folks‐lore 05/05



353


海辺のカフェでお茶をして、そのあと、各々海辺を散策していた。


周囲には幾つか店もあり、歩いて回れる道もある。


俺は部員たちから離れて、ぼんやりと海沿いを歩いていた。


ふと海辺の人影に気付く。


渚がひとり海を見ていた。彼女も他の奴らとは離れて行動しているようだった。


岩場の多い、海の近くの遊歩道を通ってその傍へ。


波の音、汐の香り、俺と彼女のふたりの渚。


潮風が、少し甘いものに感じる。


渚は遊歩道の手すりに手を添えて、ぼんやりとした表情で海を見ていた。


その視線。


その先には、何が見えているのだろうか。


「よぉ」


「あ…岡崎さん」


俺の足音に顔を上げてこちらを振り返った渚が、柔らかな笑みを見せる。


「どうかしたのか」


「海を、見ていたんです」


「そうか…。楽しいか?」


「えぇと、少し」


はにかむように笑う。


「隣、いいか?」


「は、はいっ、どうぞっ」


尋ねると、慌てて場所を空ける素振りをする。ベンチでもあるまいし、そんな慌てなくてもいいのだが。


渚は少し緊張しているようだった。


いや、それは俺も同様かもしれないな。なんだかんだ、渚とふたりで言葉を交わす時間は最近はあまりない。


ふたりで部活をやっていた時とは違って、今は一緒に輪を囲んでいることの方が多い。それはそれで、もちろんいいことではあるが。


今から見ると将来の話だが。俺たちは付き合うようになって結婚して、数え切れないほどの言葉を交わしてきた。


二人歩いた道で、あるいは病床の傍らで。他にも数えられないほどたくさん。


それなのに、今俺は、なかなかうまい話題が出てこない。


共に肩を並べていても、今はまだ、俺たちの間には深い断絶がある。どうしようもなく。


俺と彼女の共に過ごした長い時間は失われている。


「随分珍しそうに海を見ていたけど、あまり隣町には来ないのか?」


「はい、出かける時は町から出ないことが多いです」


俺はそのことを知っている。


「ですから、こうやってちゃんと海を見るの、すごく久しぶりです」


「俺も、確かに随分久しぶりだな」


仕事とかで隣町に来ることは割とよくあった。


だが、わざわざ海を見に来るなんてことはない。


というか、仕事をしていると潮風による塩害は気を遣うことなので、むしろ苦々しく思っていた節さえある。


だが、こうして改めてきちんと海辺にきてみると、これはこれでいいものだと思えるから不思議なものだ。


最後に海を見たのはいつだろうかと考えて、それは親父の故郷を訪ねた時のことだと思い出される。


祖母と会話をした時に見た景色。


海、それは俺にとって始まりの気配だった。停滞していた日々が動き始める気配。


「わたしの名前が海の名前ですので、眺めているとなんだか懐かしいような気がします」


「そういうの、あるのかもな」


「はい。不思議な気持ちですけど、とっても落ち着きます」


穏やかな表情、波しぶきの音。風の音。


「もし子供ができたら、わたし、その子にも海の名前を付けてあげたいです」


「ああ、そうだな」


俺も穏やかな気持ちだった。


以前に渚と共に海を見たことはない。それなのに、懐かしいような気持ちがする。


「どんな名前?」


「ええと…」


悩むような素振り。だが、俺はその答えは知っている。


「なあ、その名前を一緒に言ってみないか?」


「はい?」


唐突な提案に、渚は不思議そうに俺を見た。


「俺も、子供ができたら付けたいって思っている名前があって、海の名前なんだ」


「それは、奇遇ですね」


「ああ」


「わかりました、それでは…」


せーの、と息を合わせて。


「「汐」」


二人の言葉が重なった。


「わ…」


渚は、目を丸くして驚いた。


「同じだな」


「びっくりですっ。こんなことって、あるんですね」


まるで運命のいたずらのような話だが、だまし討ちにしているようで少し悪いような気もする。


渚は照れた表情でちらっと俺を見て、すぐに海に視線を戻した。


…なんだか、むずがゆいような空気だった。


「…あ、あの、あと一週間で本番ですねっ」


沈黙に耐えかねたように言う。


「ああ、そうだな」


「あっという間でした」


「部活を作って、もう半月くらいか」


「はい。最初はわたしと岡崎さんだけで…でも、今はこんなにたくさんの部員が集まってくれて、とても嬉しいです」


「渚が頑張ったからだよ」


「いえ、そんなことはないです。ぜんぶ、岡崎さんのおかげです」


「そんなことないだろ」


お互い、謙遜しあう。


俺の正直な感想からすれば、俺と渚のどちらが欠けても部員を揃えるのは無理だっただろうと思う。とはいえ俺は、微力だが。


「あの、実は、ずっと不思議に思っていたんですけど…」


「何?」


「どうして、わたしにこんなによくしてくれるんですか?」


「…」


前にも、その質問をされたことはあった。


それになんて答えたかなんて覚えていないが、はぐらかしたことだけはなんとなく記憶にある。


「初めて会った時のこと、覚えてますか?」


「そりゃ、まあ」


「えぇと…」


そこまで言って、渚の顔がポンッと赤くなった。


坂の下。渚の独白。


それに答えた俺は彼女の背中をほんの少しだけ押して…自分にとってのありえない再会に自制がきかずに強く彼女を抱きしめた。


桜舞い散る坂の下での抱擁。


その時のことを思い出したのだろう。


ロマンチックといえばよく聞こえるが、変質者っぽいといわれたらその通りだよな、とも思う。


よくもまあ、渚はあの後も俺を避けないでいてくれたものだと思う。


「あの時、本当にわたしは初めて岡崎さんに会ったんですか?」


「初対面じゃないと思った?」


俺のとっては正解だ。でも渚にとっては不正解だろう。


渚はうまく答えが見つからない、というように悩んだ顔をする。


「わからないです…すみません」


「いや、謝ることじゃないよ、悪い」


「なんだか、昔会ったことがあるような気がしたんです」


俺が未来の記憶を持っているように、渚の中にもかすかに俺と歩んだ未来がこの時間に還ってきているのだろうか。


そんな想像をして、一瞬心が震えた。


ふたり、また歩みなおしていく。それは甘美な想像だった。


だが実際はそんなにうまい話でもないだろうな、と思い直す。夢見るお年頃ではないのだ。


俺の話しぶりの馴れ馴れしさから、なんとなくそんな印象を受けているだけなのだろう。


「すみません、ヘンなことを聞いてしまいました」


「いや、こっちこそ、悪い。最初にヘンな事をしたのは俺だし」


「あ…っ」


再び、坂の下の抱擁を匂わせる発言をすると、渚はやはり恥ずかしそうな顔になった。可愛い。


「あの、わたしっ、気にしてませんからっ」


無茶苦茶気にしているような態度でそう言う。


俺としてはそのことについて突っ込んで聞かれるとボロが出そうだから、ありがたい限りではあるが。


「あの…」


渚がちらりと俺を見上げる。


「わたしが困っている時、岡崎さんは、いつも助けてくれました」


「…」


「だから、ありがとうございます」


「感謝されるほどのことは、してないよ」


俺の向かって頭を下げる渚を見て、そう答えるしかない。


事実、俺は彼女に感謝されるほどのことはしていないはずだ。


たしかに渚を助けた場面はあっただろう。それくらいの自負はある。


だが、俺の方が何倍も彼女に助けられている。彼女がいなければ、俺はどこにも進むことはできなかっただろう。


「ですけど、岡崎さんと出会ってなかったら、わたし、きっと何もできなかったと思います」


「…それなら、俺たちがあそこで会ったのは、運命だったとか?」


運命。


ふたりは坂の下でめぐり合う。そして、出会う。


俺はそれを運命だと言いたかった。


決して別の選択肢などはない。人生の中の、たしかな印のようなものだと思っている。


「それは、わからないですけど…」


だが渚は、戸惑ったような表情だった。


「とても素敵な、つながりだと思います。だんご大家族みたいに、大きな輪になれればいいなって思います」


「だんご大家族か」


「はいっ」


渚の笑顔に、俺は苦笑。


俺にとっての運命は、だんご大家族の前に敗北を喫したようだった。


そのまま、俺たちはしばらくふたりでの時間を過ごした。


部員が呼びに来るまでの、ほんの少しの時間だけ。


海辺の風に吹かれて。ふたりで渚で笑い合って。






354


海から離れて、再び繁華街の方へと戻る。


来た時とは別の道を歩いていると、手前に病院が見えてきた。


「あの、あそこが、私のバイト先なんです」


その建物が見えると、少しはにかんで椋が言う。


それは大きな病院だった。自分の町にあるものよりも、ずっと。


俺は思い出す。


元々渚はここの病院で汐を産むはずだった。


だが、彼女はその選択肢を選ばなかった。自分の家で、自分の町で子供を産むことに決めたのだ。


そして…。


俺の思考が、ぐるぐる乱れそうになるが、こらえる。


どんなに時が流れても、俺はこの感情をどこかに捨て去ることはできないだろう。


「とっても大きい病院ですね。こんなところで働いてるなんて、すごいですっ」


当の渚は、笑いながら椋に話しかけている。


「でも、病院で働くって怖くないですか?」


杉坂が不安そうに言う。


「怪談とかで、よく病院ってネタになりますし」


「えぇと、たしかに夜は少しだけ怖いです」


椋は、正直にそう告白する。


「ですけど、夜勤はほとんどやったことがないんです。私は放課後に子供の相手とか、データの入力とかをするばかりなので」


高校生のバイトなんだから、たしかにそれくらいが関の山だろう。


「それに、病院は生きる人とかこれから産まれてくる子のための場所ですから。そこを怖いなんて思っちゃダメだって教わったんです」


「それは、一理ありますね」


自分の将来の夢を見据えている椋。


俺はそれが羨ましい。


「ことみ、おまえは怖いのとかダメそうだな」


「???」


話を向けると、不思議そうな顔が返ってくる。


「そうね〜。幽霊とか、ダメそうね」


「ううん、そんなことはないの」


ふるふると頭をふった。


「ふぅん。科学者の卵だから、オカルトなんて信じないって感じなの?」


「ヴァイオリンを弾けば幽霊でも逃げますよ」


原田の一言には実感がこもっていた。


「いないと思うけど、少しだけ、信じたいの」


「あんた、実はオカルト好き?」


「えぇと…」


ことみは戸惑ったような表情をして、ふと風子に視線が向く。


風子は、そういえば生霊みたいなものだからな。そういう意味では、幽霊のような存在はいるとは言える。


当の風子はぼんやりした表情で病院の方を見ていたが。


「そういうご本も、ちょっとだけ読んだことがあるの」


「結構そういうのも読むのね」


「椋ちゃん、病院の怖いお話はいっぱい知っているから、いつかお話しするの」


「いえ、あんまり積極的に聞くのはちょっと…」


ぐ、と拳を握ることみに椋は苦笑いを浮かべた。


「智代、あんたはどう? 怖い話とか、得意?」


「私か?」


「おまえ、幽霊でも蹴り飛ばして悪霊退散しそうだよね」


「春原、おまえは本当に失礼な奴だな…。女の子に言うセリフじゃないだろう」


「それじゃ、苦手なの?」


「うん、そうだな。どうだ、女の子っぽいだろう?」


きっぱり言い切ると、にっこり笑った。


そんないい表情でアピールされても。


「へへっ…岡崎、いいこと聞いたねっ」


春原が肩を組んで、耳打ちする。


「くっつくなよ」


「いいじゃん。今度ふたりでさ、幽霊のフリして智代を驚かせてやろうぜ…。あいつの恐怖にゆがんだ表情が、ついに見れるぜ…」


「おまえが吹っ飛ぶ姿しか思い浮かばないんだが」


「智代に昔蹴り殺されたチンピラが化けて出たとかどう? 手紙で呼び出してさ」


俺の話、聞いちゃいない。


「というか、なんで幽霊が丁寧に手紙なんて出すんだよ…」


「チンピラの霊だから、果たし状くらい書くよ」


などと、アホな会話をしていて…


俺はふと振り返ると、風子が輪から遅れて病院を見ているのに気付く。


輪から外れて、その傍らに立った。


「おい、風子。どうかしたのか」


「あ、岡崎さん…」


「この病院、なにかあるのか」


「えぇと…」


風子は困った顔をした。それで俺も気付く。


隣町の病院で、今も眠っている。


いつだったか、風子の身体について、そんな話をしたことがあった。


それを思い出して、すぐに気付いた。


「そうか…」


俺も病院を見る。大きな病院。


「ここか…」


「はい…」


今も。


風子の身体は、この病院で眠り続けている。


ぎゅ、と風子が俺の腕を取った。


俺もそれを握り返す。


世界にふたりだけ取り残されたような気分だった。


「なぁ、風子。きっと、全部うまくいく」


「はい…」


「公子さんの結婚式を、みんなで祝えるよ」


「はい…」


「それじゃ、行こうぜ」


「…はいっ」


俺たちは病院から視線を外し、歩き出す。


部員の輪に向かって、足取り軽やかに。







355


夕暮れ。


いつもの駅前に戻ってくると、思ったより遅い時間になっていた。


「明日から学校か…。めんどくせぇ」


「岡崎、こいつは面倒くさがるほど真面目に授業を受けているのか?」


「こないだは授業中にひとりで潜水艦ゲームをしてた」


「真面目に受けていないし、ひとりで潜水艦ゲームなんて本当に寂しい奴だな…」


「誘ったのに岡崎が断ったから、しょうがなくだよっ」


ひとりでやっても楽しくないと思うんだが。


「明日からはまた忙しくなるんだから、今日はちゃんと休みなさいよ」


杏が部長のようなことを一同に言う。


それから、また明日と声を掛け合ってそれぞれの家路につく。


俺は一日歩き回ってこっくり少し舟をこぐ風子とふたり、夕暮れの町を歩いていく。


明日からは、また学校だ。


創立者祭まであと少し。


一日一日、たしかに歩を進めるしかないのだ。





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