folks‐lore 05/12



488


目を覚ますと、じっとりと汗をかいていた。


俺は体を起こすと、不快に張り付いたシャツの袖で汗をぬぐう。


そしてそのまま、しばらくぼんやりとしていた。


窓の外、日差しは柔らか。


世界は俺の気分などはお構いなしに回っているようだった。


昨日のことを思い出す。


渚の実家で創立者祭の打ち上げをやって、その帰り。ありえないはずの汐の姿を見た。


その姿を追って、行き着いた先で見知らぬ…だが、なぜか懐かしい少女と言葉を交わした。


そして…。


どうやって自宅に帰ってきたか、記憶が途切れている。


最後…あの世界に、狭間のような世界にひとりで取り残されてから…俺は、どうやってここに帰り着いたのだろうか?


わからない。


思い返しても、ぶつ切りされたように記憶がない。


夢だったのだろうか。


いや…。


そうであってほしい気持ちがあるが、それはありえないという確信があった。俺が昨晩手に入れた記憶は、圧倒的な質量を持って自分の身の一角を既に占めている実感がある。


嘘か真かをを吟味するつもりはない。それどころではない。


だが、今は…そんなことよりも。


俺は思い返す。


昨日…汐の姿を追いかけて、あの少女と交わした言葉を。


そして、俺の心の内に眠っていた他の世界の記憶を思い出していく。


虫干しでもするみたいに、一つ一つを丁寧に並べていく。


別の自分の記憶たち。


渚と過ごした時間は、俺にとってただひとつのかけがえのないものだった。


だが、世界はひとつではなく、未来の可能性も無数にあるということを俺は知ってしまった。


そして、自分がその全てを選び取ることもできないのだと、俺はわかってしまった。


自分は未来の一端を知ってしまった。その上で、可能性の取捨選択を迫られている。残酷なほどに容赦なく、俺は決断を迫られている。


今思い返しているだけでも、昨日の衝撃がよみがえる。


…俺の未来。


それは一体、なんなんだ。


…。


ダメだ。


わからない。


何も考えたくはない。


足を止めて、心を閉じてしまいたい。


本心からそう思った。そうしてしまえれば、どんなに楽だろうか。


だが、そうするわけにはいかない。


そんなことしても、後でもっと大きな後悔を抱えることになることを、俺は既に知っている。


そうだ。


汐。


俺は渚を失った時、残された汐を拒絶した。俺はひとりで逃げ出したのだ。


もう、あの時のようなことは繰り返さない。繰り返してはいけない。


遅々とした歩みだろうが、俺だって少しはあの頃と変わっているのだ。


なにか。


今すべきことを。


優先順位をつけて、上からひとつずつ片付けていこう。


そうやって行動していって、一息ついてあたりを見回せば、きっと事態は好転しているはずだ。


何かをやり始めた方が、考え込んでいるよりは健康だろう。


そう決める。指針が立てば、いくらか心も落ち着いた。


俺は改めて自分の記憶を吟味する。


いくつもの世界の自分の記憶。


それらは綺麗に順序だてて覚えているというわけでもなく、とりとめもない。切れ切れの記憶だ。




…占いの機械に手を置く椋。

…よろよろとサッカー部のボール拾いをしている芽衣ちゃん。

…勝平と馬鹿話をしている道すがら。

…独りとけるアイスクリームを眺めるお祭りの日。

…春原の部屋で古臭いゲームをしている俺たち。

…女生徒の幽霊の話をするクラスメート。

…ろくに仲良くもない男たちに愛想笑いをする自分。

…白球を追いかけるみんなの姿。

…飛行機雲を見上げることみの瞳。 




はっとした。


大事なことを思い出した。


「ことみ…」


そうだ。


明日はことみの誕生日だ。


その記憶を起点にして、ことみと過ごした日々が脳裏に蘇る。


これまで、俺はことみのことを少しも思い出していなかった。


昔、俺と繋がりがあったという様子をみせる、一風変わった天才少女。


昨日まではそんな風に考えていたが、今ならわかる。かつてあったこと。そして、ことみが俺をどんな目で見ていたか。



…。



小さい頃、俺は友達と遊んでいた時にことみの家の庭に迷い込んだ。


そんな縁から、あいつの家に足しげく通うようになったのだ。


学校では聞けないような話をしてくれる、ちょっと変わった女の子。


ことみは当時から引っ込み思案で、学校でもなかなか友達ができなかったが、俺とはすんなりと友達になることができた。


いつもあの庭で待ち合わせていて、彼女も自分の家に相手を呼んでいるという気安さがあったからだろう。余計な騒音もなく、俺たちは素直に心を通わせることができた。


そして、遊ぶ様子を温かく見守ってくれていることみの両親の姿。


ああ、どうして忘れていたのだろうか、その優しい彼らの微笑みを。


だが、そんな楽しい日々は長くは続かなかった。


その原因は、誕生日だ。


ことみの誕生日を祝おうとして、だけど…。


「…」


俺は別の世界の自分の記憶を思い出しながら、嘆息する。


悲しい出来事だった。そしてそれは、きっと現在にも尾を引き続けている。


それを、終わらせなければならない。


俺にしかできないことがあるはずなのだ。


今やるべきことが、見つかった。


そうなれば、話は早い。


俺はさっさと身支度をして、家を出た。







489


思えば、既に現在はあの時とは違っている。


別の世界では、俺とことみが出会って、その周囲に他の少女たちが集まり始めていた。


あの時は創立者祭よりも前の時期に通学路での交通事故は起こっていたはずだ。その出来事を発端として、ことみはもろく壊れやすい現実を再確認し、自分の殻にこもってしまった。


だが実際。この世界ではそんな事故は起こっていない。別の世界の記憶を探ってみても、そんな事故があったという記憶はない。


つまり、世界によってその事故が起きたり起きなかったりするのだ。バタフライ・エフェクトとでも言うのか、俺個人の行動がめぐりめぐってそういう出来事を起こすのかもしれない。


あるいは、世界そのものがある種の揺らぎのようなものを抱えていて、ある出来事の有無を決めるのかもしれない。そんなものは、わからない。


大事なことは、あの時のことみを取り巻く事情とは大きく状況が違っているということだ。


あの時と違い、ことみは自分の殻にこもったりなんてしていない。


むしろ、部活動を通して多くの仲間に囲まれていたり、昨日のクラス展などでたくさんの人間に関わったりするなどして、状況はずっとまともかもしれない。


対話すらままならなかったあの時とは…いや、あの世界とは…決定的に違う。


それが、どんな違いを生むのか。


わからないな、やってみなければ。人と人とのつながりなのだ、すべてに予測がつくわけない。だからこそ、かけがえのないものなのだが。


自分の知らない未来への一歩。


そう思うと、俺の足はすくんだ。その先は、闇だ。その一歩先に、崖があるかもしれない。


だが、このままことみを放っておくことなどしたくない。


未来が恐ろしいことに変わりはない。俺はいつだってそれを恐れていた。だが、それ以上に失ってしまいたくないものがあるのだ。


それに俺は随分ことみを待たせてしまった。


きっとあいつは、ずっと俺を待っていた。


子供だった時から、あの悲しい誕生日の日から。そして図書室で再会したあの日から。


これ以上、あいつを待たせるわけにはいかないだろう。


だから、ともかく、心を決めるしかない。


俺は考え事をしながら、町を歩いていく。


いつものなんてことない景色だ。


うちの生徒は創立者祭の振り替え休日だが、世間は平日。この時間の住宅地だから、行き交う住人の数はあまりない。今は通勤・通学の時間が終わって少ししたくらいだから、まだまだ外で活動する人は少ないようだ。


なんてことない静かな町並み。


だが、今の俺にとっては、たくさんの思い出がそんな風景に刻まれている。


別の世界の記憶が、いくつも思い出される。


この町を、俺は、様々な少女と並んで歩いていた。


楽しかった記憶、幸せだった気持ち、悲しい感情、やるせない予感。全てが俺の中にある。


ああ、何を見ても何かを思い出す。


それが自分の心をずきずきと突き刺した。


考えすぎるのはよくないことだ。そう自分に言い聞かせる。


今は。


まず一つ一つ、やるべきことをやっていこう。


今は、ことみのことを考える。それ以外は、ひとまず置いていこう。


俺は器用ではないのだ。まずはこれと決めた物事に向き合っていくしかない。






490


普段は足を踏み入れない住宅地。


高級住宅地などというほどのものではないが、俺の実家があるあたりよりは立派な家が多い地区だ。


そこに、ことみの家はある。


あいつの家は、このあたりでもかなり大きい方だ。


白塗りの鉄柵に囲まれた、二階建ての大きな家。


視線をめぐらせながら歩いていると、すぐにそれは見つかった。


俺は思わず、駆け寄って表札を確認する。


『一ノ瀬』


間違いない。


庭の方を覗き込んでみる。


いつかの記憶と同じように、荒れ果てている。


ここは、とても大切な場所なのに。俺とあいつの、思い出の場所なのに。


今では雑草がはびこって、あの頃の面影などはなかった。


俺はそれを、とても悲しいことだと思った。


しばらく庭を眺めていたが、気を取り直す。


俺は表札の横にあるインターホンを鳴らした。


ベルの音が家の中で響いているのが、かすかに聞こえてくる。


俺はひとつ息を付いて、緊張を和らげようとする。


ことみに、過去のことを思い出したと伝える。待たせてしまってすまなかったとわびる。


そして。


悲しいことは嫌でも、それでも一緒に前を向こうと、あいつに言ってやりたい。


…俺は今では、心の底から、ことみの気持ちがわかる。嫌なことをやり過ごしてしまいたくなる気持ちがわかる。


辛い出来事に、目を向けるのは大変なことだ。それも、たったひとりでとなると、ほとんど不可能なことに思える。


だから俺は、あいつの手をとって、一緒にがんばっていきたいと思った。


ひとりでなければ、がんばれる。


たくさんの人が集まれば、もっと色々なことができる。


ふたりで、それを知って行きたいと思った。


考え事をしていると、玄関の方から物音がする。


「はあい」


そして、いつものように、という気安さでことみが玄関の扉を開けた。


「わ」


そして、俺の姿を見ると、目を丸くする。


その反応は当然だ。昨日までことみの家がどこにあるかなども知らなかったはずなのに、いきなりこうして訪ねてきている。そもそもアポも取っていない。


「よう」


一報くらい入れたほうがよかったな、という気もするが、電話番号も知らないし仕方がない。


俺は彼女を抱きしめたいような愛おしさを感じた。俺がこの時間に迷い込んだ時、坂の下で渚に出会った時のように。


だが、それをこらえていつものような素振りを装う。


手を上げて、声をかけるだけに留める。


ことみはぽかんとしばらく俺を見ていたが、やがて気を取り直す。


「朋也くん、おはようございます」


手を前にやって、ぺこりとお辞儀をした。


Tシャツ姿。私服は結構ワンピースだったりするから、ラフな格好が珍しい。


「おはよう、ことみ」


挨拶を返すと、にっこりと笑う。そして、首をゆっくりと横にかしげた。


「今日は、どうしたの?」


「おまえに言いたいことがあって、来たんだ」


「言いたいこと?」


「ああ。それはな」


「と、朋也くん」


性急に言い募ろうとする俺を見て、ことみも感じるものがあったようだ。大事な話が始まるとわかったようだ。慌てたように、言葉をさえぎる。


唐突すぎて、ことみの心の準備ができていないのかもしれない。


彼女からすれば、すべてが突然だろう。


「中に、入って。お茶出すから」


「あ、ああ…」


少し、気を削がれた感じになる。だが、ことみの姿を見た時から胸が高鳴り冷静ではなかったから、一度クールダウンするのはいいことかもしれない。


ありがたい申し出だと思うことにして、俺はことみに招かれるままに玄関をくぐった。



…。



家の中は清潔でよく片付いている。


家具は重厚で趣味がいい。これ見よがしではないが、金がかかっている印象だ。


…こう言っちゃなんだが、俺の家とは大違いだな。


準備があると言って行ってしまったことみはまだ戻ってくる気配はない。リビングに通された俺はソファに座って落ち着かなく辺りを見回す。


部屋の隅の棚には絵皿が並べられている。高そうで触れない。


窓には…ずっしりしたカーテンがかけられている。


おかげで朝の日差しはさえぎられてしまっている。庭の様子を思い出す。その景色を見ないためにカーテンをしっかりと閉めているのだろうか。そんなことに思い及ぶと、室内を照らす明かりが白々しいものに感じた。


腰を上げて、カーテンを開けてみる。外からの日差しが中に差し込む。


そして見える庭は、草がはびこり花壇は見えず、白いガーデンチェアがうらぶれた様子で片隅に転がっている。


朝の光に洗われてもなお、それは寂しい光景だった。


また、思い出の庭を取り戻してやりたい。


俺は立ち尽くして庭の現状を眺めながら、そんなことを思った。


「朋也くん」


小さな足音と共に、ことみが俺の隣に並んだ。


「ことみ」


彼女を横目に見ると、黒いワンピースに着替えていた。


言っていた準備というのは、格好のことだったのか。


「その服…」


俺は、思い出していた。


この庭を再生しようとしていた世界のことだ。ことみと共に過ごした世界のことだ。


庭の修復が終わりに近づいていた時。俺はこの庭の中で眠りこけてしまい、目を覚ますとことみがこの居間から俺を優しく見ていた。


俺はそれを、まるで夢のようだと思った。


それが幸せな夢だと思ったのだ。


その時のことみの姿が、今の彼女と重なった。


「うん…」


俺の言葉を受けて、頷く。


照れたような様子で、自分の着ている服を見る。


「朋也くんとふたりきりで会う時は、この服を着ようって決めていたから」


「似合ってる」


そう言うと、ことみははにかんで少しうつむく。


「それに…」


俺は彼女の姿を見て、言葉を続ける。


「似てる」


「え?」


「俺たちが初めてあった時も…そんな、大人っぽい服を着ていたな」


初めて、俺たちがこの庭で出会った時も、彼女はこんな服を着ていた。


ことみは目を見開いて、俺を見た。


俺は昔のことを思い出しというのは、今の言葉で伝わったようだ。


「朋也くん…」


ことみは小さくつぶやいた。思わず、というように俺に寄り添うと、きゅっと服の裾を掴んだ。


俺は、ずっとふたりの思い出を忘れていた。


ここでかつて過ごした楽しい時間を心の底に埋めてしまっていた。


ただ、自分自身がその思い出が辛いから、と。


それ以上に辛いはずの、ことみのことなどは考えもせず。


ことみの誕生会に友達を連れてくるという約束が果たせなかったのに、それを謝ることもなく。


全てを忘れて、再会しても、思い出す素振りすらもなかった。


ことみは俺を責めてもいいはずだ。彼女にそれくらいの権利はある。殴ってくれてもいい。それくらいされて当然だ。


だが、彼女にそんな素振りはなかった。


おっかなびっくり不器用に距離を縮めた。ただそれだけだった。


ことみは潤んだ瞳で俺を見た。


口元にかすかに笑みが広がっている。


「うれしい」


しばらく黙っていた彼女が、小さくつぶやく。


「とっても、とっても、うれしいの」


「ごめん。おまえのこと、俺はずっと忘れていた。俺たちは、前に会っていたんだな」


ことみは、こくりと頷く。


「思い出すのに、随分かかったな。すまない」


「ううん」


ことみはふるふると頭をふった。


「あの日…。図書室で、朋也くんと会った日、すぐに気付いたの。朋也くん、私のこと、忘れてるって」


「…」


「でも、あれから、私のことを初めて会った女の子として大切にしてくれて、たくさんの人と楽しく過ごせるように色々してくれて、それで…わからなくなっちゃったの。朋也くんに、昔会っていたことを思い出して欲しいのか、忘れたままでいて欲しいのか」


俺は黙って彼女の言葉を聞く。


辛い過去を忘れたままでいたほうが幸福か。それも見据えて全てを知っていたほうが幸せか。


「私には、どっちがいいことなのか、わからなかった」


「…」


俺にも、わからない。


彼女の言葉は胸に沁みた。覚えていること、いないこと。知っていること、いないこと。幸福はどちらにあるのだろうか。


「でも、朋也くんがこの服のこと褒めてくれて、小さい頃のことを初めて口に出してくれて、とってもとってもうれしかったの」


ふわりとことみは微笑んだ。


「どっちがいいかはわからないけれど、それでも私はうれしかった」


あまりに純粋な笑顔。俺にはまぶしすぎるほどに。


「だから、朋也くん。思い出してくれて、ありがとう」


俺にはそれに返事をすることができない。


過去も未来も全ての可能性も、今の俺にとっては痛みを伴うもので、彼女の笑顔を素直に受け止めることができない。


少なくとも、今はまだ。





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