folks‐lore



484


ありえないはずの姿。


俺と風子は、信じられない思いで汐の姿を見た。


俺たちと彼女。互いの視線が交錯する。


少女が小さく口を開く。


それは、パパ、と言ったような気がした。


…一瞬の静けさの後、彼女は身を翻して駆け出した。


「…汐っ!」


声をかけても、とまらない。


俺と風子は、慌ててその後姿を追った。


つい先日と同じ情景だ。


あの時は、風子は汐の姿に気付いておらず、俺ひとりだったけど。


汐が走る。


小さな姿を追いかける。


町並みをすり抜けていく姿。


背中が軽快に揺れる。それなのに足音はない。まるでわずかに宙にでも浮いているようだ。幻影のようにも感じて薄ら寒い。


その後をばたばたと騒がしく、俺と風子は追った。


…だが。


速い。


以前にも感じたことだが、子供が走る速さではない。ともすると、振り切られてしまいそうだ。


「はぁっ…はぁっ…」


すぐに、風子が遅れ始める。


この走るペースは、女の子には辛すぎる。


「大丈夫かっ?」


後ろを振り返りつつ声をかけるが、ふるふるっ、と首を振って俺の方を見る。


先に行け、ということだろうか。


とはいえ、ひとり残していくのも気がひける。だが汐の姿も気がかりだ。


俺はつい速度を緩めて逡巡する。


「…岡崎さんっ」


風子の鋭い叱責。


「汐ちゃんを…おねがいしますっ」


いや、懇願するような調子でもあった。


俺は風子を見る。


頷く。再び前を向く。


幼稚園の青い制服。白地の部分が闇に揺れながら浮かび上がっている。


少女を追いかけた。


後ろに残された風子の姿は、すぐに消えた。







485


町を駆け抜けた。


家の垣根は消え失せて、いつの間にか木々の中にいた。


あたりは、森。


風はなく、物音もない。


世界は静止している。


木々が開けた広場のような場所。


俺にとって、馴染みも見覚えもない場所。


…ここは、いったい何処なのだろうか。


そのどん詰まりで、汐は俺に背を向けて立ち止まっていた。


俺はその後姿を見据えて、息を整える。


ここに彼女を追い詰めた、というよりも。


自分がここに追い込まれた、というような気分だった。


呼吸を整えて…俺は体を震わせる。


体の熱が去ってから、ここが随分と寒いことに気付く。


まるで…冬のようだ。


春の日の柔らかな暖かさなど、少しの欠片さえもないような気がした。


…いや。


そんなことなど、どうでもいい。


乱れた意識を落ち着ける。


少女の後姿を見た。


その姿を見間違えることなどない。


俺にとっての大切なもの。


渚が残したひとつの命。


俺たちふたりの、愛娘。


「…汐」


俺はその名前を呼んだ。


その言葉を受けて…


彼女がゆっくりと振り返る。


そして…。


彼女が俺に向き合って…


「え…」


振り向く彼女の顔を見て、俺は呆然とする。


俺たちふたりの視線が行き交う。


「おまえは…」


先ほどのまでの、汐はもういなかった。


彼女の姿が、振り向くと同時に変わっていた。


その姿は、汐とは似ても似つかない。


長い栗色の髪。


大きな瞳。


小柄な体。


白い簡素なワンピース。


「おまえは…誰だ…?」


見知らぬ少女。


俺を、優しい微笑で眺めている少女。


名前も顔も知らない少女。


それなのに俺は彼女のことを知っているような気がする。








486


「やっと、会えたね」


少女は微笑んで俺を見つめる。


まるで、懐かしい人に出会ったような表情。


わけがわからない。


こんな奴、俺は知らないはずだ。


それなのに、彼女の笑顔がひどく懐かしい。


「君がわたしに会いたいと願ってくれたから、わたしはここにいられるんだよ」


何を言っているんだ…?


「ただ、ずっと一緒にいることはできないけれど…それは、仕方がないことだから」


小さな少女。


どことなく、超然とした雰囲気を持っている少女。


彼女は普通の存在ではないのだ。ただの人間などではない。


なぜだか俺は、素直にそんなことがわかる。


少女は俺の顔を覗き込んで、伺うような表情で聞く。


「ねぇ。君の願いは、叶った?」


「…」


俺の願い?


それは、何だ?


答えが出ない。いや、その質問の意図がわからない。


だが不意に、肺の中の空気をすべて搾り取られたような気分になる。


一瞬、頭の中が空白になる。考えがまとまらなくなる。


一瞬、様々な考えが錯綜する。動転して、混乱する。


一瞬、全ての糸が収縮する。俺は全てを理解する。


この不思議な場所。


俺が時を遡った不可解な出来事。


そのふたつが結び付けられる。


自分がこの時間に迷い込んだ時…自分は誰かの意思でこの時間に連れてこられたのかと考えたことがあった。結局埒が明かない疑問だと最近は考えることもなかったが…


不意にその疑問が頭の中で弾ける。


「おまえが…俺をこの時間に連れてきたのか…?」


「この時間?」


問いかけに対して、少女は不思議そうに俺を見る。


「ごめんね、わたしは時間のことはよくわからないけど…君の願ったことは、わかっているから」


「なんの…ことだ…?」


彼女の話していることがわからない。


この少女が俺をここに連れてきた原因ではないのか? また別の要因でもあるのか?


…それに、願い、だと?


喉がひりつく。背筋が凍る。自分の体が蝋で固められたような気分だ。


「覚えていないの?」


「…」


何を、だ。


彼女は俺に何を求めているのだ。


「君があの時、最後に願ったこと…」


それは歌うような口調だった。


少女が一歩、こちらに踏み出す。


白いワンピースの裾がふわりと夢みたいに揺れる。


「あの冬の日…私とふたりで願ったこと…」


彼女は片手を軽く上げてみせて、周囲に視線をめぐらせる。


それは、空に浮かぶ何かを目で追いかけているような仕草だった。


そこには何も見えないというのに、何かがあるとでもいうように。


「いろんなものがあって、楽しくて、寂しくない場所」


まるであの劇の再現のような言葉だった。


少女とロボットが冬から逃げて、目指した場所。


「君が求めていたのは、未来だったんだよね」


俺の方を向き直る。


優しく、微笑む。


「悲しい思いをしたくなくて、たくさんの光を集めた。そうやって、未来を求めていたんだね」


何を言っているんだ。


話に頭が追いつかない。


だが、相手はそんな俺を気にした様子さえもない。


「君は何度もあの世界に生まれて、何度もこの世界の大切な日に目覚めたの…。でも、それももうおしまい」


「…待ってくれっ」


俺はなんとか言葉を口にする。


「なんなんだ、一体っ。俺の願いって、何なんだよっ。どうして俺はこの時間に来ているんだ? 汐はどうなったんだ?」


強い口調の問いかけ。


少女はゆっくりと、首をかしげる。


「そっか…」


だが、少女はやっと納得したように頷く。


「そうだよね…。記憶は持っていくことができないから。時々心に浮かぶことはあっても、それが別の世界の記憶だと知ることはできないから」


「何の話だ? 別の世界?」


「そうだよ。君は、たくさんの世界を旅してきた…。とても素敵な結末もあったし、悲しい結末もあったけれど…それでも、たくさんの光を集めることができた」


たくさんの世界? 光を集める?


その言葉に、不意に思い浮かぶのはこの町に伝わる伝承…。


幸せな光景があった時に、光が見えるという話。


幸福の象徴とされるもの。


だが今は、ほとんど失われたとされるもの。


「だから、君の願いは叶えられた」


「俺が願ったから…俺がこの時間に戻ったとでもいうのか?」


「…?」


少女はよくわからないという風に首を傾げてみせる。


きっと彼女は、こう言いたいのだろう。


…時間のことは、よくわからない、と。


「君はこれまで、たくさんのものを拒絶してきた」


「え?」


「だから、それをやり直したいと思ったんだね」


俺が拒絶してきたもの…?


そう言われて、多くのものが思い浮かんだ。


自分を取り巻くものを拒絶した。


俺は親父を拒絶した。学友たちを拒絶した。渚の死を拒絶した。汐の存在を拒絶した。


少しずつ、克服したものもある。だがそれでも、俺は多くのものを受け入れられずに突き放してきた。


俺は、強い人間ではなかった。


顔を背けなければ、もう歩けなくなってしまうことを知っていたのだ。


…それをやり直したいと思った?


親父を受け入れ、学校生活には順応した。


新しい生活が俺を待っていた。


「わたしは、君がこの世界で過ごすのをずっと見ていた。わたしをこの世界に連れてきてくれたから、この町を、世界を、ずっと見ていた」


こちらの心中などお構いなしに少女は続ける。


「騒がしくって、あたたかくって、とても素敵な世界。わたしが昔過ごしていた世界。そして…」


目を閉じて、懐かしむような様子だった。


「君が再び、望んだ世界」


俺が望んだ世界。


俺が望んだ未来。


「わたしは、ずっと、見守っていくから…」


少女が微笑む。


そして…


少しずつ…彼女の体が消えていく…。


その体がうっすら見える小さな光の粒になって、闇夜にとけていくように。


「待ってくれっ」


すがるような気持ちで彼女を呼び止める。


「俺がやり直したいって思って、未来を願った? でも、そんなこと言われても、俺はどうすればいいんだ? こんな時間に紛れ込んで、それでも、俺は自分の未来がわからないんだ。渚の夢を叶えて、親父との関係だって前よりはよくなった。だけど、それでも、俺は自分の未来がよくわからないんだ。俺はこれからどうすればいいんだ?」


そう。


俺には寄る辺とする指針がなかった。


「俺の未来って、一体、なんなんだ?」


…それは心の底からの問いだった。


だがそれに、彼女は困ったように笑った。


「そうだよね。君が知っているのは、たったひとつの世界だけだから。今まで過ごしてきた、たくさんの世界を知らないから。だから、未来が見えないのかもしれないね」


少女の体が、さらに薄まる。


周りを包む光の粒が、いまやはっきりと俺には見える。


「君の記憶と、君の思いは…君だけのものだから。だから、それを、君にあげるね。それがきっと、正しいことだと思うから。この世界の歪みの全てを直すのが…多分、わたしの、役目なのかもしれないから」


俺の記憶をくれる?


この世界の歪みを直す?


どういうことだ、そう思って、俺は彼女に手を伸ばす。


その手が、


…ぎぎぎ。


……!!


瞬間!


きしんだ音。


光に満ちる世界。


俺が迷い込んだ不思議な世界。


深い森の奥にぽっかりとあいたような広場。


光が満ちて、そして、弾けた。



…。



……。








487


ひとり、そこに、立ち尽くす。


意識ははっきりと明瞭だった。


何が起こったのか、わけがわからない。


俺は考えをまとめようとして……






記憶が、弾けた。






ある春の物語。


椋と不器用ながら付き合い始めたものの、俺はその姉の杏のことが気になり始めていた。


戸惑いながら、悩みながら、俺は自分のその気持ちに向き合い始める…。


知らない、そんなことは知らない。


それは俺の知らない世界の出来事だった。




ある春の物語。


図書室で出会ったことみとつるむようになった俺たちの周りに、何人もの少女が集まってくる。


だがそんな穏やかな日常は、日常の中での些細な交通事故からきしみ始めることになる…。


似ているけれど、それでもはっきりと違う。


それは俺の知らない世界の出来事だった。




ある春の物語。


転校してきた智代と仲良くなった俺は、いつしか彼女と共に歩んでいくことを決めた。


だけど互いの目指す場所は別で、周囲の環境も俺の負い目も、物事を悪い方に転ばしていく…。


それは俺の知らない世界の出来事だった。




ある春の物語。


旧校舎で偶然、風子と出会った。ちょっと変わった女の子と考えていたが、彼女には秘密があった。


彼女と共にその願いを叶えようとするが、いつからか彼女は周りの人間から忘れられていく…。


それは俺の知らない世界の出来事だった。




ある春の物語。


有紀寧と仲良くなり、彼女を取り巻く状況に関わっていく。


椋と付き合い始め、不器用にその距離を縮めていくことを決意する。


春原をサッカー部に戻らせるために頑張る芽衣ちゃんに力を貸す。


奇妙な青年の勝平と出会い、新しい友情を育んでいく。


それらは俺の知らない世界の出来事だった。




たくさんの出来事。


たくさんの記憶。


知らないはずの記憶。


別の世界の物語。


心の底に、おりのように留まっていたものが明瞭になる。


そして。


俺は全てを思い出していた。


あの冬の日。


俺と汐が旅行に行こうとしたあの日。


最後の日、そしてそれははじまりの日。


俺は最後の時に、ひとつの願いを強く強く、心に願ったのだ。


もし自分に何かを願うことができたならば。


俺が願うもの、それは。


…それは、別の未来だった。


悲しい終わりを迎えることのない未来。


まったく別の可能性。


…そうして。


俺の願いは聞き遂げられた。


この世界の大切な日とやらに舞い戻った。


渚や汐と過ごした記憶を共にして。


どうしてその記憶を失わなかったのか、そのわけはわからない。その理由を絞りきることはできない。


そして今。


失われていた全ての記憶が俺の脳裏に鮮烈に輝いていた。


たくさんの記憶だ。


たくさんの未来だ。


数限りない可能性だ。


そうだ。


俺には、未来が、あったのだ。


俺はずっと、渚と共に歩んでいこうと思っていた。


それ以外の未来など考えたこともなかった。


それなのに。


俺はもう知ってしまった。


別の未来もあるのだと。


新しい可能性があるのだと。


渚のことは今でも愛しくてたまらない。


再びその手に帰ってきた大切な人。


だけど、それと、同様に。




「好きだからね」、笑顔で言うショートカットの杏の姿。


「おとといは兎、きのうは鹿、今日は、あなた…。あなたは、朋也くん」、その目にたしかな光を宿して俺を見つめることみの姿。


「私はおまえと一緒の春がいい」、コートに身を包んですがるように俺を見つめる智代の姿。


「岡崎さんは、いつも、楽しい場所に風子を引っ張っていってくれました…」、幸福そうに話す風子の姿。




はっきりと脳裏に刻まれている彼女らの姿。


ああ、それも、なんて愛おしい姿か。


その心の全てが嘘ではない。


その全ての未来を求めてやまない。


だが俺は、それを全て選び取ることはできない。


たくさんの未来。たくさんの可能性。


だが、選べる道はたったひとつだった。


…その事実に愕然とする。


たくさんの未来からひとつを選ぶ。それは他の全ての未来を、可能性を、排除することだった。


普通ならば自分の歩まなかった未来などは気にすることなどはない。それは知らない世界の話だ。


だが俺は知ってしまった。


未来を手に入れてしまった。


復学した渚にろくに手を貸さず、演劇部の再興すらままならない世界があった。それならば、その先、渚はどんな人生を送ったのだろうか?


ことみと顔見知り程度にしかならず、二度と会わない世界があった。あれから、彼女はどんな気持ちで図書室での時を過ごすことになったのだろうか?


風子が公子さんのためのプレゼントを渡す計画は頓挫して、結局結婚が随分先まで延びてしまった未来があった。がんばっていた風子の努力の意味は、立ち消えてしまっていた。最悪の可能性と考えていたとおりに。


俺が今知ってしまった別の世界では、自分がひとつの未来を選び取ると共に別の可能性を失っていた。自分の気付かないところで、容赦なく。


それに。


俺は既に勝平と出会う可能性を失ってしまっている。


勝平はあれから俺を仲立ちにして椋と知り合い、付き合い始めていたはずだ。


だから俺は、既に…椋の未来の一部さえ、切り取ってしまっているのではないか?


そう思うと、背中がぞわりと総毛立つ。目に見えない巨大な獣に背中をゆっくりと舐められているような気分だった。


…それは、恐怖。


自分が選び取ったことで失われる未来への恐怖。


自分が選ばなかったことで失われる未来への恐怖。


先ほどまですぐ傍にいた少女は、言った。


この世界の歪みを直す、と。


つまり、この俺の記憶はもともと持っていてしかるべきものなのだ、と。


だが…。


俺は…。


かぶりを振る。


ダメだ、と思う。


だが、それでも…。


俺には、湧き出る思いを抑えることはできなかった。


未来を知ってしまうことが、選び取れない可能性を知ることならば。


それならば。




俺は、未来なんていらなかった。




…こんなことを考えてはいけないのだ。


未来の記憶。それらは幸せな記憶なのに。


それなのに、その裏側に、びっちりと暗黒の苔でも貼り付いているような気がしてならない。


ああ、俺には…。


絶望的なほどに、未来はあった。


それは、恐怖だった。


全てを知ってしまい、俺は足を止めてしまっていた。


もはやひとつの可能性さえも選び取れないような気がしていた。


だから…


ただ、立ち尽くすしかなかった。


たったひとりで。


この場所で。


この町の願いが叶う場所で。





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