356
朝起きて、朝食を用意する。
昨日まで三連休だったといっても、毎日ごろごろしていたわけではないので、生活習慣が乱れたりはしない。
そう考えると、昔の俺では考えられないようにちゃんと暮らしているな。
今は用事はなくてもダラダラ過ごすつもりはない。今の時間が、かけがえなのいものだと知っている。
料理の準備をしていると、その匂いにつられてか風子と親父が起きだしてくる。
なんだかまるで、俺が母親みたいな立場だな。
そう思い、苦笑するしかない。
「岡崎さん、今日のご飯はなんですか」
「目玉焼きと煮物」
となると、こいつは娘役というところだろうか。
嫌な娘だ。
357
空は少し曇っているが、雨が降るということもないだろう。
俺と風子はいつものように、並んで通学路を歩く。
「授業、面倒だな…」
俺はぽつりと呟いた。
クラスでの創立者祭の準備や部活は楽しいが、授業だけは正直今でも苦痛だった。なにせ、下積みがないのだからその先がわかるはずもない。
なんとなく、手探りはできなくもない、という感じだ。社会や理科はまだ聞いていられるが…。
普通に楽しんでいるのは、体育くらいだろうか。
「そうなんですか?」
「そりゃ…」
当然、と言おうとして止まる。
風子は一応学籍はあるものの、ただそれだけという状態だ。
たとえ授業に出たくても、出ることはできない。
それを面倒と言うなんて、悪いことをしたかもしれない。俺は自分の無神経な物言いを後悔した。
「悪い」
「? 何がですか?」
風子が不思議そうに俺を見る。
「おまえ、授業に出られないだろ。だからさ…」
「それなら、大丈夫です」
風子は柔らかく微笑む。
「風子、勉強は嫌いですから」
「…」
後悔したのを、後悔した。
「おまえ、うちの学校に一般入試で入ったんだろ?」
「はい、そうです」
「ということは、結構頭いい?」
少なくとも、俺はスポーツ推薦でしかここには入れなかっただろう。
「はい、もちろんです。近所でもあの子はとても頭がいいって評判でしたから」
「へぇ、人は見かけによらないんだな」
「岡崎さん、ひょっとしてとても失礼なことを言っていますか?」
「そんなことはないぞ」
しかし、風子に勉強のイメージなんてないな。
まあ、集中力はたしかにあるだろうし、それを学習に向ければきちんと吸収しそうでもある。
こいつに頭で負けていると考えるのは、屈辱的な感じもするが。
「もし風子が事故に遭わなかったら、岡崎さんに勉強を教えてあげていたかもしれません」
「おまえが事故に遭わなかったら、か」
「もし、ですけど」
風子は、元々は俺と同じ学年だった。
だから、入学式の日に事故に遭って入院をしなければ、俺たちはもしかしたら机を並べて授業を受けていたかもしれない。
俺たちはしばらく、そのもしもの話を想像しながら、互いに無言で道を歩いた。
「最悪です」
「最悪なのかよっ」
「いえ、すみません、言い過ぎました。プチ最悪です」
「最悪なのは変わらないんだな」
「岡崎さんを傷つけないようにプチを付けてみたんですけど、ダメでしたか」
「プチを『己が』にしてみてくれ」
「己が最悪ですっ」
言いながら、ぴしっと妙なポーズをとる。
「って風子が最悪になってしまいましたっ。風子最悪じゃないですっ」
「おまえ、正直者だな」
「いえ、最悪でないですっ。最悪なのは岡崎さんですっ」
相変わらず、からかうと楽しい奴だ。
「…ま。もしおまえみたいなのが一緒のクラスとかにいたら、前の時ももっと学校が楽しかったかもな」
ぽつりと、本音が漏れた。
周囲にいるのは、真面目一辺倒で退屈な奴ばかりだと思っていたあの頃。
今ではそこまでは思っていはないが…。
そんな頃に風子が近くにいたら、俺はもっと素直な気持ちで他の学校の生徒を見ることができたかもしれない。
そして、それは俺の学校生活全体に影響を与えていたということもありえる。
「そ、そうですか…」
風子は少し照れたように、ささっと髪を整える仕草をした。
俺もなんとなく、気恥ずかしくなる。
互いにそっぽを向いて、歩いていく。
風子と一緒に授業を受ける。それは詮無い想像だ。
だが今、俺は風子と肩を並べて通学路を進んでいる。
それで十分だと、思った。
358
いつものように坂の下で渚たちと待ち合わせをして、坂を登っていく。
クラスに入ると、今日も早くから登校した生徒たちがせっせとクラス展の準備をしていた。
自分の席につくまでに、何度か声をかけられる。おはよう、とかそんな感じだ。
それらは結構気安い口調で、俺は以前のクラスメートとの距離を思い起こして不思議な気分になる。
慣れない感じはある。
だがもちろん、これはいい変化ではある。
「よぉ」
「ああ」
先日のように、バスケ部部長の姿が手伝いの中にいる。俺の姿を見ると、軽く声をかけた。俺も、簡単に挨拶を返す。
「あんた、暇なのか?」
「昨日は試合勝ったし、暇なわけじゃないけどな」
今はインターハイ予選の時期だ。バスケ部は順当に勝ち残っているらしい。
「でも、今日は練習は軽めだから、放課後手伝ってもいいかとは思っている」
「顧問は、休めって言うだろ」
「俺にとっては、これが休みって言うさ」
「あっそ」
「岡崎は、おまえも部活か?」
「ああ。つっても、あとはうちの部長の演技の練習ばっかだけど」
「そうか…。それじゃ、おまえも結構暇なんだな」
「まあ、先週とかよりはな」
脚本が完成したので、後は裏方の仕事を片付けていく段階だ。それも、大量というわけではない。
ある程度は余裕ができてきた。
「ならさ」
男は思いついたような素振りで言う。
「放課後、バスケやらないか?」
「…は?」
俺はぽかんとして、相手の顔を見つめた。
…なんだって?
「どうした、岡崎。太陽の塔みたいな顔して」
「してないっ。つーかどんな顔だっ」
「冗談だよ。久しぶりに、やってみないか?」
「あのな…。もう、おまえとはレベルが違うだろ。俺は高校時代、バスケなんてほとんどやってないぞ」
「だから、お遊びだよ。俺だって本気でやるつもりはないし」
つまり、俺相手では本気を出すこともない、と言いたいようだった。
こっちのやる気を引き出すための挑発のつもりなのだろうが、のせられる気にはならない。
「しない」
「負けるのが怖いか?」
「負けるに決まってるから、怖いも何もない」
「だったら、いいだろう。たまに体を動かすってくらいの気持ちでいいし」
「そんなに俺とバスケをやりたいのか?」
かつて、バスケ部と3ON3をやった時。春原が俺を引き込もうと色々言いながら自分を誘ったことを思い出す。なんとなくその時のことが思い出されて、俺は苦笑した。
だが相手は真面目な顔のままだった。
「ああ」
しっかりと、頷く。
「おまえがここに進学したって聞いた時は、嬉しかったからな。で、怪我をして続けられないって聞いた時は、残念だった。だから、俺の自己満足みたいなものだよ」
それに、と言いながらニヤッと笑う。
「おまえ、この間練習くらいなら付き合うって言っただろ?」
「…」
何日か前に、すでに言質はとられていた。
俺は肩をすくめて、ため息をつく。
「それじゃ、ちょっとだけ」
「そうか、悪いな」
「ボコボコにされに行くのは、気が進まないけど」
「いや、俺も昨日試合をしたばかりだから動きまくるつもりはない」
「なら、いいけどな」
面倒な用事が増えてしまったな、と思いながらも少し放課後が待ち遠しくなった。
バスケットボール。
俺の人生の中から、失われて久しい言葉だった。
それを今一度だけ掴み直すこと。
それは少しだけ、価値があることなのかもしれないな。
359
「朋也ーっ」
看板の作成を進めていると、クラスの遠くから名前を呼ばれる。
見てみると、杏が俺に手招きをしていた。
大声で呼んだせいで注目を浴びてしまっていて恥ずかしい。
「あいつ、オバちゃんみたいなメンタリティーだな…」
俺はため息をつく。
「岡崎さん、いってらっしゃい」
一緒に作業をしていた渚がにこりと笑う。
「ああ」
なんだか、新婚生活を思い出すようなセリフに少しドキッとする。
「ちょっと行ってくる」
「はいっ」
天使(渚)の元を去り、悪魔(杏)の元へ。
「朋也、これ、着てみて」
傍にたどり着くと、ぐいっと何かを押し付けられる。
「これ、服?」
広げてみると、スーツのようだった。
夜会服のような感じ。俺はそういえば、うちのクラス展は女子はメイドで男子は執事服がコスチュームだったことを思い出す。なんとなく、女子の衣装ばかりを考えていた。
「そ。あんたの衣装」
「って、俺も接客するのかよ」
「当然でしょ?」
「…」
当然なのか…。
「多分丈とかはちょうどいいと思うけど、一応着てみてくれる? ズボンは制服の上からでいいから」
「岡崎くん、きっと似合うと思うよ」
「早く着てみてっ」
杏の周囲のクラスメートの女子も、急かしてくる。
そんな様子を、椋はにこにこ笑って眺めていた。
「はぁ…。わかったよ」
逃げることはできそうにない。さっさと覚悟を決めてしまう。
ブレザーを脱ぎ、黒いスラックスに足を通す。ネクタイを外し、ジャケットを羽織り、蝶ネクタイを結ぶ。
急ごしらえ感がハンパではないが、これで一応執事という設定の完成だ。
「どうだ?」
「け、結構、似合うじゃない」
少し顔を背けながら褒めてくれる杏。
一緒に輪を囲んでいた椋の方に視線を向ける。
「変じゃないか?」
「い、いえっ、とっても似合っています」
「そうか」
評判は上々のようだった。
慣れない格好だが、褒めてもらうとやはり気分がいい。
俺はふと思い立ち、恭しく腰を折って一礼して見せた。
「いらっしゃいませ、お嬢様」
…執事キャラがどんなものかは知らないが、こんな感じだろう。
本やドラマからの陳腐な流用だが、顔を上げるとじっと視線を集めていた。
椋はポーッとした顔で俺を見ている。
…やはり、付け焼刃では変だったのかもしれない。
そんなことを思っていると…
「岡崎くん…」
女子のうちの一人が俺の名を呼んで…
「グッジョブ!!」
両手でサムアップをして見ながら絶賛(?)してくれた。
無茶苦茶いい顔をされて俺は苦笑するしかない。
そのあと、口々に似合っているなどと褒められる。
「あんた、意外にカチッとした格好似合うのね…」
「はい、すごくよく似合っています」
「そ、そうか…」
そこまで絶賛されるとは。
さすがに頬が緩んでしまい…ふと、しまったと思って渚の方を見る。
他の女に褒められて締まりのない顔をしているのを見られたくはなかった。
作業をしている方に目をやると、渚はしっかりこちらを見ていた。
そして、冷や汗を流す俺を余所に、にこりと笑うのみだった。
冷笑とかそういうものではなく、単純に俺の格好を褒めているような、微笑ましく見ているような視線だった。
ああ…。
渚はそんな奴だったよな…。
心の底で、少し安心する。
でも、だからこそ俺はこういう態度はしないようにしないとな…。
そんなことを思う、始業前のざわついた時間だった。