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心地よい眠りが破られる。
ばっさばっさと、布団を持ち上げられる。
「…なにしてんの?」
目覚めきっていない状態で顔を上げると、風子がすぐ脇に立っていた。目を覚ました俺を見て不遜に笑う。
「岡崎さん、いつまで寝ているんですか。もぅ、しょうがないです」
「…」
俺は黙って時計を確認する。いつもより早い時間。
「まだ寝てていいだろ…」
先日の朝、風子を早くから起こしたのが悪い影響を与えたらしかった。昨日も起こしに来たが、更に早くなっている。
いや、昨日夕飯を作ってくれたことも含め、家庭的な女の子が今風子の中でブームなのだろうか。
…すげぇどうでもいい。
俺はまた布団をかぶるが、すぐにまたばさばさと布団を揺らされる。
「わかったよっ、起きるよ…」
犬に噛まれたと思うことにする。俺は体を起こす。
「そんなにぐーたらじゃ、だらしないです。風子、同じ屋根の下に住むものとして、見過ごせませんっ。…なんだか、今、すごくカッコいいことを言ってしまったような気がします」
別にカッコよくなどない。
「おい、風子」
「??」
「おまえさっき言ったな、同じ屋根の下に住むものとして、まだ寝てるのはダメって」
「言いましたけど」
「なら、親父も同じように起こしてこい」
「…」
そう言ってやると、風子はハッとした表情になって緊張が走った。見ていて面白い。
「見過ごせないんだろ?」
さすがにああも歳の離れた親父に気安く起こすというのも少しやりづらいだろう。
だが、それでも風子の性格的に前言を翻せないことを俺は知っている。
「岡崎さん…岡崎さんのこと、風子はこれから卑怯者と呼びたいと思います」
「なんでだよ、おまえが言ったことだ」
ニヤニヤ。
俺は風子の困った顔を見ていると笑顔が我慢できない。
「わ、わかりましたっ」
風子は悔しそうに同意した。
「それじゃ、俺も一緒に見に行くから、ちょっと待ってて」
「待ちませんっ」
ばたばた、と出て行ってしまう。
これでは、面白い場面を見過ごしてしまうかもしれない。
俺はさっさと寝床から這い出ると、風子の後を追った。
…。
親父の部屋。
風子は、いまだ寝ている親父の傍らで立ち尽くしていた。
「さて、どうやって起こす?」
後姿に尋ねると、風子は頬を膨らませたままこっちを向く。
「普通です。こう、ぽんぽんって」
「てめぇ、俺には布団ばっさばっさいわせて、親父にはそれかよ…」
「岡崎さんにはそれで充分です。ジャイアントスタンプをされなかっただけ、感謝してほしいです」
「そんな技も選択肢に入ってたのかよ…」
俺の背中を、冷たい汗が流れた。
「ま、いいや。とりあえず、面白い起こし方を頼む」
「そんなリクエスト、聞きません」
「そうかよ。ま、おまえにはそれも無理ってことか…」
わざとらしくため息をついてみせると、風子はムッとした顔になった。よし、のせられてきている。
「そんな風子をヘタレみたいに言わないでくださいっ。風子、近所の方から、あの子はすごく豪快だねって評判ですから」
どんなご近所だ。
「それじゃ、ぜひ豪快に起こしてみせてくれ」
「勿論ですっ」
俺の手のひらの上で見事に踊っている風子は、もう迷いなどなかった(簡単な奴だ)。
「それでは…ジャイアントスタンプ、いきますっ」
「それは待てっ」
「?」
「それだと、さすがに豪快すぎる。もうちょっとソフトなのにしてくれ」
「とてもリクエストが多いです」
風子は不満そうな顔をする。ジャイアントスタンプ、そんなにやってみせたいのだろうか。
「わかりました…」
そう言うと、風子は傍らからさっとヒトデを取り出す。いつも持ち歩いているのだろうか。
「それでは、ヒトデジャイアントスタンプでお父さんを起こすことにします」
「一応聞くけど、それはどんな起こし方なんだ?」
「このヒトデを、お父さんの顔に落とします」
「…」
「それがヒトデジャイアントスタンプです」
かなり適当な起こし方だった!
というか、それは地味に痛い。
「…俺は知らないからな」
「えっ…」
途端に、風子は見捨てられたような顔になる。
「それじゃ、もしお父さんに怒られたら、風子、ひとりで怒られなきゃいけなくなってしまいます」
「自業自得だろ」
「いえ、これはもう、連帯責任ですっ。一心同体ですっ」
ぐっと俺の服の袖を掴んでくる。
「やだよ、馬鹿」
「…ふたりとも…」
わあわあと騒いでいると、声をかけられる。
「あ…」
「親父…」
いつの間にか、親父が体を起こしていた。
「おはよう。…朝から、元気だね」
「お、おう」
「悪いのは、岡崎さんですから」
「おい、コラ」
お互いに、肘でぐりぐりとわき腹を攻撃し合う醜い二人がそこにいた。
「もう起きることにするよ…」
「それじゃ、朝ごはんの用意があるので風子はこれで失礼します」
「ああ、俺も俺も」
親父の心なしか冷めた視線を受け止めながら、俺たちは足早に逃げていくのだった。
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「おまえのせいで、親父にアホだと思われたぞ」
「大丈夫です。取り繕うことが出来ないくらい、アホさがにじみ出てますから」
「おまえにアホって言われると、マジ腹たってくるんだが」
「でも、本当のことですから」
通学路でも喧嘩…。
「というか、ヒトデジャイアントスタンプって何だよ、落とすだけじゃねぇか。というか、もっとヒトデを大事にしろよ」
「いえ、ヒトデが空から落ちてくるなんて、大いにアリです」
「ねぇよ」
「元々は、岡崎さんがいけないんです。岡崎さんが言うから、お父さんを起こすことになりました」
「いや、その理屈はおかしい。それよりも前に、おまえが俺をあんな早くから起こすのが悪いだろ。それが原因だ」
「屁理屈ばっかりで、子供みたいです」
「子供はおまえだ」
「子供って言うほうが子供ですっ」
「先に言ったのはそっちだっ」
間抜けな姿だった。
409
坂の下に着く。
すでに渚は来ていて、ことみ、宮沢、椋と立ち話をして待っていた。
俺たちの姿を見つけると、彼女らはめいめいに挨拶をした。
「坂上さんは、先に行ってしまいました」
「そうか」
今は、忙しい時期なのだろう。
就任直後で引継ぎもあるし、そもそも創立者祭は生徒会の主導で行われる。
会長になって最初の大仕事ということで、色々やることがあるはずだ。さすがに仕方がないだろう。
「春原は、まだか」
「はい」
「あ、来ましたよ」
向こうを見ていた宮沢がそう呟く。
言われて見てみると、春原がぶらぶら歩いてこっちにやってくるのが見えた。俺たちが待っている姿はよく見えているはずだが、歩くペースはゆっくりだった。呑気なものだ。
「や、みんな、おはようっ」
元気なのが腹立たしい。
一緒に杏か智代がいたらダッシュしてそうな気もするが。
合流してそのまま、坂を登り始める。
「…岡崎さん、ふぅちゃんと喧嘩したんですか?」
隣に並んだ渚が、そう尋ねる。
少し気にするように前を歩く風子を見た。当人は、宮沢と話していて不機嫌そうではないが。
「さっき来る時、なにか言い合っていたみたいだったので」
「いや、大したことじゃないんだけどさ…」
俺はそう前置きをすると、今朝の起こす起こさないでのひと騒動を話してみる。
その話を聞くと、渚はおかしそうにくすくすと笑った。
「おふたりとも、とても仲良しです」
「ええ…?」
俺はつい顔をしかめてしまう。
「別に、仲良くはないよ。いつも、喧嘩ばかりだ」
「仲がよくなくて喧嘩をするのはダメだと思いますけど…でも、仲がよくて喧嘩するなら、とてもいいと思います」
「そうか?」
「わたし、兄弟とかいませんので、おふたりを見ているとなんだかそういう感じなのかなって思います。春原さんと芽衣ちゃんとか」
まあ、俺と風子は兄弟というわけでもないが、言いたいことはわかる。
藤林姉妹のような仲のいい関係ではなくとも、それはそれなりにひとつの関係だということだろう。
「…あの、岡崎さん」
「なに?」
話をしていると、渚の口調が、少し強張ったものに変わる。
不思議に思い隣を歩く彼女を見ると、思い悩むような様子で少し俯いていた。
…この顔は、言い辛いことを切り出すときの表情だ。
「実は、岡崎さんに聞いてみたいことがあるんです」
「ああ、なんだ」
少し、嫌な予感がする。
こちらとしては色々身に覚えがありまくるから、何がくるかよくわからない。
「昨日、ですね、うちのお店に伊吹先生がいらっしゃったんです」
「…」
「それで、わたし、急に思いついてしまったことがあって…」
そのことか、と思う。
俺は周囲を見回す。
手前で風子は宮沢と談笑しているし、後ろでことみ、椋、春原が話をしている。
今なら、話せるだろうか。
いや、そもそも話していいのだろうか。
「岡崎さん。ご結婚されるというふぅちゃんのお姉さんのお名前って、なんていうんですか?」
核心を突く質問。
渚は不安な面持ちで、俺を見上げた。
俺はなんて答えればいいのか考えながら、その眼差しを受け止めた。
…渚は、優しい奴だ。
風子の今の身の上がどんなものであれ、彼女はそれを受け入れてくれるだろう。
だが、と思ってしまう。
今は創立者祭直前の時期だ。渚にとって、大切な時だ。
こんな時にその心を乱すような事件を彼女にもたらしてしまうのは、正直気が引ける。
なんて答えようか。どれが正解なのか。
そんな問いが頭の中をぐるぐると駆け巡った。
そして、何秒かそれを考えていると…渚は俺が答えに窮しているのを見て取って、申し訳なさそうに少し笑った。
「すみません、わたし、変な事を聞いてしまいました」
「ああ、いや…」
「なんでもないです」
「…」
渚の顔は、怒った様子もなければ、失望した様子もなかった。
彼女は、俺が答えられないことさえも、受け入れてくれたのだった。
「…悪い」
「いえ、こちらこそ、すみません」
「ちゃんと話すよ。そうだな、創立者祭が終わったら」
「…ありがとうございますっ」
渚はきっと、正解にほとんど近いところまでたどり着いているはずだ。うちの学校を駆け回る、事故にあった女子生徒の噂は結構有名だから、彼女の耳に入っている可能性は高い。そしてそれは、容易に風子に繋げることのできる噂だった。
だが、俺はついそれに待ったをかけた。
間近に迫る創立者祭。
新しい形で、俺たちがもう一度見た夢。その舞台。
今はまず、その夢を見たいと思った。
その後で、今度は風子のためにいろいろと動いていこう。
「お話してくださるの、待ってますから」
「ああ」
俺と渚は約束を交わす。
…結局、その約束が果たされることはないとも知らずに。