342
誰かと手を繋ぎ、歩いていく夢を見た。
目を覚ました俺は、そのまま天井を見上げる。
朝。
柔らかな日差しが、部屋に差し込んでいた。
懐かしさで胸が痛い、というような気分だった。
いまだに俺の手には誰かのぬくもりがあるような気がする。
それの思いをかみしめるように、俺はしばらくそのままでいた。
…。
…やがて、とん、とんとドアがノックされる。風子が起こしに来たのだろう。
時計を見る。たしかにそろそろ起きる時間だった。
だが、素直に起きる気分にはならなかった。俺はなんとなく返事はせずに、布団をかぶる。
こちらの反応がないのを待って、ドアが開いた。
すたすたと近付く足音は軽い調子。
傍らに立って、ふぅ、とひとつため息をついた。
いつまでも寝ていて、困った奴だ、とでもいうような様子だった。
だが、甘い。
俺は既に起きてるし、今からおまえを驚かせてやるぜ…などと考えていて、それは寝坊している以上に困った奴だと気付いてしまった。
「…」
気付きたくない真実だった…。
俺は頭を抱えた。
「岡崎さん、朝ですっ」
そこを、風子がぱっと布団をめくる。
「って、わーーーっ! どうしたんですかっ?」
頭を抱えた俺を見て、慌てた声になった。
「あの、病気ですか?」
「大丈夫だ。問題ない」
変に気を遣われてしまったようだ。俺は努めて冷静に、そう答えてベッドから出る。
「…」
風子はそれを、珍獣でも見るような表情で眺めていた。
珍獣はおまえだ。
343
「そうかい…部活のみんなで隣町に行くのか。それは、楽しそうだね」
朝食の場で今日の予定の話を聞くと、親父はわずかに微笑んだ。
昨日、親父は俺の名前を以前のように呼び捨てで呼んだ。
俺は一瞬、聞き間違いかとさえ思った。
だが、たしかに呼んでくれていたのだ。
会話をしながら俺は再度親父が名前を呼んでくれるのを待っていたが、全然名を呼ぶことがない。
以前なら『朋也くん』とでも声をかけていただろう場面も、ねぇ、などという呼びかけて濁されていて、今朝は一回も名を呼ばれていない。
気にし始めると、やきもきさせられる。
だが、親父もすぐに関係を一新させるほどには踏み出せないのかもしれない。俺をどう呼べばいいのかわからないままなのかもしれない。
俺も少しは親父の心中をおもんぱかってやるべきかもしれない。
ひとまず今は、これでいい。
俺はそう思うことにする。
「はい、海を見に行くんです」
風子はそんな俺の心中などどこ吹く風で、親父の言葉にぐっと拳を握って答える。朝から元気な奴だ。
「あと買い物な」
「そうですっ。お父さんも、なにかお土産が欲しかった言ってくださいっ。風子、何でも買ってきますっ」
「おまえ、金持ってるのかよ」
「いえ、ありません。おこづかいください」
「無茶苦茶調子がいいな、おいっ!」
「それじゃ、僕から少し出すよ…」
「いや、親父の土産を買う金を本人に出させるわけにはいかないだろ。ちっ、あとで金やるから、それ使え」
「はい、ありがとうございますっ。あの、岡崎さん、お礼といってはなんですけど…」
風子はごそごそとポケットをあさった。
「よろしければ、これをどうぞ」
「…」
風子は俺の手に、10円玉を二枚乗せた。
「…なんだ、コレ?」
「はい、10円玉です。ですが、ただの10円ではありません。ここ、見てください」
風子が指差すのは、硬貨の縁。
ギザギザが付いていた。
「超プレミアの10円玉です」
言っとくけど、そこまでの価値はない。
「…あっそ」
「岡崎さん、もっと喜んでくれていいですよ。風子からの心のこもったプレゼントですっ」
「ああ、うれしいうれしい」
「いえ、礼には及びません。ほんの気持ちですので」
「…」
黙る俺。
「はは…」
笑う親父。
親父は風子が話すのを穏やかに聞いていた。その視線は、温かなものだった。
というか、風子のテンションがいつもより高いのは、遠出をする興奮のせいだろうか。子供か。
遠足を楽しみにしているような姿だった。
親父が風子を見る目は娘を見るような感じで、空気は穏やかだった。
344
駅前で待ち合わせ。約束の時間は十時。
十分前に待ち合わせ場所に着くと、既に何人かは来ていた。うちの部は、時間に几帳面そうな真面目なやつが大体だからな。
それにそもそも、普段学校に行っている時間よりは遅い時間の待ち合わせだし、昼まで寝ているというようなぐうたら以外は問題ないだろう。
要するに、春原以外は心配いらない、ということだ。
「朋也くん、おはようございます」
「ああ、おはよ」
「風子ちゃんも、おはようございます」
「はい、ことみさん、おはようございます」
俺たちの姿を見ると、真っ先にことみが気付いてにこっと笑顔を向ける。
俺は少しだけ、昨日紳士と話した会話を思い出すが、それはことみには秘密だ。
「今日のお出かけ、とってもとっても楽しみなの」
今までのことみは、友達と一緒に遠出するということはなかったのだろう。
だが、その表情は、それに対する不安よりも楽しみの方が多くあるように思えた。
「だな」
「朋也くんは、よく、隣町におでかけするの?」
「大体の用事は、この町で済むからな。あまり行かないかな…」
昔も今も、あまりこの町を離れることはなかった。
もちろん、隣町の方が発展しているのでそちらを訪ねる用事があったり、仕事で行くことになったり、友人に誘われて遊びに行ったりということはあった。
だが、自分で進んで行こうとまでは思ったことがない。
出不精なのだろうか。外出は嫌いではないと思うのだが。
「そうなんだ」
盛り上がりに欠ける俺の返事に、だが、ことみはふんふんと頷いた。
「大きな本屋があって、とってもおすすめ」
「おまえが行ったら、それだけで一日くらいはいそうだよな」
「県立図書館もあるの」
「そりゃ、天国だな」
「うん。…でも、今日は我慢なの」
そう言うと、ことみは少し笑う。他の部員を放って本を読みふけるわけにもいかない、ということなのだろう。
ちょっと前のことみだと、全然そういうのに構わないような感じもあったが、今はきちんとみんなを友人として認識しているようだった。
いいことだ。
「本屋とかの他にさ、よく行く店とかあるのか? 今日、遊びに行けるような」
「ええと…」
俺の質問に、しばらく空を眺めて考える。
「スーパー」
「いや、この町にもあるし」
「海外の物がいっぱいあるスーパーなの」
「ああ…」
輸入食品の店ということか。そう言われると、少し面白そうな気もする。
「風子、おまえは隣町って行く?」
横で静かにしている風子に話題を向けると、風子は空を見上げた。
「あ…トンビ」
「…」
そんなもの、見当たらないのだが。
「ひゅーひょろろー」
真面目に答えるつもりはないようだった。俺は苦笑するしかない。
…。
そうこうしているうちに、部員たちが全員揃う。
「やあやあ、お待たせ。みんな揃ってるねっ」
見ると、最後に到着した春原が能天気に笑ってそんなことを言っているのが見えた。
杏が辞書でどついて、大騒ぎになっている。
それを見て、俺は笑ってしまう。相変わらずだ。
それにしても、なんだかんだ、春原も結構時間通りに来るな。
この部活の集まりを、あいつも気に入ってくれているのだろうか。
「…」
…いや、むしろ遅れると杏とか智代に何をされるかわからないからだろうか。
なんだか、そっちの方が理由のような気がしてきた。
まあ、時間に間に合うように到着しても、杏に一撃食らっているのは悲しい現実ではあるが。
ともかく、俺たちは部員全員(プラス風子と智代)が揃い、切符売り場へ歩き出す。
…。
くい、くい、と風子が俺の袖を引く。
「あの…」
「なんだよ」
風子が他の面々をうかがうような素振りで、俺を見上げていた。
歩きながら互いに声を低くして顔を近づけて、小声で会話をする。
「風子、隣町、よく行きます」
「だったらなんでさっき話そらせたんだよ…」
「…目が覚めて、よく、体の検査をするために病院に行ったんです」
「…」
「おねぇちゃんと、ふたりで」
それは…俺たちがかつて経験した未来の話。
風子が何年も先に、目覚めた時の話だった。
なるほど、と俺は腑に落ちる。
唐突にかつて過ごしていた時間のことを思い出させられて、面食らってしまったのかもしれない。
「だから、未来のことはわかっても、今の隣町のことは、よくわかりません」
「そりゃ、悪い事を聞いたな」
「いえ…」
風子が知っている隣町の知識は、随分未来の知識だ。というか、それは俺も同じか。
せいぜい、下手な事は言わないようにしよう。もともと、大して詳しくもないが。
「ボロを出すなよ」
「岡崎さんに言われたくありません」
「…」
まったくだった。
「よっ、おふたりさんっ。こそこそしちゃって、何の話?」
春原が首を突っ込んでくる。
「すみません、とても邪魔です」
「はは、いきなりキッツイね…」
風子の邪険な即答に、さすがに春原も苦笑するしかなかった。
「すみません、つい。失礼しました」
「おまえ、思ったことがすぐ口に出るよな」
「そんなことありませんっ。風子、大人の女性ですから、ちゃんとよく口が回ります」
「じゃ、さっきのセリフをもっと優しく言ってみろよ」
「はい…春原さん」
「な、なに?」
風子が春原に向き直る。
「すみませんが、そこはかとなく邪魔です」
「邪魔ってところは、訂正されないんスね」
「はい、事実なので」
「口が悪いよな、おまえ…」
春原は気分を害した、というよりももの珍しいという表情だった。
まあ、風子に暴言を吐かれても、子どもの言っていること、というくらいに感じるからあまり気にならないのは事実だ。
「岡崎と、親戚なんでしょ」
「ああ、そうだ」
春原の問いに、俺は嘘をつく。
「こんな口が悪いの、おまえのせいなんじゃない?」
「馬鹿言うな。俺はこんな口悪くねぇよ」
「いや、おまえに一番暴言吐かれている奴が目の前にいるんですけど」
「え? どこだ?」
俺は周囲を見回す。
「今、今! 今暴言吐かれてるよっ!」
「うるさい奴だな」
「はい、クールになってください」
「ぐおお、こっちが悪者になってるーっ!?」
俺たちは、楽しく会話した。
「春原先輩、うるさい」
杉坂が呆れた表情で振り返ると、冷たくそう言った。
初めて会った頃は春原とも距離があったようだが、いつの間にか適当に暴言を吐ける程度には(?)親しい間柄になったようだった。
というか、春原の地位が低下しただけとも言える。
「杉坂にまでこんなことを言われるなんて、いよいよこの部の最底辺の立場になったな、おまえ」
「うわ、マジかよ…」
「あの、ドサクサに紛れて私のことまで馬鹿にしてませんか?」
杉坂が剣呑な視線を向けてくるのを、俺と春原は空を見上げてやり過ごした。
「あ、とんび」
「ひゅーひょろろー」
俺の言葉に、風子が合いの手。
「あぁ…もう、なんでもいいです」
杉坂は朝から疲れた表情になった。
345
「せっかくだから、行きたいところ色々調べてきたのよね。新しくできたケーキ屋がおいしいんだって。あとゴールデンウィークのイベントで、フリーマーケットをやってるみたい。あと、あの大きな公園で…」
電車の中で、杏が今日の予定をあれこれと喋るのを、部員たちはふんふんと聞いて、どこに行きたい、どこかおすすめ、という話で盛り上がっていた。
今日は祝日だ、電車も結構混んでいて行楽に行くのだろう乗客が会話に花を咲かせていた。
普段あまり電車に乗らないから、揺れる車内に立っているだけで、少し不思議な感じがする。
今日の予定は女性陣に決めてもらうとして、俺は過ぎる町並みをぼんやりと眺めていた。
「先輩は、普段電車乗らないんですか?」
いつの間にか、傍に仁科がいた。
杏が中心になっている話の輪は、三年生が中心だから加わりづらいのだろう。仲が悪いわけではないだろうが、学年の壁はある。
「ああ、あまり出かけないからな。おまえはどうなんだ?」
「前はよく乗っていましたけど、最近は時々遊びに行く時にだけです」
「昔はよく?」
「はい。あの、レッスンが隣町だったんです」
「あぁ…」
隣町の方が大きいから、そっちに習いに行っていたのだろう。
仁科は曖昧な笑顔を浮かべた。
事故に遭ってヴァイオリンのレッスンが続けられなくなって、隣町に行く用事がほとんどなくなった。
「で、ですので、それなりに向こうも詳しいです」
話が暗いほうにいかないように、慌ててそう続ける。
仁科はヴァイオリンを続けることができなくなった事故を気にしていないはずはないが、それでもきちんと前を向いている。
立派な奴だ。
「それじゃ、おすすめのところとかはあるのか?」
俺も仁科の話にのって、そう質問する。
仁科は少しほっとした様子で、うーん、と小さく唸って考え込んだ。
「今日はこどもの日ですから、デパートでそういうイベントをやってると思いますよ。折り紙でかぶとを折るとか」
「高校生が飛び入り参加したら、小さい子は泣くぞ」
「あ、あはは、そうかもしれないですね」
仁科は苦笑した。
…まあ、風子あたりなら参加できるかもしれないが。
「岡崎先輩は、子供、好きですか?」
特に気負った様子もない雑談、という様な様子で仁科が俺に尋ねた。
「子供?」
「はい」
「ん…ああ。好きだぞ」
「あ、そうなんですね」
ふと汐のことを考えてしまったが、仁科は特にそれには気付かなかったようだった。
自分も好きです、などと話しているのをどこか遠くに感じるように見ていた。
汐のことを思うと、どうしてもふと考え込んでしまうのを止めることはできない。
汐。
俺と渚の一人娘。
俺はあの子と、また会える時がくるのだろうか。