168
焼却炉にたどり着く。だが、まだ相手は来ていないようだった。
杏と春原は近くの物陰に隠れて、俺と藤林で到着を待つ。
「はあー…」
藤林は胸を押さえて深呼吸をしている。
「あんまり考えすぎるなよ。相手の態度に合わせて、応えればいいだけだろ」
とはいっても、俺も告白されたことがあるわけでもないので、あまりきちんとしたアドバイスもない。
「は、はい…。ですけど、あまり、よく知らない人なので…」
「あぁ、そうなの?」
「はい。去年同じクラスでしたけど、あまり話したりもしなかったですし…」
「ふぅん…」
ぽつぽつと会話をしていると、向こうから一人の男が歩いてくるのが見える。
「あっ」
小さく声を上げる藤林。それで、あいつがサッカー部の部長なのだと見当がつく。
杏が言っていたとおり、確かに顔立ちは悪くない。
男は顔をしかめてこちらを見ている。
藤林の隣に俺がいるところからして、彼にとって状況が芳しくないことはなんとなく予想がついているのだろう。
「藤林、悪い、おまたせ」
「あ、い、いえっ」
男は藤林に爽やかに笑顔を向ける。
「ここで待ち合わせにしたけどさ、ちょっと場所を変えようか。人の目もあるしさ」
「えぇ、と…」
藤林がちらりと俺を見る。
だが男はこちらに見向きもしない。
…なるほどな。俺を無視する方向で話を進めるつもりみたいだ。まあ、やり方としてはわからないでもない。
だが、動揺してるのが隠しきれてないぜ?
男の目の中、瞳がこちらをうかがって、かすかに揺れているのがわかる。
「まあ、待てよ。俺は別に冷やかしでいるわけじゃない。一緒に話を聞くために来てるんだよ」
「なんで、いきなりおまえが出てくるんだよ」
不機嫌な声音を隠そうともしなかった。敵意のこもった視線を向けられるが、相手も藤林の目も前で実力行使に出ることはできないだろう。別に焦ることはない。
「俺がここに一緒にいる理由は、おまえもよくわかってるんじゃないか」
はぐらかすように答える。
実際は杏に頼まれたからなのだが、それは理由として弱いような気もする。かといって、まさか本当に彼氏などといって首を突っ込もうとも思わない。
勝手に勘違いさせておけば、それが一番手ごろな解決方法だろう。
「…藤林。日を変えて、また話そう。それじゃあな」
今日のところは状況が悪いと感じたのだろう。踵を返して、去ろうとする。
だが、そうされるわけにも行かない。
俺はその後姿に声をかけようとして…
「待ってくださいっ」
後姿を呼び止めたのは、藤林だった。
振り向く男に、頭を下げる。
「あの、お手紙、ありがとうございました。でも、ごめんなさい…っ」
「…」
男が顔をしかめて藤林を見ている。
「…ダメってことか」
「はい。すみません」
はっきりした、言葉だった。彼女がこんな自らの意思を主張するのは珍しくて、俺は藤林を見る。
男は小さく舌打ちをした。
「ああ、わかったよ」
藤林は頭を下げたまま。男は不機嫌な視線を俺にも向ける。
そして、最後にもう一度舌打ちをして、歩き去っていった。
俺は男の後姿を、見えなくなるまで見つめていた。
…。
「ホント、最悪ね、アイツ」
「ああ、たしかにね。その程度の奴だったってことだね」
俺と藤林がふたりきりになったところ、杏と春原が姿を現す。
「えぇと…」
顔を上げた藤林も、微妙な笑みを浮かべている。
たしかに実際、藤林のことが好きだった…というよりも、彼女が欲しかった、というような態度だったような印象がした。
そういう考えでいるうち、あいつはなかなか大事なことを見つけられないのではないかとも思う。
たとえば俺と渚の関係なんて…。
「朋也、ありがとね。憎まれ役頼んじゃったし」
「いや…」
「あ、あの…ありがとうございました」
藤林も頭を下げる。
「最後はおまえがちゃんと断っただろ。俺は本当に立ってただけだったし」
「いえ、岡崎くんがいてくれて、よかったです」
はにかんだ微笑が向けられて、気恥ずかしくなる。
しかし、一から十までフォローをしようとは思っていたが、藤林が独力でちゃんと意志表明はしてくれていたのだ。
それがあったおかげで、随分話は早かった。
「それじゃ、俺、行くとこあるから」
そこまで時間のロスにならなかったとはいえ、早く芽衣ちゃんを迎えに行きたかった。
「あ、朋也、ちょっと待って」
踵を返そうとするが、杏に呼び止められる。
「なんだよ」
「ちょっと待ってなさい。ねぇ、椋…」
「え、なに、お姉ちゃん…」
藤林が杏に連れられていき、少し離れたところで相談を始める。
両者、考え込むような表情で時折頷いたりしている。
俺と春原は、ボーっとそんな姿を見ていた。
というか、そうだ。この後春原に芽衣ちゃんを引き合わせないといけない。春原とも待ち合わせをしておかないとな。
「なぁ、春原」
「なに?」
「おまえ、今日これから用事ある?」
「なんだよ、いきなり。部活だったら、僕は別に…」
「いや、呼ばねぇよ」
「あ、そ…」
「で、なにか用事あるのか?」
「べっつにー。適当にゲーセンでも行って、適当に家で寝るかな」
「今日はこの後部屋にいろ」
「なんで?」
「おまえに客がいるんだ?」
「渚ちゃん?」
「いや、違うけど」
「ああ、そ」
つまらなそうに肩をすくめてみせる。
「でも、可愛い女の子だぞ」
「マジでっ」
「ああ。おまえのことが好きみたいで、どうしても伝えたいことがあるんだってさ」
「マジでっ」
「それで今日、おまえの部屋に行きたいって言ってるんだ」
「マジでっ」
「…おまえは、それしか言えないのか?」
「いや、すげぇ驚いてるだけだよっ。ははっ、やっと僕の魅力に気付く子が現れたってことだね…」
「ああ。期待して待ってろよ」
「ああっ。なんか興奮してきたーっ」
ふん、ふんっ、と鼻息荒く体を揺する春原。
「…このバカ、何やってるの?」
戻ってきた杏が、呆れ果てた表情で春原を見ていた。
「こいつのやることなんて、誰にもわからねぇよ」
「それもそうね。で、朋也。今からちょっと付き合いなさい」
「は?」
「はい。すぐに済みますから…」
「…?」
なんなんだ。
だがまあ、すぐに済むというならば、構わないのだが…。
「あれ? もしかして僕も行ったほうがいい?」
「あんたは一人で勝手に興奮してなさい。110番しといてあげる」
「じょ、冗談キツイね…」
「朋也、ちょっと来なさい」
「ま、いいや。それじゃ岡崎、僕は帰ってるよ」
「あぁ、また後でな」
春原は薄い鞄を脇に挟み、ぶらぶらと校門のほうに向かっていく。
「さ、行くわよ」
杏は校舎のほうに歩き出す。
「岡崎くん」
藤林も促すように俺を見た。
「ああ…」
言われるがまま、後に続く。
「で、どこに行くんだよ」
確かな足取りで前へと進んでいく杏の後姿に声をかける。
「職員室よ」
杏は半分だけ振り返ってそう答えた。
169
放課後の職員室は普段よりも賑わっている。
中で教師と話をしている生徒の姿もあるし、教師同士での談笑もある。
人の出入り、人の動きが活発で、泥の底のような沈滞した空気ではなく、居心地としてはまだマシ、というところだ。
藤林姉妹は俺を入り口のあたりに残して、覚えのない教師となにやら話をしている。
そして、そのまま職員室内の大型プリンタの前までいき、印刷されたプリントになにか書き込んでいる。
俺は、遠くからそれを眺めている。なにをやっているんだろうか。
「岡崎。おまえ何か用なのか?」
「え?」
声をかけられて顔を上げると、担任教師が目の前に立っていた。
「別に用はないけど。あいつらに付き合ってるだけ」
視線で、藤林姉妹を示す。
「あぁ、そうなのか。…学祭の話か?」
「さあ」
肩をすくめると、担任はふぅんと低く唸る。
「…おまえも、出展に参加するって聞いたぞ」
「クラスの方のこと? そうだけど?」
「…はぁ」
担任はため息をつく。
あまり好意的な様子ではなかった。
俺が参加することにだろうか。あるいは、三年生が大事な時期にお遊びをしているからだろうか。あるいは、その両方か。
「べつに、三年が出展するのが禁止されてるわけじゃないだろ」
「まあ、そうだがな」
やはり、微妙な表情だった。
「それじゃあな」
担任はやれやれ、と小さく頭を振り、職員室から出て行った。
禁止されているわけでないから止める権限はないが、決して応援するつもりもない、というところだろうか。
「おまたせ〜」
そこへ、藤林姉妹が戻ってくる。
「朋也、はい、これ」
「…?」
一枚のプリントがぱらりと目の前に見せられた。
なんなんだ…?
怪訝に目を細めた俺は、文面を眺めて、目を見開いた。
…それは、入部届けだった。
「杏?」
歌劇部の入部届けだ。つい先日、俺も書いたものだ。
見ると、隣の藤林も同じように入部届けを見せてくれる。
目の前の杏の入部届けに手が伸びて…
掴もうとした時に、するりと逃げられる。
「あたしたちも、入部するわ。ただし、条件付きでね」
いたずらっぽく目を光らせながら、杏が笑う。
「人が欲しいのは、お互い様でしょ? だから、そっちの部員も、あたしたちを手伝ってちょうだい」
「私たち、部活のほうはあんまり参加できないかもしれないですけど…」
藤林もはにかむ。
「それで、どう?」
どう、もなにもない。
こちらとすれば、願ってもない話だった。
これで、八人。目標までは、あとふたり。
そして、そのふたりは、俺の中で目星はついている。
やっと先が見えた。
「ああ」
安堵と歓喜。俺は笑っていた。
大きく、何度も、頷いていた。
先が見えた。仲間が増えた。
互いの重さを分け合って、歌劇部が進んでいる道とクラス展が進む道が横に並ぶ。
「ありがとな」
藤林姉妹が多く仕事を抱え込んでいるのは本当だ。
実際問題、更になにか手を出すのは正直無理がある。
俺もそう思うし、それ以上に彼女らはそれを自覚しているだろう。
名前を貸すだけかとも思ったが、特に杏なんかは、そういうやり方はあまり好まないだろう。
手を貸すというなら、本当に手を貸してくれるはずだった。
「でも、おまえらはクラスのほう大丈夫なのかよ?」
「ま、なんとかなるでしょ。直前は忙しくなりそうだけど…だから、そこであんたの出番よ」
「俺?」
「そ。キリキリ働いてもらうからね」
「…」
杏は微笑む。微塵の後ろ暗さもない笑顔だった。俺も、笑ってしまう。
「ああ、何でもするさ」
「いい答えじゃない」
「岡崎くん、部活のほうでも、よろしくお願いします」
俺たちは職員室の中でのんきに笑っていた。
お互いに、やるべきことは山積みなのだ。
背を焼くような忙しさも、今は関係がなかった。
教師たちが、奇妙なものでも見るようにこちらを窺っているのを感じた。
だけど、それすら気にならない。
仲間がいて、同じ場所を見ていた。
…渚っ。
俺は今すぐ、彼女の元へ走り出したいと思っていた。
たった一人で立ち上がり、少しずつ輪を広げていって…
そうだ。
もう俺たちは、始まりの小さな輪を作っているのではない。
儚い細い輪の外で、今は多くの人が手を差し伸べてくれているのだ…!
俺はふたりから改めて入部届けを受け取った。
そして、この時。
歌劇部員は、八人になった。