008
資料室。
風子の時みたいに、中に人がいるなんてことはなかった。当然だが。
幾つもの本棚。テーブルにイス。隅の低い棚の上には、コーヒーメーカーが置いてある。そして棚の中にはフライパンやらガスコンロがあるはずだ。
懐かしい光景だった。つい笑みがこぼれてしまう。
だが、思い出探しに来たわけではない。俺は隅の本棚から、順にタイトルを読んでいった。生徒の名簿か、あるいはクラスわけのプリントが配られたはずだから、それでもいい。
本棚はさらっと見るだけ見て、むしろプリント類を漁る。
ああ、「保健室だより」なんて、あったなぁこういうの。ちゃんと読んだことないな…いや、今読んでもマジ仕方がないか。
…。
やがて、チャイムが鳴る。二時間目の授業が終わったチャイムだろう。
ずいぶん集中して探してしまった。しかし、なかなか見つからない。まだ半分くらい残っているが…。
伸びをしていると、不意に扉が開いた。
「あ」
「ん?」
目があった。背中までのまっすぐな髪と、清潔そうな身だしなみ。ひとりの少女が引き戸をあけてこっちを見ていた。
その姿を見て、頭の中身が切り替わる。どうして忘れていたのかと思うほど、すんなり思い出せた。
「宮沢っ」
宮沢有紀寧。それが彼女の名前だった。
ひどく懐かしい。同窓会に来た気分だ。
だが、対して彼女はくりっと目を広げて、小さく小首をかしげた。気の利いた女の子は三百種類くらい返事の仕方を知っているのだ。
「あの、わたし、お知り合いでしたでしょうか?」
にっこり笑って、問いかけた。
「あ、ぐ…」
こんな世界に迷い込み、誰かと対話をしたいと望み、その最初のセリフからして失言だった。ああ、まったく。
「いや、なんでもない」
「?」
彼女は不思議そうな顔で、俺をのぞき込む。だが、すぐに切り替えて、にっこり笑った。
「あの…資料室にいらっしゃるのは、初めてですか?」
「ああ、まあな」
話題の転換がありがたい。俺の精神年齢と彼女の今の年齢とでは結構違うはずなのに、宮沢の方が大人のような気がしてきた。
「ちょっと、探してるものがあるんだ」
「そうですかっ」
嬉しそうに笑う。
「それでしたら、わたしもお手伝いします」
「…いいのか? 何か用事でもあるんじゃないのか?」
「いえ、そんなことはないです。ここが好きだから、来ただけですから」
知っている。それは真実だ。
厚意に甘えることにした。
「生徒の名簿っていうか、一年生のクラスがのってるものを探してるんだ。今年の。ちょっとクラスを知りたい奴がいて」
「名簿ですか」
「あるいはクラスがのってるプリントでもいいんだけど」
「ああ、始業式の日に配られましたね」
「わかるか?」
「探してみましょう」
「ああ」
手分けして、探してみる。二人がかりだったので、残りもすぐに探せた。
…。
だが、目的のものは見つからなかった。
「なかったな」
「そうですね、すみません」
「いや、宮沢のせいじゃないって」
「はぁ」
時計を見ると、休み時間はもう終わりそうだった。
「悪い、時間使わせて」
「いえいえ。それじゃ、わたしは教室に戻りますので」
「ああ。…あ、宮沢っ」
「はい?」
歩き出した彼女が、振り返る。
「ありがとな」
「いえ。よろしければ、また、資料室にいらしてくださいね」
お辞儀をして、部屋を出て行った。
俺は閉まったドアを見つめて、息をつく。仕方がない、一年の教室を一つ一つ見て回るか、いや、自分の机を漁ればあるかもしれない。捨ててる可能性が高いが。
さて、これからどうするか…。
俺が未来からやってきて今ここにいること。きっとやるべき事はどこかにあるのだろう。しかし実際、今なにをやればいいのかもわからない。
…教室に戻ろう。
結局、そんな結論しか出てこない。
ふらふらふらふら、いったい何をやっているのだろう。
身の置き場がない。別の群れに紛れ込んだ羊みたいな気分だ。
009
放課後になる。結局、春原はやってこなかった。
それにしても、何時間もわからない授業を聞かされるのはつらい。数学と違って他の授業はそれなりにわかるが、興味が薄いから、集中も散漫だった。
今朝持ってきた教科書を、机の中につっこむ。持って帰ればいいのだが、それも面倒だった。机の中の堆積物がまた増えてしまった。
生徒の流れに乗って、帰途につく。
そして、着替えをすると俺はすぐに家を出ていた。親父に会うのを、なんとなく避けてしまった。
親父になんて言えばいいのかわからなかった。
今の俺は昔の自分ではない。親父を軽蔑していないし、嫌ってもいない。それは本当だ。
だが、今親父に何を言っても、届かないような気がした。
俺は親父と同じような道を辿った。汐を放って過ごしてきた。
俺たちは立場を近くすることによってわかりあえた。汐が共通言語だったのだ。
二人の間を取り次ぐものは、今はない。
俺はなんて言えばいいのだ?
もう恨んでいない、とか言えばいいのか? あんたの気持ちはよくわかる?
突然そんなことを言ったって、それが親父に届くのか?
…期待できそうにない。
時期ではないのだ。すぐに崩せる壁じゃない。俺と親父が協力して作り上げた、高い高い壁だ。強力で、冷たくて、決定的な壁だった。お互いが壁の両側に立って、毎日せっせと塗り固めてきた。
壁の向こうで何が行われているのか、俺は知らない。それが、その後、親父の犯罪に繋がっていくのかもしれない。
俺は耳を澄ませて、向こうの物音を聞き分けようとする。だけど、ざわめきや風音で、ほとんど何も、届かなかった。
それが、かつての俺たちだ。
そしてつまり、今の俺たちだ。
010
結局、俺は家を出て、あたりを散歩することにした。
日は沈み、自然と足は、学生寮に向いた。
寮にはいると、右手、食堂の方が騒がしい。食事時なのだ。
こんな早くに来ることは、ほとんどなかったような気がする。さすがに寮の食事の時間なんて覚えていなかった。
とはいえ気にせず、春原の部屋に向かった。
ドアを開ける。かすかな埃っぽさ、汗くささ、菓子やジュースの残り香、そういった色々が混ぜ合わさって、男の部屋を形作っていた。
こういう種類のにおいは、誰でもそう違わない。男の俺からしたら、そう嫌いなにおいではなかった。
雑然とした部屋だ。周囲を軽く見渡して、こたつと壁に挟まれた空間に入り込む。
すごく落ち着いた。
手頃な雑誌を掴んで、読んでみる。
そして、苦笑。
マンガはこの先の展開まで知っているのだ。ろくな暇つぶしにならない。
新しい趣味でも開拓しなければならないのだろうか。
しかし、よくよく考えてみると、俺は将来のことを知ってるんだな…。
その知識をうまいこと使えば人生バラ色?
といっても、株関係のことはよくわからないし、宝くじなどの番号だって覚えているはずはない。
いや、でも競馬でメチャ勝ちしていた馬とかくらいならわかるぞ。ニュースでも話題になっていた。
「…」
そんなのに群がる自分もどうもなぁ…。元手もないし。
でも一点買いすればそれなりに利益が出るのか?
でも倍率とかかなーり低かったとも聞いたぞ。
つい腕を組んで考えてしまった。
…。
そうこうしているうちに夕飯は終わったらしく、にわかに廊下が騒がしくなる。春原もじきに戻ってくるだろう。
俺の目から見れば、長い時を経ての再会だ。
驚かしてやろうと思って、こたつの中に身を潜めた。
…。
やがて、ドアが開けられる。春原が帰ってきた。
「ふぅ」
息をつきながら、こたつを迂回するように歩いていく。
俺は足音を聞きながら、こたつをそっと持ち上げて、外の様子をうかがいながら…
ずぼっ!
がしっっ!!
思いっきり、春原の足を掴んだ。
「ん?」
…。
「うわあああぁぁぁぁーーーーーーっ!!」
大成功だった。
かくして。
春原が叫び、ラグビー部員が「うるせぇ!」と乱入してきて春原の頬を一発張って、春原は壁まで飛ばされて激突、寮全体に衝撃が走り、美佐枝さんが怒鳴り込んできて、ラグビー部員と春原を絞り、俺はマンガ雑誌を読んでいた。
かくして。
「なに呑気にマンガ読んでんだよっ」
さっきのがこたえたせいか、さすがに怒鳴るほどではなかったが、鼻息荒く詰め寄ってくる。
「いや、ちょっとした挨拶みたいなもんだ」
春原の顔を見る。金髪…。
「ぷっ」
思わず吹き出す。
「やべっ、笑っちまった!」
「ケンカ売ってんのかぁーーっ!」
どしん! と隣室から衝撃。続いて「うるせぇぞ!」と怒鳴り声。
「ひぃっ」
「おまえすごいビビリな」
「うるせぇよ。僕だって、ちょっと本気を出せば、あんなやつらすぐに倒せるさ」
ベッドに乗ってあぐらをかく。
「でも、今は時期じゃないからね。その時になれば、派手にやってやるよ」
「花火みたいにな」
「それ散ってるだろ!?」
春原のツッコミも懐かしい。
良くも悪くも、俺の高校時代の前半分は、こういう空気に生きていたのだ。泥濘に身を浸すような安楽だ。決して誉められるような日々ではない。だけどそれが、居心地よかったのだ。
「ところで、なんでこんな早く来たんだよ」
「たまたまだな」
「ふぅん」
実際、寮の夕食の時間に来た記憶はなかった。いつももっと深夜に来ていたような気がする。
「まあいいけど」
春原はごろりと横になると手近なマンガを読み始める。
…。
「ふわ…」
あくびが出た。様々な疲れが層になってたまっている。今になってぐっと肩にのしかかってきた。
「なに? 岡崎、もう眠いの? まだまだ夜はこれからだぜ」
春原が顔を上げる。
「ちょっとな…。寝るからおまえ出てけよ」
「ここ僕の部屋なんスけど」
「美佐枝さんの部屋にでも泊めてもらえよ」
「それ殺されますからっ」
俺はむくりと起きあがる。
「帰る」
「ふぅん…」
出て行こうとしたところに、後ろから声をかけられる。
「岡崎」
「なんだよ」
肩越しに振り返る。
春原は怪訝で、しかし変に真剣な表情だった。
「…」
「…」
「…」
「なんだよ?」
「…いや」
春原は見慣れないものでも見ているような目をしていた。
「なんでもないよ」
「…じゃあな」
一瞬だけ、交わる視線が互いに鋭くなったような気がした。あるいは気のせいだったかもしれない。
だが、昔の俺と今の俺は違うはずだ。毎日一緒に過ごしてきた春原には、なにか感じるものでもあったのかもしれない。さすがに、時を遡ったと感づくわけもないけれど。
俺は家に帰る。
幸か不幸か、親父は帰っていなかった。家には玄関すらも明かりはない。
手早く風呂に入り、すぐに寝た。
眠りはすぐにやってきた。深い眠りだった。
眠りに落ちる、その間際。
誰かの後ろ姿が見えたような気がした。