folks‐lore 05/16



534


通学路で、渚と出くわす。


「あ」


「あ」


互いにぽかんと口を開け、顔を見合わせる。


いつも坂の下で待ち合わせていて、その途中で行きあうということはなかった。ちょうど途中で会うのは珍しい。


もっとも、通学してきている時間はほぼ同じなのだから、途中で会うのは普通にありえることなのだが。


「あの、おはようございます」


渚は慌ててぺこりと頭を下げる。


「ああ、おはよ」


並んで歩き出す。


とはいえ、俺の通学路と渚の通学路はほとんど重なっていない。すぐ学校だ。もう少し歩いていけば、坂が見えてくることだろう。


渚と肩を並べて学校へと歩いていると、それでもやはり懐かしい感懐があった。俺が渚の実家に身を寄せて、創立者祭が終わるまで。ごく短い期間だが、肩を並 べて通学していた時期があった。それはずいぶん昔のことだ。


雑談をしながら、歩く。


話をしているうち、何となく違和感を感じて俺は渚の顔を見てみる。ちょっとだけ、疲れているような印象だった。


「どうかしましたか?」


無理してる、というくらいの様子はない。いつもより線が細く感じる、というくらいだ。


俺を見上げて、不思議そうに聞いた。


「いや…」


俺は顔を背けて、言葉を濁す。


つい、嫌な予感を感じてしまった。


かつて。俺が渚と過ごした世界。


創立者祭が終わり、渚は再び体調を崩した。そしてそのまま、ずいぶん復学が遅れてしまった。そんな世界もあったのだ。


今の時点で渚が体調を崩していないようだから、もちろんその時とは全く事情は異なっている。だが、やはり、ひとつの大きなことを越えて疲れてしまうことは あり得る。ただでさえ、イベントが終わった直後にまたテストなどがあるような状況なのだ。


「…ちょっと、調子悪そうに見えたから」


「そうでしょうか。昨日、遅くまで勉強していたせいかもしれないです」


にこりと笑う。


「あまり、夜更かしするなよ」


「岡崎さん、子供扱いしています」


こっちは普通に体調の心配をしているのだが…。


渚は不服そうに頬を膨らませた。


「最近は部活の準備で全然授業に集中できていなかったので、ちゃんと勉強しておかないと成績が悪くなっちゃいます」


「去年も、同じところ勉強したんだろ? 大丈夫じゃないのか」


渚が昨年体調を崩したのは秋頃と聞いていた。だから、一学期の授業の範囲は一度履修済みのはずだった。だが、俺の問いに渚は苦笑する。


「そうかもしれないですけど…やっぱり難しくって」


困ったように笑う渚。


だが、その気持ちはよくわかった。たしかに、進学校なのは伊達ではない。暗記科目は(多分)何とかなるとしても、他が問題だった。俺も勉強をしていて絶望 的な気持ちになることがたまにある。これは高校生が勉強するレベルなのだろうか? こんなの勉強しても将来の役になんて立たないんじゃないか? …などな どと。


とはいえ、そんな現実逃避ばかりはしていられないのだが。


「赤点取らないように、がんばれ」


…俺もだが。


「はいっ」


渚は笑ってそう言った。


…ま、そこまで悪い点をとることはないだろうが。


歩いているうち、学校のすぐそばまでやってくる。やはり、一人で黙々と歩いているよりは、誰かと言葉を交わしながら足を進めていたほうが、心持ち足取りも 軽いような気分だった。俺の場合は、ここ数日はともかくとして、それまでは道中の道連れがいたから余計にそう思う。


この時間、周囲には同じように坂の上の学校を目指して歩いている生徒の姿がかなり多くなる。自転車通学の生徒がさっと脇を通り越していく。こんな朝から集 団になってのんびりと歩く女子の一団を追い越していく。時折知り合いもいて、軽く挨拶されることもある。


そうやって、長い長い坂道が見えてくる。


曲がりながら伸びていく坂道。もう、桜は咲いていないけれど、それは変わらずそこにある。


俺が渚とこの場所で再会した。それはもう随分と昔のことのように感じる。というよりは、様々な記憶が渾然一体となって、その情景は俺にとってはあらゆる時 間を超えた原初的な情景に感じられる。


風に舞う桜。坂を見上げる後姿。


「あ、もう、みなさん待ってます」


坂の下、何人かの部員がそこで待っていた。


渚は彼女らの姿を見つけると、嬉しそうに笑った。


そうだ。


坂の下。


そこはもう孤独な場所ではない。







535


ホームルームが終わる。


俺は昨日作ったプレゼント用のヒトデを手に持つと、教室を出ていった担任の後を追った。


「おい」


「ん? 岡崎か? …というか、おいとはなんだ」


声をかけられて振り返った担任は、顔をしかめて俺を見る。


「ちょっとすんません」


面倒になる前に、言い直しておく。


さして悪びれた様子もなかったからか、担任は俺を呆れた目で見た。


「はぁ…。で、なんだ?」


「実は、渡したいものがあるんだけど」


「なんだ、ワイロか? 何をもらってもテストの問題は教えられんぞ」


「あんた俺をなんだと思ってるんだ」


「ははは、冗談だ」


担任は快活に笑う。


その眼前に、俺はヒトデを突き出した。


「んん? なんだ、これは?」


ヒトデと俺の顔を見比べる。


「受け取ってくれ」


「…」


嫌そうな顔をされた。どうやら俺の日ごろの行いが悪すぎて、素直に物も受け取ってくれないらしい。


「別に、これを受け取ったからって、テストの問題を教えろとか言わない」


「そう言われても、教えんが…」


言いながらも、戸惑うようにヒトデを手に取る。珍しいものでも見るように、観察してみる。


「これは一体なんだ」


「俺が作った」


「岡崎が?」


戸惑った視線を俺に向けた。


「おまえ、そんな趣味があったのか? というか、なんでこんなものを渡してきたんだ? というか、これはなんの彫刻なんだ?」


質問が多い。それだけ、混乱しているということなのかもしれないが。


担任はせわしなく俺の顔とヒトデを見比べた。


「それ、ヒトデだから」


「ヒトデ…?」


俺のセリフに担任はしげしげと彫刻を眺める。が、すぐに息をついて頭を振った。片手を頭に当てて、どうやら頭が痛むようだった。


…ま、問題児にいきなりわけにわからないプレゼントを渡されたら誰だって混乱する。しかもいきなりヒトデ。


「なんで、ヒトデなんだ…」


「そりゃ、かわいいから」


「岡崎…大丈夫か?」


「なんで心配されてんだよっ」


つい風子と同じセリフを言ってしまったが、失敗だったらしい。


ともかく、と俺は話を戻す。


「実は、頼みがあるんだけどさ…」


そう前置きして、俺は公子さんの結婚式の話をした。


担任は先にプレゼントを渡して断りづらくする俺の手腕に苦笑をしつつも、きちんと話を聞いてくれた。


「なるほどな」


聞き終わると、顎に手を当てて考え込む。


「おまえが人のために、そんな努力をするようになるとは、人も変わるもんだなあ。この間伊吹先生が来ていたのは、ご結婚の話か…。ふむ…」


真剣に、考え込んでくれているようだった。


むさくるしい男教師が可愛いフォルムの木彫りのヒトデを手に持って考え込む様子は、なんだか面白かった。


今はホームルームも終わった休み時間だ、廊下を行き交わす生徒たちがおかしな様子の担任を見てくすくすと笑うが、笑われている当人はそんなことには気付き もしない。それだけ、きちんと考え込んでくれているようで、頭が下がるような思いだった。


この様子だと、日曜に何か用事でも入っていた、という感じだが…。


「…よし、それじゃ、私も参加しよう」


だが、結局はそんな答えが出てきた。


「いいのか?」


その答えはありがたい。だが、本当に大切な用事でもあるのにそれを犠牲にさせるのはさすがに気がひける。


俺の言葉に、担任はニヤッと笑った。


「ああ。なにせ、可愛い生徒の頼みだからな」


「可愛い生徒?」


俺は周囲を見回した。


「おまえだ、岡崎」


「可愛くはないだろ、どう見ても」


「面倒かける生徒ほど、可愛いってところはあるぞ」


「おええ…」


こんな年長者の男に可愛いなどといわれても寒気がするだけだった。


俺の反応に、担任は低く笑う。


…この人と、こんな風に普通に会話をする時がくるなんて、意外な気がした。俺にとって、かつては、この学校の教師など唾棄すべき存在だった。まるで互いに 互いを邪魔者と考えているような関係だった。


それなのに、今では違う。


そんな気持ちは、いつ、どこで、俺の中に芽生えたのだろうか。


いつの間にか、この学校の教師をそこまで憎く思っていない自分の感情に気付くと、なんだかくすぐったいような気持ちになった。


だが、それは、悪い気分ではない。


「…ま、ありがとな、先生」


だから、なんとなく、俺はそう言った。なんとなく顔を見ながら言えるようなセリフでもなく、そっぽを向きながらになってしまったが。


「ん? なんだって?」


担任が、俺のセリフに仰天していた。


…そんなおかしなことを言っただろうか。


「岡崎、もう一度言ってくれ」


「それじゃ、他の教師にも結婚式に出てくれって頼まなきゃいけないから、もう行くんで」


恥ずかしいセリフを二度言う趣味はない。


「今先生って……なんだって? 他の教師にも?」


「そう。他の教師の分も、プレゼントを作ったから」


「おまえ…本当に変わったなあ」


俺の様子に、呆れたように息をつく。


「悪いかよ?」


「いや…」


ゆっくりとかぶりを振って、ニヤリと笑った。


「応援しているぞ、岡崎。がんばれ」


「言われなくても、勝手にやるさ」


俺は哄笑する担任に背を向けると、歩き出した。


歩きながら、後ろの笑い声を聞きながら。


俺も、口の端が緩むのを抑えることができなかった。








536


授業をうつらうつらと半分夢を見ながら聞いていると、やがて周囲がざわめき始める。


どうやら、授業が終わって昼休みに入ったようだった。俺は大きく欠伸をしながら目を開ける。


「朋也、あんた、なにやってんの?」


「…欠伸をしてる」


その目の前に、怖いお姉さんが立っていた。杏は腰に手を当てて、呆れた目で俺を見下ろしていた。


俺の見当外れな返事に、彼女は大げさにため息をついた。


「あんた、噂になってるわよ。教師にヘンな彫刻をプレゼントして回る馬鹿がいるって」


「…」


今日は休み時間のたびに、教科担任や行き会う教師にヒトデをプレゼントして回っていた。そのせいで、ヘンな噂を立てられているらしい。


「そんなに話題になってるのか」


ま、普通に廊下で渡しているから、人目にはついたかもしれない。とはいえ、人通りが少ないところにわざわざ連れていくというのもわけがわからないし、仕方 がないだろう。


「さっき移動教室で合唱の子たちに会ったんだけど、あの子たちも知ってたわよ。あんたが敏腕ヒトデ営業マンに転職したって」


「…」


敏腕ヒトデ営業マン…。


嫌な異名が校内に広まりつつあるようだ…。


「別に、大したことじゃない。気にしないでくれ」


「ま、いいけど…」


俺は席を立つ。


「腹減った。資料室に行こうぜ」


「ええ、そうね」


言い合って、行くぞと声をかけようと、横の席の春原を見る。


「ぐがあぁぁぁ…」


寝ていた。


ここいつは授業中だろうと昼休みだろうと、ただひたすらに惰眠をむさぼっているようだ。


「ねぇ朋也、こいつ、学校に何しに来てるの…?」


杏は呆れたように口の端を歪めた。


「寝に来てるんじゃないのか?」


「でも、寮でも寝てばっかって聞いたけど」


「寝るのが好きなんだろ」


「朋也…陽平って、何のために生きてるの?」


「そりゃ、眠り続けるため…」


「…そんな悲しいこと、聞きたくないわっ」


「あの…早く春原くんを起こさないと、お昼休みが終わっちゃいます…」


漫才をしていると、横に来ていた椋が苦笑しながら仲裁に入った。


「そうだな、起こすか」


「ええ、そうね」


すぐさま気を取り直して、俺と杏は拳と足で春原に危害を加えた。


「ってあんたら酷いわっ!」


さすがにすぐ起きる。


「おはよう、陽平」


「目覚めはどうだ?」


「おかげさまで、最悪です…」


疲れたように息をつきながら体を起こす春原。


「あの、春原くん、授業はちゃんと聞かないといけないと思います…」


椋がやんわりと注意する。


「はは、大丈夫。僕、睡眠学習をマスターしてるからさ」


調子のいいことを言って笑った。


テストで泣きを見るだろうが…いまさら言っても遅い。


ま、いいか。


「さ、行こうぜ」


元気よく先陣を切る春原。俺たちは顔を見合わせて肩をすくめると、その後を追った。







537


「あ、先輩、こんにちは。敏腕ヒトデ営業マンにはなれたんですか?」


資料室に入ると、原田がにっこり笑ってそう言った。


…半ば予測していたが、この嫌な呼称の元凶はお前か。


「なるか、んなもん」


言い捨てて、俺はいつもの席に着く。もうほとんどの部員は集まっているようだ。俺たちが来る前にこの話でもしていたからか、他の連中も笑って話を聞いてい る。


「ですけど、さすがにヒトデじゃ先生に中間テストの問題を教えてもらうワイロにはならないと思いますよ。チョイスがマニアックすぎます」


尻馬に乗る杉坂も半笑いだった。


「うるせぇよ、カッパ野郎」


「か、か、カッパじゃないですっ。もうあれは終わりましたどうしてほじくり返しますかっ」


すぐさま、真っ赤になった。簡単な奴だ。


そんな様子に、仁科がくすくすと笑う。


「てか、本当にそんな話題になってるのかよ…」


つい嘆息してしまった。さすがに気が重くなってくる。


「まあ、インパクトはありますから」


仁科がフォローするように言ってくれるが、全然フォローになっていない。


「わたしも、噂は聞きましたよ。朋也さん、頑張ってくださいね」


有紀寧は普通に応援してくれる。


「朋也くん、どうしてヒトデを配ってるの?」


「気にしないでくれ。俺が勝手にやってることだ」


あんまりせっつかれても、うまく説明ができない。何せこいつらは風子のことを覚えていないのだ。


話を逸らす。


「ともかく、飯食おうぜ」


…とはいうものの、まだ渚が来ていなかった。そういえば、いつもは結構B組の前を通ると出てきたりするものだったが、今日はそんなことはない。


ま、購買が混んでいるのかもしれない。まだ、今はちょっと遅いというくらいだ。渚同様そっちに寄っている春原も、まだ来ていないし。


「…」


しばらく待つと、資料室の引き戸を開けて春原が入ってくる。


「あれ? 渚ちゃん、まだなの?」


「ああ。購買、混んでたのか?」


「いや、普通だったけど」


「…」


なんとなく、嫌な予感がした。


何もないならば、当然、この時間はもうここにきていておかしくはない。


「渚ちゃん、どうかしたんでしょうか」


「先生に呼ばれてるのかもしれないわよ」


たしかに、ちょっと所用が、というのはありうる。


だが…。


「渚のクラスに行ってみる」


俺は席を立つ。


「先に飯食っててくれ」


言うが早いが、資料室を飛び出した。


昼休み、今は生徒たちはもう食事時で、あまり歩いている姿はない。中庭には春の日を浴びていくつかの生徒のグループが輪になって昼食を囲んでいる。


通り過ぎる教室や学食から喧騒が聞こえてくる。


だが、俺の心は冷えていた。


嫌な予感がする。猛烈に、嫌な予感が。


三年B組のクラスに入る。


もちろん、この時間だ。生徒たちはグループに分かれて弁当を食べている。


視線をめぐらすが、渚の姿はない。


「おい」


手近な生徒に声をかける。創立者祭の準備で何度も話をしたことがある男子生徒だ。


「岡崎? どうかしたのか?」


「渚はいないか?」


「古河? そういや、授業中に調子が悪いって保健室に行って、その後は帰ってきてないなあ」


「さっき保健の先生が古河の鞄を持ってくのを見たぜ」


一緒に弁当を食っていた他の奴が口を挟む。


「だから、多分、体調崩したとかで帰ったんじゃないのか。保健の先生に確認しなきゃわかんないけどな」


「…」


体調を崩した。


ずどん、と心が暗くなる。


俺は顔をしかめながら、思い出していた。創立者祭が終わってすぐに、渚が体調を崩したことを。


ここ最近の渚の調子はよさそうだったからひとまず安心していた。だが、たしかに、今朝は渚は少し体調が悪そうだった。遅くまで勉強をしていたと言っていた から、寝不足なのかと思いこもうとしていたかもしれない。


だが。


渚は、もう、今年は通学ができないかもしれない。


そう考えてしまうと、俺の心はひどく冷えた。


秋の学園祭でも何かやろうと、部員で笑って話をしたというのに。


…だが、今ここで絶望しているわけにもいかない。


今はとにかく、渚の顔を見たい。


「岡崎、どうした?」


「保健室に行ってみる」


「あ、おいっ」


俺は礼も言わずに踵を返して保健室に向かった。


柔らかな春の日差しが、今の俺にとっては冬の光にさえ見えた。


世界が、周囲が穏やかであればあるほど、俺の心は荒く荒んだ。


ひどくひどく、嫌な気分だ。


今は何とか、渚の顔を見てみたい。


ただただそれを考えて、足早に校舎を行き過ぎる。


そして、普段めったに寄り付かない保健室にたどりつく。


ばん、と慌てて扉を開ける。


大して広くもない保健室だ。今はベッドがカーテンで隠されているということもなく、視線をめぐらせればそれだけで中の様子はすぐわかる。


ひとり、保険の教師が昼食を食べているのみだった。渚の姿はない。


「なに? どうしたの? そんなに慌てて、誰か怪我したの?」


「あ、いや、そうじゃなくて…渚は来てないのか?」


「渚…って、ああ、古河さんね。そうか、お見舞いか」


やっと、得心したような表情になる。


だが、すぐに申し訳なさそうに顔をしかめてみせた。


「彼女、体調が悪そうだったから、家に帰ったわよ」


「…」


保健の教師が言葉が、呪詛のように俺の脳裏に響いた。


慌てて彼女の姿を追っても、俺は影すら踏めていない。





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