folks‐lore 05/08



402


オッサンが去って、宮沢もまだ戻ってこず、資料室には俺だけが取り残されていた。


とはいえ、今は一人でいることは幸いだった。なにせ、考えることはたくさんあったのだ。


古河家の、過去についての事情。


それに、ことみの演奏についても引っかかる部分はあった。


それは、どうして俺は最後の曲に懐かしさを感じたのだろうか、ということ。


…俺は、先日ことみの両親の友人と名乗った紳士との会話を思い出す。


あの時、かつて自分がことみと出会っていることを確信した。


だが、正直、まったく自分の記憶に引っかかってくるものはなく、途方に暮れていたものだが…


さっきことみの演奏を聞いて感じたあの気持ち。


多分、俺は以前ことみのヴァイオリンの演奏を聞いたことがあるのではないだろうか。なんとなく、そんな気がする。


しかし、そうは思っても、それ以上何か取っ掛かりとでもいうものが浮かんでくるわけでもなく、そこで手詰まりという状態だ。


そんなことを思い悩んでいると…


唐突に、資料室の扉が開く。


「あら、あら」


年配の女性教師が中を覗き、俺の姿を見ると目を丸くして見せる。知らない教師だった。


「あなた、岡崎くんね。三年生の。ちょうど、あなたを探していたのよ」


「俺を?」


「そうなのよ。あなた、学外の人を中に連れ込んだって聞いたけど、そうなの?」


「…」


どうやら、俺とオッサンを探索していた教師のようだ。


初めはシラを切ろうかと思ったが、しっかりと知られているようだった。だが、そもそも俺に非はないはずだ。そのまま言えばいいかと思い直す。


「一緒にいたのはうちの生徒の保護者です。ほら、今日は前庭でヴァイオリンのコンサートをやっていて…」


「ええ、そうね。わたしも見ていたわ。なんていうか、その、ねぇ、すごい演奏だったけれど」


教師は、しみじみと遠い目をした。


こんな老体にとって、ことみの演奏は毒だっただろうに。寿命が縮まっていなければいいが。


「そこに参加してたんだよ」


「そうね。学生寮の相楽さんとかも来ているのを見たわ。他にも、たしかに外の方がいたかもしれないわ…」


ラッキーなことに、相手は納得しかけていた。


俺は畳み掛ける。


「で、その保護者の人と話していたらいきなり声をかけられて追われちゃったんだよ。その人はもう帰っちゃったけど」


「あら…。それは、悪いことをしたわねぇ」


「いや、ま、しょうがないかもしれないけど」


「ええ、ええ。それじゃあ、こちらの勘違いなのね」


さっき、オッサンが通りすがりの女子生徒に話しかけるという不審な行動をしたが、その情報までは聞いていないのだろうか。それを知らないというのは好都合 だ。


「そうっすね。部活があるんで、そんじゃ、失礼します」


この人がどれくらい教師たちに説明してくれるかはわからないが、それを期待しておくことにする。


俺が資料室を出て行こうとすると、相変わらずの間延びしたような口調で呼び止められる。


「ねぇ、岡崎くん。ちょっとだけ待ってもらえるかしら」


「はぁ」


まだ何か用があるのだろうか。


面倒ごとでなければいいが、などと思いながら相手の顔を見ると、特に強張ったような顔つきでもないし、説教というわけでもなさそうな感じがした。


「仁科さんたちのことなんだけどね」


「は?」


仁科?


いきなりなんで彼女の名前が出るのか。


そんな俺の疑問が顔に出ていたのだろう、教師は笑う。


「あら、いけないわね、急にこんなこと言っちゃ。わたしはね、あの子たちの担任なの」


「ふぅん…」


「だからね、あの子たちが頑張っているのを、ずっと見てきたのよ」


それは、生徒についての話というよりも、孫娘について語るかのような口調だった。


ま、この人からすれば高校生など全員孫みたいに見えてしまうのかもしれないが。


「あなたは、知っているのかしら。仁科さんはね、昔、とっても有名なヴァイオリン奏者だったのよ」


「少しだけ、聞いたことがあるけど」


俺は振り返って、教師を見る。


この人が語っているのは、仁科のことだ。


俺の知らない、彼女のこと。


どうしてそんな話を俺にしようと思ったのだろうか。


「本当はもっとしっかりとした、音楽の勉強を続けるはずだったのよ。この学校じゃなくて、音楽の専門の学校に通う予定だったの」


そこまで話すと、少しだけ表情が暗くなる。


でも、と言葉を続ける。


「でも、事故に遭って、前のようにはヴァイオリンが弾けなくなってしまったの」


握力が弱くなり、今まで目指していた夢が閉ざされてしまった。


「きっと、辛かったのね。進路の紙も、いつも白紙だったし、将来どうすればいいのかわからなかったのね。この間、それで、進路指導室であの子と話をしてい たの。これからの進路は、どうしたいのかって」


「…」


俺はその光景を思い浮かべることが出来る。ひどく、容易に。


なぜならば、俺自身も同じような経験があったからだった。将来どうするかなど、聞かれても知るかという気分だった。


本当に自分に未来が訪れることになるとも思えなかったのだ。はるか先に見える暗雲でしかなかった未来。


俺は進路希望の用紙などはいつも無視していて、そのせいで無理矢理進路指導室に連れて行かれることがよくあった。


「でもね、色々聞いても、あの子は何も言わなかったわ。何も、答えられなかったのね」


「…」


教師の回想に、俺は耳をすませる。


その仁科の姿は、俺と同じ姿に見えた。


「そんな時よ」


ふふ、と口元を綻ばせる。


いたずらを思いついたような表情。


「急にね。隣の部屋から、合唱の歌声が聞こえてきたの」


「…合唱」


「そう。進路指導室の隣は、生活指導室よね。幸村先生は、よくそこにいらっしゃるのよ。それで、わたしたちの指導室があんまり静かだから、誰もいないと 思ったのね。隣で合唱のCDをかけて、幸村先生も歌をうたっていたわ。きっと、お好きなのね」


俺はその情景を思い浮かべようとする。


静かで重く垂れ込めた指導室の空気。


そんな沈んだ雰囲気を吹き飛ばすように、隣の部屋から歌声が聞こえてくる。そして、世界が生まれ変わるように彩りを新たにする。


灰色の世界が、急に色づくような感覚だったのだろうか。


「そうしたら、仁科さんは急に顔を上げて、教室を出て行ったの。すぐ外に杉坂さんが待っていて、きっと、あの子は仁科さんのことを心配して来ていたのね。 急に仁科さんが出て行くから、あの子もびっくりしていたわ。それでね、ふたりと、あとわたしもね、合唱に誘われて一緒に生活指導室に入ったの」


話を続ける。


俺はそれに聞き入る。


歌声に引かれて、三人は生活指導室のドアを開けた。


その中では、幸村がいつものように柔和な表情で音楽を聴いて、歌をうたっていた。


幸村は部屋に飛び込んできた生徒たちの顔を見て、少し考え込むような素振りをした。


きっと、いつもやっているように、顎に手を当てて目を細めていたことだろう。


そして、幸村はこう言ったのだ。


「君も…、音楽が、好きなのかね?」と。


仁科はそれに対して、しばらく、逡巡するような様子を見せた。


彼女はその問いに答えを探した。それはきっと、傍で見ていては想像もできないほど、深く深くまで探し求めたのだろう。


でも、やがて、顔を幸村に向けると少しだけ笑顔を向ける。


そして、言う。


「はい」、と。


仁科は言う。


「とてもとても、好きです」、と。


その言葉を聞いて、幸村は顔をくしゃっとさせて笑った。


そして、CDから流れる歌声に乗って、再び歌をうたったのだそうだ。


それを聞いた後…仁科は、合唱部を作ってみたいと言ったのだそうだ。


進路はまだわからない。でも今は、部活を作って、合唱を頑張ってみたい、と。


ヴァイオリンの演奏を続けることができなくなった少女、仁科りえ。


先の見えない未来に、一筋の光がさしたのだ。


彼女はその時、未来を見据えた。


仁科の心はその時に変わった。杉坂の気持ちはその時に決まった。


…そしてその日から、仁科と杉坂の合唱部員を探す毎日が始まり、演劇部との出会いが起こっていった。



…。



教師は、慈しむような様子でその話をする。


「初めはね、あなたたちと喧嘩をしているって聞いて、心配だったのよ。でもね、すぐにそんなことはないって仁科さんに言われたの」


「そうすっか…」


「あなたたちは、仁科さんを守ろうとしてくれているって」


「…」


そんなことはない。


むしろ逆で、彼女が演劇部を守ろうとしてくれたことだってあったのだ。


「今日、あなたたちを見ていて、とても安心したわ。だから、これからも、あの子たちと仲良くしてあげてね」


「そりゃ、まあ」


「それなら、よかったわ。よろしくね、岡崎くん」


教師はそう言うと柔和に微笑む。


期待されるのは、面映いものだ。


俺はとにかく、頷いてみせるしかない。


こっちはそんな曖昧な気持ちなのに、それなのに相手には随分満足したような顔をされる。


「あら、ごめんなさいね、これから部活なのに、引き止めちゃったわね」


「いや…」


俺は頭を振るう。


「その話、聞けてよかったよ」


「あら、そう? それなら、よかったわ。わたしも、岡崎くんとは一度お話したかったのよ」


「そりゃ、どうでしたか」


「とても、よかったわ。どうしてあなたは、不良なんて言われてるのかしら」


「いつも授業を寝てるからっすよ」


「あらあら」


「それじゃ、もう行きます」


「引き止めてしまって、ごめんなさいね」


「いや…」


それから、俺たちは別れの言葉を交わす。


資料室を出て、俺は部室へ。教師は新校舎の方へ向かって。





403


俺が部室に戻るのと、宮沢が部室を出るのはほぼ同じタイミングだった。


宮沢は、この後私用で資料室に行って、そのまま帰るらしい。明日の予定の下準備なのだろう。随分、忙しそうだ。


部活の方は準備も結構進んでいる。後は背景の仕上げくらいか…。


「本番の衣装、明日には出来上がる予定です」


必要なものの再チェックをしていると、仁科がそう言う。


「そうか。悪いな、劇の仕事も頼んで」


「いえ、そんなことは…」


仁科は照れたような、謙遜するような仕草をする。


「少しでもお役に立てるなら、よかったです。それに、杉坂さんも原田さんも、すごく手伝ってくれたので」


笑う仁科の顔を見て、俺は先ほどの教師との顔を思い出す。


彼女が今、がんばってみたいと思っていること。未来はわからずとも立ち向かっているもの。


創立者祭を終えたら、彼女は、その先に何を見据えるのだろうか。


俺はそれを、いつか聞いてみたいと思った。


「合唱は、どうだ?」


「はい、二曲ともなんとか当日にはちゃんとできるとは思います」


「そうか」


合唱の方は、当日発表するのは二曲ほどだ。そのうちの一曲は、先日の休みの日にきちんと聞いた。


…二曲というと少ないような気もするが、実際、発表の時間はそう長いものではないからそんなものだろう。それに準備期間も短かったし、人数も三人で顧問も 兼任と、限られた中で発表をするとなると、そう何曲もマスターできるものではないだろう。


「おまえ、頑張ってるから、きっとうまくいくよ」


「あ、ありがとうございます」


彼女の事情を聞いた後だから、そんな恥ずかしいセリフがついつい出てしまう。


仁科は少し驚いたような表情で、だが、嬉しそうにこくこくと頷いた。


「でも、私なんか、まだまだです。岡崎さんとか、皆さんに比べたら…」


「そんなことはないと思うけどな」


「そんなことはないですよ」


なぜか、謙遜し合ってしまう。


…まったく、おかしな会話だな。


そう思いながらも、満更でもない気分だった。



…。



「岡崎さん、さっきのことみちゃんのコンサートの後、お父さんと何を話していたんですか?」


演技の練習に一区切りをつけた渚が寄ってくると、俺にそう尋ねる。


「あんた、いつの間にか渚のお父さんと仲良くなってるのね」


渚の演技を見ていた杏も、一緒に横に来てそんなことを言う。


「ま、結構似てるとは思うけど」


「…」


失礼な奴だ。


俺は思わず顔をしかめると、杏はくすくすと笑った。


…ま、ある側面においては俺はオッサンを尊敬しているのは事実だけどな。でも見習いたくない方向で似てしまうのは自分で自分が心配になってしまう。


「ですけど、仲良しになってくれたなら、とても嬉しいです」


渚はそう言うと笑う。


「でもさ」


ことみと備品をいじっていた春原も寄ってきて話に首を突っ込む。


「さっき岡崎と不審者が一緒に物陰から女の子を物色してたって噂を聞いたんだけど、実際なにしてたの?」


「春原くん、物色って?」


とことこと一緒によってきたことみが、春原に不思議そうな顔を向ける。


「そりゃ、女の子にエッチなことをしようとして、様子をうかがってたんだよ」


「…」


ことみが切ない目で俺を見た…。


そしてぷるぷると震えだし…


たったった…


俺の傍から逃げ出した!


「おまえはアホの子かっ! こいつの冗談だよっ」


「…ほんとう?」


ことみは一回部室から出て、開いたドアから顔だけをのぞかせた。


「本当だから、逃げなくていいぞ」


「…うん」


おずおずと、また輪に入る。


「まあ、女子生徒に声をかけて不審者扱いされたのは本当だけど」


「…」


たったった…


「いや待てことみっ! これには訳があるんだよっ!」


「あんた、自分で墓穴掘ってるじゃない…」


杏が呆れた目で俺を見ていた。



…。



俺がオッサンと話をしようとしていて、巡り巡って追い回されたことを説明する。もっとも、実際オッサンと何を話したかという部分は適当にぼかしておいた。


そんな話を聞いていて、渚は少し嬉しそうだった。


「とっても、よかったです」


渚はそう言う。


「わたしにとって、お父さんも岡崎さんも大切な人ですから、おふたりが仲良くしてくれて」


「お、おう」


恥ずかしいセリフを真っ直ぐに言う奴だった。


俺は少し照れくさくなってしまう。


…そして、そんな反応を見て渚の方も自分がとてつもなく恥ずかしいことを言ったのに気付いたのだろう、急に真っ赤に頬を染めた。


「あ、わ、わたし…とても恥ずかしいことを言っている気がしますっ」


ぷるぷると頭を振る。


「あ、いえ、だからといって…大切じゃないというわけではないですっ。…って、これじゃわたし、変な子みたいですっ」


混乱しているようだった。可愛い。


「何ニヤニヤしてるのよ、気持ち悪いわね」


そんな渚を愛でていると、杏が冷たくそう言って肩をすくめてみせた。





back  top  next

inserted by FC2 system