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「ええと、手紙をくれたの、あなた?」
風に乗って杏の言葉が聞こえてくる。
少し、緊張したような声音。
俺は、朝のことを思い出していた。
杏が下駄箱で見ていた手紙。
あの時は特に気にしていなかったが…。
今、やっと合点がいく。あれはラブレターか何かだったのだ。そう思うと、挙動不審だった朝の態度も納得できる。
…杏に告白する奴って、どんだけ肝が据わっているのだろうか?
俺はそっと、物陰から様子を見る。
「…はい、そうです」
屋上。
風になびく髪を押さえた杏の目の前。
ひとりの少女が緊張した面持ちで頷いた。
「…って、女かよっ」
俺は小声でツッコミを入れる。
「あの人も、大変そうだな」
智代も顔をのぞかせて、苦笑する。
やけに理解がある表情だった。
俺が不審の目を向けると、智代は肩をすくめて見せる。
「私も、あんな経験はある」
「おまえも大変だな」
「いや、そんなことはないが」
まあ、こいつも杏も女子に人気が出るタイプだとは思う。
「…好きですっ、杏先輩! 私と付き合ってくださいっ」
智代と話している間に、向こうでは話が進んでいるようだ。
うぉっ、普通に告白してる。
俺は興味津々でその様子を観察した。
なんだか、興奮してきた。
彼女らの周囲にバラを描きたい。
「えぇと…」
どストレートに告白された杏は、さすがに少したじろいだ様子だった。
まあ、そうだろうな…。
俺だって、どっかの男が『岡崎、好きだぜ?』などと言ってきたら怒ることも笑うこともできないだろう。想像したら吐き気がしてきた。
「念のため聞くけど、あなた、女の子同士で付き合いましょうって言っているのよね?」
「はいっ、そうです」
その問いに、女生徒は大きく頷いた様子。
それを見て、杏は頭を押さえて途方に暮れた様子だった。
「あの、さ」
「はいっ」
「ごめんなさい」
「あ…」
杏は申し訳なさそうな顔をして、頭を下げた。
「下級生の子たちに勘違いされてるのかもしれないけど、あたし、女の子が好きってわけじゃないから」
「そ、そうだったんですか…」
しょんぼりと女生徒は肩を落とす。
見ていて不憫になるような様子だったが、こればかりは仕方がないだろう。
「先輩、男好きだったんですね…」
「な、なんだか語弊を与えるような言い方ね…」
「それじゃ、好きな人とか、いるんですか?」
「えっ」
「私、先輩と付き合えなかったのは辛いですけど…でも、やっぱり先輩のこと、好きだから…。だから、先輩の恋路を、全力で応援しますっ」
おお、随分立ち直りが早い。
まあ、アブノーマルな告白だから玉砕覚悟だったんのだろうか。いや、元々女ってそういうところがあるのかもしれない。
女生徒はぐっと拳を握り締め、杏ににじり寄っていた。
というか、杏はその勢いに押されて屋上の端のフェンスまで追いやられている。なんだか、珍しい光景。
「ちょ、ちょっと、落ち着いて?」
「落ち着いています、もちろん。でも力になりたいって思っているのは本当です。私は今、冷静の情熱のあいだです」
「なんなのそれっ」
「先輩の助けになりたいんですっ」
「ああもうっ」
杏は這い寄る女子に軽くチョップを一発。
さすがに、それで相手も少しは頭が冷えたようだった。
「自分の恋愛くらい、自分で考えられるわよっ」
「そ、そうですか…うぅ、失礼しました」
「いや、気持ちはありがたいけど」
「先輩、やっぱり優しいです」
「そりゃ、ありがと」
「好きな人、いないんですか?」
「…」
相手の問いに杏はやれやれと肩をすくめて見せる。
「秘密」
結局、そう言うのみだった。
…。
それから、ふたりはぽつぽつと言葉を交わして、やがて屋上を去っていった。
あとには俺と智代が残される。
「珍しいものを見たな」
「正直、覗き見をしてしまったから申し訳ない気がするが…」
智代の言うことももっともだ。
しかし杏は、やはり他の奴から慕われているんだな…。
そんなことを、改めて考えてしまった。
381
旧校舎に入る途中、どこからかかすかに不協和音が聞こえてくる。
聞きなれた音色(と言っていいのか?)。ことみのヴァイオリンの調べ(?)だった。
どうやら、今日も今日とてどこかで練習をしているらしい。
俺は笑ってしまう。
練習に付き合っている奴は大変だな、と。
あとで気が向いたらジュースでも買って労いに行ってやろう。そんなことを思いつつ、旧校舎に入る。
放課後だから、文化部の部室が集まっている旧校舎は結構人の出入りがある。それに今は創立者祭の直前だ。少し前の時期に比べるとやはり活気がある。
廊下にまで資材がはみ出したりしている部室もあった。
「…岡崎さんっ」
辺りを眺めながら歩いていると、ここでヒトデを配っていたのだろう、風子がぱたぱたと傍に寄ってくる。
肩にかけたトートバッグの中でヒトデの彫刻がかたかたと音をたてた。
周囲の生徒たちはそんな慌しい様子の風子を見ると、微笑ましげに笑っている。多分、見慣れた光景なのだろう。
「部室にいなかったです。どこに行っていたんですか?」
「ちょっとそこまで」
「?」
適当に言葉を濁すと、不思議そうに首をかしげる。さらりと髪が肩に流れた。
なんとなく、智代と一緒に屋上に行ったことをわざわざ説明する気にはならない。
「おまえは順調?」
「はい。時々、噂を聞いた方が貰いに来てくれたりします」
「へぇ」
奇特な生徒もいるものだ。
まあ、順調なのはいいことだが。
公子さんの結婚式を祝うためのプレゼントだ。
風子は、自分の目的をきちんと見据えている。それは俺には眩しく見えた。
先ほど、智代と屋上で交わした会話が再び頭の中をよぎる。
智代は、確たる目的を持ってここにいる。
あいつは、自分の思い出の場所を守るためにこの学校にやってきた。
そして、風子も。
こいつも、確かな目的のために今のこの時間、この場所に立っているのだ。
それを考えてしまうと、どうしても自分の立ち位置の覚束なさに戸惑うしかない。
「おまえには、ちゃんとした目的があるから大したものだよ」
きちんと前を見据えていられる彼女が羨ましい。
いや、他の奴だってそうだ。
自分の夢、演劇の成功を目指している渚。
新しい夢を見つけた仁科。
他の部員たちだって、一つのものを目指している。
部員たちだけではなく、クラスメートたちだってそうだろう。
彼らは俺には理解できないくらいに努力をして勉強をしている。
それもひとえに夢のため。目的のためだ。
まるで、俺だけがそこから取り残されているようだ。
この気持ちは、かつての学生時代にも同じように感じていたことを思い出す。
自分と同じようにダラダラと過ごしていた春原でさえ、いつしか俺を置いてきぼりにするように将来を見据え始めていた。
その頃感じた疎外感。
就職して、渚と結婚をしてからは考えなかったその気持ちを、奇しくも再び学生生活に舞い戻った今、まるで焼き直すように感じている自分がいた。
そんなことを思ってついついこぼれた俺の呟きに、風子は再び、不思議そうに首をかしげた。
「あの、岡崎さんは何か悩んでいるんですか?」
「ま、大したことじゃないんだけどさ」
「風子、岡崎さんよりお姉さんですから、相談にのってもいいです」
「何ヶ月しか先じゃないのに、よく言うな」
「ですけど、お姉さんであることに変わりはないので」
「あっそ…」
俺は胸中の不安を吐き出すように、さっきから考えていることを話してみる。
自分がこの時間に舞い戻った意味について。
何をなすべきかわからないままに、再び渚と共に部活を作り上げることを決めた。
だが、前の時も渚は部活を作り上げて、創立者祭を成功させていた。
結局、俺がやろうとしていることは前回の焼き直しみたいなもので、新たな目的というわけでもない。
「…あの、確認なんですが」
「なんだよ」
俺の話が終わると、風子が戸惑うような表情で聞く。
「前は、部活は三人だったって聞きました」
「ああ、そうだけど」
渚、俺、春原。
部活を結成できる、最低人数。
「でも、今は十人います」
「ああ」
「それは、岡崎さんのおかげじゃないんでしょうか?」
「いや、渚の力じゃないか。というか、そもそも部活をすること自体、あいつの夢だし」
「渚さんの夢なのは、そうかもしれませんが…」
風子は考え込むような調子で、言葉をつむぐ。
「岡崎さんの夢でもあるんじゃないんでしょうか?」
「…」
たしかに、そうかもしれない。
風子の言葉に俺は目を覚まされたような気分になった。
部活を、演劇をやってみるという渚の目標。
たとえばオッサンや早苗さんにとっては、渚のそれは彼らの目標であり、夢でもあった。
その未来を、子供に引き継いだ。
かつての創立者祭の当日。
渚が舞台の上で動けなくなってしまった時、壇上の娘に叫んだ言葉。
それが脳裏に思い出せる。
「それでいいと思いますけど」
「そうかもな…」
俺の、あの時、オッサンや早苗さんに言葉を続けた。
俺たちは目標を同じくしていた。
…だが。
俺は風子に頷きながらも、心の底にある違和感まではぬぐえなかった。
あの頃の俺と今の自分は別物だから、今の周囲の状況が違うのは当然だ。そもそも俺は人の夢に相乗りしているような状態だし。
かつてと同じ道を歩んでいること。
それが自分の不安の元なのだと気付く。
同じようにこれからの時間を過ごして行って、一体何が変わるのか?
未来の話、将来の話。
俺はこれからの時間に、漠然とした不安を抱えているのだ。
「…」
風子はそんな俺の様子をじっと見つめる。
「あの」
「あん?」
「岡崎さんが元気がないのは落ち着かないので…よろしければ、これをあげてもいいです」
そう言うと、トートバッグをがさごそあさり、中から何かを探す。
「なにかくれるのか?」
「はい。…これです」
そういう風子から差し出されたのは…
「…」
ヒトデの彫刻だった…
まあ、薄々わかっていたことだが…。
「いらねぇよ…」
俺は肩を落としてそう言うしかない。
「まぁまぁ、待ってください」
風子は自信満々な様子だった。
「ここ、見てください」
彫刻の端のあたりを指で示す。
見てみると、そこには『伊吹風子』とマジックで書かれている。
「自分の持ち物には名前を書いているのか? 偉い偉い」
「違います小学生扱いしないでください最悪ですっ」
一息でみっつもツッコミを入れる。
「じゃ、なんだよこれ」
「見ての通り、風子のサイン入り生ヒトデです」
「生はどこからきたんだ…?」
生のヒトデを渡されたらそれはそれで怖いが。
生写真にひっかけているのだろうか。
「どうぞっ」
ぐいぐいと押し付けてこられて、俺はつい受け取ってしまう。
「どうですか? 元気、出ましたか?」
望んでもいないのに二つ目のヒトデを手に入れて呆然としている俺の様子を窺うように覗き込む風子。
それに対して俺は…
「…そーれっ」
フリスビーの要領で、振りかぶってそれを投げる…
「わーっ」
「…馬鹿、冗談だ」
投げる直前で、それをやめる。
「ふーっ!」
怒り狂って攻撃してきた!?
「…何を騒いでるっ」
風子の軟弱パンチをかわしていると、後ろから大声で怒鳴られる。
反射的に、俺も風子も動きを止めた。
「岡崎、またおまえかっ」
「ちっ…」
見ると、体育教師が不機嫌そうな顔をしてずんずんとこっちにきていた。ことあるごとに俺に小言を言う教師だ。俺は顔をしかめる。
「何をひとりで騒いどるっ! 他の生徒の迷惑になるぞっ」
顔をしかめて言う。
「迷惑になるほどじゃないだろ…って、ひとり?」
上からの物言いに顔をしかめるが、ふと気にかかる単語に疑問符が出た。
目の前。
俺にグーパンした状態の風子は俺の目を見て、視線を体育教師に動かした。
「何を言っとる? どこかに春原でも隠れてるのか?」
そんな風子に一瞥を向けることもなく、体育教師はあたりを見回す。
「何言ってんだ、あんた?」
「何?」
風子がちんまいから冗談で見えないように振舞っている、などというわけではないだろう。
俺の言葉に相手が不快な顔をするのが見て取れるが、それを気にする余力もない。
「ここに、こいつがいるだろ」
「は? こいつ?」
教師は、俺が視線で示した風子の方を見やるが、それでも風子に視線が定まった様子がない。
むしろ、困惑しているような表情になった。
「おまえ、何を言ってるんだ?」
「いや、ひとりもなにも、ここにもうひとり女子がいるだろ」
「…何を言っているんだ、おまえは?」
いよいよ、戸惑った様子になる。どことなく、俺のことを気味悪く感じているような態度だった。
まさか。
この人には、風子が見えていない?
風子は、普通の身体ではない。生霊と言ってしまうとオカルトじみているが、それに近いような存在だ。
だが、こいつの姿が見えない人なんて今までいなかった。
「ん? 何を持っている?」
俺が呆然としていると、教師は俺が手に持っているヒトデの彫刻に目を向けた。
「…んん? 伊吹風子?」
そこに書かれた文字を読むとその表情が険しくなる。
「最近、女生徒の幽霊などという騒ぎがあるのは聞いていたが…岡崎、おまえの仕業かっ」
「は?」
話の雲行きが怪しい。
「とぼけるな。事故で意識不明になっている伊吹の幽霊が校内にいるという噂だっ。この大事な時期に、他の生徒に迷惑をかけるなっ」
「…」
俺は混乱しきりで、文句の言葉が出てこない。
というか、何を言うべきか見当がつかない。
この人に風子の姿が見えていないなら、何を言ったって無駄だ。
「俺は前に伊吹の担任だったし、復学していないのも知っているんだぞ。どこからそんな話を仕入れてきたかは知らないが、これ以上そんな話を広めるなよ。いいなっ」
そう言うと、さっさと歩き去っていく。
俺と風子は、呆然とその後姿を見送っていた。
世界が色を失い、音が遠のき、足元から崩れていくような気がしていた。
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どういうことだ。
そんな考えがぐるぐると頭の中を巡る。うまく考えがまとまらない。
「…あの」
くい、と風子が俺の裾を引っ張る。
それで自分が呆然と立ち尽くしていたことに気が付く。
風子が何を考えているのかわからないような顔で俺を見上げていた。
そうだ、と俺は思う。
自分より、彼女の方が困惑しているはずだ。
今は思い悩むより先にやるべきことがあり、言うべき言葉がある。
「気にするな、風子」
「岡崎さん、気にしないでください」
…互いに同時に口を開く。
そして、その内容はぴったり同じだった。
…どうして風子が俺を慮る?
いぶかしむ視線を風子に向けると、相手も同じような顔で俺を見ていた。
「あの、どうかしたの?」
「何言われたの、一体?」
「あいつ口うるさいから、ふたりとも気にしなくていいよ」
ぼんやりと見詰め合っていると、他の生徒たちが声をかけてきた。
俺は他の生徒と距離を置かれているが、風子はむしろマスコット的に結構顔が知れているし、好かれている。
さっき体育教師にかなり強い口調で注意されているのを見て、何事かと集まってきたようだった。
俺はそんな気遣いが嬉しく、何より、俺たち「ふたり」に声をかけてくれることがありがたかった。
「いえ、大丈夫です。気にしなくて、平気ですから」
風子は気丈にもそう言うとちゃんと笑って他の生徒に応対する。
「ああ。俺がいちゃもんつけられただけだよ」
「いえ、あの、風子のせいですから」
俺が原因になってしまえばわかりやすい、などと思ってそう言うと風子が慌てた調子でフォローする。こいつも随分俺に気を遣ってくれているようだ。普段の態度からは想像もできないが。
そんなやり取りを交わすのを見て、集まってきた生徒たちは次第に散っていく。
次第に放課後の旧校舎のいつも通りの喧騒に戻る。
その中で。
俺たちふたりは、世界に取り残されたような気分で立ち尽くしていた。