folks‐lore 4/14


001


ゆっくりと、押し上げられているようだ。そんな目覚めだった。


日の光がやけにまぶしく感じる。目の奥がずきずきと痛む。


頭がぐらぐらしていた。


…目覚めは最悪だ。


俺は体を起こす。頭を押さえて、辺りを見回した。


それは、見慣れた部屋だ。だけどどこかに違和感を感じた。


机にラジカセ、積み上げられた衣類。壁に掛かるブレザーが目にはいる。


ブレザー?


俺は立ち上がって、近づく。頭がずきずきと痛む。頭の中で鐘が鳴らされているようだ。


…そして、それはおそらく、警鐘だった。


…ブレザー?


間違えるはずがなかった。俺が高校の頃着ていたブレザーだった。胸の校章、すれた跡。俺のブレザーだ。


頭が、少し、冴えてくる。


どうしてここに俺のブレザーがあるのだろうか。高校を卒業して、不要だからと処分したはずだった。特に意識してブレザーを捨てたわけではないから、よくは思い出せない。


それが、なぜここにあるのだ?


いや、そもそも。


ひとつ、思い出す。


頭も胸も、痛みが消えた。一呼吸置いて、全身に鳥肌が立った。それは圧倒的な感情だった。


この家は引き払ったはずだった。


今いるこの場所。高校時代の俺の部屋。そんなものは、存在するはずがない。


それならば。今俺はどこに立っているのだ?


俺は思い起こす。


俺たちは、アパートで暮らしていた。新しい生活が始まっていた。


親父だって、もうここには住んでいない。誰か別の人が入ったはずだ。


部屋を見渡す。どれもこれも、見知ったものたちだった。ほとんどが、ここに残してきたものだった。


雑多に積み重なったものたちは、どこかそっけなく見えた。それらは、もうこうやって存在するはずのないものだった。


どうして、俺は、ここにいる? どうして、俺の部屋があるのだ?


口が塞がらない。膝が震えた。どれくらい、そうしていたかわからない。


「…汐!」


叫ぶ。身を翻した。


何がなんだかわからない。


だけど、俺はさっきまで汐と一緒にいた。


俺は、旅行に行こうと、言ったのだ。


俺たちは、降りしきる雪の中を歩いていたのだ。


…あの瞬間から、何が起きたのか。わけがわからない。


汐の名前を叫びながら、部屋という部屋を見て回った。押入の中までも。


家の中は、記憶の通りだった。そして誰もいなかった。


夢でも見ているのではないかという気分になる。だとしたら、よくできた夢だ。あの頃の家の、そのままの姿だ。


なんなんだこれは。なんという、悪夢だ?


息が荒い。どんなに空気を吸い込んでも、まるで足りないような気がする。


今直面している想像を超えた出来事に、何もできなくなってしまう。ただ、情けなく無力に駆けずり回るだけ。


…そうだ。


一度、順を追って考えよう。


先ほど、冬の日。俺は汐と町を歩いていた。駅を目指していたのだ。


だけど、汐は途中で力尽きた。雪が降る中で、俺も、意識を失った。


そして、気がついたらここにいたのだ。


…ダメだ。突飛すぎる事態に、仮定でさえも浮かんでこない。せいぜい、俺は夢を見ているのだろうか、と思うくらい。


親父がこっそりあの頃の家を再現して俺をびっくりさせようとした? 馬鹿げている。


考えても、混乱するのみだった。


俺はふらふら歩いて居間に行く。テレビを点けた。


朝なのだ。呆れるほどに平和な。


どの番組でも、ニュースをやっていた。チャンネルを回すうち、違和感。


ある局にした時、その理由がわかった。どこかのスタジオと、ニュースキャスター。


彼らの前に、カレンダーがある。その日付が。


四月十四日。西暦は…。


ぞくり、とした。寒気とは違った、それは背中をゆっくり舐められるような感覚だった。


俺はぶるりと体を震わせ、それから、理解した。


…この日は、今日は、俺が高校生の日だ。


つまり…


俺は…


時を、遡った。







002


なんなんだ、一体。


何度目かもわからない自問を再び繰り返す。


俺は狂ってしまったのか? だとしたらわかるような気もする。精神病患者の見る長い夢?


…そんな馬鹿な。


もっと現実的に考えたほうがいい。だが、そもそも今の状況が現実的ではないのだ。それなら、どうやって物事を判断すればいいのだろうか?


なんだか、がっくりと疲れてしまう。


わけのわからない状況だ。ここまで酷い目に遭ったことはない。


…とりあえず、今自分がここにいることを受け入れて考えてみよう。


どうやら俺は、高校生らしい。この年だから、三年生だろうか。


外は晴れている。穏やかな陽気だ。まともな気分でこんな朝を迎えていれば、なんだってうまくいくような気分になれただろう。


だが、混乱している人間にはそうはいかない。なんとなく非現実すぎるのだ。空の青さも、健康的な日差しも。


高校生。無気力に暮らしていた頃だ。何をしていたか、今となっては全然思い出せない。どうしてここまできれいに忘れているのだろう。そしてブレザーはどう処分したのだ?


この頃に。俺は思い出す。


この頃に彼女に会ったのだ。


それからの日々はよく覚えている。


これからの日々が、俺の人生が始まった時だった。


あの朝。


よく晴れた朝、桜の舞う朝。


彼女の後ろ姿を思い出す。横顔を思い出す。延々と続くような坂道を思い出す。


…こんな朝だった。


そう思った瞬間、はっと、顔を上げる。テレビを見る。日付を見つめる。


まさか。そんな馬鹿な。できすぎている。ありえるのだろうか?


様々な感情が錯綜した。


ありうるのか、ありえないか。現実か、非現実か。


どちらにしろ、のんびり構えている暇はなかった。


俺は転がるように階段を駆け上がって、自分の部屋にとって返した。


可能性があった。


頭から。ひとりで佇む、少女の背中が離れない。







003


ネクタイを結ぶなんて、久しぶりだった。何度もやり直して、やっとそれなりの形になる。


制服は着た。鞄を手に取る。驚くほど軽い。


適当に教科書をつっこんだ。古文、数学、現代社会。


家を飛び出す。


学校までは結構遠い。走りたいところだったが、早歩きと小走りで急ぐ。


家を出てから気付いたが、教科書は全て置き勉していた。持ってきたのは全て、履修が終わったものだった。


そもそも、現代社会の履修なんて最初の一年だけだったのだ。そんな教科書がどうしてあんな目につく場所に置いてあったのだろう? よくわからない。


ぐるりと山を迂回するコース。右手を見る。これから、レストランが建つ場所だ。…彼女が、働いたところだった。


今はまだ、ただの山だ。数年後には切り開かれるとは思えないほど、そこはきちんと山の裾としての役割を果たしていた。建物が建つより、ずっと自然だ。


あたりに学生はいない。きっと、遅刻だろう。いつものことだ。いつものことだったのだ。


朝くらい、しっかり起きればいいのに。自分のことながら、そう思う。


住宅街にはいる。幼稚園が見えた。汐が通っていた幼稚園だ。ずいぶんひっそりしている。園児たちはどこに行ってしまったのだろう。


寮を通り過ぎる。


早歩きが、小走りになる。小走りが、駆け足になる。


まさかな、と思う。できすぎている、と感じる。


あの日は、俺にとって、運命の日だった。そして今日は…


桜が舞っていた。回り込むようにして曲がって続く坂道。先が見えないから、延々と続いているように思える。


桜が舞っていた。坂の両側に並ぶ桜並木が、風にそよぎ、木々をゆらし、スカーフをゆらした。


校門まで200メートル。


そこに、立ち尽くす姿があった。






004


不思議と心は凪いでいた。


そういうことなのか。何故か素直に、そう思えた。


彼女に近づく。声をかけようとした。


その時、彼女は顔を上げて、言った。


「この学校は、好きですか」


開いた口をそのままに、俺は固まってしまう。


こんなことが、前にもあった。


彼女は、立ち止まっていた。続く坂道に、始まりも終わりも見いだせなかった。


ここで立ち止まって、見知らぬ生徒たちが通り過ぎていくのを見ていて、だけど自分は進めなかった。


曲がってのびていく坂道。ここからだと、校門が見えない。ここからでは、未来が、見えない。


「わたしはとってもとっても好きです」


「でも、なにもかも…変わらずにはいられないです」


「楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ」


「ぜんぶ、変わらずにはいられないです」


今の俺にも、重い言葉だった。


経験しなくては、共有できない問いもある。


町が変わって、人が変わった。だけど、俺はうまく変われなかったような気がした。どこにも行けないような気がした。


「それでも、この場所が好きでいられますか」


………。


俺は、なんて答えたのだろうか。どう答えればいいのだろう。そんなことまで、覚えてはいない。


だけど、なにか声をかけなければいけなかった。それくらい、俺でもわかる。


変わっていくものを、好きでいられるのだろうか。


「わたしは…」


「見つければいいだけだろ」


「えっ…?」


彼女が、振り返る。今、俺の存在に気付いた。視線が絡む。ぽかんとした瞳。あどけない表情。


「変わっていくものが好きになれないなら、また大事なものを見つければいい」


それは、俺自身に対する言葉でもあった。


「大事なものが、ひとつしかないなんてこと、ないだろう?」


俺は、彼女を失った。悲しくなった。何も、好きになれなかった。


だけど、俺には汐がいたのだ。支えがあったのだ。


…だが。


俺は、汐まで失ったのだ。


雪の中の道を思い出す。汐の体は、抱きしめた時、ふっと軽くなった。


おそらくきっと、汐はいない。この世界に紛れ込んだ、なんて思えない。


俺はまた、大事なものを、見つけられるのだろうか?


見つめながら、言葉が紡げなくなった。これ以上なんて言えばいいのかわからない。


一歩、踏み出す。彼女の横に並ぶ。


一歩、踏み出す。振り返り、彼女を見下ろす。


視線が絡んだ。


俺を見上げる彼女の瞳。


そう。


何も知らなかった無垢な頃。


誰にでもある。


「ほら、いこうぜ」


声を受けて、揃えた脚が、前に出た。


俺は手を伸ばし、その手が、掴まれた。


暖かくて、柔らかい手だった。…懐かしい感触だった。


瞬間、様々な感情が決壊したように胸を満たした。圧倒的な感情だった。自制も疑念も関係ない。


俺たちは、きっと、今は、初対面だ。


変なことは言ってはいけないと思った。


だけど、限界だった。


掴んだ手を引き寄せる。


「あっ」


驚いた声だった。


俺は、か細い体を強く強く、抱きしめていた。


風が吹いて、春だった。


俺はもう、自分を押さえることができなかった。


夢だろうか、妄想だろうか。なんだって構わない。


また、出会えたのだ。


…渚!


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