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ホームルームが終わると、学生寮に向かう。
先ほど、おそらくまだ惰眠を貪っているのだろう春原を起こすと約束をしてしまったのだ。
寮は坂の下で、もちろん遠いわけでもないが決して近くはない。この休み時間に行って帰って、時間はギリギリというところだろう。
早足に坂を下って、見慣れた寮の玄関をくぐる。
「あら、岡崎じゃない。どうしたの、こんな時間に?」
中に入ってすぐ脇の小さなテーブルで郵便物を仕分けていた美佐枝さんが俺の姿を見ると素っ頓狂な声を上げた。
「春原を起こしに来た」
「ふぅん?」
奇妙なものを見るような視線を向ける。
「あんたも、随分友達思いなのねぇ」
そう言うと、にこりと笑った。俺は苦笑する。
「そんなんじゃない。他の奴らに言われたから仕方なく」
「部活の子たち?」
「ああ」
会話をしながら靴を脱いで、スリッパに履き替える。
春原の部屋へ向かって廊下を歩いていくと、美佐枝さんが横に付いてきた。あまり忙しい時間でもないからか、付き合ってくれるのだろう。
「そろそろ創立者祭ね。どう、準備は進んでる?」
そう水を向けられる。
「まあ、順調っす」
「そりゃ、よかったわね。部活で出し物をやるんだっけ?」
「演劇とクラスで喫茶店」
「ふたつも。それじゃ、大忙しね」
「まあな」
話しているうちに春原の部屋に付く。
ノックもせずにドアを開けると、予想通り、春原は幸せそうに眠っていた。
「こいつ、高校三年生とは思えないわね…」
「ああ…」
お互いに、ため息をつく。
「春原、起きろ」
俺はそう言いながら手近にあった雑誌を春原に投げる。
ばさっと音をたてて腹の辺りにぶつかるが、起きる様子はない。
「岡崎、顔よ。顔を狙いなさい」
「…」
美佐枝さんが楽しそうで、俺はこっそり冷や汗を流した。
「わかった」
俺はゴミ箱を手に取る。
「これをぶつけるってのはどう?」
「あんた、鬼ね…」
「いや、美佐枝さんには言われたくないっす」
「そうかしら…?」
まあ、たわいない冗談だが。
俺はベッドに近寄り、春原の頭を小突く。
「起きろ」
「んん…?」
春原はうっすらと目をあけて俺を見ると、顔をしかめた。
「よかったわね、春原。クラスメートに起こされるなんて幸せ者よ」
「クラスメートっていっても、男じゃね…」
「いいからさっさと起きろ、こら」
腹をぐいぐいと蹴ってやると、嫌そうに体を起こした。
「ふあ…。今、何時?」
「一時間目がそろそろ始まるくらい」
「それじゃ、今日は遅刻か…」
言いながら大きく伸びをする。呑気な奴だった。
「あんたねぇ、急いで登校する気概を見せなさいよ」
美佐枝さんは呆れたように息をつく。
春原はそれを気にするような素振りもない。いつものやり取りということだ、要するに。
「岡崎も遅刻?」
「一回教室は行ってる。起こしに来たんだよ」
「へぇ…?」
春原は俺のセリフに気持ち悪そうに顔をしかめた。
俺も同じような顔をしていることだろう。
だが、渚たちに言われて起こしに来たことを伝えると、春原の表情は一気に緩んだ。
そんな顔を見て、俺は肩を落とす。こいつを喜ばせに来たような嫌な気分になる。
「岡崎、あんた、一時間目は大丈夫? もう始まるんじゃない?」
美佐枝さんに言われて壁にかかった時計を見ると、もうそろそろ授業が始まりそうだった。
ついのんびりしてしまって、急いできた意味がなかった。
全力で走れば授業に間に合うかもしれないが…
「二時間目から出るよ」
「うん、僕もそうする」
「あんたら、ホントどうしようもないわね…」
あっさりと諦めてしまう俺と春原を見て、美佐枝さんは呆れたようにため息をついた。
…。
春原が準備をしている間、俺は人気のない食堂で美佐枝さんの仕事を手伝っていた。
とはいっても大したことではない。
さっき美佐枝さんがやっていた郵便物の仕分けだ。
家族からの手紙、ダイレクトメール、郵送されてきた事務書類などを分けて、いらないものは破棄し、中を検める必要なものは確認する。家族からの手紙は階毎に分類する。
自分にできることはそう多くはなく、あらかた手伝いが終わると美佐枝さんのいれてくれたコーヒーを飲みながら手を動かす彼女と雑談。
話題は、今朝の智代の会長就任の話だ。
元々智代は美佐枝さんのことを憧れのように思っているらしく、ふたりの間に立って橋渡しをしたこともあった。なんだか、それも随分昔の話のような気がする。
美佐枝さんとしても、自分に相談をしに来た女生徒のその後の話は気になっていたのだろう、智代の当選の話をすると我がことのようにうれしそうな顔になった。
「それは、よかったわね。あの子も随分しっかりした感じだったから、あまり心配はしていなかったけどね」
そう言いながら、いたずらをするように目を細める。
「でも、岡崎があの学校の生徒会長と仲がいいっていうのも、おかしな話ね」
「ま、不良と会長じゃ釣り合いが取れていないとは思うよ」
言う通りなので、俺は肩をすくめてみせるしかない。
「でも、あんたも最近は随分マトモになったと思うわよ」
「前はマトモじゃなかったのか?」
「ぐーたらだったし、目が死んでたし」
「…」
酷い言われようだった。
だが、ま、それを否定することもできない。
かつての自分は、前を向いていなかったし、後ろすら向いていなかった。頑なに目を閉じて、過ぎ去る全てから耳を塞いでいただけだ。
「部活をするようになったから、それでかな」
「そう。青春ねぇ」
にこりと口の端を緩めて、美佐枝さんは言う。少しも嫌味な感じのない笑みだった。
この人はこの人で、多分、俺や春原のことを心配してくれていたのだろう。
「そういや、美佐枝さんも創立者祭には来たりするのか?」
「予定がなければ行ってるわ。多分、今年はいけると思うわよ」
「それじゃ、よければうちの部活の発表を見てくれ。午後からやるから」
「ええ、そうね…。あの岡崎が身を入れてやっている部活なんだし、見てみる価値はありそうね」
創立者祭に誘ってみると、美佐枝さんは色よい返事をしてくれた。
あまり寮から出るような印象がないから少し意外だ。
そんな俺の顔を見てか、美佐枝さんは肩をすくめて息をついてみせる。
「ラグビー部の連中にも誘われたのよ。最後の創立者祭だから来てくれって」
「そうなのか」
相変わらず、ラグビー部の奴らは美佐枝さんにべったりのようだった。
「今日も、あいつらに誘われて学校に行くことになっちゃったのよねぇ」
「へぇ」
「なんでも、放課後にヴァイオリンのリサイタルがあるって言われてね」
「…」
「今日はたまたま暇だったからいいんだけど…って、岡崎、どうかしたの?」
「いや…」
俺は顔を背ける。
なんだか、美佐枝さんを直視できない。
本当なら、ここで来ないほうがいいと止めたほうがいいのかもしれないのに…
俺には、それができなかった…。
心の中で、心の底から美佐枝さんに詫びをいれることしか、できなかった…。
…。
やがて準備を整えた春原と合流して、寮を出た。
ことみの演奏会を恐れて寝入っていたのかと思って探りを入れてみるが、単なる寝坊のようだった。気楽な奴だ。
「最近、暑くなってきたねぇ」
「もう五月だからな」
朝晩は涼しいが、日が差してくるとやはり暖かい。延々と坂道を登っていくと、少し汗ばむような感じもする。
まあ、真夏にここを登校する苦しみに比べれば、まだまだ余裕があるが。
「智代が会長になったぞ」
会話が途切れたその先で、俺は簡潔に春原にそう伝える。
「へぇ」
それに気のない素振りで相槌をうった。
「まあ、あいつだったらそれくらいなってもらわなくちゃね。なにせ、僕のライバルだからね…」
「言っとくけど、それ、おまえが勝手に思ってるだけだからな」
「ははっ、この学校の表のトップのあいつと、裏のトップの僕という図式が出来上がったってわけだ」
「下から数えてトップ、という意味ならおまえは確かに裏のトップだ」
「生き残るのは、さて、どちらかな…?」
「智代だ」
「って、おまえ、人がせっかく盛り上がってるんだから水をさすなよ」
「ツッコミどころがありすぎるんだよ、おまえは」
「一体どこにツッコミどころがあるんだよ?」
「そうだな…まず、裏のトップがおまえというのがおかしい」
「裏のトップは自分だとでも言いたいのかよ?」
「なわけねぇだろ。そうだな…」
俺は少し考えてみる。
「洗濯場のトップ、というのはどうだ?」
「それ、普通に洗剤になってるっす」
「だな…」
いまいち面白くなかったな。
「まあ、ある意味この学校のモンスターってとこだな、おまえは…」
「おっ、いいねっ」
俺の適当なセリフに、春原は乗り気になる。
「この学校で不良だと恐れられ、血祭りにあげた生徒は数知れず…。荒れ狂う僕の心は、そう、モンスター…」
「種類はスライムな」
「そう…スライム。僕は、スライムの春原だっ!」
春原は力強く宣言する。
「って、全然怖くねぇよっ」
すぐにツッコミを入れた。
「おまえにぴったりじゃん」
「はっ。ま、スライムでもいいよ。ただし、はぐメタくらいにすげぇスライムだけどねっ」
真っ先に討伐されそうだけど、いいのか。
「ま、はぐれだし、友達いない感じは合ってるかもしれないけど…」
「そんな納得のされ方すると、すげぇ傷つくんですけど…」
下らない話をしながら、坂を登っていった。
…。
校内に入る。
時間を見計らって寮を出たから、今はちょうど一時間目が終わった休み時間だ。
廊下を移動授業らしい生徒たちが行き交っている。
そんな中、たまたま智代と行き合った。
「岡崎っ」
智代はこちらの姿を見ると笑顔を見せた。クラスメートらしい生徒に一声かけて、こちらに寄ってくる。
「よぉ。これから、体育か?」
体操服姿なのを見て、そう聞く。
「うん」
「当選、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
簡単に祝っただけだが、智代はにっこりと笑った。
「岡崎が手助けをしてくれたおかげだ。そのことも、礼を言いたい。ありがとう」
「いや、俺は別に何もやってないよ。おまえががんばったんだろ」
「そんなことはない」
智代はふるふると頭をふる。髪の間から、なんだかいい匂いがする。
「おまえが会長になったって聞くと、変な感じがするな」
「そうか?」
「俺たちは不良だからな。小言でも言われそうな気がする」
「小言を言われるようなことをしなければ、言わない」
冗談めかした俺のセリフに、智代も少しだけ笑って答えた。
「だが」
そう前置きをして、少し表情を引き締める。
「生徒会長になってしまって、おまえには私が変わって見えてしまうかもしれないが、そんなことは絶対にない。私は、いつだって私だ」
「…そうか」
「うん。だから、おまえが気にする必要はない」
「そりゃ、よかったよ」
なぜか、智代のそんな言葉に胸のつかえが取れたような気分になる。なぜか安心してしまう。
「まあ、おまえが会長になったらやっと僕のライバルとしてちょうどいいくらいだけどね…」
「おまえ、まだそれを言うか…」
「ああ、春原。いたのか」
ずっと横にいた春原に、今気付いたようだった。
「…」
智代は辛辣だった。
「鞄を持っているということは、また寝坊でもしたのか? おまえは、本当にどうしようもない奴だな」
「…」
春原がぷるぷると震えている…。
「この僕にそんなことを言うなんて、朝っぱらからいい度胸だねぇ…」
「遅刻をしている、おまえが悪いんだろう?」
「てめぇのせいで、荒れ狂う僕の中のモンスターは暴れだしそうだぜ…」
スライムだけどな。
「こいつはなにを言っているんだ?」
戸惑った視線を向けられる。
「まだ寝惚けてるんだ」
「それなら納得だが、こいつの場合、常に寝惚けているような気もするぞ」
「なにをごちゃごちゃ言ってるんだよっ」
春原が拳を振り上げた。
「覚悟せぇやぁぁぁあぁーーーーっ!」
ガスンッ!
智代に蹴られて、春原は飛んでいった。
「やっぱり、会長になっても智代は智代だな」
俺は春原を蹴り上げる智代の姿を見て、そう言う。
「そんな納得のされ方をすると、かなり複雑な気分だぞ…」
智代は呆れたように小さく息をついた。