがあった。
俺も、渚と同じだったのだ。
渚が誰かを必要としていたように、俺も誰かを必要としていた、あのころ。
俺は歩き出す。
渚に話しかけ、肩を並べ、歩いていこう。まずは二人で歩いていけばいい。その後、誰かがまた加わって、人数が増えて、最後には手をつないで大きな輪になればいい。そしてみんなで笑いあえばいい。
だんご大家族のことを、俺は思い出していた。
予鈴が近づき、生徒の数は減っている。でも渚はじっと動かない。
俺は渚の後ろ姿に声をかける。
「なあ」
「え…」
弾かれたように振り返る。
俺の顔を見て、一瞬ぽかんとして、赤くなってうつむいてしまう。昨日のことを思い出しているのだろう。
「おはようございます…」
でも律儀に挨拶だけはしてくれた。
なんて可愛い女の子なだろうと、しみじみ思ってしまう。
彼女は俺の嫁ですよ〜! と、とりあえず叫びだしてしまいたくなった。
「…おはよう」
「…」
「…」
何を話せばいいのかわからない。渚も同じようだった。
それはそうかもしれない。昨日、急に抱きついたりしたし、彼女からしたら俺は変質者に片足をつっこんでいるような存在だ。
「登らないのか?」
「えっ?」
「この坂、登れないのか?」
「…」
深く物思いに沈んだような表情で、言葉を継げずにいた。
「行こうぜ。遅刻するぞ」
ゆっくり、歩き出す。
「…はいっ」
とたとたと、足音が後ろに聞こえる。
周りの生徒はぐっと減っている。大体、始業ぎりぎりというところだろう。
俺の顔を知っている奴だろうか、何人か物珍しそうにこっちを見ていた。
好きに見ていればいいのだ。俺には俺の事情がある。
後ろを歩く渚に負担がかからないように、ゆっくりと坂を登っていく。
「…あのっ」
「なんだ?」
「あの、わたしたち、どこかでお会いしましたか?」
「…昨日?」
「いえっ、そういうことではなくっ」
ぱっと赤くなって首を振った。柔らかそうな髪がふるふると揺れた。髪が朝の光を緩く弾いた。
「すみません、おかしな質問をしてしまいました」
おかしな質問というか、当然の疑問だろう。
とはいっても、俺自身、その辺のことにつっこまれるとうっかり口を滑らして妙なことになってしまうかもしれない。そういう意味で、引いてくれたことはありがたい。
「…………あの」
「ああ」
「わたし、B組の古河渚っていいます」
「D組の岡崎朋也だ」
彼女の姓が古河であることが、すこし新鮮だった。
渚はひょいっと俺の胸の校章に視線をずらす。同じ色。
「岡崎さん」
名字呼びだった。
「よろしくお願いしますっ」
「よろしく」
変なことを喋ってしまうのが恐くて、言葉が短くなってしまう。もう少し愛想よくするべきだろうか?
しかし今のところ、禁止されている話題が多すぎる。NGワードゲームみたいな様相を呈している。
彼女の留年、演劇部、オッサンや早苗さんの話題は当然ドNGだし、何をとっかかりにしてもなにかに引っかかるような気もする。
前に進まなければならない。しかしそれには危険が多い。
そろそろ、身の振り方に方針を決めなければならない。
013
昇降口で渚と別れる。
ふらりと資料室に行く。中に宮沢はいない。さすがに教室に行ったのだろう。あるいは朝は来ていないのかもしれない。
椅子に座って、中庭を見ながらぼんやりする。
「以前」、渚と出会ったばかりの頃、俺はどうやって彼女と親しくなったのだろうか?
正直、流れで彼女の演劇部のことを聞かされていって、成り行きで手伝ったという側面が強い。
こっちから何をしたというわけではないから、どうアクションをとればいいのかよくわからない。
少なくともこの頃に、たしか昼休みだっただろうが、彼女の置かれた身の上を聞いたのだ。あれは俺にとってもちょっとした出来事だったし、それくらいは覚えている。
だがもう今の時点で俺の渚の関係はちょっと違うし、これからはもっと違うだろう。
それなら逆に、こっちから引っ張っていくくらいの方がいいのか?
…さっぱりだ。正直言って、よくわからん。
考え事をしている内に、チャイムが鳴った。
さっきも鳴っていたから、これはホームルーム終了のチャイムだろう。後しばらくすれば、一時間目が始まる。
俺は息をついて立ち上がった。出ても出なくても同じ授業なのだ。それならば出た方がいい。
せっかくやり直しがきいているのだ。俺ももう少し、真面目に勉強した方がいいかもしれない。
未来は、かつて思い描いていたほど、遠いものではないことを知っている。
014
教室に入る。視線が一瞬集まり、霧散する。他の奴らは、俺のことを認識はしても、受け入れてくれていない。まあいいのだが、ひっかかる。
鞄を置いて、席に着く。机の横の鞄掛けに鞄を掛ける。
そこまでして頬杖をつこうとしたところで、目の前にいる女生徒に気付く。
「あ、あの…」
「…」
俺から目を逸らすクラスメートの中にあって、彼女は間違いなく俺を見ていた。すこし驚く。
「藤林」
藤林椋だった。杏の妹、無理矢理やらされている学級委員。占いをやっている。内気な性格。
俺が彼女について知っているのは、このくらいだった。これくらいじゃ、ほとんど知っているにも入らない。クラスメートのよしみとしての基礎知識というところだ。進路さえ知らない…いや、たしか杏が言っていたな。看護師になったのではなかったか。
「え…えっと…」
もじもじしている。
「どうした?」
「あ、あの、これ…」
一枚のプリントを差し出す。
手に取る。見てみると、進路相談のプリントだった。
希望する大学名、学部、将来の希望職種。そして申し訳程度に、一番下に就職希望者用の欄がある。が、この学校で、就職を目指す奴はほとんどいない。
「ふぅん…」
以前だったら無視していただろうが、それで余計なトラブルを呼び込むのは目に見えていた。適当に書いて、提出すればいいか。
「あ、朝のホームルームで配られたプリントです」
「そうか、悪いな」
「いえ…」
はにかんで笑う。その姿は、凶暴な姉とは大違いだ。
「私、委員長ですから」
「あぁそう…」
なんなのだ、そのアピールは。
「…」
「…」
まだ、傍らに立ってもじもじしていた。
「休み時間もう終わりそうだし、早くトイレ行けよ」
「…違いますっ」
まあそうだろうな。
「あの…あまり遅刻するの、よくないと思います」
説教、いや、どちらかというと心配するような表情だった。
…。
あまり付き合いがなかったからよくわからなかったが、姉に似て意外に面倒見がいいかもしれない。
だからこそ、看護師になったのかもしれない。なるほど、理由があって決定がある。原因があって結果がある。
「藤林」
「は、はいっ…」
「おまえ、ここの将来の職種、なに書いた?」
「えっ…」
「看護師だろ?」
「ええっ…どうして、わかったんですか」
目を見開いて、本当に驚いていた。
…なるほど。彼女はもうこの時期から、自分の将来を見つめていたのだ。俺とは大違いだった。
俺は書けなかった。俺は未来を思うことができなかった。だからその上に、面倒だから書かないという理由を上塗りして、濁していたのだ。逃げていたのだ。
だから、素直に、俺は藤林を見直した。実際、大学は書いても職種は空欄で出す生徒の方が多いだろう。
「…なんとなくだよ」
俺としては、そう言う他ない。
「でもさ、まあがんばってなれよ」
そう言うと、藤林はぱあっと顔を輝かせた。
「はいっ。がんばりますっ」
嬉しそうにそう言って、席に帰って行った。
ほどなく、チャイムが鳴る。
「…」
しかし、遅刻の話が途中から放置だったな。鳥頭…?
いや、まあいい。しかしちょっと杏に似ているよな、そういうところ。