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三階まで上って、A組でことみと、B組で渚と別れ、俺と椋と春原は連れ立ってD組へ。
クラスに入ると、今日も準備をする生徒たちの姿がそこここに見られる。
今はもう準備も大詰めだ。それでも今になってでてくる仕事というのもあるようで、結構忙しいのが見て取れる。
俺たちがクラスにはいると、途端、椋の元に何人かの生徒が集まってくる。
「委員長、おはよう。あのさ、本部に置くチラシなんだけど、枚数ってどれくらいにすればいい?」
「おい、藤林。こないだ見せてもらった当日のシフトなんだけど、ちょっと直してもらいたいんだよね」
「藤林、昨日頼まれていた看板の修正を確認してくれ」
口々に話しかけられて、椋は慌てたように順番に聞きなおして、指示を出したり他の担当へまわしたりし始める。
…大変だな、総責任者というのも。まだ席にすら着いていないのに、仕事はそれも待ってくれないようだった。
俺と春原はその輪からそっと抜け出る。
クラスの中を見渡しつつも、自分の席へ。
まだホームルームまでも時間はあるのに、多くの生徒はもっと早くから登校してきていたのだろう、作業に熱中している姿も多い。それに、他のクラスからの参加者も相変わらず多い。
「…ん?」
そこで、その中に意外な人物がいるのを見つける。
サッカー部の部長が、手元に何か資料を持って椋に熱心に質問をしていた。
…見間違いだろうか?
ぽかんと相手を見ていると、向こうも視線に気付いたようでこっちに顔を向ける。
目が合うと、露骨に嫌そうな顔をした。
「勘違いするなよ、岡崎」
「…」
「藤林に頼まれたから、ちょっと手伝っているだけだ」
弁解するような言葉だった。
「わかったわかった」
「まったく、俺も暇じゃないんだけどな」
「わかったから…」
男は小さく舌打ちをすると、また椋の方に向き直った。
「参加したいなら、素直にそう言えばいいのにねぇ」
隣で春原がせせら笑うようにそう言う。
「ま、僕はどうでもいいけどね」
「…」
今までは、相手がサッカー部というと憎しみを持った顔をしていたものだが、そこまでのものではない。
もちろん、もう気にしていないというわけではないだろう。
それでも、少しは気持ちの折り合いをつけたのかもしれない。
いつも傍にいるとはいっても、俺にこいつの心中の葛藤などはわからない。
だが…。
前よりは、今の方がずっといい。
ただ、そう思った。
411
昼休み。
今日も今日とて、部員たちが昼食を食べに資料室に集う。
「あーっ、もう、休み時間も全部明後日の準備ばっかりで、気が休まらないわ」
「今が、最後の準備だから」
杏は机に顎を乗っけて疲れたようにそう言う。椋も苦笑している。
まあ、休み時間のたびに様々な問題が持ち込まれているのは見ていたし、それも仕方がないだろうな、と思う。
明日にはもう実際の設営に入るから、その前に下準備については終わらせてしまわなければならないはずだ。今が一番忙しい時なのかもしれない。
「杏ちゃんも、椋ちゃんも、疲れてる?」
ことみが二人を心配そうに見る。
「ま、ちょっとね。でも、今日と明日をがんばれば、本番だから」
「はい、正念場ですね」
「そうなんだ…」
ことみはそんな様子を見ていて…すぐに、ぱっと表情を明るくした。
そして、傍らからヴァイオリンを取り出す。
「それならふたりに…」
言いながら、すちゃ、とそれを構えた。
「今日のリラックスタイム〜」
「死ぬわっ!」
杏が身を乗り出してことみにちょっぷをした。
「!?!?!?」
いきなり襲われて、ことみは涙目になっていたが…杏の判断は正しいと思う。
「さ、ことみさん、ごはんですよー」
「…うん」
宮沢に言われて、素直に席につく。
騒いでいるうちに全員揃い、机の上には弁当がのっていた。俺の目の前にも、仁科の弁当がある。
「それでは、みなさん、手を合わせてください」
場がまとまったのを見て、渚が言う。
「いただきます」
「「「「「いただきます」」」」」
その言葉に一同唱和して、今日も昼食が始まる。
「というか、ことみ。そのヴァイオリンはまだおまえのじゃないんだろ? どこに置いとくんだ?」
もう昨日でコンサートも終わったし、ひとまずは必要ないだろう。すぐにでも第二回のコンサートをやるとなると当然手放さないだろうが、(幸い)そういう話もない。
「今日、りえちゃんにお返しするの」
「はい。それで、一度音楽の先生に確認をとってみます。もし譲っていただけるようでしたら、明日くらいに修理に出そうと思っています」
「色々、ありがとう」
「いえ、元々、この子のことは私が持ち込んだ話ですから」
仁科はそう言うと、優しい眼差しでヴァイオリンを見る。
決して、高級品ではないのだろう。練習用のものだといっていたし。
それでも、俺たちにとって価値あるものであることに変わりはなかった。
「もらえるといいわね、それ」
「…うん」
ことみはそっとヴァイオリンを入れているケースを撫でる。そんな様子を、杏も目を細めて見ていた。
「昨日、お父さんも褒めていました。あんなに衝撃的な演奏を聴いたのは初めてだって」
「ほんとう? とってもとってもうれしいの」
「…」
渚とことみのあたたかな会話を、何人かが顔を引きつらせて聞いている…。
「…椋、クラスの方はどうだ? 準備、かなり忙しそうだったけど、終わるのか?」
俺は心臓に悪い会話から顔を背けて、椋に話しかける。
「ええと、なんとか」
椋はそれに対して、自信がなさそうな笑みを向けた。
「明日の放課後はクラスの内装があるので、できれば今日のうちには準備は終わらせてしまいたいんですけど…」
「ギリギリか?」
「いえ、多分大丈夫だと思います。随分、みなさん手伝いに来てくれていますので」
「そうか」
「…今日の放課後にはちゃんと終わりそうって、すごく準備がいいですね」
話を聞いていた杉坂が口を挟む。
「うちのクラスは、ちょっと今日では…」
「終わらないのか?」
「はい。明日も放課後を丸ごと使わないといけないって話を、さっき教室でしてました」
「というわけで、私たちは今日は前半クラスのお手伝いをして、そのあと部活に来ますね」
「こっちも忙しいのに、しょうがないです」
仁科と原田もそう続ける。
「大変そうだな。お化け屋敷だろ。色々用意するものも多そうだ」
「それもあると思いますけど…やっぱり、杏先輩と椋先輩の段取りがいいんだと思いますよ。他のクラスの友達も、終わらなくて明日にずれ込んでるみたいですし」
「いや、そんなことないわよ。うちは結構人数が集まったから、それでじゃない?」
「私は、全体を見ているだけで実際は皆さんがきちんと進めてくれているおかげなので…」
杉坂が姉妹を褒めるが、ふたりはなんでもないような感じだった。
「伊吹さんのクラスはどう? 準備終わりそう?」
そして、そのまま、風子に話を振る。
そういえば、風子のクラスは校内の飾り付けを担当している、という話をしていたと思い出す。
…即座に緊張する俺たち。
風子はどこのクラスにも所属していないが、そんな事実はあまりに現実離れした話。
かつて、その場の言い訳で風子のクラスは飾り付けの担当、という話をしたことがある。ただ、練った話でもないのであまり突っ込まれるのもまずい。
事故にあって隣町の病院で眠っているという話を知っていることみや宮沢も風子の方を見た。渚も同様な顔をして風子の方を見ているあたり、あいつももう半ばこっちサイドの人間のような気がしてきた。
「…!」
風子はハッとした様子で杉坂を見返した。
「ええと…その…」
風子はしばらく迷ったようだが、やがて両手でぐっと親指を立てて両手を突き出した。
「バッチリですっ」
「あ、そうなの」
杉坂はその反応の剣幕に少したじろぐ。
いつも部室の隅でヒトデを彫ってたり校内を駆け回っているくせにやたらいい返事すぎるからだろうか。
「クラスより、ヒトデ優先とかなんですか?」
「ああ、そっか」
仁科がそんなことを聞き、杉坂は横で納得した顔になる。
風子のクラスメートは彼女が姉のためにヒトデのプレゼントを作っているという話は聞いていて、それでクラスの準備は免除してもらっている…とでも思ったようだ。
風子はそれを聞いて、ふんふん、と鼻息も荒く頷いて場を乗り切る。
…横で聞いているだけで疲れた。
同じように渚も緊張を緩めて安心した顔になっていて、ふと目が合って、俺たちは秘密でも取り交わすようなささやかなアイコンタクトを交わした。
それだけで、こんな感じも悪くないかな、などと思えるから不思議なものだった。
「有紀寧ちゃんのクラスは、なにやるんだっけ?」
「わたしのクラスは、クイズ選手権ですねー」
「クイズ?」
「はい。挑戦者が答えるごとに、段々難しくなっていく、というゲームです」
「へぇ、結構面白そうじゃん」
「陽平、あんたには縁がないわよ」
「一問目から間違えるだろうな」
「…」
俺と杏の波状攻撃に、春原は頬をひくつかせた。
「いえ、雑学みたいな問題が多いみたいなので、勉強はあまり関係ないですよ。みなさんもよろしければどうぞ」
「ことみ、おまえ出てみれば?」
「??」
「おまえだったら、多分優勝だろ」
「でも、クイズ、やったことがないから」
まあ、熱心にクイズに勤しむ姿は想像できない。
「宮沢、ちなみにどんな問題があったんだ?」
「そうですねー…『創立者祭の創の字、部首の名前は?』」
少しは覚えているようで、彼女の口からはそんな問題が出てくる。
「りっとう」
ことみが即答。
これくらいなら、俺にもわかった。
「結構、簡単なのね」
「初めの方の問題だったはずです。最後の方は、難しくってわたしもよく覚えていませんから」
「春原、おまえはわかったか」
「はっ、僕をなめるなよ…。当然わかるよ」
そういう春原の言葉は、少し震えていた。
「嘘だな」
「嘘ね」
「てめぇら、言いたい放題だね…」
「大丈夫ですよっ。もし難しいようでしたら、中学生向けとか、小学生向けの問題もご用意していますので」
「有紀寧ちゃんも、言いたい放題だね…」
「はぁ、そうでしょうか?」
宮沢は、不思議そうに首をかしげた。
…。
ことみが淹れてくれたコーヒーを飲む。
「うまいな」
「ありがとう」
一口飲んで、感想を言うとことみはにっこり笑う。
俺の貧乏舌では大したことも言えないが、それでも充分満足してくれたようだった。
「明日の放課後、クラスの子たちも連れてこの間の喫茶店に行くのよ」
「みんなを連れて練習に来てくれていいって言っていただいたので…」
喫茶店の料理の方も、色々やっているらしい。わずかな人間しかコーヒーを作れないというわけにはいかないのだろう。
杏、椋、ことみの料理担当たちは明日、リハーサルの後に中座してしまうことになりそうらしい。リハーサルが終わった後何をやるというのを考えているわけでもないので、特に問題はないが。
「がんばれよ」
「うん」
「はいっ」
「…ねぇ、朋也に陽平。そういえばあんたたちも接客の練習くらいしておきなさいよ」
「え?」
「へ?」
急に言い渡された杏のセリフに、揃ってアホ面を向ける俺と春原。
「あと、風子、あんたもね」
「えっ?」
失礼。アホ面がひとつ加わった。
杏はそんな様子を見て、呆れてため息をついた。
「大したことやれって言うんじゃないんだから、最低限接客用語くらいは覚えておきなさいよ」
「そんなのいいじゃん。逆に素の方がよかったりするかもしれないぞ」
「出し物の出店に、そこまでしなくてもいいだろ」
「風子、とても忙しいので、そこまで手が回りません」
口々に文句を言う問題児集団。杏は頭が痛い、というような仕草をして考え込んだ。
やがて、頭に当てていた手を風子に向ける。
「風子、あんたはそのままでいいわ」
「ええっ?」
前言撤回に、春原が不満そうな声を上げた。
「そのままの方が、逆に客が付きそうだし」
いかがわしい言い方はやめろ。
「いや、僕もそうでしょ」
「出し物が人間サンドバックだったら、そのままでいいって言うんだけど…」
「…」
普通にそう言う杏を見て、春原は渇いた笑みを浮かべた。
「明日は忙しそうだし、コーヒー飲んだら練習するわよ」
「マジかよ…」
「が、がんばってくださいっ」
椋が控えめに笑いながらエールを送ってくれる…。
…。
杏にあれこれと接客のイロハを教わったが(よくまあ淀みなく説明できるものだ。バイクを買ったばかりと言っていたし、春休みにでもバイトしていたのかもしれない)、模擬店の売り子なのでそこまで大層なことをやらされるわけじゃない。
基本用語を覚えこまされて、後は基本的な礼や立ち振る舞いについて教わる。とはいえ、それでも処理しきれないほど何でも教え込まれるわけではない。
教わって少し練習したくらいで、なんとなくできるような気分になってくる。ま、練習と本番は違うけど。
「へっ、それくらいだったら楽勝だね」
初め、またどうぞお越しくださいませ、をまたどうぞお菓子をください、と言い切った男が何を言う。
「あんたの自信満々な顔って、人を不安な気持ちにさせるわね…」
杏は春原の様子を、不安そうに眺めていた。
「しかし、変な格好させられるわりに、接客のセリフは普通なんだな」
おかえりなさいませ、などと言わされると思っていたが、そこまでではない。
「そこまでさせるとなると、売り子側がきついわよ」
「なるほどな」
やりすぎるのも痛々しくなってしまうから、そのあたりはバランスなのだろう。それに、短時間でその辺りをみっちり仕込むのは無理だから、それならやらない方がいいということもあるかもしれない。
「お疲れ様でした。そろそろ、予鈴が鳴りますよ」
横でコーヒーの道具などの片付けを手伝ってくれていた仁科が教えてくれる。
「ああ、ありがと。ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
「いえ、いいですよ」
部員たちが各々弁当などを手に持って、資料室を出て行く。
俺と宮沢は、用事があるから、とそれを見送った。
そして、資料室には俺と宮沢が残された。
「すみません、朋也さん。お付き合いいただいてありがとうございます」
「いや、いいよ。授業に出ても、寝てるだけだし」
昼休みがそろそろ終わる時間で、旧校舎から新校舎へ帰っていく生徒たちの喧騒が、隅にあるこの資料室までかすかに届く。
宮沢はいつものように穏やかな表情だったが、緊張しているような様子もあった。
「で、どんな用事なんだ? どこかに行くんだろ」
「はい、そうです」
宮沢は、少し顔を曇らせる。
「これから行くのは…お墓、です」
憂いた表情で、そう言った。