folks‐lore



542


この町の願いが叶う場所。


再び、この場所に戻ってきた。


周囲の情景に変化はない。町はずれの森、見える景色に違いはない。だがそれでも、辺りを包む空気が変わったことはわかった。


位相が変わった、とでも言おうか。世界に神秘のヴェールがかかる。空気の組成も濃度も変わる。ここは普段の世界からは隔絶された場所だ。それなのに、この 場所はひどく懐かしい気分にさせてくれる。


微笑む少女のスカートの裾が、風もないのにひらりと揺れた。


俺と彼女は互いを見つめ合った。


「ありがとう」


何を言うべきか悩んだが、まず自分の口から出てきたのは礼だった。


彼女は俺の願いに応えてこの場所に現れた。きっと今も悲しみに暮れているであろう渚を助けるために、彼女は力を貸してくれるのだ。


少女はにこりと微笑んだ。


「君の記憶は、君を幸せにしてくれた?」


小首をかしげて、尋ねる。


返答も謙遜もない。こっちの言葉にほとんど頓着しないような喋り方。


以前、彼女と会った時と同じだ。会話がうまくかみ合わない。


俺たちはそもそも、別の世界の住人同士なのだ。ならば、それも、仕方がないことなのかもしれない。


一瞬、虚を突かれる。だがすぐに思い直して、彼女の言葉を反芻してみる。


…別の世界の記憶が俺を幸せにしてくれたか?


俺は唐突な問いの意図を探ろうと彼女を見た。こちらの反応をうかがうように見ているが、本当にはなにを見ているのかもわからないまなざし。


「…まだわからない」


幸せにもしたし、不幸にもしたというような気がする。


一言で片づけてしまうには、重大すぎる問題だ。


「そっか」


そんな言葉に、困ったように笑った。


「それなら、わたしには、君の願いを叶えることはできないよ」


残念そうに、そう言う。


…しばらくの間、俺は彼女の言ったことの意味が分からなかった。そんな返答が返ってくるとは、予想していなかった。


「え…」


ぽかん、と彼女を見やる。


繋いだ手でも、振りほどかれたような気分になる。伸ばしたその手は、救いを求めているというのに。


…ええと。


俺は彼女の言葉を頭の中で反駁する。


…願いを叶えることができない?


渚を助けるために、力を貸してくれ。俺はそう願った。


そして彼女はこの場所に現れた。その願いを叶えてくれるために。


…そう思っていた。


だが。


「なんでだ…?」


ぽつりと言葉が口の端から漏れ出る。


自分でも驚くほど、弱々しい声だった。


まるで見捨てられたかのような、哀れを誘う声だった。


少女はそんな様子を見て、ますます困った顔になる。


「願いを叶えるのは、君自身の力だから」


「…」


「それは、わたしの願い事じゃないの」


何を言っているんだ。


俺は彼女の言葉を思い出す。


…もし、大切な人が不幸になるなら…


…それで、助けてあげてほしいの…


彼女はそう言ったのに。


…いや、違う。


それは劇のセリフだ。彼女に、俺はそんなことは言われていない。


いや、だが。どうしてだろう。『幻想物語』、創立者祭のあの劇の話が、俺の頭に蘇る。


…だが、違う、違う。


あれはシナリオのセリフでしかない。そして、そのシナリオは、他ならぬ俺が書いたものなのだ。


自分が何を考えているのかすらわからない。混乱している。


頭の中を、様々な思考が渦を巻いていた。実体すらも、つかめないほどに。


だが、その渦の底には絶望があった。


申し訳なさそうに、だが、はっきりと俺の願いを切り捨てた少女の言葉が頭の中をリフレインしていた。


俺の願いは閉ざされた。



…。


……。



いや。


まさか。


そんなさっさと諦めるはずはない。


俺の心は、そんなことでは折れなかった。


絶望の中にも、希望を求めた。


いつからだろうか。


こんなにも、諦め悪く希望にすがることができるようになったのは。


俺は顔を上げる。


千々に乱れた心をかき集めて、もう一度少女をまっすぐ見据える。


彼女は俺の希望なのだ。


一度要求を断られて、それで全てを諦めるなどというのは馬鹿正直すぎる。


俺は願った。


そして彼女にそれを叶える力があるならば、ぜひともそれを貸してほしい。


「なら、一緒に願ってくれ。俺は渚を助けてやりたい。これから、もっともっと、楽しいことがあるはずなんだ。それなのに、悲しいことばかりを見つめるなんてさせたくない。だから、頼む。俺に力を貸してくれ。おまえのために俺ができることがあるなら、なんだってやってやる」


少女はじっと俺を見つめて、言葉を聞いていた。


何を考えているのかはわからない。心を動かされたかどうかが表情に出ることはない。そもそも、説得できる相手なのかどうかもわからないのだ。


俺は一番はじめの彼女の言葉を思う。


さっき彼女は言ったのだ。


俺の記憶は、俺を幸せにしてくれたか、と。


反響するように、創立者祭の終わった夜に彼女に会った時のことが思い出される。あの時は、彼女ははじめにこう聞いた。


俺の願いは叶ったか、と。


そのふたつの問いの本質は同じだ。


自分はまだ、その問いには真剣に答えていないことに気付く。


「…こないだ会った時、おまえは言ったよな。俺の願いは叶ったかって」


「うん」


「その願いを叶えるために、俺はここにいる」


願いを聞き遂げられて、俺はこの時間に舞い戻った。


だが、俺が願ったものはただ時間を戻ることなどではない。過去のやり直しではない。


俺が願ったものは、ただ、未来だ。


「俺は、俺の未来のためにここにいる。それに、俺の周りの、他の奴らの未来のために」


俺の未来。それは誰かと過ごす未来だ。


別の世界の記憶。それら世界では、多くの人が俺の未来を支えてくれた。


だから、今ここにいる俺は、たくさんの人の未来を支えたいと思った。


「おまえが別の世界の記憶を俺にくれたことは、感謝してるよ。おかげで、色々な可能性を知ることができた。でも、それは、俺を幸せにも不幸にもしない」


記憶は、幸も不幸も全てを孕んでいる。その価値をどちらかに固定することなどはできない。


「自分が願った未来の価値を、今決めるなんて、できない」


だから。


「だから、力を貸してくれ」


その未来を明るいものにするために、今は力を貸してくれ。


「そっか」


彼女は、笑った。


小さくこくりと頷いた。


「そうだね。君の願いは、君の未来だから。わたしは、それを見守っていくから。だから、君の願いを叶えてあげる」


彼女の足元から、いくつもの光がちらちらと浮かび上がってくる。


蛍が遊んで飛ぶように、彼女の周りとくるくる回る。


少女は旋回するいくつもの光を、愛おしげに眺めていた。


「でもね、ひとつだけ、約束をしてほしいの」


「約束…?」


「うん」


少女は微笑んだ。


懐かしいような、その瞳で。


「君が未来に立った時、最後の光を、わたしにちょうだい」


「あ…」


俺は声を振り絞る。金縛りにあったような、その体で。


「ああ…」


震える声で…答えていた。


その瞬間!


少女の周りを飛び交った光の玉が、天へと昇る。


弾けるように、世界が輝く。


俺は願った。彼女は叶えた。


世界は再び、彩りを変えた。






543


森の中に立ち尽くして、空を見上げる。


空は夕闇。


先ほど輝き弾けた光が、未だに網膜にこびりついている。


次第にそれも収まっていくと、空から何かが降っていることに気付く。


「光…いや…」


俺は手を伸ばす。


ひらひらと舞い降りるそれは。


「雪…?」


漏れ出る呟き。白くけぶった吐息。


ぶるりと体を震わせる。呆然としていて、一瞬気付かなかった。突然、周囲の状況が一変していた。


先ほどまでの暖かさなど、微塵もない。春の空気は消え去った。刺すような冬の冷気。


「おい、一体、何が起こったんだ?」


慌てて周囲に視線をめぐらす。


だが、周囲には誰の姿もなかった。


降り積もる雪が、闇の中のかすかな光を孕んで弾いてかすかに輝いているだけ。


闇が濃くてよくわからないが、足跡すらもない。


「…」


ひとり、夜の雪降る森に取り残されていることを悟る。


マジかよ…。


どうやら、わけのわからない状況に陥っているようだ。頭を抱えたくなる。


何がどうっているのか、さっぱりわからない。


だが、最後に、あの少女は俺の願いを叶えるといったのだ。この男、生意気なことを言い出したからちょっと凍死させとこう、などという悪意ではないと信じたい。


ぶるぶると体を震わせる。


春の制服姿では、さすがに真冬というほどの冷気には耐えられない。


本当はここにいて何かが起こるのを待つべきなのかもしれないが、突っ立っていれば本当に凍死してしまいそうだった。


まっさらな雪道を歩き出す。


幸い、この森は全く整備されていないわけではない。一応人が通ることができる、という獣道めいた道はある。


空は暗闇。分厚い雲が月明かりを全く閉ざしている。それでも、雪がかすかに白く光を集めて、なんとか足を進めることができる。


ざくざくと雪を踏む音だけが響く。静かだ。


森に音もなく降る雪。


足音と息遣いだけが響く。


無心になって歩いて、町を目指す。


それにしても…


今は、何時なのだろうか? どの時代、どの世界なのか?


俺は渚を助けてくれと頼んだのだ。


彼女の元に連れて行ってくれるのならば、それでよかったのに。まさか再び時間を飛び越えるなど、予想していなかった。


「…」


雪。


その光景は、汐との最後に歩いた道を思い出させる。


…まさか、未来の元の時間に戻ったってこともあるのか?


渚は汐を産んで力尽きてしまった。


俺は廃人のようになり、幼い汐の世話などはせず、ただただ何も考えないように仕事と娯楽と酒を求めていた。


早苗さんが計画した旅行をきっかけにして俺は汐と向き合うことができた。だが、同じ時期、汐は渚と同じ病気に苦しめられるようになる…。


以前、自分が生きていた未来。渚を失い、汐をも失った未来。


俺はそこに、舞い戻ったのだろうか。


その可能性についてしばらく考えてみる。あり得ないことではない。


だが、そもそも、俺の知る未来そのものとも限らない。まったく知らない別の世界かもしれないのだ。


そういえば…。


渚が汐を産んだ日も、こんな雪の降る夜だった。


「…」


…考えても始まらない。まずは今が何時なのかを調べる必要がある。


視線の先には、家の明かりが見え始めている。やはりそういうものを見にすると、心底ほっとした。


ひとまずは近くのコンビニに行って暖かいものでも飲んでから、新聞を開けばいい。


ざくざくと雪道を踏みしめて、歩く。はじめは靴の中が濡れないようにと注意していたが、もう靴の中も全身もすっかり濡れてしまっている。


森を抜けて、住宅地に出る。


街灯の明かりに照らされた町並みに歩く人の姿はなかった。だが、雪道は泥まじりに足跡があって、微かに人の気配を感じさせる。


知らない町並みではない。何度か歩いたことのある道だ。


だが、かすかに違和感を覚える。


同じような感覚は、初めこの時間にやってきた時にも感じたことだった。個々の家や看板など、細かな変化が違和感として感じられるのだろう。何が違うという ことまではっきりとは認識できなくとも。


さて、手近なコンビニにでも行くか…。


さすがに、凍えそうだ。温かい飲み物でも欲しいが、住宅地だから自動販売機もない。


肩を縮めてポケットに手を突っ込む。気を抜くと、歯がかみ合わなくなるほどだ。


歩き始めると、段々、人とすれ違う。


雪が降っているというのに、傘もささずに薄着で歩く俺の姿に訝しげな視線を感じるが、さすがに声をかけてくるほどではない。


こちらはよっぽど相手に今の時代はいつなのかと問い詰めたいところだったが、いくらなんでもそれは怪しすぎるし、コンビニにつくまで少し我慢すれば事足り る問題だ、と我慢する。


しばらく歩く。


たしか、この角を曲がればコンビニが見えてくるはず…


住宅地の外れにあったはずのコンビニに、やっと着けると思った。


だが。


「…」


その場所は、店などはなかった。駐車場だ。


…あれ?


俺は周囲の景色を確認してみる。何度か来たことのある店だから、間違えようはない。たしかにここにコンビニがあったはずなのだが、ない。


その店は働き始めた頃にはあった。学生の頃にももうあった。でも、今はない。


つまりは。


今は、昔。


どうやら、俺は過去に来てしまったのだ。







544


別のコンビニにほうほうの体で辿り着き、新聞を確認する。


やはり、時代は昔だった。


西暦を確認すると、まだ俺が小学生だった頃だ。


なんで、こんな時代なんだよ。俺はこの頃の渚のことなど何も知らないぞ。



…。


……。



いや。


ひとつだけ、知っている。


この頃のことは渚はあまり覚えていないようだし、オッサンや早苗さんは多くを語ろうとしない。


それでも、ひとつだけ、この頃の話を聞かされたことがあった。


…幼い渚が、死にかけたことがあった。


体調が悪かったのに、夢を追って仕事に出ている両親の帰りを待って家の前に立っていた。それが、結局、致命的になった。


俺ははっとしてガラスの外を見る。


しんしんと降る雪。


俺は…


いつだったか、オッサンが言ったことを思い出す。



…俺が家に帰り着いたとき、渚は家の前で倒れていた…

…雪の中に埋もれるようにして…



それは、そう。


きっと…


こんな日のことだった。


「…ッ」


手に持つ新聞を乱暴に元の場所に戻す。俺はコンビニを飛び出した。


温かい飲み物でも買って、一息つこうなどという気分は既に消し飛んでいた。


この寒空の下に、渚がいる。


それは確信だった。


雪道に何度も足を取られながら、俺は渚の実家を目指した。


滑って転んで、全身は泥で汚れて雪に濡れて、どろどろになった。


だが、構うことはない。


そんなものは、大したことではなかった。


必死に駆ける俺を、時折すれ違う町ゆく人々は不思議そうに眺めていた。


しんしんと雪が降り続ける。忌々しいほどに静かに、そして冷たく。


まるで全てを閉ざそうとでもしているかのように、全てを白く染め上げていく。


そして、やがて…。


俺は、渚の実家の前に立った。


肩で息をついて、その場所を見る。


…そこは、空き地だった。


「住んでたの…別の場所かよっ!」


悪態をついた。だがため息などついていられない。


この時代、オッサンと早苗さんはまだ家を持っていなくて、どこか別のアパートなどで暮らしていたのだろう。


俺はその場所など、知らない。気にしたこともない。


何の手がかりもない。


…この町の中ということ以外は。


そんなもの、手がかりとは言えない。


だが、ならば、諦めるか?


「…」


そんな選択は、あり得ない。


踵を返す。


駆けだした。


雪の勢いはいよいよ激しくなってきている。


時間はまだ遅くはないはずだったが、こんな天気だ。住宅街を行き交う人の姿などほとんどない。


人の姿もない雪降る町並みに、汐と共に旅行に行こうとした最後の光景がフラッシュバックする。


あの時、俺は、汐を失った。


今また。


俺は、渚に届かないのかもしれない。


そんな思いにとらわれるが、慌てて振り払う。


なにも終わっていないのに全てを諦めてしまうなど、下らないことだ。やれることがあるならば、やるべきだ。


俺は駆ける。


昼から延々街中を駆け回って、この時間に入り込んでからも動き通しだ。


精根尽き果てて倒れ伏してもおかしくないが、全くそんな気分でもなかった。緊張感で、そのあたりの感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。


今は渚さえ見つけられればそれでいい。後で体にガタがこようと、そんなものは構わない。


慌ただしく走りながら、辺りを見回しながら…時折空を見上げると、音もなく雪が降っている。


俺は足を止めし少し、息を整えた。


吐く息が煙のように白く空へとのぼった。


舞い落ちる雪が街灯の光をはじいて光の玉のように見える。


それを見て。


…最後の光をわたしにちょうだい?


あの少女の言葉が脳裏によみがえる。


なんなんだ、それは。考えてみるが、よくわからない。


だが…。


いつか、別の世界で、俺は光の玉を見たことがあるような気がする。


この町の伝承。光の玉。


幸福な光景に現れる、象徴。


あの少女の周囲を、遊ぶように舞う輝き。


俺は脳裏に焼き付いた光景に魅せられたようになりながらも、また足を動かす。幼い渚の姿を求めて町の中をさ迷った。


まだそれなりに人気の多い商店街。


海の底のように静かな高校への坂の下。


時折車がゆっくりと走る住宅街。


そして。


俺は足を止めた。


考えてこの場所に来たわけでもないが、自分の実家の前にやって来ていた。


見慣れた家だ。今は毎日寝起きしている場所だ。


この時代は十年近くも前だというのに、あまり新しいたたずまいという感じはしない。元がかなり老朽しているからかもしれない。


その家の中は、電気がついていた。温かそうな明かりが、その家の中からは漏れだしていた。


よくよく耳を澄ましてみる。


町は雪に全ての音を吸い取られてしまったかのようだったが、家の中からはテレビの音が聞こえてきた。


中には人がいる。きっと、幼い俺と、親父がいるのだ。


この頃。


俺と親父はまだ喧嘩などもせず、それなりにわかり合って暮らしていたはずだ。


親父の仕事も充分あって、俺も子供で素直だった。


だから、今この玄関扉を開けて中に入ってみれば、居間では俺と親父が肩を並べてテレビでも見ているのかもしれない。


当然、そんなことをしたらもう未来などどうなってしまうかわかったものではない。想像するだけで、実際に行動に移すようなことではない。


だが、俺は暴力的なほどまでにそうしてみたい衝動を感じた。


立ち尽くすように玄関を見つめる。


心中は大きく強く、ざわめいていた。


しばらく、そうして、立ち尽くす。


だが、いつまでもそうしてはいられない。段々と、固まっていた体が動くようになった。


意を決して、踵を返す。


俺は歩き出す。


自分の家族の過去の姿を追い求めてここに来たわけではない。俺は渚のためにここにいるのだ。


もし家族のために何かをしようというのなら、こんな別の時間などではなく、今の俺の時間で何かをなすべきだ。


そう決めると、もう、足取りに迷いはなかった。



…。



空は闇。空は雪。


町は白く染め上げられている。


普段であればさまざまな色にあふれいているだろう町の景色も、闇と雪に閉ざされるとずいぶんと色を失って見えた。


だから。


その姿は、とてもよくわかった。


赤い服を着た少女が、ふらふらとアパートの前を歩き回って、やがて力なく倒れ伏した。


その姿。


どんなに遠くからでも、俺は彼女のことがわかる。時間を超えても、それに変わりなどはない。


「…渚っ!」


俺は彼女の名を呼んだ。


世界が変わっても、時間が変わっても。


俺たちにはきっと何度も出会う運命でもあるのだ。







545


降りしきる雪の中にいた。


手に抱いた渚の体はぐったりとして動かない。


俺は、世界にただひとり残されたような気がした。


絶望感、寂寥感。


世界が終わってしまうような気がした。


だが。


いや…。


まだ全てを投げうつには早い。


彼女の頬に触れると、ずいぶんと冷たかった。長い時間、ここに立って両親の帰りを待っていたのだろう。


「渚っ! 大丈夫かっ!」


名前を呼ぶと、うっすらと目を開けた。


「おとー…さん?」


まだ意識はあるようだった。


先ほどまではまるで死んでしまったかのようだったが、命の灯はついえてはいない。


オッサンから聞かされた話では、門の前で倒れた渚はぐったりとしていて、全然反応を示さなかったらしい。だからきっと、事態はその時よりはいい。


「おとーさん…」


「…」


弱々しい声。


その言葉に、胸が詰まった。


「…汐っ!」


そう言ってしまう。慌てて、頭をふるった。


混乱している場合ではない。


幼い渚のその顔立ち。それは、汐によく似ていた。周囲に降る雪の光景も相まって、一瞬、世界が色でも塗り替えたかのようにあの冬の日に逆戻りしてしまっ た。


「おとーさん?」


微かに目は開いているようだが、意識はうつろで俺が誰かもよくわからないのだろう。不審者と思われるよりはいいかもしれない。


「…ああ」


だから、俺は頷いた。


「ごめんな…こんなになるまで、待たせちまって…」


だが、言葉は本心だった。


「…ううん」


幼い渚はうっすら笑う。


「でも、来てくれたから…。ちゃんと、ここで、待ってれば…お父さんが来てくれるって、わかってたから」


「…」


小さな体を抱きしめた。


幼い渚は…汐と同じだ。


幼くて、弱くて…だが。


そして強い。


俺なんかよりも、ずっと。


「さあ、部屋に戻ろう、渚。熱があるんだろ…?」


「ん…」


体を抱き上げる。


「なあ、渚。部屋って、どっちだったっけ?」


「うん、あっち…」


俺はこの時代の古河家に足を踏み入れる。


まだ、家などは持っていなくて…


狭い、アパート暮らしの家だ。


俺と渚が暮らし始めた、あのアパートに似ている。


家の中は、寒かった。


小さな子一人で伏せっている場所にストーブなどを置くのは危なすぎるし、エアコンなどという高尚なものなどはない。だから必然的に部屋の中は寒いのだが、 それは何とも寂しい様子だった。


渚はこの部屋にいてもたってもいられずに、両親の帰りをいち早く見つけようと無理して外へと飛び出した。


俺は歯噛みしたくなる。彼女を置いてきぼりにしているオッサンや早苗さんを叱責したくなる。この気持ちは、もしかしたら…俺が汐と向き合っていられなかっ た頃の、オッサンの気持ちに近いのかもしれない。


渚の服についた雪を払って、台所にあったタオルを使って濡れた髪を拭う。上着を脱げば、中の服までは濡れていないようだった。


敷かれていた布団に渚を寝かせる。


隣の部屋に置いてあったストーブを持ち出してくる。灯油は充分入っているようだ。悪いがこの状況だ、勝手に使わせてもらう。


濡れタオルを用意して、渚の額にのせてやる。


これでひとまず、看病できる態勢は整っただろう。


「何か、食べたいものとかあるか?」


「ううん、いらない…」


額の上の濡れタオルを落とさないように、控えめに頭を振った。


「おとーさんがいてくれれば、いい…」


「そうか。わかった」


俺は渚が伏せっている横に座り込む。


目を閉じて、夢うつつの状態のようだった。部屋の中に入り、さっきまで真っ青だった顔色がぱっとばら色に染まっている。


体調が悪いのは事実だが、致命的な印象はない。


…でも、医者くらいは呼んだ方がいいかな。


思い立って、電話帳でもないかと立ち上がろうとする。


…ぎゅ。


ズボンの裾を握られて、俺は足を止めた。


どこかに行ってしまいそうになったのを察知したのだろう、渚が慌てて布団から手を伸ばしていた。


だが、握りしめた後すぐに、その手は放してしまう。迷惑をかけてはいけないのだ、とでも言っているような様子だった。


俺は何も言わず、また座り直した。布団から出たままの彼女の手を握る。


つめたいけれど、あたたかい。


「俺は、ここにいるぞ」


「うん…」


目を閉じたまま、安心したように口の端をほころばせる。


「ゆっくり、休め。そんな風邪なんて、すぐに治る。きっと、すぐに…」


「うん…」


「治ったら、何でも言うことを聞いてやるぞ」


「なんでも…いいの?」


「ああ。豪華な料理でもいいし、なんだって買ってやる」


渚が俺をオッサンだと勘違いしているのをいいことに、言いたいことを言う。


こいつを一人ぼっちにしていた報いだ。これくらい、オッサンに責任をとってもらうことにしよう。


「ううん…いらない…」


「ん?」


「料理も、なにもいらない…でも…」


彼女の口元が弱々しく動く。


漏れ出るのはか細い息。言葉がうまくは聞こえない。


「なんだ? なんだっていいんだから、言ってみろ」


「旅行に行きたい…」


「…」


「おとーさんとおかーさんと…旅行に行きたい…」


それは…。


汐の願いと同じだった…。


病に伏せっていて…


外には雪が降っていて…


まるで、最期の時のようだった。


「…」


だが。


渚には。


未来があった。


「なにもいらない…いっしょにいたい…」


「…ああっ」


両手で彼女の手を握った。


「どこにでも連れてってやるぞっ。海外でも、どこでもいい。だからな、渚。またその病気が治ったら、そのお願いを言ってくれ。そうしたら、絶対に叶えてや るからな」


「うん…」


にこりと微笑む。


「ありがとう…」


俺は涙が溢れそうになる。


今ここにいる渚の姿が、汐の姿とダブって感じる。


「おとーさん…泣いてるの? ごめんなさい」


「いや…嬉しいんだよ」


「うれしい?」


「いいんだ。おまえは、ゆっくり休め。目が覚めたら…全部、もっと…ずっと良くなってるから」


「うん…」


ストーブの立てる微かな音。それ以外の音は、全て雪が吸い取ってくれている。


まるで世界には俺たちしかいないような気分だった。


「おとーさん…」


「ああ…なんだ?」


「わたし、眠るから…なにか、お話して…」


きゅ、と握った手に力が籠められる。


引っ込み思案な渚の性格だ…。


こんなささやかなお願いをするだけで、緊張した様子だった。


「ああ…。わかった」


彼女に何を話してやろうか。


頭の中で、昔話のレパートリーを考えてみる。


「…」


だが、そのどれもが、今のこの場にはふさわしくないような気がした。


この話もダメだ、あの話もダメだ…。


そうして、選択肢として残されたのはたったひとつのお話だった。


「それじゃ、渚。これはとっておきのお話だ」


「うん…」


俺は語り始める…。


「世界に…たったひとり残された女の子の話だ」


冬の日の、幻想物語を。







546


穏やかに寝息を立てる渚を残して、家を出る。


最後に医者に電話もしておいたし、じきに往診に来てくれるだろう。


ストーブを切って、元の場所に戻しておく。


濡れタオルは…このままでいいか。これくらいなら、渚が自分で用意してもおかしくはない。


だが、そう考えるとそもそも医者に電話したのはまずかったか? ま、自分はこの時代には存在していない人間なのだから、疑われるとかそういうレベルの問題 ではない。不審に思われても、思わせておけばいいというくらいだ。気にしないことにする。


相変わらず、雪が降っていた。


しばらく暖かい部屋にいたから、辛いな。ぶるりと体を震わせた。


ま、やることはやったはずだ。


俺は渚を救いたいと願った。その願いがどういう反応を起こして俺をこの時代に招いたのかまではよくわからない。だが、自分にできることはやったという気が する。


あとは帰るだけだ。


…とはいえ。どうやって帰ればいいのだろうか。


俺は周囲を見回した。


人気のない住宅地。


だが、都合よくあの少女が俺を迎えに来てくれるなどということもなかった。ま、そんな気が利くタイプにも見えなかったからな。


俺は息をついた。


帰り方も、自分で探せということだろうか。


ともかく俺は、歩き出す。


すると、向かいから一人の男がやってくるのが見えた。


長身の男だ。


足早に歩いてくる若い男。


俺はその男の顔に見覚えがあった。


「…」


というか、オッサンだった。全然、顔が変わっていない。


俺の視線を感じてか、一瞬だけ顔をこちらに向けたが、それだけだった。すぐにそのまま行き過ぎる。


「オッサン。あいつは旅行に行きたいって言ったぞ。あんたたち、両親と」


ぽつりと言った言葉に、オッサンが足を止めて振り返ったのがわかった。やはり、耳がいい人だ。


だが俺はそのまま歩いていく。


そんな姿を見て、気のせいとでも思ったのか、あるいは家に残した娘が心配なのか…オッサンも歩き出す。


最後に俺は、振り返る。


大粒の雪に覆われて、小さな背中が遠くに見えた。








547


行く当てなどはなかった。


だが、すべきことを終えているならば、あの少女が迎えに来てくれるはずだった。


ならば、と思い立つ。


呼び出せばいいのだ、と。


「ありがとう」


俺は虚空に向かって呼びかける。


「おまえのおかげで、あいつを助けることができたと思う」


心を込めて、言葉をつむぐ。


「帰ろう、元の時代に」



…。


……。



「…」


反応はなかった。


俺は雪の中でひとり、赤面する。


馬鹿みたいだな。


ごまかすように、空を見上げる。


相変わらず、雪が降り続けている。


街灯の光をはじいて、かすかに吹いてる風に揺れ…


だが、ひとつ。


ひとつだけ、地面に落ちず、中空で漂うものがあった。


「雪…いや…」


目の前で空に光る、それは。


「光…?」


目を凝らす。


だがやはり、それは空に浮いたまま動かない。



『光の玉は、昔はよく見られたものらしいです。とはいっても、それが一体なんだったのか、詳しいことは全く書かれていません。ただ、ひとつ、共通すること は…いつからかそれは、幸せの象徴とされていたようです。いいことがあった時や、幸せな風景で、目にされていたらしいです』



いつだったか聞いた、有紀寧の言葉が思い出された。


…幸せの象徴?


ぼんやりとそれを見上げていると、ゆっくりと目の前にそれが舞い降りてくる。


手を伸ばすと、するりと向こうに行ってしまう。


そして、少し離れた場所で、ふわふわと浮いて止まった。


まるで、手招きしているようだ。


俺は誘われるように、また歩き出した。


光を追って、その進む方へ。


その光は、さして大きなものではない。


光量は豆電球くらいのものだろう。街灯の明かりに照らされるとその輝きに消し飛んでしまいそうな、頼りないものだ。


だが、今の俺にとってはそれは道標のようなものだった。


時折、人とすれ違うこともある。


だが彼らには、目の前の光の玉が見えていないようだった。


傘もささずに薄着でさまよう俺を一瞥する視線を感じる。だがその手前を浮遊する光には気付いたような素振りがない。


この光を見ることのできる俺は、特別なのか。あるいは、俺が見ることのできるこの光の玉が特別なのか。よくわからない。


だが、どちらでも構わない。


小さな光の後を追い…


雪道を踏みしめ…


誘われるように歩き続けて…


俺がたどり着いたのは、高校へと上る坂道の下だった。


校門まで残り200メートル。


そこに立った瞬間。


俺の目の前を先導していた光の玉が、輝き弾ける。


世界を白く染め上げた。







548


あまりの眩しさに目を閉じていたが、光が収まり、目をあける。


桜が舞っていた。


周囲を覆った雪景色は、名残りすらなく掻き消えた。


代わりに、桜並木。


世界は春に生まれ変わった。


穏やかな風が吹く。


その風が、木々をゆらし、桜を舞わせ、彼女のスカーフをゆらした。


その坂の下。


ひとりの少女の姿があった。


あいつは…また、立ち尽くしていた。


ここからでは見えない、坂の上を見上げていた。


俺は…前にもこんな姿を見た。


何度も、何度も…。


「渚っ」


そして俺は彼女の名を呼ぶ。


この場所で、彼女と巡り合い…


声をかけない未来など、俺にとってはありえない。


その言葉に、渚は振り返った。


俺の顔を見ると、にこりと笑った。


「朋也くん」


嬉しそうに、名前を呼んだ。


それに、くすぐったい気持ちになる。浮ついた気分になる。


だが。


…朋也くん?


その呼び方に違和感を覚える。次いで、俺は冷や水を浴びせられたような気がした。


…渚は俺のことは名字で呼んでいた。


いや、違う。もっと正確に言えば…俺が新しく過ごしていた高校時代の渚は、俺を名字で呼んでいた。


だが、渚と結婚した世界…あちらでは、彼女は俺を名前で呼んでいた。


だから、つまり。


今目の前にいる彼女は。


「おまえ…渚か?」


「はいっ」


にっこりと笑う。いたずらでも成功したかのような表情。


よくよく考えてみれば、目の前にいるのが渚なのは見ればわかる。


「いや、そうじゃなくて、おまえは、俺の…」


「はい、そうですよ」


だが、言葉など重ねなくても彼女は全てわかっているようだった。


「わたしは、岡崎渚です」


「…」


遡った時間のその先で、最初に出会った坂の下で、俺たちは再び巡り合った。


俺は呆然と彼女を見る。


渚、渚。


その姿は、ずっと俺が追い求めていたものだった。


そんな彼女が、今目の前にいる。


汐を産んで身代わりのように命を失った最愛の妻。


どんなに面影を求めても、出会えるはずもないその人を、俺は目の前にしていた。


「どうして…?」


俺はそこまで言って、言葉が続かない。


「わたしにも、よくわかりません」


困ったように笑う。


その仕草は、高校時代の彼女とは少し違う。


別の人生を歩んできた、岡崎渚の微笑みだった。


「でも、きっと、朋也くんのおかげです」


「俺の…?」


「はい。朋也くん、わたしのことを助けてくれました。小さい時の、わたしのことを」


「…」


「わたしのために頑張ってくれましたから、きっと、神様からのプレゼントです」


「じゃあ…俺は、またやり直せるのか? 俺と、おまえで」


「…」


俺の言葉に、渚は頭を振った。


「いえ…それはきっと、ダメだと思います。わたしはいっしょに行けません。だから…」


渚は胸の前で手を組んだ。


それは、祈るような姿だった。


「だから、最後に…朋也くんに伝えたいことがあります」


「…」


「もう、迷わないでください」


染み入るように、その言葉が。


俺の胸の中に広がる…。


「これまであった、色々なこと…。わたしと出会って、一緒に過ごしたこと…。ぜんぶ、後悔しないでください」


俺の脳裏に、色々な記憶が蘇る。


一瞬。


走馬灯のような瞬間。


その思い出は、膨大だった。


俺が過ごしてきた全ての世界が、この場所に繋がっていた。


たくさんの記憶。


幸せも不幸も。


俺は。


その全てを、受け入れると決めた。


「ああ…わかった…」


俺は頷く。


「後悔しない」


「…よかったです」


渚は、安心したように笑った。


「なあ、渚。おまえはどうなってしまうんだ? このまま、いなくなってしまうのか?」


「それは…」


渚は困ったように顔を背けた。


その様子に、嫌な予感がする。胸がざわつく。


「いなくなったりなんて、しないよ」


…だが、そこに加わる、もう一人。


視線をめぐらすと、そこには俺をこの時間に誘った少女の姿。


「わたしはこの世界を見守っていくから…。それは、光も一緒だよ。だから、いなくなったりなんてしないから」


「あなたは…」


渚は彼女の姿を見ると、大きく目を見開いて…それから、笑った。


少女も渚の方を見て、にっこり素敵に微笑んだ。


「光も一緒? どういうことなんだ?」


「朋也くん」


詰め寄ろうとしたが、渚に止められる。


渚は幸せそうに笑いながら俺と少女を見比べていた。


「大丈夫ですよ、朋也くん。この子が言っていることなら、きっと間違いないです」


「うん、大丈夫だよ」


ふたりとも、微塵も不安など感じさせない表情だった。


それを見て、俺もなんとなく安心する。


大丈夫なんだ、と無根拠に信じられる。


「そうか…わかった」


「それじゃ、行こうよ」


少女が俺の手を取る。もう一つの手で、渚の手を掴む。


彼女を真ん中にして、三人で手をつなぐ。


俺たちは歩き出す。


坂道を登り始める。


「なあ、渚」


「はい、なんでしょうか」


「俺はお前を助けようとして、この時間に来たんだ。創立者祭で劇を成功させてさ、でも、その後でオッサンが劇をやってたことを知ってしまったんだ。それで、おまえが飛び出して行って、それを探してて…」


桜が舞う。


世界は輝いている。


「でも、おまえは全然見つからなくてさ…。それに、見つけても、なんて言ったらいいのか」


本人にアドバイスを求めるなど、情けない話だ。


だが渚は、それを聞いて楽しそうにくすくすと笑った。


「朋也くんは、もうわたしのことを見つけてるじゃないですか」


「渚…」


「それに、なにも言わなくってもいいんですよ。傍にいてくれれば、わたしはそれだけで勇気が湧いてきますから」


カーブを曲がって、坂の上に校門が見えてくる。


校門のその先は、白く輝き見ることができない。


不意に、少女が足を止めた。俺と繋いだ手を離す。


「わたしたちが一緒に来れるのは、ここまでだよ」


「…そうですか」


渚は笑った。少し、残念そうな笑顔だった。


「朋也くん。わたしを幸せにしてくれた優しさを、いつまでも大切にしてください」


「渚…。おまえは、おまえは幸せだったのか? 俺なんかと一緒で」


「もちろんです。朋也くんと出会えたことが、わたしの人生で一番の宝物です。それに…」


渚はにこりと笑って傍らの少女を見た。少女も渚を笑って見上げる。


ふたりは今も、手をつないだままだった。


「わたしは、これから…。この子と一緒にいられますから」


「…」


「だから…」


俺を見る。少しの曇りもないまなざし。渚は幸せそうに笑っている。


「朋也くん。いってらっしゃい」


「…」


涙が出そうになった。


泣いてはいけないと思った。


俺は歩き出す。


坂を上ったその先へ。


光り輝く校門の向こうへ。


未来に向かって…歩き出して。


その後ろから、声をかけられる。


「ばいばい…パパっ!」


その言葉。


俺は後ろを振り返る。


こちらを見上げるふたりの姿。


渚。


汐。


手を繋いで俺を見送る母と娘の姿だった。


少しの憂いもその顔にはない。


ふたりはこちらに手を振っていた。


それを見て…


圧倒的な感情が俺を飲み込んだ。


自制もない。迷いもない。


「俺はっ!」


足は止まらない。引き寄せられるように坂を上り続ける。


だが、それでも。


「俺は、おまえたちに会えて…幸せだったぞっ!」


力の限りに叫んだ。


それが彼女らに聞こえたかどうかはわからない。ふたりは、相変わらず俺に笑いかけて、手を振るのみだった。


俺の歩みは坂を上り切って…


校門を通り過ぎて…


世界は、また。


白く輝き、何も見えなくなった。







549


森の中で、目が覚める。


どうやら俺は、眠っていたようだった。


…さっきの出来事は、全部夢だったのだろうか?


一瞬、そんな思いが胸をよぎった。


だがすぐに、思い違いや妄想などではないと悟る。


俺の傍らには、もうひとり…。


渚が穏やかに寝息を立てていた。






550


渚を背中におぶって、帰途につく。


辺りはもうすっかり暗くなっている。


道を行く人の姿もほとんどない。どうやら、夜も遅い時間のようだった。


しばらく歩いていると…揺すられているからか、後ろで渚が身じろぎをした。


「ん…」


「起きたか?」


寝ているから、彼女の顔を俺の肩にのせるような格好だ。


渚の方を向くと、軽く頬が触れ合った。


「ええと…」


渚はしばらく、ぼんやりした様子で…


「わ、わっ」


だが、やがて今の状況がわかったらしい。


慌てて、俺の背中から飛び降りようとする。


「うわっ」


だが、いきなりそんな激しく動かれるとこっちもたまったものではない。


俺たちは、ふたり揃ってもんどりうってその場に転がることになった。



…。



「す、すみません、岡崎さん…」


「いや…」


互いに服についたほこりを払って、立ち上がる。渚は恥ずかしそうに顔を逸らしていた。


「立てるか?」


「は、はい」


俺の手を取り、渚は立ち上がる。


今度はふたり並んで、歩き出す。


横から、渚がちらちらとこちらの様子をうかがうのを感じた。


「あの…岡崎さん、わたしを探していたんですか?」


「ああ…」


「…」


渚が顔を伏せる。


俺が彼女を探していたということは、それにまつわる諸般の事情を知っているということ。


オッサンや早苗さんがかつて追いかけていた夢を知っているということだ。


しばらく、無言で歩を進める。


次第に、渚の歩みはゆっくりしたものになっていった。


家に帰ろうという意志はあるのだろうが、気が重いのだろう。


家を飛び出して、半日以上経っているのだ。


「病気は大丈夫か?」


「え?」


「それで早退したんだろ」


「ああ…」


渚は今それを思い出した、という様子。


「もう平気です。いつもは熱を出すと長引くんですけど、不思議です」


「そうか…」


渚の発熱は治まったようだ。


俺は昔に遡り、過去の渚を救うことができたのだろうか。


そしてそれは、現在の渚を救うことになったのだろうか。


過去が変わり、今いるこの世界は一体どうなってしまっているのだろうか。


渚のあの病気は、なくなったのだろうか。よくわからない。


「岡崎さん、ありがとうございます」


しばらく無言で歩いていると、渚が不意に頭を下げる。


「あん? なにがだよ」


「こんな時間までわたしを探してくれていたこと、お礼、言わなきゃいけないです」


「んなもん、いいよ。それより、オッサンも早苗さんも心配してるぞ」


「はい…」


「なあ、渚。オッサンも早苗さんも、夢を諦めたわけじゃないぞ。誰もおまえを責めてない」


「…」


「新しい夢を見つけたってだけのことだ。渚、おまえはそれに価値がないなんて言わないでくれ」


俺は部室の黒板に書かれた文字を思い出す。


創立者祭で、演劇をやった。


その夢を叶えた後、俺たちは新しい夢を見た。


それと同じことだ。


オッサンも早苗さんも、夢を持っていた。そして、新しい夢を見た。


それだけのことだ。


「多分、わかると思います」


自信なさそうに、頷く。


「ですけど、それでも、とても心細いです。お父さんもお母さんも、ずっと、昔のことは全然話してくれませんでした。それで、わたしは小さい頃から聞いちゃ いけないことなんだと思ってました。なにか、秘密があるんだって…。ですので、いきなりお父さんが劇をしているビデオを見てしまって、すごく驚いてしまい ました」


それはたしかにそうかもしれない。


隠し事をされている、ということくらいは気付いていたにせよ、まさにそれが自分の夢とかぶっているとまでは思わなかっただろうし。


いや…。


だが考えてみると、いくら渚が幼い頃にオッサンが夢を追っていたといっても、物心がつかないほどに幼いわけではない。


おそらく、渚はその頃の記憶をずっと押し込めていたのだろう。きっと、罪悪感もそこに一緒にして。


そのわずかな残滓が、演劇をやりたいという渚の夢となって形になったのではないだろうか。そう考えると筋が通る。


「わたしがお父さんの夢を奪ってしまったこと…それは、事実だと思います」


「…渚っ」


彼女のあんまりな言葉に、俺は問い詰めるように名を呼ぶ。


だが渚は、静かな表情でふるふると頭を振った。


「ですけど…岡崎さんが言う通り、新しい夢を見るというのも、わかります」


だから、と言って、彼女は俺を見上げた。


静謐な力を持ったそのまなざし。


「だから、ちゃんとお父さんの話を聞いてみたいです」


「…ああ。そうだな」


俺は安心する。


そうだ。


渚は強い奴だ。


こいつの強さは、前を向くことができるという強さだ。


「でも、やっぱり、不安です」


「大丈夫だ。自分に自信を持て」


「それなら…岡崎さん。ひとつだけ、お願いをしてもいいですか?」


「なに?」


渚がちょっと恥ずかしそうな顔をしている。


「お父さんとお母さんとお話しする時、横に一緒にいてくれませんか?」


「…」


その言葉に、俺はなんとなく、過去の冬の日で幼い渚が俺に言った言葉を思い出した。


なにもいらない。いっしょにいたい。


大きくなっても、言うことは変わらないようだった。


成長していないというよりは、人の本質は揺るがないといった方がいいのだろう。


だが、なんとなく、おかしい。


「あ、あのっ、わたしヘンなこと言いましたかっ?」


小さく笑う俺を見て、渚が目に見えて慌てた。


「いや、そうじゃない。一緒に行くのは構わない。ちょっと懐かしい気がしただけだ」


あの冬の日。


ついさっきのことなのに、今思い返すとずいぶん昔のことのように感じた。


「懐かしい、ですか?」


「なんでもない。気にしないでくれ」


「はぁ…」


少し不思議な顔をしたが、すぐに気を取り直したようだった。


「そういえば、さっき眠っていて、懐かしい夢を見ました」


目を細める渚。


「小さい頃、お父さんとお母さんと旅行に行ったことがあったんです。その時の夢でした。とても嬉しかったことなのに、忘れていたのが不思議です」


「旅行…?」


「はい。昔は、ちょっとだけ、わがままな子供だったんです」


恥ずかしそうに笑う渚。


俺は、彼女の家族が行ったという旅行に思いを馳せる。


渚のわがままで、旅行に出かけた…。


「そうか…」


そうか。


なら、きっと、全てはうまくいったのだ。


あの冬の日から、未来は変わったのだ。


きっとそれは、いいことだ。そう思えた。


「どこに行ったんだ?」


「海を見に行ったんです」


「あの劇と同じなんだな」


「あ、本当です」


創立者祭で演じた幻想物語。


あの話のラストも、海に行って幕を閉じた。


全ては繋がっている。


「なんだか、不思議です」


「…」


ま、実際は俺があの劇のシナリオを幼い渚に話して聞かせて、その影響で旅行の行き先が海になったのだろう。必然と言えば、必然か。


ぽつぽつと喋りながら歩いているうち、古河パンが近くなってくる。


俺と喋って気が紛れただろうが、それでも段々と渚の表情は緊張しはじめていた。


重大な、家族の問題だ。


俺が横にいていいものだろうかとも思うが…むしろ、横にいるべきなのだと思い直す。


なにせ、渚自身にそう言われているからな。


古河渚にも。岡崎渚にも。


ならばそれには間違いはない。






551


オッサンは、古河パンの店の前に立っていた。


「あ…」


それを見て、渚は小さく声を出す。


その姿は、店の明かりを受けて遠くからでもよくわかった。見張りのように店先に立って、帰りを待っているようだった。


今は遅い時間だ。こんな時間に店の明かりがついているというのもなんだか異様な感じがした。


「横にいてやるから、大丈夫だ」


「…はいっ」


声をかけてやると、渚はぐっとこぶしを握った。


近付くと、オッサンも俺たちに気付いたようだった。目に見えて、肩の力が抜けるのがわかる。


なにせ、半日近く音信不通だったのだ。心配もひとしおだっただろう。


俺と渚は並んで歩く。


街灯を一つ一つ進むごとに、オッサンの表情がどんどん鮮明になった。立ち尽くした様子で、俺たちが傍まで来るのをじっと待った。


駆け寄って渚にすがりたい気持ちもあるだろう。だが、家を飛び出した娘が自ら戻ってきてくれるのをじっと待っていた。


俺にはとても、そんな自制など持てそうもない。


そして、やがて。


俺たちは向き合い、立ち止まった。


オッサンはじっと渚を見る。早苗さんは家の中だろうか。


「お父さん…」


渚がオッサンを見上げる。


強張ったような、声。


「心配かけて、すみませんでした」


そう言って、頭を下げた。


渚が親にこうして謝罪している姿など、初めて見た。


オッサンは、辛そうな顔でそれを見ていた。たしかに渚は家出のように飛び出して、こんな時間まで帰らなかったのだが、その原因となったのは彼女に秘密にし ていた過去が問題なのだ。


「頭を上げろ、渚」


「…」


「謝らなきゃいけねぇのは、こっちだ。大事なことを、おまえには言わずにいたんだからな…。だから、おまえは悪くねぇよ」


「いえ、そんなことないです。お父さんは、わたしのためにそうしていたと思うので」


「いや、悪いのはこっちだ」


「いえ、わたしが…」


「いや、こっちが……かああーーーーっ」


話が堂々巡りになりそうになって、オッサンは頭をかきむしった。


「難しいことは、今はいいっ」


ぐっ、と親指で家を指さした。


「そんなことより、飯だ、飯。腹減ってるだろ?」


唐突な話題の転換だった。


だが。


「あ…」


「そういや…」


俺と渚は顔を見合わせた。


ふたり揃って夕飯抜きだ。渚にいたっては、昼飯も食っていないだろう。


言われてみると、空腹を感じた。


そんな様子に、オッサンは破顔した。


「早苗がとっておきのごちそうを作ってくれているからなっ。うまいもん食えば、嫌な気分もすっとぶぜっ」


「男子中学生じゃあるまいし、んな単純じゃねぇよ…」


「あんだとぉ?」


「ですけど、わたし、お腹ぺこぺこです。えへへ」


「おう、そうだろうそうだろう。さすがわが娘、よくわかってるじゃねぇか」


オッサンが渚を手招きする。


「小僧。おめぇの分もあるから、食っていけ」


「…はいはい」


俺は苦笑する。


なんだか、こんな状況なのにいつもの古河家の姿という感じだ。それに、俺は安心した。


店内に入る。


物音を聞きつけて、エプロン姿の早苗さんがぱたぱたと駆けてきた。渚と俺の姿を認めると、にっこりと笑った。


「おかえりなさい、渚」


「はい…ただいまです」


くすぐったそうに言う、渚。


「岡崎さんも、いらっしゃいませ」


「ちっす」


「早苗、飯の用意はどうだ?」


「ばっちりですよっ」


早苗さんの言う通り、奥からはいいにおいが漂ってきている。


そのにおいをかいでいると、いよいよ自分が相当空腹であることに気付かされる。待ち切れない。


居間に案内されると、食卓の上には乗りきらないほどの料理が用意されていた。


俺はそれを見て目を輝かせて…すぐに呆れた。


「こんな食えるわけないだろっ」


「わ、すごい量です」


「好きなだけ食え。食い放題だぞ」


「おいしいものをいっぱい用意すれば、渚もきっとすぐに帰って来てくれると思ったんです」


ぽん、と手を合わせて自信満々に言う早苗さん。


「…渚、おまえ野生動物とかと同列にされてるぞ」


「でも、どれもすごく美味しそうです。帰ってきてよかったです」


「…」


野生動物となった渚がここにいた。


俺は苦笑する。


食卓につく。時計を確認すると、日付が変わるくらいの時刻だった。


こんな時間までオッサンは店先に立って、俺が渚を連れて戻るのを待った。早苗さんは料理を作って、出迎えの準備をしてくれていた。


ふたりとも、俺を信じて待っていたのだ。


心当たりがあるから出かけてくる、と言った俺の言葉を。こんな時間まで。


そう思うと、胸の奥から感謝の気持ちがわきあがった。


俺と渚が食卓につくのを見て、オッサンと早苗さんも座る。


午前零時の家族の団欒。


「いただきます」


オッサンがそう言って、俺たちが唱和した。


深夜。家族の食卓。


ハンバーグや唐揚げと言った肉もあれば、酢豚や青椒肉絲などの中華もあって、たっぷりのポテトサラダ、スープにシチュー。彩り鮮やかなサンドイッチに照り もきれいな筑前煮。デザートも用意してある。


空腹なのは、オッサンや早苗さんも同様のようだ。きっと飯抜きで待っていたのだろう。


俺たちはそれぞれ、好き勝手に箸を翻して所狭しと並ぶ料理に手をつけた。


「渚、おまえは今までどこに行ってたんだ?」


刺身を食いながらオッサンが聞く。


それは少しのてらいもない、自然な言葉だった。


「不思議なんですけど、よく覚えていないんです。気が付いたら、岡崎さんにおんぶされていて…」


「渚、よかったですね」


「いや、よくはないと思いますけど」


おんぶなど、まるっきり子供扱いだ。


喋りながらも、食事は進む。


誰かが喋っている時は、他の三人は食べ物を口に運んでいた。


「なんだか、懐かしい夢を見ていたような気がします。むかし、お父さんとかお母さんと一緒に行った、旅行のこととかを思い出しました」


「ああ、そんなこともあったな」


「ええ、懐かしいですね」


「海に行ったって聞いたけど」


「ああ、渚が海に行きたいって言ったんでな。…しかし、あの時は、不思議なこともあると思ったな」


「は? 不思議なこと?」


「ああ。渚が病気で寝込んで、一人で留守番をしてたんだよ。だが俺が家に帰ってみたら、誰かが看病したようなあとがあってな。おまけに誰かが医者まで呼ん でたしよぉ」


「あら、あの時渚は秋生さんが早く帰って来てくれたと言っていたような気がしますけれど」


「いや、俺じゃねぇよ」


「わたし、全然覚えてないです」


「ま、小さかったし、熱があったからな」


「…」


まさかそれは俺がやったとも言えない。


俺は黙々とクリームシチューをかきこむ。


「岡崎さん、いかがですか?」


「うまいっす、かなり」


「おう、早苗が腕によりをかけて作ったんだ、心して食えよ小僧」


「なんであんたが偉そうなんだよっ」


「まあまあ、秋生さん、飲み物をどうぞ」


「おう、すまねぇな」


「オッサン、その時の渚の熱っていうのは、結局治ったのか?」


「あん? まあ、その時は風邪が流行ってたからな」


「少し長引きましたけど、ちゃんと治りましたよ。それがどうかしたんですか?」


「いや、ちょっと気になっただけ」


「その頃、お父さん、演劇をやってたんですよね?」


「ああ、まあな。あの時は大きな公演が控えていてな、それでお前のことを一人ぼっちにしちまってたな。それで、そんなんじゃいけねぇって気付いたんだよ」


「わたしもあの頃は、学校の仕事が忙しかったから…母親失格ですね」


「いえ、そんなことないです、ぜんぜんっ」


俺はそんな会話を、ぼんやりと聞いていた。


この家族が昔のことをこうやって話すのを聞くなど、これまではなかった。


だが、それは、とても自然な会話だった。


もちろん、まだ、ぎこちないけれど…。


それでも、時間を埋めようとしていることだけはわかった。


俺は時折口を挟みながら、そんな家族の会話に身を浸した。


それは初めて見る光景なのに、どこか懐かしかった。


こんな時間が、いつまでも続いてくれればいい…。


ついついそう思ってしまうが、食事の時間はやがて終わる。


全員が満腹になっても、元の量がかなりあったから食べきることなどはできなかった。


早苗さんが手際よくラップに包んで片付けるのを横目に見ながら、俺と渚は茶を飲みながらオッサンと向き直る。


「渚、おまえに渡したいものがある」


オッサンがそう言って奥から持ってきたのは、二冊の台本だった。


片方は擦り切れ、古ぼけた台本だった。


表紙には、タイトルと高校の名前が書かれている。


もう片方は真新しいもの。タイトルは同じだ。


「おまえが秋にもまた演劇をやりたいって言っていたからな、いい機会だと思って昔の台本を探してきて、作り直してたんだよ」


渚が新しい台本を手に取って、ぱらぱらとめくる。


俺も古い方を見て目を通してみる。渚の持つ方を覗くと、幾分簡略化して、少ない人員でも公演ができるように作り変えている途中のようだった。


「お父さん、これ…」


「おまえがやりたい劇が決まってるんなら話は別だがな。選択肢としては、ま、いいだろ」


オッサンはオッサンなりに、渚に秘密にしていた過去をどう取り扱うかを考えていてくれていたようだった。


渚はぎゅっと、台本を胸に抱いた。


「ありがとうございます…。すごく、うれしいです」


「ああ。渚、それはお前の新しい夢だし、俺の夢の続きだ」


「はい」


「俺たちは同じ夢を見ているんだ。だから、助け合っていくぞ」


すれ違っていたこの家族の夢が、今ひとつに重なった。


「…はいっ」


渚は、嬉しそうに笑った。それは、少しの憂いもない表情。


俺はその笑顔に、先ほど出会った渚…岡崎渚の影を見た。


渚。


俺は先ほど坂道で別れを告げた妻のことを思う。


おまえの言う通りだったぞ。


俺は本当に、横にいるだけでよかった。


おまえは強いし、おまえの家族も強い人たちだ。


だから、俺は。


おまえに会えてよかった。


この人たちに出会えてよかった。


その幸福さえあれば、いかなる未来も待ち遠しく思えるほどに。


俺は自分を取り巻くすべてのものを、受け入れることができるようになっていた。





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