015
地理や現代文や生物はまだなんとかなる。しかし問題は英語と数学だ。積み重ねが重要な教科だから、もうどうしようもない。砂上の楼閣、土台に問題がある。
三時間目のグラマーを受けてぐったりした俺は、四時間目の数学を受ける気力はなかった。
どうせ昨日の、火星語講座の続きだ。まだ火星人の知り合いはいないしな。限界がきた。俺はさっさと教室から逃げ出した。
教室を出る時、背中に少し、視線を感じたような気がした。
…まあ、いいか。
休み時間で賑わう(というほどでもないが)廊下をすり抜けていく。
旧校舎に入り、三階へと登る。
なんとなく、また風子がいるような気がした。昨日と同じあの教室で、よくわからない作業をしているような気がした。
少しだけ、せいた気持ちで階段を上がる。
階段を上りきる。ふと目をずらすと、図書室の扉が目に入った。
別に、それ自体はおかしな風景ではない。しかし、休み時間でもないのに引き戸が少しだけ開いていた。
…なんとなく、そんな場景を見たことがあるような気がする。
少しだけ、開いた扉。その光景は、俺の記憶の湖に、小さく波紋を呼びかけた。
「…」
呼び寄せられるように、近づく。
『閉室中』という札がかかっていた。
中の様子をうかがう。特に作業をしているような雰囲気はない。物音はしない。
そっと、中にはいる。
紙のにおいがするような気がした。
整然と並んだ本棚と、自習用の机。人影はない。窓がひとつ、空いている。カーテンが風に揺れる。
誰もいない図書室。揺れるカーテン。遠ざかった喧騒。こういうのも一種の、非現実空間みたいだ。普通に生活していると、絶対に足を踏み入れないタイプの空間。
そしてこの空気を、俺は知っているような気がする。
辺りを見渡しながら歩いていると、開いた窓の側に、座り込む女生徒がいた。
気分が悪いのかとはっとしたが、そんな様子ではなかった。
クッションの上に座り込んで、本を読んでいた。なぜか裸足。きちんと揃えた上靴の上に、靴下が畳んでおいてある。几帳面なようでいて、周囲には適当な本がごろごろ転がっていた。
なんだか、自分の家にでもいるようなくつろぎようだった。
少女の姿を見て、既視感が、立体をもった。
俺はこんな風景を、前にも見たことがある。かつての高校時代。ある日に、図書室で俺は彼女に出会った。何故か弁当を分けてもらったのだ。そうあることではないから、いまだに覚えている。
彼女は相当集中しているようで、全くこちらに気付かない。すごいスピードで本を読んでいる。
そういえば、図書室に行くなんてあの時くらいで、あれ以降彼女に会うこともなかった。
彼女はきっと、ああしてずっと図書室で本を読み続けていたのだろう。そう思う。
しかし、だとしたら、彼女は高校卒業後、いったいどこに行ってしまったのだろう? 少女と図書室というのはあまりに完結した組み合わせで、その後彼女は世界のどこに飲み込まれていったのだろうと、詮無いことを考えてしまう。
少女の手前の椅子をひき、座る。全くこちらに気付かない。彼女にとって、今あるのは自分と文字だけなのだろう。
「おい」
「…」
ぱらり。
「…よう」
「…」
ぱらり。
「おーい」
ぱらり。
これだけ声を掛けても、気付かない。どこまで気付かないか、試してみたくなった。
ぽんぽん。
なでる程度に頭を叩く。
「…」
ぱらり。
触れても、全くこちらを見ない。
本の上を、思いっきり手を広げて見えないように邪魔してやる。
…ぐいっ!
少女の手で、払いのけられた。
「うぉ…」
意外に力強くて、驚いた。
「…って、ガキか俺は」
アホらしくなってくる。近くのイスをひいて、座り込む。
しばし、少女の姿を見ていた。
そういえば。
昔会った時のことを思い出す。
弁当くれたことも衝撃的だったが、思いっきりページを切り抜いてもいた。
今見ていると、本を切りそうな素振りはない。
あれは、なんだったんだろう…。
そう思いながらよく見てみると…
「ん…?」
ここから見えない角度に落ちてるのは…紙?
というか、本のページ?
少女の後ろに回りこむ。見てみると、はさみで切ったらしき、切抜き。
「…」
俺は小さく、ため息をついた。ああ、もう、切り抜いた本が私物ならいいんだけど。
切抜きを手に取ろうとした瞬間、少女が顔を上げて、俺を見ていた。
「あれ…」
ぽかんとした表情で、見上げられた。俺の存在に気付いたようだ。なんだか、邪魔してしまったような気分になる。
「よう」
「…」
不思議そうに俺を見ていたが、小さく笑った。
「…そっか」
呟く。
なにがそうかなのだろうか。
「こんにちは」
「…こんにちは」
挨拶。
「なにやってんだ、ここで」
「ご本を読んでるの」
まあそうだが。
「こんなところで本を読んでいて、いいのか」
しかし、風子といい、彼女といい、意外に授業サボってる奴が多いな。仮にも進学校なんだが。
退屈な奴が多い学校、という印象を改めるべきかもしれない。そういや智代も相当なもんだし、宮沢とか杏とかだって、普通じゃないか。
「だいじょうぶ」
彼女はこっくり頷く。
「私、名誉図書委員だから」
「…なにか賞でも取ったのか」
ふるふると首を振る。
「毎日ここにきていたら、司書の先生が図書室の鍵をくれたの。あなたは自由にはいっていいからって」
それ、職務放棄じゃないか?
よっぽど毎日来ていたのだろうか。
「いつもいるのか」
「うん。授業にいなきゃいけない時もあるけど」
大体サボっているって事か。しかしよく進級できたな。うまい具合に出席簿を改ざんしているのかもしれない。
その割に、アホっぽい雰囲気はないような。
「ご本、読みに来たの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「一緒に読む?」
「…なんだって?」
「もうすぐお昼休みだから、あまり時間ないけど」
そう言って、体を少しずらす。つめればクッションに座れる程度のスペースをあけてくれた。
「おうっ、さんきゅ」
…。
「なわけないだろっ」
「???」
すごく不思議そうな目で見られた。
まるで、そうするのが当然、といった具合に。
「おまえなあ…」
浮世離れしているというか…変な奴だ。いや、こんな時間にこんな所にいるのだから、まともな奴ではないことくらいわかっていたが。
「そういうことすると、変に勘違いされるぞ」
「??」
全然わかっていないようだった。だが、これ以上いっても仕方がない。
「…なんか、全然変わってないな」
あの時の出会いは過去なんだから、当たり前なんだが…。
「……」
少女がじっとこちらを見ていた。
「悪い、邪魔したな」
「あっ」
ぎゅっ。
立ち去ろうとすると、慌てて立ち上がった少女に制服の裾がつままれた。
「どうした」
「ええと…」
戸惑った表情で、視線が泳いで、はっと足下の袋を見て、またこっちを見据える。
「お弁当」
「…?」
「とってもおいしいお弁当。私の手作りなの」
ちょっと慌てた調子で、その袋を目の前に見せる。巾着が揺れる。
「まさか…」
またこのパターンにはいるのか? うっそ??
「一緒に食べようとか、言うんじゃないだろうな」
袋から弁当箱を取り出して、ふたを開ける。
「今日のメニューは、出汁巻き卵と肉じゃがとほうれん草と煮豆なの」
こっちのセリフ、聞いちゃいない。
「特にこの辺が自信作」
「なんで俺に食べさせようとするんだよ」
「半分こだから」
にっこりと笑う。
…半分こ。
その言葉に、胸の奥がずきりと痛む。心の奥底に眠る、細い細い弦が小さく鳴った。
かすかな違和感。聞き覚え。風のように、通り過ぎていくのを感じる。
「食べる?」
「…図書室で弁当なんて食べていいのか?」
「…」
少女は少し考え込む仕草をして…
「大丈夫。私、名誉図書委員だから」
まったく大丈夫そうじゃなかった。
「ええとね、きっと先生も見逃してくれると思うの」
「まあ、かもしれないが…」
見逃すというよりも、さすがに今の時間に見つかることはないだろう。
しかし、ちゃんと弁当持参でいるって事は、本当にここに来るのが日課なのだろうか。なんだか、宮沢みたいな奴がここにもいるのな。この学校は、各教室に主でもいるのだろうか。
「食べる?」
じっと、見上げてくる。
断るのも、なんだか悪い気がした。
「それじゃ、少しだけ」
そういうと、彼女はにっこりと笑った。
「いただきましょう」
「いただきます」
「あーんして」
「おう」
…。
「って、そんな恥ずかしいことできるかっ」
自然に言われたから流れで応えそうになってしまった。
しかし、少女はすごく不思議そうにこっちを見ていた。恥ずかしくないのか?
「でも、おはし、一膳しかないから…」
「言っただろ。ちょっとだけでいいよ。これはおまえの昼飯だろ」
手づかみで肉じゃがをつまんで食べる。
「…」
「…おいしい?」
「…ああ。うまいな、これ」
よく味が染みていた。口の中で、じゃがいもがほっこりと崩れた。
手料理の味だった。誰かの手作りの料理なんて、もうずっと食べていなかったような気がした(早苗さんにご馳走してもらったりしたが、こっちはこっちで荒んでいたし)。
「よかった」
少女は笑う。すごく嬉しそうだった。
「…もうちょっともらっていいか?」
「うん」
許可をもらって、出汁巻き卵を食べる。
「…」
「…おいしい?」
「うまい」
出汁が染みていた。だが、主張しすぎない味の濃さで、上品に仕上がっている。噛むと玉子の味が口の中に広がり、最後にじんわりと出汁が後味を彩る…って、グルメな解説になってしまった。
よっぽどもっと食べたかったが、それは彼女の食事分を切り崩すことだ。さすがにやめておく。
「もういいの?」
「ああ。うまかったよ。でもこれ以上食ったら、そっちだって足りなくなるだろうし」
「ええと…うん」
こくりと頷く。
「ここで昼飯食ってるのか?」
「うん」
「昼は自習する奴とか来ないのか?」
「来るけど…」
「先に食って、本読んでるのか?」
「ううん、お昼はお散歩の時間」
「ふぅん…。ああ、食ってていいぞ。俺は昼休みにどっかで食べるから、気にするな」
「うん」
もくもくと食べる。
俺は視界の端のその姿を捉えながら、外を見ていた。
いい天気だった。空はあくまでも青く、雲はあくまでも白く、世界は健康だ。
…。
「ごちそうさま」
弁当箱のふたが閉じられる。
「うまかったか?」
「うん」
まあそうだろう。
「もう出るか?」
「ええと…」
壁に掛けてある時計を見やる。もう十五分もすればここも自習する生徒で溢れかえるだろう。
「うん」
「そうか」
少女は立ち上がるとクッションをぽんぽん叩いて膨らませる。辺りに散らばった本をまとめる。上靴の中に丸めて入れてあった靴下をはき直す。本を図書委員用の机の裏側のスペースにまとめて置く。クッションもそっちの方に置いていく。
どうやらそちらに専用のスペースを持っているらしい。はた迷惑な名誉図書委員だ。
最後に弁当やらを入れていた巾着だけを持って、準備完了。
「行くか」
「うん」
図書室を出た。
016
A組だから、ということで教室前で彼女と別れ、自分のクラスに戻る。
…そういや、名前を聞いていないな。まあ、今度会ったら聞けばいいのだが。
しかし、彼女と会うのは初めてという気がしなかった。いや、たしかに以前会ってはいるのだが、そういうことではなく、もっと根源的な繋がりなのだ。
デジャブと言ってしまえばお手軽だが、そこまではっきりしたものでもない。違和感みたいなものだ。
…まあいい。
考えても仕方のないことにこだわるのはやめておこう。
飯でも食おう。さっきチャイムは鳴ったし、授業も終わっているはずだった。
教室の隅、突っ伏して動かない金髪頭を見ながら、そう思った。
「よぉ」
「岡崎か」
机に上半身を横たえたまま、ぐるり、と顔がこちらに向いた。
「メシ食いに行こうぜ」
「どこ行ってたんだよ、おまえ」
体を起こした。なんだかんだ、待っていたらしい。
「散歩」
「優雅だねぇ」
「そっちは遅刻だろ? おまえも十分優雅だ」
「岡崎は普通に登校したの?」
「…」
していなかった。とはいえ、ホームルームの遅刻くらいなら立派なものだろう。
「いいから、行こうぜ」
「うん、そうだね」
春原は立ち上がると、脳天気に笑う。
しかしこいつはなにをしに学校に来ているのだろうか? すごく疑問だ。
…その質問を俺にされても、なんとも言えないが。
連れだって教室を出る。
「…ん?」
ふと中庭を見下ろすと、見知った姿があった。
渚だった。遠目だが、彼女の姿ならわかる。
手にビニール袋をぶらさげて、きょろきょろ辺りを見渡しながら歩いていた。
進む先は…中庭の方か。
出会ったばかりの頃、俺は渚と中庭で昼飯を食ったことがあった。あれは、まだ名前も知ってるのかというような頃だ。
今、俺が渚を見つけたのは、きっと一種の運命だろう。
俺は渚と話すことがある。話さなければならないことがある。
「春原」
「ん? なに?」
「用事ができた。先に行ってろ」
「用事ってなんだよ。付き合おうか?」
こんな時ばかり変に気を回す奴だった。
「言わせるなよ。トイレだ」
「なんだ、そうか。まあいいや、それじゃ、ゆっくりな!」
妙に爽やかに手を振って、先に行ってしまった。
…さて。
ひとつ、心を落ち着かせ、俺は昇降口に向かう。