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放課後。
今日は、芽衣ちゃんの見送りがある。
俺は椋と一緒に教室を出て、生徒たちが行き交う廊下の中を歩いていく。
「今日はもうすぐに出るけど、クラスの方は大丈夫か?」
椋はD組のクラス展のリーダーのような役職だ。普段のクラブでも遅れてくることが多いし、早々にいなくなるのはいいのだろうか?
「はい。元々、私は大道具とかの方はやっていないので」
「そうか」
たしかに、椋は書類関係がメインの仕事だ。そういえば大道具とかの仕事は、そっち専任のリーダーがいるようだし。絶対にいなくてはならないというほどではないらしい。
「それにしても、結構手伝いが増えたんだな」
先ほど教室を出る際、他のクラスからも手伝いの奴が来ていたことを思い出す。
「はい、よかったです。この前、私、創立者祭の準備がきちんと進むか占ってみたんですけど…その時は、あんまりいい結果じゃなかったんです。ですけど、こんなに集まってくれて、よかったです」
「…」
いや、ちゃんと当たっている。ちゃんと間逆に、だが。
「やっぱり、占いは、占いですから」
「…ま、まあな」
そう言う外ない。
「でもさ、他のクラスの奴も手伝ってくれるとは思ってなかったから、驚いたよ」
「はい、私もです。お姉ちゃんが声を掛けてくれたみたいで、それで少し前から手伝ってくれる人が増えてきたんです」
「この学校の三年をよくあれだけ集めたと思うよ」
ここは町一番の進学校。学業が第一の学校だ。
受験生を集めて遊びに誘っていて、それはむしろ、この学校の方針に反旗を翻しているように思われてもおかしくはない。
教師の援護があるわけでもないのだ。そんな中で、よくもまあ今の雰囲気を作り上げたものだ。
「自慢のお姉ちゃんですから」
椋はそう言って、にっこりと笑った。
「仲いいんだな、やっぱ」
「はい、もちろんです」
…。
職員室前。
廊下でばったりと智代に行き合う。
「よう」
「坂上さん、こんにちは」
「ああ、岡崎に、藤林か」
智代は手になにかプリントを持って、どこかに行く途中のようだった。
「そうか、これから春原の妹さんの見送りに行くのか」
「ああ」
朝、一緒に登校した時に芽衣ちゃんが去ることは伝えていた。
智代と芽衣ちゃん、あまり顔を合わせる回数は多くなかったが、面識はあるふたりだ。
見送りに来るかと誘ったが、今日はクラスの方の仕事があるようだった。
生徒会長選挙の活動に加えて、色々な雑務も抱えているようだ。こいつも、随分忙しいようだ。
「岡崎も、あの子がいなくなったら随分寂しいだろ」
「そりゃ、まあ」
「そういえば、朝ごはんの用意はどうする」
「また俺が作るんだろ」
正直面倒だという気持ちが先に立つが、親父とか風子がまともに準備するとも思えないし、かといって朝飯抜きというのは辛い。
「そうか」
智代は、俺の返事を聞いて爽やかに笑う。
「それなら、また私が朝作りに行ってもいいぞ」
「どんだけダメ人間に見えてるんだよ、うちの家族は」
一応俺は作れるし、親父も作れないわけではない。随分昔、親父の手料理を食べていた頃もあった。
「だが、岡崎は料理が作れるのか?」
「大したものではないけど、朝飯くらいなら」
「そうなのか。意外に、家庭的なんだな」
「…そりゃ、おまえもな」
「うん? それはどういう意味だ?」
「おまえも手作り料理ってイメージないけど、うまいじゃん」
「おまえは失礼な奴だな。私はこれでも家庭的な女の子だと有名だぞ」
「どこでだよ」
まあ、なんでもそつなくこなす、という意味では料理は普通に出来そうではある。
軽口を交わしていると、隣で椋が「???」とでもいうような困惑した表情で俺たちを見ていた。
「あ、あの、すみません」
そして、おずおずと口を挟む。
「もしかしたら私の勘違いなのかもしれないんですけど…えぇと、その…坂上さんは、岡崎くんの家に朝ごはんを作りに行っているんでしょうか…?」
おそるおそる、というような聞き方だった。
…というか、そういう風な言い方だと、なんだかまるで智代が通い妻みたいな言い方じゃん。傍目にはそう見えるのだろうか。
「ああ、そうだが」
「…ええっ」
あっさり答える智代に、椋が仰け反った。
「…す、少し、考えさせてください」
「ん? なにをだ?」
「…えぇと、えぇと」
混乱しているのだろう。不思議そうな智代を余所に、椋はうんうんと唸った。
「もしかして…おふたりは、付き合っているんですか?」
「…」
どうやらこいつは、とんでもない解答を導き出したようだった。
…いや、まあ、家に通っているとなったらそう思われて不思議はないけど。
もともとは智代の礼として何度か朝飯を作ってもらっただけだ。が、正直単なる礼以上の気持ちを感じなくもない、というのも本当だ。
ついつい色々考えてしまう。だが、問いに対する答えはひとつだ。
「いや、付き合ってないよ」
「ああ、そうだな」
「そ、そうなんですか…?」
なんだか、微妙に釈然としない表情の椋だった。
それを見て、智代がふと思いついたように口を開く。
「もしかして…あなたは、岡崎のことが好きなのか?」
爆弾発言だった。
「え…ええーっ」
真っ向切りのようなセリフに、 椋が真っ赤に顔を染めた。
「そ、そんなっ、わ、私なんかがおこがましい…!」
「あんまりからかうなよ、智代」
大混乱に陥っているようなので、さすがにフォローを入れる。
「私はからかってなどいない」
「尚更タチが悪いだろっ」
「そうなのか?」
「そうなんだよ…」
「わかった、気を付けよう」
智代は不思議そうだったが、納得してくれたようだった。
「おい、椋、帰ってこい」
「…はっ」
今だ挙動不審な椋に声をかけると、やっと現実世界に返ってくる。
「わ、わっ、失礼しました」
まだ顔が真っ赤だった。 恥ずかしそうにちぢこまる。
「すまない、邪魔をしてしまったな。私はもう行く」
「ああ。おまえはこれから仕事かなにかか?」
「うん、クラスの創立者祭の準備だ」
手に持ったプリントを見せる。
「大変だな」
「それはお互い様だろう」
そんなことはないと思うのだが。俺の方がよっぽど暇だ。
「私からも、あの子によろしく伝えておいてくれ」
「ああ、わかった」
「それじゃあな」
智代はそう言うと、さっさと振り返って歩き去っていく。
俺と椋はしばらくその姿を見て、再び歩き出した。
「あの、すみません…」
小声で言う椋。
「なにがだよ」
「その、騒いでしまって…」
「…」
こいつは動揺しすぎだとは思うが。
というか、結構わかりやすい態度で、俺はどう反応すればいいのかわからない。
「大丈夫だ。もう忘れたから」
「そうですかっ。それなら、よかったです」
「…」
俺の言葉に屈託なく笑う椋を見て、つい、思う。
自分はどれだけ鳥頭だと思われているのだろうか、と。
294
駅前。
芽衣ちゃんを見送りに部員勢ぞろいでやってくる。
さすがにぞろぞろと集団で現れたので、すぐに芽衣ちゃんが気付いて手を振った。 隣に春原と美佐枝さんもいた。
「みなさん、すみません、わざわざ来てもらって…」
トランクを手にした芽衣ちゃんは頭を下げる。
「いや、いいって」
「はい、随分お世話になりましたので」
「寂しくなるの」
「創立者祭の日にまた来てくれるって聞きました」
芽衣ちゃんが部員たちと口々に言葉を交わすのを眺めながら、俺は美佐枝さんに声をかける。
「…美佐枝さん、なんでいるの?」
「寮の方で色々手伝ってもらってたからね。さすがに見送りくらいしなきゃ罰が当たるわよ」
「この時間によく出てこれたな」
以前に夕飯の準備で忙しい、と言っていた時間帯だったはずだが…。
「そうよ。だから、代表であたしだけ」
「…」
暇な時間帯だったら、寮のオバちゃん軍団が総出で見送りに来ていたのだろうか。そんなことになっていたら、すごい光景だよな。
「あの子、岡崎の家で暮らしてたんだって?」
「そうだけど…誰に聞いたんだ?」
春原には、「風子の家に泊まってる」と誤魔化して伝えている。
「芽衣ちゃんからよ」
「本人からかよ…」
俺は肩を落とした。白い目で見られそうだから、あまり広めないでほしいのだが。
「あんな明るくていい子がいなくなるなんて、寂しくなるわね」
「まあな」
別れを惜しむ、少女たちを見る。
風子が代表して芽衣ちゃんにプレゼントを渡していた。
芽衣ちゃんが飛び上がって喜ぶ。それを見て、微笑ましく笑う部員たち。
「随分、大所帯ねぇ」
「そうだな」
「…ねぇ、岡崎」
「なに?」
「あんたさ、たしか、部活を嫌ってなかったっけ?」
「…」
「別に、言いたくないならいいけど」
「いや、そういうわけじゃないよ。たしかに、嫌いだった」
「今は、そうじゃない?」
「ああ」
「ふぅん?」
美佐枝さんは俺の返事に、ニヤニヤ笑ってこっちを見る。
「あんたが部活嫌いじゃなくなったって、女の子目当て?」
「違うよ」
「どの子がお目当てなの?」
「美佐枝さん、それ、下世話っス」
「冗談よ、冗談」
楽しそうだった。
「でも、安心したわ。あんたがちゃんと、学生生活を楽しんでるならね。あと春原も」
「…」
春原がついで扱いだった。
「ね。やっぱりちょっと、大人になったわよ、あんた」
「そりゃ、どうも」
ちょっと前の日曜に、美佐枝さんに大人について相談に行ったことが思い出されて、さすがに恥ずかしくなってくる。
俺は逃げるように輪の外にいる春原の方へと寄っていった。
…。
「よぉ」
「ああ…岡崎」
春原は少し元気がないようだった。ぼんやりした視線を芽衣ちゃんを囲む輪に向けていた。
「どうした? 妹がいなくなるから寂しいのか?」
「ち、ちげぇよっ。色々うるさかったからね、あいつがいなくなったらせいせいするよっ」
無理しているのがバレバレだった。
「ちゃんと、別れは済ませたのかよ」
「別れも何も、家族だから会おうと思えばいつでも会えるし」
「…」
それはそうか。
俺は卒業後も春原とは細々と親交を続けていたが、芽衣ちゃんとはその後かかわりがなかった。
離れた場所で暮らしているし、親交も薄いのだ。それは仕方がない。
だが春原にとってはそうではないのだ、当然。家族だから。
(…いや、それにしても)
俺はふと、思い直す。
芽衣ちゃんとの親交が自然に途絶したわけではなく、単純に、俺自身にその関係を維持する気力がなかっただけなのだろう。
それは、他の人間に対してもそうだった。
卒業後、疎遠になった奴ら。
杏に椋、智代、宮沢も。
彼女らとも、交友関係を続けていくことはできたはずなのだ。
ただ、俺がそれをしなかっただけで。
…ずっと、彼女らが自然に離れていったのだと考えていたが、改めて思うと、離れていったのは俺ではないのだろうか。
疎遠になる関係を、そのままにしていた。
自分のことだけ考えて、人との繋がりを広げようとも思わなかった。
俺はそれを、認めないといけない。
「岡崎、どうかしたの?」
「あん?」
春原が訝しげに俺を見ていた。
「なんか、ボーっとしてたけど」
「別に、ボーっとしてねぇよ」
「ふぅん…?」
俺の返事を聞いて、春原がニヤニヤと笑い出す。
「ひょっとして、おまえ、芽衣と離れるの寂しい?」
「そりゃ、まあな」
「もしかしてあいつのこと、好きになっちゃったりした?」
「…」
思い人と離れるのを噛みしめているとでも思ったのだろうか。
「そいつは、兄であるこの僕にまず話をしてくれないといけないよねぇ」
ニヤニヤ。
薄気味悪く笑っているのを見ると、腹が立ってくる。
「ああ、そうだな…春原兄さん」
「ははっ、やめてくれよ…弟よ」
「…」
「…」
「「おええええぇぇぇえぇーーーーーっ!!」」
気持ち悪くなった俺たちは同時にえずいた。
冗談にしてもキツすぎる冗談だった。
「…もうっ、なにやってるの、ふたりともっ」
「…ん? ああ、芽衣」
「まったくもう」
馬鹿なことをやっているとでも思ったのだろうか、芽衣ちゃんがすぐ傍に来ていた。
両手を腰に当てて、呆れたような顔で俺たちを見る。紛れもなくそれは、出来の悪い兄へ向けられるような視線だった。
「芽衣ちゃん。色々、世話になったな」
俺は気を取り直して、名残を惜しむことにする。
「いえ、わたしの方こそご迷惑をおかけしてしまって…」
「そんなことないって、マジで」
本当に世話になりっぱなしだったからな。
「岡崎さん。最後にちょっとだけいいですか?」
「ああ…」
芽衣ちゃんに手を引かれて、少し離れたところへ。
…。
「なに?」
「あの、わたし、岡崎さんがお父さんと仲直りできるように祈ってますから」
「ああ。ありがとな」
最後まで、俺のことを心配してくれているようだった。
まるで、母親みたいだよな。俺の産みの母親は、いた記憶すらないけれど。
「芽衣ちゃんが教えてくれた家、行ってみるから」
「あ、はい。でも、岡崎さんがいいって言うなら、行かなくてもいいですし」
「いや、そんなことないよ」
現状維持よりは、多分ずっといいだろう。
「ありがとな、色々」
「こちらこそ、ありがとうございます。岡崎さんのおかげで、おにいちゃんも部活を始めてくれましたし」
「礼なら、他の部員に言ってくれ」
「もちろんです。でも、やっぱり岡崎さんがいたからだと思うので」
「どうだろうな…」
「岡崎さん、すごくみんなのために色々やってくれていますし、もっと自信を持ってくださいっ」
「わかったわかった」
だが実際、みんなのためと言うよりは、渚のためで、俺のためなんだけどな。
「創立者祭、楽しみにしていますね」
「ああ、俺もまた会えるのを楽しみにしてるよ」
「はいっ。…わたし、この町に来てよかったです」
「そりゃ、光栄だ」
芽衣ちゃんの言葉に、俺は自分が褒められたようにうれしくなった。
この町は、俺たちの住む町。
ゆっくりと移り変わりながら、俺たちの暮らしている場所。
昔からある場所であり、これからもあり続ける所。
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芽衣ちゃんが電車に乗って去っていき、俺たちの間にはなにか忘れ物でもしたような、ぽっかりと穴があいたような雰囲気が漂っていた。
芽衣ちゃんと共に過ごす日々は、これにて終わり。
そして再び、新しく日常が続いていく。
「ねぇ、岡崎。おまえ、芽衣となにを話してたの?」
「それは、秘密だ」
春原にそう答えると、疑うような視線を俺に向けた。
「おまえ、まさかマジであいつと…」
「いや、そういう方向の話ではないんだけど」
「あ、そう?」
春原は気の抜けた表情になって、電車の行った方を見る。
「ま、僕はそれでも構わないんだけどね…」
小さな声で、そう呟いて。
…。
今日はこのまま各自解散。
それぞれ、遊びに行ったり帰ったりとするようだ。
俺は遊びに誘われたがそれを断り、風子には適当に家に帰るように言って、一人で町を歩いていた。
この間、芽衣ちゃんと共に歩いた道を今はひとりで歩く。
それは、一昨日のこと。
芽衣ちゃんと一緒に、一軒の家を訪ねた時のこと。
そこには、親父の友人という人が住んでいるという。
その人と会って、何かが変わるのかはわからない。
何も変わらないかもしれない。だが、どっちに転ぶかはどれだけ想像してもわからなかった。
町を歩く。
そして、俺は古ぼけた家の前にもう一度立った。
表札を見る。
木下、という札がかかっている。
逡巡は、もうしない。
この人と向き合う時がきた。
俺は玄関のチャイムを鳴らした。
この人が俺にとって、道標になってくれればいい、そう思いながら。