folks‐lore 05/16



538


資料室に戻り、部員たちに渚が急病で早退したことを伝える。


「創立者祭も終わって、疲れたのかしらね」


「渚ちゃん、頑張ってたから」


「しかもまた今度はテスト勉強だからね」


「早く、よくなってくれればいいの」


…等々。


やはり、心配している様子だった。


とはいえ、それは致命的なものではない。俺の場合は、このまま病に伏せって当分復学できない、という未来が見えている。だが彼らは違う。


ちょっとした体調不良でしかなくて、またすぐに復帰できると考えている様子だった。


渚が長期休暇をしていたことを知っているといっても、最近は元気に部活をやっていたし、今日の早退だって家族が迎えに来たというわけでもなく、自分の足で 帰宅している。重篤、というわけでもない。以前の病気のぶり返しとまでは考えていない。


…もちろん、それならばその方がいい。決して俺に異論があるわけではない。


だが、ただ、嫌な予感がする。


このまま、また休学状態に陥ってしまうのではないか、という予感。


苦々しい感情が胸を満たす。


席について遅れて昼食を食べ始めるが、渚のことに気を取られて味などよくはわからない。


部員たちが交わす会話も、ほとんど聞き流して考え事にふける。


現状、渚が体調不良で帰ったというところまでは聞いている。だが、実際、持病ではなくて単純な体調不良という可能性もある。


最悪の可能性ばかりを考えてしまうが、可能性はそれだけではない。楽天的な予測だが、何でもないということだってあるのだ。


あの病気というわけではない。


…というか、あの病気って、一体なんなんだろうか。


渚の持病。きちんとした病名などは知らない。


発熱や倦怠感が延々と続く。症状だけを見れば、風邪だろう。


だが、あれはただの風邪などではない。もっと別の何かだ。強く、そう感じる。


そうして思い出されるのは、オッサンから聞いた昔話だった。


渚が、幼い頃の話だ。


当時はオッサンも早苗さんも忙しくて、渚を一人にしておくことが多かった。


渚は文句も言わず、だが、家の前で両親の帰りを待っていたという。


そんなある日、渚は熱を出した。


幼い少女を寝かしつけて、オッサンも早苗さんも、彼女を置いて出かけてしまった。


だが、そんな日でも、渚は無理を押して門前で両親を待った。そして、倒れた。


消えてしまいそうな命。


オッサンは小さな体を抱えて、娘に死なないでくれと願った。


…そして、その願いは聞き遂げられた。


まるで、いつかの冬の日の俺と汐のような話だ。


誰かが願い、誰かが叶えた。


渚の忌まわしい病気は、そこに端を発しているように感じる。


あれは病気などではなく、後遺症であり、代償なのだと。


彼女は命を救われた。そして代わりに別のものを差し出すことになったのだと。


…別のもの?


それで彼女の学校生活が失われるとでもいうのか。


馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てようとする。彼女の過去の命の危機と、その病気と、この町の変化には筋道立った関係があるわけではないのだ。


だが、それはうまくはいかなかった。


論理も全てを飛び越えて、まるで天啓のようにその感覚は俺を貫いていた。


町、時の流れ、人。


その全てが繋がっているような気がする。


それは空想じみた想像だ。


だが、俺や風子の身の上に起こっていること自体が、そもそも空想じみたことなのだ。


揃って時間を遡り、片や別の世界の記憶を手に入れた。もう片方は心が体を飛び出した。


そんな事態に触れてしまえば、もう何が起こっても不思議はないような気がする。


この世界には、普段目に見えないものがあるのだろう。思いもよらない別の法則があるのだろう。それは強い願いや幸福に感応して、時折垣間見ることができ る。


人にはそれはほとんど見えない。見えた時、それは奇跡と呼ばれるのかもしれない。


…思いは力なのだ。


俺は深く、そう思う。


それは大きな力なのだ。


容易く、現実の法則など越えてゆくほどに。


渚の命が救われたことも、それはその一端でしかないのだろう。


だが。


俺は思う。


願いが叶うのならば、叶えた者は誰なのだろうか?


そうして思い浮かぶのは、一人の少女の姿だった。


幼い少女。簡素なワンピースを着て、懐かしそうに俺を見ていた少女。不可思議な場所に迷い込んで、奇妙な会話を交わした少女。


彼女が一体何者なのかはわからない。


だが、彼女ならば、何かを知っているのだろうという予感があった。


俺は彼女を捕まえて、渚の病気はなんなんだと詰め寄りたい気分になる。


…だが、今はむしろ、それよりは渚自身の体調が先か。


まずは渚の顔を見て、とりあえず落ち着きたいところだった。実際に体調がどんな感じなのかも聞いてみたい。


今俺たちは創立者祭を成功させて、また秋の学園祭で発表をしようと話をしているのだ。


夢を叶えて、新しい夢へ。


そんな今この時を、大切にしたい。


病に倒れたあいつを心配しながら卒業するなんて、できればもうやりたくはない。今なら有紀寧や仁科、智代などといった下級生の知り合いが多いとはいえ、二 度も留年するとなると心理的にきついだろう。


かつては退学を進められたこともあるのだ。


悶々と考え込んで、やはり渚に会いに行かないといけない、という気になる。こんな気分で放課後まで待つというのは無理だ。


食事を終えて教室に戻る道中、俺は椋に声をかける。


「おい、椋。今日、早退するから」


「岡崎くん…」


俺の目を見て、呆れたような顔をした。


「ほら、ちょっと、腹が痛くなって」


慌てて言葉を重ねると、くすくすと笑われる。


「…はい、わかりました」


俺が魂でも抜かれたような状態で昼食をつついていたのを見ていたからだろう、全てわかっている、とでもいうような様子だった。渚のことに気を取られている のはバレているようだが、余計なことまでは言ったりしない。


ありがたいが、こうも理解されているというのもくすぐったいような感じもする。


「あ、あの…お弁当に何かヘンなもの入ってましたかっ?」


が、横で仁科が慌てていた。


…そうか、今日は仁科が弁当を作ってくれたんだっけ。口実とはいえ腹が痛いなどと言ったら、当然慌てるだろう。


「ああ、そうじゃなくて…」


言い繕おうとするが、うまい理由が出てこない。


弁当に文句があるわけでもなく、ただ早退する理由が欲しかっただけだ。


「頭、頭」


話を聞いていた杏が口を挟む。どうやら、フォローしてくれているらしい。


「ああ、そうだ、頭が痛くて…」


「頭が悪くて」


「ああ、そう。頭が悪くて…」


「性根が腐ってて」


「性根が腐ってて…」


「死んだ魚みたいな目をしてて」


「…してるかっ!」


慌ててツッコミを入れた。どうやらこいつのそれはフォローでもなんでもなかったようだった。


杏はケラケラと楽しそうに笑っていた。全く反省しているような様子はない。困った奴だ。


「…ま、あの子にもよろしく言っといてね?」


にこっと笑ってそう付け加える。どうやら、こいつにも渚の見舞いに行こうとしていることはお見通しのようだった。


「ああ…」


そんな様子を見て、仁科も状況を理解したようだった。取り乱したのを恥ずかしがるように、少し頬を染める。


「失礼しました。先輩、いってらっしゃい」


「朋也さん、がんばってくださいね」


有紀寧もそう言い添える。


咎めるわけでもなく盛り立ててくれるのはありがたい。


不安まじりの自分の心が、落ち着いてくるのがわかる。


やがて新校舎に入り、二年生たちとはそこで別れる。


「無理しないでって、伝えてほしいの」


A組の教室でことみと別れる。


「それじゃ、よろしくね」


E組に戻る杏と別れる。


D組の教室に戻り、自分の鞄を手に取るとすぐさま踵を返す。


「じゃあな」


「うん。岡崎、また明日」


「また、様子を聞かせてくださいね」


春原と椋に見送られる。


俺はひとりになって、早足に廊下を歩く。


もう昼休みも終わりだ。


時折、鞄を持っている俺を不思議そうに眺める生徒もいるが、声まではかけてこない。面倒がなくていい。


「岡崎、どうした」


「…」


…例外がいた。


廊下で智代と鉢合わせる。


手に持つ鞄を一瞥すると、疑わしげな眼で俺を見た。ま、どう見てもサボろうとしている姿だろう。


だが、注意されても引くつもりはない。


「悪い、大事な用があるんだ」


智代に先に何か言われる前に、答える。言い訳を言うのも気がひけて、それだけ、はっきりと言う。


それでも引いてくれないならば、もうとにかく押し通るしかないが…


「そうか」


俺の言葉に鷹揚に頷くと、脇にどいて道をあけた。


「…いいのか?」


あまりにも拍子抜けするような対応だった。何か言われるかと思った。


だが、智代は余計なことなど言いもしない。何でもないことのように応対されて、こちらが肩透かしを食ったような気分になる。


「大事な用なんだろう?」


生徒会長になったといっても、杓子定規な奴ではない。切羽詰まった様子の俺を見て、止めても無駄だと思ったのかもしれない。


こいつも、お見通しか。


「ありがとな」


「うん」


小さく声をかけて、俺はまた歩き出した。


背中に智代の視線を感じる。それは剣呑なものなどではなく、あたたかいまなざしだと思った。


俺は学校を出る。渚の実家を目指す。


多くの人に見送られて、まるで旅にでも出るように。








539


「ちっす」


早足にここまでやってきて、わずかに乱れた呼吸を整えると、俺は古河パンに足を踏み入れた。店内に入ると、ふわっとパンの香りがする。


中は無人だった。客もいなければ、店員さえいない。


およそ商売っ気とは無縁の空間だった。苦笑する外ない。


知っていたけど、なんつー店だ…。


ま、渚が早退して帰ってきたから、看病でもしているのかな、などとあたりをつける。


住居につながる廊下を覗くと、奥の方から物音が聞こえる。こっちの世界でも何度も訪れているから、遠慮も無用だろう。


靴を脱いで、ずかずかと家の中に入る。


どうやら、居間から人の声が聞こえているようだった。中を覗く。


…だが、無人だった。


ただ、ビデオが再生しっぱなしになっていた。


「…」


俺は、その画面を見つめる。食い入るように眺める。


それは、オッサンの過去…劇の演者をしているビデオだった。


俺はじっとそれを見て、猛烈に嫌な予感に襲われる。


そういえば、以前にも同じように、ここでオッサンと早苗さんが演劇のビデオを見ていたことがあった。渚が家にいる時間は見れないから、学校の時間に見てい るのだと。


だが、もし。


…早退してきた渚がこの場面に鉢合わせてしまったら?


俺は一歩、後ずさった。慌てて周囲を見回した。人の気配はない。よく見てみると、居間のテーブルには茶が二つ並んでいる。まるで、さっきまで夫婦仲良く並 んでビデオでも見ていたなどという様子だ。座布団が跳ねるように少し離れた場所にある。まるで慌ててそれを蹴るようにして駆けだしたかと思わせるような。


「…」


背中に、汗でも伝うかのような感覚。汗が噴き出る。


「…渚! オッサン! 早苗さん!」


この家にいるべき人たちの名前を呼ぶ。だが、沈黙だけが返ってくる。


ビデオの音声だけが、白々しい。


俺は慌てて階段を駆け上り、渚の部屋を見る。


中は無人だ。そういえばこの世界で渚の部屋を見るのは初めてだ。だがそれについて感想なども浮かんでこない。


取って返す。


遠慮も何もなく、家の中を探して回るが、誰の姿もなかった。


居間に戻って、ビデオを消す。天を仰いで、状況を整理する。


残された痕跡から、状況を考える。


…おそらく。


早退してきた渚は、オッサンと早苗さんがビデオを見ているのを目撃したのだろう。そして、オッサンが昔演劇をしていたことを初めて知った。


元々、渚は両親が自分に何か隠しているような気がする、と疑っている部分があった。自分に隠れて昔のビデオを見ている両親を見てみれば、かつて親が追って いた夢が何だったのか、たちどころに理解することができただろう。


オッサンにとっては、娘に託した夢の続き。だが、渚はそれをどう思うだろうか。


親がかつて見ていた夢だとも知らず、自分の存在がその夢を台無しにしてしまったのに、のうのうと創立者祭で演劇をやってみせた。無邪気に、残酷に。そして その上、オッサンに秋の学園祭のアドバイスまで求めている。渚はきっと、そう考えたはずだ。そんな自分の姿を、どう思っただろうか。


渚も、オッサンも、早苗さんも。


俺にとっては、家族だ。


だから、その状況は恐ろしくリアルに頭の中で再現される。


全てを知った渚が、ああそうなのかと納得できるはずもない。


きっと、あいつは全部自分のせいなのだと思っただろう。


そんな錯乱した状況では、何が起こるかわからない。居間に残された状況から、その時の混乱が察せられる。まさか落ち着いて昔の話でもしよう、ちょっとその 先の喫茶店にでも行こうか、などという状況のはずがない。


渚はきっと、踵を返して家を飛び出した。オッサンと早苗さんは、慌ててその後を追った。


…こんなことならば、先に渚にはかつてオッサンが演劇をやっていたことを伝えておけばよかったのだ。いや、それは結果論でしかないか。


俺は冷静にならなければいけないのだと言い聞かせる。そう、きっと、こんな時のために俺は未来の記憶を持っているのだと言い聞かせる。


とにかく、人に会わなければ話は進まない。


古河パンの店内に戻る。


よく見てみると、カウンターの中、見えないところに放り出されるように高校の鞄が投げ出されていた。言うまでもなく、渚の鞄だった。


渚は、オッサンのかつて追っていた夢を知ってしまった。そして、鞄を投げ出して、家を飛び出した。それはきっと、間違いないだろう。


…病気が再発しているにもかかわらず。


あるいは、再発しているからこそより強く自分が両親の夢を奪ってしまったと考えたかもしれない。この病気が原因なのだ、と。


俺は歯噛みする。


誰も悪くはないのだ。


ただ優しさが、時には人を傷つける。


「…岡崎さんっ」


名前を呼ばれて、ハッとした。


店への入り口を見る。早苗さん。


息を切らせて、ドアを掴むようにしている。


今にも倒れこみそうな様子で、俺は慌てて体を支えた。


「すみません…」


早苗さんは申し訳なさそうに言って、呼吸を整えた。額には汗がにじんでいる。だが顔は青ざめている。胸を締め付けられるような気分になる。自分が駆け回っ ているわけでもないのに、こちらまで呼吸が荒くなるのがわかる。あまりにも、緊張しているのだ。そして、混乱しているのだ。


「…岡崎さん、渚を、渚を見ませんでしたか?」


息が整うと、そう尋ねる。すがるような瞳だった。


黙って頭を振ると、早苗さんは絶望したように頭に手をやった。


「渚は、学校で体調が悪くなって早退したんです。早苗さん、一体、何があったんですか?」


「それは…」


一瞬、口ごもる。


これは家族の問題だと思ったのかもしれない。人に話すにははばかられると考えたのかもしれない。


だが、それなら、俺だって家族だ。早苗さんはそれを知らなくても、俺はもうこの家族の一員なのだ。別の世界もこの世界も、関係はない。


そんな気持ちが伝わったからかはわからない。早苗さんは俺の目を見ると再び口を開いた。


そして語られたことは、予測していた通りだった。


客足も途絶えて暇になるこの時間、オッサンと早苗さんは奥でビデオを見ていた。ちょうど先日渚に劇の相談もされていたことだし、懐かしさも相まって揃って 集中してビデオを見ていた。


そして、それが失策だった。


気が付いた時、ふたりの後ろには渚が帰ってきていて、青白い顔で画面を見つめていた。その画面の中では、オッサンが朗々とセリフを喋っているところだっ た。


それで、渚はすべてを悟ったのだ。


自分のせいで、両親の夢を奪ってしまったのだ。呆然としたままに、彼女はそう言った。


オッサンはもちろんそれを否定した。


夢を諦めたわけではない。別の新しい夢を見つけたのだ。それは、大切な一人娘、渚のことなのだと。


しかしその言葉は届かなかった。


踵を返して渚は家を飛び出した。


オッサンと早苗さんは慌てて後を追って探し回ったが、結局今も見つかっていない。


深い水の底にいるような圧迫感を感じる。話を聞いているだけで、ひどく、息苦しい。


…状況は最悪だ。


全てがぴたりと悪い方向で噛み合ってしまった。既に創立者祭を成功させているからこそ、渚の心中の負担はあの時よりも大きいだろう。しかも、今は体も本調 子ではないというのに。


だが、だが、と俺は思う。


だが、俺がいるのだ。


別の世界で未来を過ごし、今またここに戻ってきたこの身がここにはあるのだ。


最悪な状況を照らす一筋の光は、自分自身なのだ。


まるで俺はこの時のためにこの時間に戻ってきたかのような気分になる。


飛び出した渚。彼女はまだ見つかっていない。


それならば、これが俺の役目なのだ。


緊張で体が震えそうになる。だから心を奮い立たせる。


俺は胸をそらせた。


話し終わって、不安そうに口をつぐむ早苗さんの肩に手を置く。


「俺も、渚を探してきます。早苗さんはここで待っていてください」


「そんな、岡崎さんに迷惑をかけるわけにはいきませんっ」


「迷惑じゃないっす。それに、そう…部活で、渚は部長で、俺は副部長だから。部長のフォローは、副部長の役目っていうでしょう」


唐突に歌劇部の話を持ち出した俺に早苗さんは目を白黒させたが、すぐに微笑んだ。


「岡崎さん…ありがとうございますっ」


「行ってきます。とりあえず、一時間したらここに戻ります」


自分の鞄を早苗さんに預ける。早苗さんは、それを大事なものでも受け取るかのように、ぎゅっと胸で抱えた。


早苗さんに、微笑む。少しでも安心させられればいいと思いながら。


そして、走り出した。


「…秋生さんは、今、商店街の方を探しているはずですっ」


後ろから、声をかけられる。


手を上げてそれに応えると、俺は町へと駆けだした。







540


渚の姿を探し求めて、俺は町を駆け回った。


あいつが行きそうな場所を見当を付けて、あちこちを探す。


だが、求める姿は見つからない。


途中でオッサンに行き会ったが、渚は見つかっていないようだった。


「…すまねぇな」


春の日差しの下で汗をかいて駆け回っている姿を見て、奥歯をかみしめて肩を落とすオッサン。


「礼は、渚が見つかったらにしてくれ」


「ああ…」


「行ってない場所、あるか?」


「一通りは見たはずだが、いねぇな」


顔をしかめる。渚も移動していて、入れ違いになっている可能性もある。


「耄碌して忘れてるところとかあるんじゃないのか」


「ああ? 俺が渚の思い出で忘れてる場所なんてあるわけないだろ」


キモい男親だった。


それだけ言い合って、互いに舌打ちする。


挨拶もそこそこに、再び別れて走り出す。


「…おい、小僧っ!」


「あん?」


「テメェも、あんま無理すんなよっ」


「あんたより若いから、大丈夫だ」


「…チッ」


今度こそ別れる。


ほとんど互いに罵り合っただけだが、それでもなんだか勇気がわいた。不思議なものだ。


また、渚の姿を求めて走る。


商店街から町の小さな路地まで走り、渚の姿を求めながらもどの場所にも思い出があることに意外な気持ちがする。


渚と歩いた通学路。


杏と話した公園。


智代が夢を語った坂の下。


風子と歩き回った家の周辺。


ことみを送った住宅地。


有紀寧と花を捧げた名もない道路。


椋と夜空の下を歩いた駅へと続く道。


春原とだべって暇つぶしをした商店街。


全ての道は、俺の記憶に結びついていた。


ひとり屈託してアスファルトを睨んで歩いた道。誰かと笑い合って空を見上げて歩いた道。学校への道、職場への道。


幼い頃から過ごしたこの町には、思い出が染みついていた。


自分の記憶を再確認するように、小さな道の一本まで、俺は歩いて、駆けた。その先に、渚の姿を求めながら。


だが、それでも、求める姿は捕まらない。


額を流れる汗をぬぐった。


気が付くと、学校へと続く坂の下に戻ってきていた。


渚の姿はない。


だけど、俺には渚の後ろ姿が幻覚のように見える気もした。


…俺はここで、何度も何度も渚に出会っていたのだな。


別の世界の記憶を知らなければ、知りえなかったことだ。


何度も何度も、俺たちは出会い直してふたりこの坂を上っていった。


何度も何度も、俺は時間を遡って別の世界を歩んでいた。


そして…あの不思議な少女が言うには、光を集めていたのだと。


その光というものが一体何なのか、俺はにはよくわからない。それが尊いものだとは分かっても、それでも。


俺が求めていたのは光の玉そのものなどではない。ただ確かな誰かの幸福でしかない。


俺は坂を見上げてみる。


曲がってのびていく坂道。ここからだと、校門が見えない。ここからでは、未来が、見えない。


「…」


だが。


それはたしかにここにある。


それを疑う気持ちなど、今の自分にはなかった。


俺はまた駆けだした。


オッサンが瀕死の渚を抱えて願いを叶えた場所。俺はそこへと足を向けた。



…。



近い未来、病院が立つ場所。だが今はまだ、ここは木々が満ちている場所だ。


森。先日俺が迷い込んだ不思議な場所を思い出させるような場所。


周囲を見回すが、誰の姿もない。渚はいない。


一人深く息を吸う。


梢が風に揺れ、木の葉がざわめいた。


かつて。俺は何度も、この場所に足を運んだことがある。オッサンと一緒に。


大切な思い出の場所が次第に切り拓かれて、病院が建設されて、この場所にも新しい人の営みが生まれた。


病院が立つのは悪いことではない。


町がどんどん変わっていくことに感傷を覚えるのは、おかしなことなのかもしれない。


だがそれでも、俺は自分の知る風景がなくなっていくことに、言いようのない不安を覚えていたのだ。


俺は、ここでオッサンが口にした言葉を思い出していた。


「…この町と、住人に幸あれ」


呟いた。


踵を返した。


振り返ることはない。







541


何度か古河パンに戻って小休止をとり、オッサンとも情報を交換する。


だが、すべては空振り。


渚の姿は見つからない。姿を見たという証言もない。


まるで掻き消えてしまったかのようだ。儚いひとひらの桜の花びらのように。


そんな考えを、慌てて否定する。


「くそ、なんで見つからねぇ…」


オッサンは頭をかきむしって顔をしかめる。早苗さんも沈痛な表情でうつむいている。


「きっと見つかる」


確信をもって言った俺の言葉に、ふたりが顔を上げた。


「だから、大丈夫だ」


「他に、心当たりでもあるのかよ?」


「…ひとつ、ある」


そう。ひとつ、可能性があった。


それは俺でなければ考え付かないような可能性。


俺は町の中を駆け回りながら、その可能性について考えていた。


「でも、もし心当たりがないからといって、それで諦めるわけないだろ?」


「…へ。そうだな」


「はい、もちろんです。渚はわたしたちの娘ですから」


俺はこくりと頷く。


店の外を見ると、すでに夜の帳が下りているようだった。既に半日、渚を探し回っていることになる。


風子といい、渚といい、最近は人を探し回ってばかりだな。


俺は苦笑する。


「ちょっと、出てきます」


「おう」


「お願いします」


後ろからかけられる声を聞きながら、店を出る。


少し歩いて振り返ると、暗い夜道に煌々と、古河パンの看板が輝いていた。なんだかそんなものに、勇気付けられる。


また、歩き出す。


そして、可能性について思いをめぐらす。


俺が考えているのは、渚が今どこにいるか、という可能性ではなかった。ここまで探していないとなると、まるで彼女が別の世界にでも消えて行ってしまったの ではないかとまで思わせられる。


非現実的なことなのに、それがひどくリアルに感じられるから不気味なものだ。


…俺が考えたのは、あいつならば、きっとこの状況を打破してくれるという奇妙な確信だった。


こんなわけのわからない状況だ。


それならば、わけのわからない奴に解決策を聞いてみればいい。


俺はひとりではないのだ。


自分で考えてわからなければ、わかる奴を探し出せばいい。一人の力は微力でも、人は決して独りではない。


…俺はかつて、思ったのだ。


雪降る冬の日。


汐の小さな体を胸に抱いて。


こんな悲しい最後は嫌だと。そうして俺は未来を求めた。


今も同じだ。


俺は願う。


そして…。



…。



そして、俺はさっき来た場所に舞い戻っていた。


俺とオッサンが何度も足を運んだ森の中。病院がこれから建つ場所。瀕死の渚が命を助けられた場所。


さっきもここを訪れて、渚はいないと去った場所だ。


だが今俺は、渚の姿を求めてここに来たわけではない。


自然、足を進めていたらこの場所まで来ていた。


別に、彼女を呼ぶのに場所を選ぶとは思えない。だが、この場所に来てみると、たしかにここがふさわしいという気になる。


周囲を見回す。誰もいない。呼吸を整える。


「力を貸してくれ」


虚空に向かって呼びかけた。


「俺は、渚の悲しみを取り除いてやりたい」


その言葉に、心を込める。


「あいつを、助けたいんだ」


この言葉を言うために、俺はここまでたどり着いたのだ。


「だから、頼む」


風が吹いた。


あたたかい風。


祝福するような息吹。


風が吹いて、春だった。


俺は振り返る。


先ほどまでは、無人だった場所。


そこには、一人の少女がいた。


気高くも、無垢な姿。


長い栗色の髪。


大きな瞳。


小柄な体。


白い簡素なワンピース。


それは懐かしい姿だった。


ふたりの視線が重なった。


彼女は微笑み、俺も微笑む。


俺は願った。彼女は叶えた。


ふたりを包む世界は、彩りを変えた。





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