496
制服に身を包んで、家を出る。その時。
「朋也」
「ん? 親父?」
靴を履いていると、後ろから声をかけられる。
振り返ると、親父が少し戸惑ったような様子で俺を見ていた。
「なに?」
「なにというわけでもないんだが…」
咳払いをして、そっぽ向く。
「いってらっしゃい」
「…」
俺はぽかんと口を開け、親父の姿を見上げた。
だが、すぐに笑顔になる。
そんな言葉を掛けられて驚いたが、それはもちろんいい変化だ。創立者祭の日のことが、少しずつ物事をいい方向に転がしてくれているような気がする。
「ああ、いってきます」
返事をすると、親父はほっとするような表情になった。
「勉強、がんばりなさい」
そう言葉を重ねる。
「え? 勉強? あ、ああ…まあ…」
そっちへの反応が鈍くなってしまった。俺が真面目に授業を聞いていないことを察したのだろう、親父は苦笑してみせた。
「はは…。まあ、しっかりな」
「ああ…」
言葉を交わして、家を出る。
日差しは暖かだ。風はあるが、春の陽気という感じ。
創立者祭は無事終わり、今日からまた日常が続いていく。
俺にとっては、新たな彩をもった風景だ。
そこでうまくやっていければいい。
緑風に顔を上げると、見慣れた通学路を歩き始めた。
497
「朋也さん、おはようございます」
「ああ、おはよ」
通学路で有紀寧に会った。
挨拶を交わして、自然に隣に並ぶ。
「昨日は、ゆっくり休めましたか?」
そう尋ねられ、俺は苦笑する。昨日は朝からことみの家に行って、その後は商店街で遊んでいた。正直、普通の休日よりも活動していたような気がする。
ま、商店街で仁科たちに会ったのは偶然だったが。
「…?」
苦笑する俺を見て、有紀寧は首をかしげた。
「実は、遊びまわってた」
「元気いっぱいですね」
有紀寧はくすくすと笑った。
「おまえはどうしてたんだ? 家でのんびりしていたとか」
「はは、実はわたしもお友達と遊びに行っていました。はじめは、家でゆっくりしていようかと思っていたんですが…」
そこまで言うと、彼女の表情が少しだけかげる。
「なんだか、胸がざわざわするような気がしまして、それで気分転換に」
「へぇ」
俺みたいだな。
「もしかしたら、部活の方が一区切りついてしまって、それでちょっと落ち着かなくなってしまったのかもしれませんね」
「まあ、そうだな…」
一応、秋にもまたなにかやろうという話をしている。
だが、それは九月のこと。正直、まだまだ先だ。今すぐ何かというような状態ではなく、どことなく宙ぶらりんな気持ち。祭りの後の切なさと言うのだろうか。
「歌劇部、どうなるんでしょうか」
「さて、どうだろうな」
全然見当がつかない。
そもそも、渚が倒れてしまうと部活の継続は立ち行かなくなるだろう。秋にもう回復というのも考えづらい…
あれ?
待てよ。
俺と渚と春原の三人で創立者祭の舞台を作り上げた、あの時。渚はその後病に倒れてしまい、回復にはかなりの時間がかかった。
だが別の世界では、そういうこともなく、普通に学校生活を続けていた記憶もある。もっとも、そちらの記憶では創立者祭で演劇などは達成できていないという
違いはある。
渚の体調。
それすらもさまざまな世界で事情は異なり、結局、俺は今後の見通しなどは全く立てることができないことに気付く。
「朋也さん? どうしました?」
「いや、ちょっと考え事。渚がさ…ちょっと前に、病気から復学しただろ?」
「はい、そう伺っています」
「色々忙しかったから、こう…区切りがついて疲れがきて、体調崩したりしないかなって思ってさ」
「ああ、たしかに…それは心配ですね。ほっとしてしまって、体調を崩すというのもありえますね。これから暑くなってきて季節の変わり目ですし」
「だな…」
渚の看病をしていて、特に夏場は苦しそうだった。暑くても、冷房をガンガンかけることすら体の負担になると言われてしまっていて、水分補給をしながら寝込
むしかなかった渚の姿を思い出す。
「今は、部活の方もちょっとお休み、というくらいでもいいかもしれませんね」
「ま、終わったばっかだしな」
「そうですねぇ」
俺たちは、ふたり、呑気に言葉を交わしながら通学路を歩いていく。
498
坂の下で渚と合流。
「あ…岡崎さん、宮沢さん、おはようございます」
渚は俺たちの姿を見るとぺこりと頭を下げた。
「おはよー」
「岡崎君、遅刻しなくなったのには理由があったんだね。坂の下での待ち合わせなんてね」
「創立者祭お疲れ様」
「それじゃ、行こっか」
きゃぴきゃぴ。
渚は、女生徒たちと一緒にいた。
多くが、顔くらいしか知らない奴らだ。この感じだと、渚のクラスメートだろうか。
「ああ…おはよう」
俺はおののきながら、なんとか挨拶を返す。
女子たちが輪になって、朝から元気で楽しそうだ。
彼女らも創立者祭が終わって気が抜けているのか、あるいはお祭りを通して渚との微妙な距離感も縮まったのか。なんにせよ、いい変化なのだろう。
「岡崎、有紀寧ちゃん、おはよっ」
少し離れたところで手持ち無沙汰にしていた春原が、俺たちの姿を見ると安心したように笑って近付いてくる。女子に囲まれていたたまれなかった様子で、俺は
少し同情心が湧く。
「春原さん、おはようございます。一昨日はお疲れ様です」
「朝から大変だったな」
女子の集団に一瞥を送って、言う。
「ま、いいけどね。渚ちゃんも、最初クラスで浮いてたって聞いたけど、結構うまくやってるみたいだし」
こいつも渚の身の上は心配してくれていたらしい。目立たないところで、気を遣う奴だからな。
「別に、どうしようもない不良とかで留年してるわけでもないんだし、話してみればわかってもらえるだろ」
だが、かつては話してみるところまで関係を進めることもできなかったのだ。そう考えてみると、こうして渚が級友と自然に笑い合えているのはまるで奇跡みた
いに思える。
「まあね…。僕たちみたいなのが留年なんかしたら、とてつもないワルだと思われて人なんて寄り付かないだろうね」
それも望むところ、というような笑いを浮かべながら言う春原。
「わたしは、気にしませんよ。春原さん、とても優しい方ですから」
「ははっ、そう言ってくれるのは有紀寧ちゃんだけだよっ」
「こいつが留年したら、世話してやってくれ」
「するかっ」
「はい、わかりました」
「いや、そこはわかってくれなくてもいいっス…」
坂の下、仲間を加えて賑やかに。
俺は足を進めながら、手前、同級生たちと仲良く歓談する渚の姿を見て、つい笑顔がこぼれた。
少なくとも、俺はこの時間に舞い戻り、かつてどの世界にもなかったようなこんな状況を作り出すことができたのだ。
そう思うと、少しだけ、救われたような気分になった。
499
校門をくぐり、昇降口を過ぎて、校内に入る。
校内の様子を見渡すと、先日の創立者祭の名残は既に綺麗に消え去っていた。
べたべたと出展のポスターが貼られていた掲示板がまだぽっかり場所が空いたままになっていて、それが祭りの名残をかすかに匂わせていた。
夢見る校舎が、夢から覚めたようだ。
そしてそれは、そこに通う生徒たちも同様か。
「なーんか、物足りない感じだね」
「だな…」
周囲を見回して、春原が言う。こいつも同じことを考えていたようだ。
「はあ、やることもなくなっちゃったし、どうしようかねえ」
つまらなそうに口を尖らせてそう言った。
始め部活を嫌っていた春原だが、今ではもう部活動は楽しいことだと思えているのだろう。
「なにか楽しいことでも探してみればいいだろ」
「ま、そうだね…。何か始めてみようかな。音楽とかさっ。やっぱ、楽器やってる男って、超モテモテじゃん?」
「全然長続きしそうにないんだが…」
別の世界の記憶だが、芳野さんに影響されてギターを始めようとして、すぐに飽きていた姿を俺は知っている。
「何のお話ですか?」
靴を履き替えて追いついてきた有紀寧が俺たちを見比べる。
「ね、有紀寧ちゃん。有紀寧ちゃんも、楽器をバリバリ弾けちゃう男はカッコいいと思うでしょ?」
「はぁ…。ばりばり、ですか」
首を傾げて春原を見て、俺を見る。
「ごめんな、馬鹿なんだ、こいつ」
「なんのフォローだよ、それっ」
「ですけれど、何かに打ち込んでいる姿は、とても素敵だと思いますよ」
にこにこと優しいことを言う有紀寧。
「やっぱそうだよねっ。僕がバリバリギターとか弾く姿を見たら、有紀寧ちゃんも僕のこと好きになっちゃうかもしれないよっ」
春原の方は、勝手なことを言っている。
「上達したら、ぜひ見せてくださいねっ」
有紀寧も愛想よくそれに答えていた。
そんな姿を見て、俺はなんだか不安になる。
可能性があるとも思えないが、彼女が春原に惹かれるということもあるのだろうか。
は、まさか。などと鼻で笑いたい気分になるが、それでも思い浮かんでしまうと一度へばりついた不安ははがれない。
別に俺と有紀寧は付き合っているわけではないが、それでも俺には彼女に恋した記憶が胸の中に宿っている。あまり嫉妬する方でもないと思うのだが、いやに気
になってしまう。
「どうせすぐに飽きるだろ」
ついつい、そんなことを言ってしまう。
そんなセリフに有紀寧は相槌みたいにくすくすと笑って、その後、じっとこっちを見上げてみせた。
…なんだか、内心を見透かされているような気がする。
「もっと続きそうなのをするってのはどうだ。バイトとか」
なんだか胸がざわついて、話の矛先を別の方へ向けた。
「うん、そういうのもいいかもしれないねぇ。夏までにお金貯めて、その時できてる彼女と旅行とかさっ」
春原の方は、こっちの様子に気付いちゃいない。能天気な奴だ。ありがたいが。
「それなら、わたしのお友達のお店は今アルバイト募集中ですよっ」
有紀寧がぽん、と手を叩いた。
「ええ…? 有紀寧ちゃんのお友達の店…?」
それを聞いて、春原の表情が少しこわばった。
「はい。わたしも時々手伝っているんですけれど、とても楽しいお店ですよ」
「…」
「…」
黙ってしまう俺たち。
その店、俺は行ったことはないが、別の世界の俺は、ある。
あれは、有紀寧と付き合ってからのことだ…。有紀寧からパーティがあるとお誘いを受けてのこのこと行ってしまったのだ。
その時の記憶がフラッシュバックする。
『ようこそいらっしゃったぜ、岡崎ィ…!』
『このパーティのメインディッシュは…てめえだああぁぁーーーーーっ!!』
『みんな、かかれーーーーっ!!』
『おおおぉぉぉーーーーーーーーーーーっ!』
「…」
ああ、なんて懐かしくも忌まわしい記憶だ。
俺はなんとなく、遠い目をしてしまった。別の世界の俺も、大変だな。
ま…それで後悔もしていないだろうけれど。
「はは…。実はお金に困ってないからさ…」
春原も似たようなことを考えたのか、そんなことを言い出した。ま、賢明かもしれないが…。
「それなら、朋也さんはどうですか?」
こっちに矛先が向いた。
「おまえがいるのは正直魅力的だけど、ひとまずそんなつもりはないよ。悪いな」
「いえいえ。三年生ですし、お忙しいですよね」
「ま、そうかもな…」
そんなこともないのだが、頷くしかない。
しかし、マジでこれからどうなるんだろう。将来のことは見当もつかない。
さまざまな選択肢を知ってしまった今、その可能性が逆に俺の未来を圧迫している。
考えても仕方がない。誰かに相談でもできれば気も休まりそうなものなんだが。
つい、そんなことを考えてしまう。
ぼんやり歩いて、その視線の先には同級生と話をしながら歩いている渚の背中。
たとえ未来がわからなくても、手にした現在は守っていきたい。
かつて一度失った彼女の背中を見ていると、俺はそんなことを思ってしまった。
500
クラスに入る。
中を見回してみると、なんだか普段よりも登校している生徒の数が多い。
「ああ、岡崎、春原」
俺たちの姿を見ると、近くにいた男子生徒が顔を上げる。
「よう」
「ああ」
「おっす」
投げやりな挨拶を交わす。
「なんか、人多いな」
思ったことを言うと、相手は苦笑してみせた。
「最近の癖でな」
「ああ、なるほど…」
先日まで、創立者祭の準備でクラスメートたちは早く登校していた。なんとなく、その習慣が残ってしまったのだろうか。
とはいえ、それで浮き立ってわあわあ騒いでいるというわけでもなく、普通に自習している奴も結構いる。楽しんだから一区切りつけて、受験勉強に本腰を入れ
ようという奴も多くいるのだろう。
しばらく三人で会話をして、窓際、自分の席について中を見渡す。
教室の前方の方には、人だかり。椋の占いでもやっているのだろう。
「おまえもなんか占ってもらえば?」
「占いなんて、興味ないよ」
横の春原に聞くが、どうでもよさそうな返事だった。
「岡崎の方こそ、なんか占ってもらえば?」
「俺?」
自分が占ってもらうなど、全然考えてもみなかった。
だが…椋の占いは当たるし(ただし反対に)、今後の指針としていいのかもしれない、という気分になる。だが、どうしようもない結果が出たりしたらかなり
ショックだ。
魅力的ではあるが、あまり知りたくはないな。
つい考え込んでしまう。
そんな俺の姿を、占ってほしいけれど尻込みしているとでも思ったのか、春原が大声を上げた。
「おーい、椋ちゃん! 岡崎が占ってほしいってっ」
自習をしていたクラスメートが迷惑そうに顔を上げるが、春原は気にした様子もない。
女生徒の集団の真ん中にいた椋はびくっと肩を跳ねさせたが、周囲の生徒たちに声をかけてわたわたとこちらにやってくる。
「す、春原くん…っ。自習している人もいますっ」
「あぁ、ごめんごめん」
叱られても悪びれた様子もない。どうしようもない奴だ。
「岡崎が占ってほしいってさ」
「馬鹿、誰もそんなこと言ってないだろうが」
「あれ、そう? なんかそんな感じだったけど」
「気のせいだ」
などと言い合いをしていると…
「あ、あの…」
椋が口を挟む。
「順番にやっているので、すみません…」
「いや、いいよ。悪いな、忙しいとこ」
「いえ…。あの、おはようございます」
思い出したように挨拶。
「ああ、おはよ」
「創立者祭、お疲れ様でした」
そう言ってにっこりと笑った。
「おまえの方こそ、お疲れ様」
「そうだね。僕たちより椋ちゃんの方がよっぽどがんばってたからね」
「いえ、部活の方はいただけでしたから…」
謙遜するように手を振る。
「それを言うなら、俺だって本番は見てただけだぞ…」
などと話をしていると、俺たちの間を通り過ぎる影がひとつ。
そいつはそのまま、俺の前の席に荷物を置く。
「…おはよう」
前の席の、変態の男だった。
だがなんだか元気がない。
「お、おはようございます…?」
椋が挨拶を返しながら憔悴した様子に首をかしげている。
「どうしたんだ、おまえ?」
やけに元気がなくて、ついそう聞いてしまう。
だが、男は曖昧に笑うだけだった。
「いや、なんか、昨日からさ…心に穴が開いたような気分なんだよ」
「病気とか、ですか?」
「いや、喪失感っていうのかな。なんだか、本当の自分を失ったような感じだよ」
「そりゃ、創立者祭が終わったから、寂しいってだけじゃないの?」
春原があまり興味もなさそうに言った。だが、俺も同感ではある。
祭の後の寂しさ、というところだろう。
「そうなのかな…」
男は首を傾げていて、納得しきれていない様子だった。
「意気込んでたからな、おまえのヒトデ屋」
「ま、そうだな…」
気のない返事をして、前を向く。
…。
…あれ?
こいつの屋台の…ヒトデ屋?
頭の奥がちりちりと疼く。
ヒトデ…
「…」
…。
「ホームルームを始めるぞー」
脳裏に何かが像を結びそうになった時、慌しく教室のドアが開けられて担任が入ってくる。
「ふわ…僕は寝るよ」
春原は早速机に突っ伏した。
「あ、私も、それじゃ」
椋も自分の席に戻っていく。
俺は急に現実に引き戻されたような気分でぼんやりと辺りを見回した。
…ええと。
今俺は、何を考えていたんだっけ?