531
放課後になった。
ホームルームが終わって、担任が教室を出ていくと空気が弛緩する。すぐに友達同士でわいわいと集まって、いくつか雑談する集団が生まれる。いつものこと
だ。そんな喧騒を余所に鞄に教科書を詰め込む。いつもは教科書など大抵置きっぱなしだが、さすがにテスト前にまでそんなことはできない。
周囲から漏れ聞こえる話の内容は、テストの話。そのまま参考書を広げて自習を始める生徒の姿もある。一週間後にはテストなのだから、当然だろう。
鞄に物を詰め終わったとほぼ同時、椋が傍までやってくる。
「岡崎くん、放課後です」
…言われなくても、わかっているが。
椋を見上げると、はにかんで笑っていた。
「ああ。杏のとこに行くか」
鞄を持って、立ち上がる。
そんな俺たちを、春原が不思議そうに見上げた。
「今日って部活はないんでしょ? どっか行くの?」
「昼も言ってただろ。クラスの打ち上げの場所取りだ」
打ち上げの会場を有紀寧の友達の店を借りる話になっている。その詳細の話し合いだ。
「ああ、そういや、そんな話もあったね。ま、がんばって。僕は放課後どうしようかな…」
気のない調子で応援される。春原はいつも部活に行っているせいで、いきなり放課後を自由時間にされてしまうと何をすればいいのか悩んでしまうようだった。
定年退職したサラリーマンみたいな感じだ。…ま、勉強しろと言いたいところだが、絶対しないので言っても意味がない。
とはいえ、こいつがそれほど部活になじんでいるというのも驚きだ。
「あの…春原くん、部活やる前はいつも放課後に何していたんですか?」
椋が尋ねる。勉強のべの字も口にしないあたり、こいつも春原に自主勉などは期待していないらしい。賢明だ。
「どうだったかな。商店街をぶらぶらしたり…」
「あとは通行人とバトルしたりな」
「したことないっす」
「あの、春原くん、それすっごく危ないと思います…」
信じてしまった!
「こないだバトルに負けて『腹が減るとその辺の雑草をつまむ』とかって称号を付けられてた」
「春原くん…」
椋は憐れんだ目で春原を見た。
「だから、してないっす」
春原は息をついた。
「…ま、久しぶりにゲーセンでも行こうかな」
「ゲーセンか…」
最近何度か行っているが、プリントシールで写真を撮っているばかりで昔よくやっていたような対戦ゲームにはあまり触っていない。つい春原に付き合いたく
なったが、さすがに自分の用事を放っておくわけにもいかないな。
ま、時間があいたら春原でも誘っていくことにする。
「じゃ、行こうぜ」
「はい。…あの、勉強もしてくださいね」
最後に、やはり心配なのか、そう付け足しておく椋。
「大丈夫大丈夫」
まったく安心できない調子で、春原は笑った。
…ま、後で苦しむのはこいつだから、いいか。
俺たちは連れ立って教室を出る。春原は帰って行って、俺たちは隣のクラスへ。
「杏は…」
いた。E組のクラスメートと話をしている。
「お姉ちゃん」
椋が杏に声をかけた。こいつのイメージからして、別のクラスに入るにも物怖じしそうな気もしたが、そんなことはないようだ。
合同でクラス展の準備を進めているうちに、こちらのクラスも自分の庭のように感じるようになったのだろう。思い返してみると、最近は休み時間とかに結構D
組に他のクラスの奴らが来ているのも目にする。
そんな光景は、別の世界の記憶ではないものだった。もちろん、クラスの間での交流が全くなかったわけでもないだろうが、明確な壁があった。だが、いつの間
にかそれがずいぶん薄いものになっている。
そんな立役者が誰であるかなどは、きっとみんなわかっている。
創立者祭。合同の喫茶店。それがこの学校の空気を変えた。
声をかけられた杏は、こっちを見るとにこっと笑う。
「あ、来てくれたんだ。ありがとね。…それじゃ、あたしそろそろ行くわ」
「うん。今度の打ち上げの準備だよね」
「よろしくね、委員長」
クラスメートと言葉を交し合う。
杏が自分の机に鞄を取りに行っている間、友人たちはこっちに声をかけてくる。
「椋ちゃんも、打ち上げの準備までありがとう。よろしくね」
「うん、行ってくるね」
「貸切っていうのが、すごいよね」
「期待してるから」
「岡崎くんも、よろしくね」
「…え? 俺?」
ボーっと成り行きを見守っていたが、話を振られて少し驚く。
最近は、そういえば、俺自身と周囲との壁も薄くなったような気がするな。こうやって声をかけられることが増えた。
「うん、そう。よろしくね?」
不良に向けるような警戒した様子ではなく、単に、同級生に声をかけただけ、という様子。
「ああ…」
どうせ向こうに行っても、突っ立っているだけのような気もするが。とりあえず、頷いておく。
「朋也〜、あんた、もうちょっと愛想よくできないの…」
そこに、鞄を持った杏が戻ってくる。呆れ顔だ。
どうやら、今のやり取りを遠くから見守っていたらしい。傍迷惑な守り神みたいな女だ。
しかし、愛想よくなどと言われても…
「…」
俺は考えてみる。
そして。
「…ああ、任せなっ☆」
輝く光のエフェクトでもかかりそうな爽やかさで答えてみた。
「…」
「…」
「…」
…静かになった!
「愛想よくしても、こんな扱いかよ」
「極端すぎるのよ、あんたは…」
「あ、あの、私はとってもいいと思います」
「あっそ…」
俺はさっさと歩きだす。
「行くぞ」
「あ、はいっ」
「はいはい。みんな、それじゃね〜」
藤林姉妹がその後に付いてくる。
532
昇降口で待っていた有紀寧と合流して、商店街へ。それまでにも何度か来たことのある喫茶店を訪ねる。
当然、今の時間は営業中だ。学校帰りの学生などでそれなりに混んでいるようなので、とりあえず案内されるままに客席につく。
「ゆきねぇ、悪いわね。しばらくしたらひと段落つくと思うから、少し待ってて」
注文を取りに来たのは有紀寧の友人の女性だった。俺とも何度か会ったことがある人。
「いえいえ。全然、構わないですよ」
「はい。押しかけているのはあたしたちの方ですから」
「忙しい時に、すみません」
少女たちが口々に言う。
俺は黙って趨勢を見守っていたが…杏が咎めるように俺を見た。
「朋也、あんたもなんか言いなさい。…さっきはあんなに愛想よかったのに」
最後の方は、笑い声になっていた。その隣の椋も思い出し笑いをしている。
「さっきは愛想がよかった? …岡崎君、照れずに愛想を振りまいてくれていいのよ」
店員にまでそう言われる。何度も会話をしたことがあるので、かなり気安い調子だ。
「するかよ…」
寒い空気はもう御免だった。俺は口の端を歪めてメニューに目を落とす。
「朋也さんはそのままでも十分、爽やかですよ」
そんな様子に、くすくすと笑いながら有紀寧がフォローしてくれる。
「あぁ…っ、なんていい子なの、ゆきねぇっ!」
「なんであんたが感動してるんだよっ」
やはり、ヘンな人だった。
…ともかく、注文を済ませて、やがて頼んだものがやってくる。
「で、打ち上げをどういう風にするかは考えてるのか? 予算とか」
コーヒーをすすりながら、聞く。
杏は鞄から手帳を取り出した。意外にファンシーな手帳だ。
「結構儲かったから、一人千五百円とか二千円くらいまではカバーできそうよ。人数によるけど」
「予算は三千円くらいで考えているので、そのカバーできない分が会費になります。だから、千円とか千五百円くらいが会費になると思います」
「…」
こいつら、経営者にでもなった方がいいんじゃないだろうか。
この双子のマネジメント能力の高さを垣間見た。
…ま、それは創立者祭の準備をそつなくこなしているあたりからもわかっていたが。
「おまえら、大学なんて行かずに商売でも始めたらどうだ」
つい、そう言ってしまう。
「あはは、そしたら、あんたを雇ってあげる」
「重役で頼む」
「あたしは能力主義がモットーなの」
「あっそ…」
「わ、私は看護婦になりたいので…」
俺が本気で言ったとでも思ったのか、椋は慌てた調子でそう言う。
「そういえば、椋、あんた今日バイトでしょ? 時間はいいの?」
「うん。七時からだから」
「こんな時期もバイトしてるのか」
テスト前だというのに、大変そうだ。
「はい。創立者祭の準備でちょっと休んでいたので。テスト前でまたずっと休むわけには…」
そう言って、はにかむ。
そんな調子で成績が維持できるのか、などとも思うが、杏も過度に心配している様子でもないし大丈夫なのだろう。おそらく、普段から勉強しているからテスト
前だからと言って慌てて詰め込むほどのものでもないのだろう。俺とは大違いだ。
…というか、そんな調子の椋に勉強を教えてもらうというのもなんだか申し訳ない話だな。せいぜい、一緒に勉強する時は面倒を少なくするようにしよう。
…それからしばらくして、次第に客数が減ってくる。学校帰りの学生がいなくなったからだろう、客はぽつぽつというくらいになる。
「お待たせ」
忙しい時間帯は終わったという様子で先ほどの店員の女性がテーブルにやってくる。エプロンも外して、手にはアイスコーヒーを持っていた。ここで同席して話
し合いになるようだ。
「あ、すみません」
「全然待ってないですから…」
「それじゃ、ぱっぱと決めちゃいましょうか」
それから、本当にぱっぱっと話が進んでしまう。
ドリンクは持ち込みにして料理だけ提供にしようとか、何時から何時までを貸切にするかとか、料金はどうするかなど…。
基本的には杏が渉外役で、時折椋が話題の軌道修正をしたり、質問を挟む。さすがの姉妹のコンビネーションだった。多分、創立者祭の準備をやっているうちに
こういうことに慣れたのだろう。
で。
…案の定、俺は蚊帳の外だった。というか、交渉のテーブルにつくことはそもそもこの姉妹に期待されていないようだった。とはいえ、たまに話題はふられるか
ら忘れられているわけではないだろうが。
「なんか、俺、いなくてもいいな」
「はは、それを言うなら、わたしもですから」
こそっと耳打ちすると、横で宮沢が苦笑する。ま、俺たちは両者の橋渡し役、というくらいの立場だからな。ここにいることに意味はある、というくらいのもの
だ。
有紀寧もあまり話に入ることはない。そもそもが当日の打ち上げなど関係はないのだから当然だが。それでも、全然退屈した様子など見せずにニコニコと話を聞
いているあたりはさすがという感じがする。
「有紀寧も今の時期も友達の店を手伝ったりしているのか?」
「はは、さすがにわたしはこの時期は勉強していますよ。成績を下げてしまうと、親が心配するので」
「心配ねえ」
親が心配する、という言葉さえ新鮮な感じがする。親父は俺の成績など頓着していないからな。元々、成績に期待などはしていない感じもするが。
オッサンや早苗さんも、あんまり成績に一喜一憂するタイプではないから、有紀寧の家の状況をうまく想像できない。オッサンたちの場合は、テストの点数より
は断然渚の体調が心配だったというのもあるだろうが。
「そういや、頭がよくなるおまじないとか、ないのか?」
「あったら、わたしももう試しています」
苦笑する。
有紀寧の持つおまじない百科には何でも載っている印象だったが、さすがに万能ではないらしい。
「あの…もしよろしければ」
伺うように俺を見上げる。
「おまじないはありませんが、一緒に資料室でテスト勉強しませんか?」
少し恥ずかしそうに、そう言った。
…資料室は、ほとんど人も訪れないような静かな環境だ。たしかに、勉強をするにはもってこいだろう。コーヒーも出てくるし。
「それは魅力的なんだが、実は椋に勉強を教えてもらう約束があって」
「ああ、そうなんですか。残念です」
「でも、勉強する場所として使わせてもらえるのはいいかもな。図書室だと、他の奴らが多いし」
そもそも、椋と勉強する話だってそこまで進んでいるわけでもない。図書室は放課後になると自主学習をする生徒であふれかえるので、気安く勉強を教わったり
するような環境ではない。
「はい、大歓迎ですよっ」
俺の言葉に胸に手を当てて嬉しそうに笑った。なんだか、それだけでいいことをした気分にさせるような笑顔だった。
…そんな気持ちも長続きはせず、前の方から視線を感じた。
真剣に打ち上げのスケジュールを練っていた三人が、微妙な視線を向けてきていた。
「ほら、あんたたちも、会話に参加しなさい」
「そ、そうですっ。今、メニューはなにがいいかを話しているんです」
「ゆきねぇ、邪魔してゴメンね?」
目の前に、メニューが差し出された。
…こっちは半ば蚊帳の外にされていたのだが、向こうからはふたりの世界を作り上げているようにでも見えたのかもしれない。そう思うと、少し恥ずかしいな。
俺と有紀寧は、ごまかすようにそれを覗き込むことにする。
この店は夜はバーにもなるだけあって、フードメニューもかなりある。とはいえ、酒のつまみみたいなものは除外するとして…。
「へぇ、クレープなんかもあるのか」
「とってもおいしいですから、おすすめですよ」
有紀寧がにっこり笑って言う。さすがにたまにこの店を手伝っているということもあり、詳しいようだ。
「ふぅん…」
メニューを見ていく。
バナナクレープ…
チョコレートクレープ…
プリンセスクレープ…
マハラジャクレープ…
ラストエンペラークレープ…
「途中からおかしいメニューがあるだろっ」
俺はツッコミを入れた。
…というか、このメニュー、なんだか見覚えがあるような気がする。どこでだったか…。
「友達がクレープ屋をやっててね。作り方を教わって、うちの店でも出しているのよ。おいしいわよ」
「へぇ…?」
自分の口の端が疑わしげに歪むのがわかった。
「これは高すぎるから、却下。…ま、名前は面白そうだけど」
こっちが口を挟む前に、切って捨てられる。とはいえ、杏はちょっと名残惜しそうだった。
ためしに値段を見てみると…
「げ…」
たしかに値段もその名前にふさわしい高さだった。見なかったことにする。
「ま、から揚げとかポテトとか、そういうのでいいんじゃないのか?」
定番だろう。
「そうね。あとはこのチーズ盛り合わせっていうのも気になるけど、高いわねぇ…」
ページをめくりながらよさそうなメニューを拾っていく。
「ええ、いいチーズだから」
「半額にならない?」
「そんな安売りしたら、儲けがなくなるわよ…」
こういう場になると、杏の商人の血が騒ぐようだった。
…そうしてメニューを見ながら料理を決めていき、それを元に大体の相場を出す頃にはもう夕暮れ時になっていた。
現時点で話し合える部分は詰めてしまい、俺たちは店を出た。
533
バイトがある椋は早足に帰って行って、有紀寧ももう帰るようだった。
残された俺と杏は、なんとなく、肩を並べて夕暮れの街を歩いた。打ち上げのこと、創立者祭のこと、テストのこと、部活のこと。話題はいくらでもあった。
無人の公園を見つけて、ふたりベンチに腰掛ける。
「…なんか、前にも同じようなシチュエーションがあったような気がする」
「あたしも、同じことを考えてたとこ」
しばらく前のことだ。杏ふたりで並んで公園で、こうして話をすることがあった。
そういや、あの時…。
杏は、俺にこう尋ねたのだ。
俺のことを好きな奴がいたら、付き合うのかと。
あの時の俺にはわからなかった。今の俺にもわからない。
かつては、過去に舞い戻った状況に混乱して、未来を見据える余裕もなかった。今は、多くの未来に道を閉ざされ、先を見据える余裕もない。
はっきりと状況が変わっても、俺が混乱し続けていることは変わらない。
俺の周りの少女たち。彼女らはきっと、俺のことを…。
だが、今の俺にそれに答える余力はなかった。俺は選び取ることを恐れている。選択肢を目の前にして、立ち止まっている。
そのことを考えると、頭を抱えてしまいたい気分になる。
隣の杏も、その時俺にした質問を思い出しているのだろう。言葉を重ねず、考え込むような素振りだった。
…未来、か。
そう思い、嘆息してしまいたい気分になる。
自分の前に立ちはだかる可能性について考え始めて、何日か経った。だが、それでも、未だにそれは冷たく俺を弾き返すようだった。まだ、俺はそれを直視でき
ていない。
過去を受け入れて未来を見据えたことみ。
自らの目標をはっきりと見据える智代。
俺は彼女らの姿を眩しく眺めていた。その姿は、未来に怯えた俺にとっては、希望のように思えるものだ。
「あの時は、あたしたちが創立者祭で出し物をやろうって話をした日だったわね」
杏がぽつりと言う。
「ああ…そうだったっけな」
がんじがらめに悩んでしまいそうな思考を断ち切る。俺は改めて、かつて杏と一緒に公園で話した時のことを思い出す。
あの日はたしか、初めて創立者祭で出し物をしようと提案した日の、放課後だった。
最初は、クラスメートの間には出し物をやろうという空気はなかった。創立者祭で出展するための話し合いに集まった人間は、見通しを暗くするほどの人数でし
かなかった。
そして、それが雪だるま式に膨れ上がったのは傍から見て痛快なほどだった。
「最初は全然人がいなくって、さすがに焦ったわね。でも、最終的にはうまくいって、本当によかったわ。未来ってわからないわね」
「…」
未来って、わからない。
そんな何気ない言葉が俺の胸を刺した。
俺にとってその言葉は、単なる創立者祭の思い出話以上に重みを伴って響いた。
「創立者祭がどうなるかわからない状態でそんな話をして、不安じゃなかったのか?」
「そんなの、不安だったに決まってるじゃない」
ついそう聞いてしまう俺に、今だから笑えるけど、と杏は言う。屈託ない表情だった。
「でも、不安だからやらないっていうのも勿体ないって思って」
「へぇ…」
あの時の杏と椋は、事態がどう転ぶかわからないが、前に進んだ。三年生が、出展すること。それはこの学校では明らかに歓迎されないようなことだろう。
だが、その努力が、人の輪が、校内の空気を変えて成功までさせた。
「おまえは、すごいよ」
俺は素直にそう思う。
「全然、普通よ」
杏は顔をしかめて吐き捨てる。
「あたしがすごいんじゃなくって、周りが助けてくれただけ。あんただって、あの時、フォローしてくれたじゃない。そのおかげよ。それに、あたしも、他に不
安に思って何もできてないことだってあるわよ」
そう言うと、ちらりと俺に視線を送る。
微かに熱のこもった視線だった。
杏と椋。双子の気持ちの板挟み。…つまりそういうことなのだろうか。
その気持ちは、今の俺にもよくあてはまるものだと思った。
選び取ることで失う未来。選ばないことで失う未来。すべてを手に入れることはできない。
「…そういう気持ちは、どうすればいいと思うんだ?」
その悩みの一因は俺のはずだが、それでもついつい聞いてしまった。杏の出す答えを、俺は聞いてみたかった。
彼女は少し、口の端を噛む。脳みそを絞るように深く考え込む。
そしてやがて、小さく息をついた。
「どうもこうもないわよ。正しいと思ったことをするだけじゃない」
「その正しいことは、どうやって決めるんだよ」
「決められないなら、悩み足りないだけじゃないの」
「…」
悩み足りない。
そうなのだろうか。
そうかもしれないが。
未来を不安に思うなど、相応の努力をしてから感じるべきなのかもしれない。
その言葉を、咀嚼する。
未だ悩んでいる俺には、すぐには飲み込めない言葉だった。
だが、それでも、心のある部分に、そんな言葉は収まった。
もしかしたら、自分はそんな言葉を望んでいたのかもしれない。
はっきりと答えが出ないならば、答えが出るまできっちりと悩めばいい。それは現状に対する保留かもしれない。だが、決して消極的な保留ではない。
「…って、なんで朋也なんかとこんな真面目な話をしなきゃいけないのよっ」
杏ははっと顔を上げて、頭を振る。
「ああ、もう、なんか調子狂っちゃったわ。帰る」
いつも馬鹿話している奴を相手に真面目な話をしてしまったから、今になって照れているのだろうか。
杏は鞄を手に取ると、早足に歩いていく。
「じゃあね、朋也」
最後にちょっと振り返り、はにかんで俺を見た。
「ああ…。また明日」
答えると、満足そうに笑って歩き去っていく。暮れ始めた日差しが彼女の長い髪を梳くように輝いた。
後姿を見送り、そのまま、俺はしばらくベンチに座り、物思いにふけった。
…たくさんの未来について。
未だに俺は、正しいことがわからない。正しい選択があるかどうかさえ分からない。
それならば、まだ悩み足りないのだろうか。俺は未来を選び取ることから目を背け、未だきちんと悩んでいないのだろうか。
…それは、そうかもしれない。ただただ荷が勝ちすぎて、目を逸らしていたことだ。
俺の将来。
その未来。
それを見据えること。
きちんと、考え尽すこと。
それは新しい視点であり、新しい光明だった。
俺は立ち上がって、歩き始める。なぜだか少し、身が軽くなっているような気分だった。
創立者祭が終わった、夜。俺は絶望的なまでに未来のあることを知った。
その可能性に対して、俺は心を閉ざした。目を閉じた。耳を塞いだ。未来などいらないと思った。
だが。
ことみが見つめた未来。智代が目指した未来。杏が手を伸ばした未来。
その一端に触れ、俺は、導かれるように自分の未来に向き合えるような気になっていた。まずは、きちんと向き合って、考えてみること。そこから始めればい
い。すぐに答えを出すことを求められているわけではないのだ。悩めるうちには、悩んでいればいい。
歩き慣れた道を帰途につく。
帰り道。俺は将来のことを思った。
全て未来はわからない。それは当然のことだ。そこに希望を読み取るか、絶望を読み取るか。それは個人の資質みたいなものだろう。
そうだ。未来がわからないなど、当然のことだ。
俺はやっと、そのことを実感として知ることができたような気がした。
夕暮れ。
俺は後ろに伸びる自分の影を振り返って、通り過ぎてきた町並みを見た。どこにでもあるような、いつもの、見慣れた町並みを。
傾く日差しに照らされて、その景色はきらきらと輝いて見えた。ここにあるものがとても大切なものに思えた。
買い物帰りの人の姿。家々から漏れ出る匂い、話し声。
日常の風景。何でもないようで、だが、かけがえのないもの。
それを見て、不思議な気持ちになる。郷愁とは違う、切なさとは違う。何かもっと、大きな気持ちだった。創立者祭での劇の物語に触れた時に感じたものにも似
た、心の震え。
それは風のように、俺の心を通り過ぎていった。
前を向いて、また歩き出す。
口の端にはかすかな笑みが浮かんでいた。
俺は…
やっと、少しだけ…未来に対する身の振り方が、わかったような気がした。